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モーツァルトはなぜ、サリエリだと気づかなかったのか(映画「AMADEUS」)

「AMADEUS」を観たのは、もう何年も前だが、最近、清水宏監督の「按摩と女」を観て、また思い出した。AMADEUSは、まず、サリエリ役の役者(名前を覚えていない)が良かった。セットや衣装も雰囲気があったし、なによりモーツァルトの楽曲で固められたBGMは最高だった。何度も繰り返し観た。今でも印象に残るシーンも多い。

ただ、どうしても気に食わないシーンがある。それは、サリエリが素性を隠して、モーツァルトに作曲を依頼するシーンだ。最初は印象的な良いシーンだと思っていたが、途中から致命的にダメなシーンだと考えるようになった。

このシーンでは、サリエリはマスクをしている。声がこもっているせいか、モーツァルトはそれがサリエリだと気づかない。しかし、あるとき、ボクは「モーツァルトなら絶対気づいたはずじゃないだろうか」という考えが浮かんだ。

以来、このシーンのことが気になってしまい、ついにはAMADEUSを観なくなった。スゴく気に入っていた映画だったが、このシーンが存在することだけによって、失敗作だとすら思ったからだ。

「按摩と女」を観て、それを思い出した。この映画に出てくる按摩は、スゴく耳が良い。足音や気配、声ですぐ誰かわかってしまう。たぶん、事実に基づく設定なのだろう。

按摩とモーツァルトと、どちらの耳が良いかはわからない。ただ、面識のある人間が目の前で話しかけてきたとしたら、少なからずの人間が気づくはずだ。ましてやモーツァルトをや、である。

あえて言う。あのシーンは、サリエリ本人ではなく、別の人間を依頼人にたてるべきだったと。