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3. 聖徳太子研究状況


<参考になる報告書と思ったので、掲載させていただきます>
科学研究費補助金研究成果報告書
                   平成23年5月30日現在
機関番号:3 3 9 10
研究種目:基盤研究(B)
研究期間:2008~2010
1 課題番号:20320017
研究課題名(和文)仏教東漸および中国思想の受容から見た聖徳太子信仰の成立と展開に関する多角的研究
研究代表者
 大山 誠一(OYAMA SEIICHI)
 中部大学人文学部・教授
 研究者番号:90410670
研究成果の概要(和文):
本研究の成果は、次の3点に要約できる。第一は、関連するあらゆる史料の分析により、聖徳太子の実在性は否定されることである。その人物像は、七二〇年に編纂された『日本書紀』の中で創作されたものである。第二は、その人物像が創作された目的であるが、古代国家および天皇制の成立と深く関わっている。第三に、奈良時代以後の聖徳太子信仰の成立には、光明皇后と鑑真の役割が大きく、両者によって信仰の基礎が作られた。また、平安時代になり『聖徳太子伝暦』という詳細な文献が成立し、それが絵画化されることにより信仰が大きく発展したこと。さらに鎌倉時代には、浄土真宗を担い手として展開したことを明確にした。
  
1 研究開始当初の背景
(1)聖徳太子は、古来、きわめて有名な人物であったため、様々な伝説につつまれており、その実像は漠としていた。しかし、早く江戸後期の狩谷棭斎、また明治の久米邦武らによって、荒唐無稽の伝説を排除し、史実の確認による人物像の解明を志す研究が始まっていた。それを大きく押し進めたのが津田左右吉、福山敏男、藤枝晃らであった。その他、聖徳太子関係史料に対する文献学者の批判的研究は少なくなかった。しかし、そのような個々の研究には、不可知論的な反論が繰り返され、水掛け論に陥る傾向があった。
(2)これに対し、研究代表者の大山は、一九九六年に「聖徳太子研究の再検討」という論文を発表し、まず、これまでの個別的研究を統合かつ総括し、聖徳太子には実在の根拠となる史料が皆無であることを示した。次に、従来、太子関係史料とされてきたものを、大きく書紀と法隆寺系に二分し、それぞれが成立した政治的、思想的根拠とその創作方法を解明した。その結論を簡単に言えば、聖徳太子という人物像は、まず、憲法十七条を中心とする儒仏道の聖人として『書紀』の編纂過程で創作され、その後に聖徳太子信仰が形成されたというものである。この大山の研究は、一九九九年には吉川弘文館から、一般向けの「聖徳太子の誕生」が刊行されたこともあり、社会的にも大きく取り上げられることとなった。
(3)その後、大山の研究は、専門家の間からも支持されるようになった。もちろん、反発もあったが、学問的な根拠を持った反論は皆無であったため、学界に次第に定着するところとなった。しかし、個々の史料の中には、なお、決定的な理解に至らないものも残されていた。加えて、そういう聖徳太子という人物像が創作された歴史的背景にも不分明さが残されていた。
2 研究の目的
(1)研究目的の第一は、大山が提起した聖徳太子非実在論を深化させ、より確実なものとすることであった。そのため、成立の事情に疑念が残されていた史料について、個々に検証することが不可欠である。 
(2)研究目的の第二は、個々の史料の分析を踏まえ、トータルとしての聖徳太子という人物像の成立の意味についても解明することであった。一体、聖徳太子という人物像の成立の持つ意味は何なのか。これを、日本古代国家の形成過程、就中、日本の政治・文化の根底に存在することになる天皇制の問題として解明しようということである。それは、聖徳太子が創作された『書紀』という書物の成立過程の解明と言うこともできる。
(3)鑑真一行の来日により慧思後身説が成立した結果、聖徳太子信仰は国際的なスケールを確保することになった。そのことと、期せずして『三経義疏』が日本人の手になるものではないという観点とが結合し、最近においては、日本仏教と中国および朝鮮、特に百済仏教との関係が重要視されるようになった。『書紀』および聖徳太子という人物像の成立を中国、朝鮮の側からも検証することが重要となった。これが研究目的の第三である。
