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「なんかごめん」のその先に。


「なんかごめん」

その言葉を言われたとき、もともと怒っていたことに上乗せされて嫌な気分になった。いまとなってはその「もともと怒っていたこと」なんか覚えていない。とってつけたように、その場しのぎで繰り出された「なんかごめん」の不快感の方が圧倒的だった。

それ以来、自分でも「なんかごめん」は言わないよう心に誓った。相手がなにに傷ついて、自分がどんな悪いことをしてしまったのかを理解しないまま、自分の罪悪感を軽くしたい一方で謝るのは失礼だから。

では、なぜ相手を傷つけたかわからないときに、自分が取れる最善の方法ってなんなのだろう。それがなかなか見つけられず、「いつまで経っても謝れない」みたいな不幸なことが何度か起きたこともある。本当によくない。でも先日、ようやく見つけたのだ。方法のひとつを。


それはドラマ『コタキ兄弟と四苦八苦』の中にあった。最終回のひとつ前、第11話に。

コタキ兄弟の兄・一路(古舘寛治)は弟の二路(滝藤賢一)と一緒に、喫茶店店員のさっちゃん(芳根京子)の話を聞いていた。けんか別れをしてしまった元カノについてだ。

理解を示しながら相づちを打つ二路の横で、ひたすら眉間にしわを寄せている一路。同性愛について、いまひとつ理解ができない様子だ。

そんな彼はひと通り聞いたあと、彼女に向かってこう言ってしまう。「でも、その気になれば男と付き合えるんだよね?」、「やっぱり男と女というのが自然な姿であって、そっちの方がいいに決まってる。さっちゃんも男性のいい人を見つけて添い遂げた方が幸せになれる」と。

さっちゃんはおおいに傷つき、それまで見せたことのないよそよそしい態度を取る。そんな彼女に動揺しながら「さっちゃんに謝った方がいいの?」と弟に尋ねる一路。呆れながら二路は、「謝るってったって、なにが悪いか分かってねえんだろ? 形だけ謝られたっていい迷惑なんだよ」と言い放つ。彼は娘を育てていく中で、「いつか言い出されるかも」という可能性を考え、妻とふたりで書籍・『はじめて学ぶLGBT』を読んでいて、その知識からさっちゃんのつらさを理解していたのだ。


この一連のやりとりを観ていたとき、私は本当にかなしかったしつらかった。11話にたどり着くまでの間、「頑固でひねくれ者だけれど、どこか憎めないキャラ」だった一路さんを、一気にきらいになってしまいそうだった。

しかしこのあとの彼は、さっちゃんに寄り添うべく行動する。

彼はかつて生来の生真面目さを生かし、「自分がなぜ、さっちゃんを傷つけてしまったのか」を探るため本を読みあさるのだ。そして、自分の愚かさに気づき精一杯反省する。

それからの彼の行動は、単に謝罪する以上のものだった。知識の上に芽生えたやさしさで、さっちゃんを勇気づけ、背中を押したのだ。人を傷つけたときに取れる最善の方法は、「その傷の意味を理解しようとする」ことなのかもしれない。


ただ、理解したからといってその人との関係を元に戻せるかはまた別の話だ。理解するのに時間を要することもある。もうその人との関係がなくなってから気づく場合も、残念ながらある。

だから私には謝りたくても謝れない人がたくさんいる。もうどうすることもできない。これからできることは、同じことで他の人を傷つけないようにすることだ。それが自分の十字架なのである。

「なんかごめん」が口をついて出てしまっても。その「なんか」の正体を見つめること。それを忘れないでいたい。これは自分に対するいましめだ。強く誓っていたつもりでも、無責任に謝ってしまっていることがたぶんあるから。



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