(4)研究目的の第四は平安時代における聖徳太子信仰の形成過程の分析である。聖徳太子信仰は、奈良時代に、『書紀』の聖徳太子像をうけるかたちで光明皇后と行信が法隆寺系史料を創作し、さらに鑑真一行により慧思後身説が創作され、一応の基礎が成立していた。しかし、それらは、言ってみればいくつかのエピソードの成立に過ぎなかった。それが、平安時代になって、聖徳太子のより全体的な人物像の形成に進み、十世紀後半の『聖徳太子伝暦』の成立によって完成したということができる。
(5)研究目的の第五は、『聖徳太子伝暦』の成立によって確立した聖徳太子像が、その後絵画となり、信仰の普及に大きな役割を果たすようになる。すなわち、さまざまな聖徳太子絵伝の成立であるが、これが、中世以後の聖徳太子信仰の隆盛に果たした役割は大きい。その過程を究明することも目的の一つである。
(6)第六は、平安末期における聖徳太子の神秘化の動きである。それまで、聖徳太子は、たぐいまれな聖人として崇拝の対象になっていたが、平安後期になると、止めどを知らず荒唐無稽な神秘化か進む。さらに、中世になり多様な聖徳太子未来記が創作されることになるが、この間の過程に何らかの道筋をつけることも大きな課題である。
(7)第七としては、鎌倉仏教の成立過程で、聖徳太子信仰が多様に利用されていることである。中でも最も重要なのは、親鸞の登場である。彼の存在を、歴史的に解明することはきわめて難しいが、聖徳太子絵伝が、特殊に生み出した信仰集団であった可能性は重視すべきと考える。

3 研究の方法
(1)『書紀』の文献的研究
 聖徳太子は、『書紀』編纂過程で必要となって創作された人物像である。これが、大山の結論の一つであるが、本研究では、この点を検証し、さらに深化させるため、『書紀』の内容を歴史学的に分析する。特に、『書紀』に記された厩戸王に関しては慎重に事実関係を検証する必要がある。それと同時に、聖徳太子像の成立と不可分の蘇我氏という存在、仏教伝来とその後の崇仏論争の検証、さらにその背後にある朝鮮、中国との外交関係について多面的に検証する。
(2)『書紀』編纂の究極的目的としての天皇制の研究
 『書紀』が、大化改新から大宝律令などによって成立した古代国家を歴史的に正当化するために編纂されたものであることは当然と言ってよい。厳密に言えば、成立した古代国家の実質的権力を歴史的に(歴史あるいは時間を遡って)正当化するためである。では、その天皇制とはいかなる政治的、思想的システムなのか。その論理を解明しなければ、古代史のすべてが不分明のままとなる。そこで、何よりも、『書紀』全体を貫く論理の原点を確認する作業が必要となる。
(3)法隆寺系史料の検討
 法隆寺系史料のうち、天寿国繍帳と『三経義疏』の成立事情を解明することはきわめて難しい。史料の上では、両者とも、製作に聖徳太子本人が関わっているとされている。そのこと自体が虚構であることに疑念はないが、では、具体的な成立事情となると、なお不明な点が多い。また、天寿国繍帳の場合は、絵画部分の考察も必要である。具体的には、残された断片から全体像を復元し、一体、何か描かれていたのかを解明し、それを美術史の中に位置づける作業である。これらを総合的に判断しなければならない。
 次に『三経義疏』は、そもそもどこで撰述されたものか、なお、議論がある。藤枝晃の中国撰述説は、確かに有力であるが、やはり、漢文として異質な倭習と称される用法の評価は未解明である。
(4)国外調査
 聖徳太子という人物像の中心にあるのが仏教であるため、研究メンバーは、アジア諸国の仏教との比較を検証するため、中国、韓国、インド、カンボジア、ベトナムなどの諸国の仏教遺跡を調査した。
(5)聖徳太子信仰に関連する諸文献の検討
 聖徳太子信仰の成立は、光明皇后による法隆寺系史料の創作と夢殿の建立から始まるが、その段階までは、聖徳太子という人物像の確認以上のものではなかった。聖徳太子が歴史上の人物から神ないし超人となり信仰の対象となるのは、鑑真一行が来日し、慧思後身説が成立して以後である。その後、平安時代に作成されることになる多くの文献について考察する必要がある。
(6)国内調査
 鎌倉仏教の中で、聖徳太子信仰ともっとも深く関係しているのが浄土真宗、特にその初期のものである。一般に初期真宗と呼ばれる信仰集団である。彼らが残した多くの掛け軸には聖徳太子信仰の痕跡が明らかである。それを解明するためには、東海、北陸、近畿の初期真宗寺院への調査が不可欠である。
(7)研究会とシンポジウム
 研究メンバーを中心とし、他の研究者にも呼びかけた「聖徳太子信仰研究会」および「日本書紀を考える会」を、それぞれ、年に数回ずつ開催した。また、二〇一〇年十月には、中部大学においてシンポジウム「聖徳太子信仰の成立と展開」を行った。発表者は、大山、吉田、藤井。コメンテーターは増尾、曾根、司会は脊古であった。

4 研究成果
(1)聖徳太子は実在しない。つまり、聖徳太子虚構論の深化について。
 聖徳太子の実在性に関しては、多様なアプローチの方法があり得るが、実在の根拠とされてきた『書紀』の憲法十七条および法隆寺系の史料については、一応の結論が出たと言ってよく、天寿国繍帳と『三経義疏』に関しても、後述の通り、一定の方向性が明らかとなっている。
(2)聖徳太子がいない飛鳥時代について。
 聖徳太子が実在しないとすれば、歴史的事実としての飛鳥時代がいかなるものであったか問題となる。以下、大山の『天孫降臨の夢』の成果を示す。従来の歴史学においては、『書紀』の記述の大枠を認めた上で、他の史料による若干の修正あるいは補足がなされてきた。その結果は、推古女帝と皇太子としての聖徳太子の存在を中心に据え、蘇我馬子らの存在を加味するという歴史像であった。しかし、史書としての信憑性ということに関して、膨大な記録を整理し、多様な史料や証言を踏まえて編纂される中国史書が日本の『書紀』より格段に優れていることは言うまでもない。この点に関しては、榎本淳一が詳細に論じたところであるが、大山は、この榎本の研究を踏まえつつ、『隋書』では倭王が男性であり、妻ばかりでなく、後宮に女六、七百人を持っていたことに注目し、そのような絶大な権力者の存在が事実であり得るのか、事実とすればその倭王は誰なのかを考える。そこで、重視すべきは飛鳥の考古学的成果で、これにより、飛鳥を支配する倭王は蘇我馬子であった
とする。つまり、蘇我王朝の時代であったということであるが、こういう観点を認めた場合、日本古代の王権論は、『書紀』の内容とは相当異なるものとなることを覚悟する必要がある。
(3)藤原不比等の存在について
 右のように蘇我王朝の存在を認めた場合、六四五年の乙巳の変の意味は大きく異なることになる。従来は、中大兄王と中臣鎌足を王権の守護者とし、蘇我入鹿を王権に対する冒涜者としてきたが、実は、蘇我王朝であったとすれば、乙巳の変は、中大兄王らによる王権の簒奪であったことになる。その中大兄王(天智)の王権は白村江の戦いで破れ、権威を失墜する。ついに、六七一年の近江令官制では、天皇は国家意志の決定の場から排除され、実質的権力は有力豪族の合議の場である太政官に移ることになる。さらに、壬申の乱で指導力を発揮できなかった大海人(天武)も、政治的権威を失うことになった。この頃、登場してきたのが藤原不比等である。混乱する政治過程の中で、皇后(大后)の持統の側近となり、草壁を擁立しつつ、国家秩序の確立を図る。その結果、天武の晩年にあたる六八一年に律令や歴史書の編纂が開始される。天武没後、草壁も亡くなるが、六八九年に飛鳥浄御原令が編纂され、国家秩序が安定し、持統が即位する。この間、重要なことは、実質的権力を喪失していた天皇権力が、諸豪族中の実力者となった藤原不比等と結ぶことによって存在感を確保したことである。逆に言うと、不比等が天皇を利用することによって実権を掌握する方法を模索し始めたことである。
(4)天皇制の形成と〈聖徳太子〉
 藤原不比等によって構想された天皇制であるが、それについて大山は、『天孫降臨の夢』および最近の「記紀の編纂と〈聖徳太子〉」において、次のように考察した。(3)で明らかにしたように、政治の実権は天皇にはなく太政官にある。だから、問題は太政官内部での力関係ということになる。その際、不比等が考えたのは、実権はなくとも、構造上、中国の皇帝制度を模倣しているから、天皇は形式的には至上の地位にある。これと姻戚関係によって結んで、有利な立場を築く。同時に天皇の権威を高め、他のライバルの諸豪族の干渉を排除することができれば、実質上、絶対的権力に近づくことができる。そこで、天皇の権威を高めることが必要になるが、そのために、『書紀』の編纂を利用した。そこで、不比等は、天皇を神格化するための神話を創作した。これが、高天原・天孫降臨・万世一系という天皇神話である。この結果、天皇は神話により現人神となり、不比等は皇祖となって絶大な権力を掌中にすることになった。しかし、それではすまなかった。確かに、神話により天皇の神格化がなされたとしても、神話の持つ説得力には限度があったからである。そもそも、天孫降臨などという話は荒唐無稽である。古代でさえ、誰にも信用されることはなかった。ただ、形式論理として神格化されただけである。そこで、より、真実味もあり、かつ価値観として意味がある権威付けが必要であった。当時は、遣唐使が、白村江の戦後の中断状態からようやく復活し、華やかにして高度な中国文化が奔流のように流入していた時期である。その中国文化の評価にたえる人物、できれば中国思想の聖人のような人物、が日本に必要であった。それが、皇室の中にいれば、天皇の権威を高めることになる。そういう要請のもとに、不比等が中心となって創造したのが〈聖徳太子〉という人物だったのである。
(5)『日本書紀』研究の進展
 本研究に参加したメンバーによる『書紀』研究の深化についても述べておきたい。
 吉田一彦、北條勝貴は、一連の研究で、『書紀』の仏教伝来とその後の崇仏廃仏論争を分析し、多くの成果を上げた。特に、五五二年と伝えられてきた仏教伝来が、隋唐の末法思想を模倣して創作された説話にすぎず、歴史的事実ではないことを証明した。
 また、この両氏の研究を踏まえて、大山は、では、真実の仏教伝来はいつだったのかを問題とし、信頼できる最初は、五八八年に百済から僧侶や技術者が来日し、それにより蘇我馬子が飛鳥寺を建立した時であったと論じた。加藤謙吉は、『書紀』が聖徳太子創建と伝える四天王寺について、事実は難波吉士の氏寺であることを明確化した。
 八重樫直比古は、『六度集経』の研究を進める中で、山背大兄王の人物像、特にその滅亡時の描写に、その経典が多用されていることを示し、その経典が古訳であることから、新訳を駆使し、『書紀』編纂末期に成立した聖徳太子より、山背大兄王の方が人物としての成立は古い可能性があることを示唆した。
 榎本淳一は、『書紀』の推古朝を理解する上で密接な関わりがある『隋書』倭国伝の成立過程を克明に明らかにした。その成果は、先の大山の研究の前提となった。
(6)『三経義疏』と天寿国繍帳
 法隆寺系の史料で、なお、その成立に謎が残るのが『三経義疏』と天寿国繍帳である。このうち、『三経義疏』に関しては、従来は、藤枝晃による中国撰述説が有力であった。しかし、文章中に見える非漢人的用法がネックであった。そのため、これを倭習と理解し、日本人の手になるという理解も無視できなかった。しかし、文法構造などは、日本語と韓国語がきわめて近いことは常識であった。ところが近時、韓国の旧百済領域での発掘が進み、中でも益山弥勒寺から「金製舎利奉安記」が出土し、そこに記された銘文と太子撰と伝わる『維摩経義疏』との間に密接な関係があることが明らかとなった。瀬間正之は、その点を銘文に即して詳細に研究した。これにより、『三経義疏』の成立に関し、百済撰述か、あるいは白村江以後の亡命百済人僧侶の関与を想定している。
 天寿国繍帳も、同じく謎に満ちている。これについては、野見山由佳が精力的に取り組んだ。その要点は、繍帳を、銘文を含み天寿国を描いた内区と、太子の一代記を図像化した外区に分類し、それぞれ独自に検討するところにある。内区であるが、銘文に文武朝から使用された儀鳳暦を使っているから、従来考えられてきた推古朝とか天武朝とかは絶対にあり得ないことになり、さらに他の要素により天平中期以後とした。また、外区には、太子の講説の様子と思われる図に蓮弁が見えることから、これを勝鬘経講讃図とする。平安時代以後の伝説では、太子の勝鬘経講讃の際に空から蓮弁が降ってきたとされているからである。とすると、この部分は、平安以後となる。それ故、結論として、内区と外区が別々の成立ということになる。この観点は、従来、まったく考えられてこなかったものであり、大きな問題提起といえる。
(7)聖徳太子信仰の展開
 平安時代以後の聖徳太子信仰の展開過程については、二〇〇三年の『聖徳太子の真実』において主要文献の整理は修了しており、今回、問題となったのは聖徳太子信仰を担った寺院の動向であった。
 藤井由紀子は、平安時代の後期になって、信仰の主要な担い手であった法隆寺と四天王寺において聖徳太子をまつる太子霊場の整備が進展したことに注目した。法隆寺においては、元来、東院の夢殿が霊場としての役割を果たしていたが、一一二一年の聖徳太子五百年忌にあたり、新たに西院伽藍の中に聖霊院を新設し、ここに勝鬘経講讃像を安置するようになった。また、四天王寺は、京都の広隆寺、六角堂、および奈良の当麻寺とも連携しつつ、聖徳太子信仰を活性化したが、広隆寺でも太子霊場としての上宮王院が造立されたという。こういう、聖徳太子の霊場化か中世以後の聖徳太子信仰に発展するという。
 榊原史子は、『四天王寺縁起(四天王寺御手印縁起)』と「聖徳太子未来記」について論じ、十二世紀初頭以後しばしば出現する未来記は『四天王寺縁起』に始まり、以後四天王寺が寺運隆盛のために利用して広まったことを論じている。
 いずれも、『聖徳太子伝暦』で成立した聖徳太子像が中世的に展開する姿を論じたもので、中下層の僧侶から一般の民衆を巻き込んだ新たな聖徳太子信仰の形成といえる。
(八)鎌倉時代になると、聖徳太子信仰は、広範囲な地域、民衆社会に浸透するようになるが、なかでも特徴的なのが親鸞と彼の集団である。真宗の古刹には、聖徳寺、上宮寺、勝鬘寺など聖徳太子に因む寺号を持つものが少なくなく、聖徳太子を描いた掛け軸もさかんに作成された。脊古真哉は、東海、北陸、近畿の初期真宗寺院を調査して、こういう聖徳
太子信仰の痕跡を求めている。
5 主な発表論文等
 (研究代表者、研究分担者及び連携研究者には下線)
 〔雑誌論文〕(計十二件)
①吉田一彦「垂述としての聖徳太子」『同朋大学佛教文化研究所紀要』29、査読有、17-25
頁、2010年
②吉田一彦「『日本書紀』仏教伝来記事と末法思想(五)」『人間文化研究』13、査読有、167-190頁、2010年
③増尾伸一郎「日本の君王、道士の法を崇めずー古代日本における道教と文物の受容―」『アジア遊学』133、査読無、147-154頁、2010年
④脊古真哉「天皇号覚書一北方遊牧民の君主号との関連からー」『名古屋市立大学人間文化研究所年報』5、査読無、47-56頁、2010年
⑤八重樫直比古「康僧会『六度集経』第二六節をめぐる覚書」『ノートルダム清心女子大学紀要』文化学編34-1、査読無、1-12頁、2010年
⑥大山誠一「原日本書紀について」『国際シンポジウム東アジア文化交流一学術論叢の止揚をめざして』中国浙江工商大学日本文化研究所、査読有、39頁(日文)・112頁(中文)、2009年
⑦吉田一彦「仏教伝来年次について」『アリーナ』7(中部大学総合学術研究院編)風媒社、査読無、554-558頁、2009年
⑧吉田一彦「『日本書紀』仏教伝来記事と末法思想(四)」『人間文化研究』11、査読有、167-178頁、2009年
⑨吉田一彦「最澄の神仏習合と中国仏教」『日本仏教綜合研究』、7、査読有、11-29頁、2009年
⑩吉田一彦「名古屋市珉光院の歴史と文化財」『名古屋市立大学人間文化研究所年報』4、査読無、9-15頁、2009年
⑥増尾伸一郎「殺牛と祭天をめぐる日韓の比較説話」『韓国日語日文学会2009年度冬季国際学術大会発表論文集』、査読有、19-23頁、2009年
⑩脊古真哉「遊行寺蔵『聖徳太子伝暦』と四天王寺蔵六幅本聖徳太子絵伝―聖徳太子絵伝の展開についての予備的考察―」『同朋大学佛教文化研究所紀要』28、査読有、11-28頁、


2009年〔学会発表〕(計5件)
①増尾伸一郎「ベトナムの浦島説話と洞天福地説」ベトナム漢哺研究院シンポジウム(漢文史料と文学)2010年11月1日、ベトナム漢哺研究院
②増尾伸一郎「日本古代の漢文学と道教的医方術」北京日本学研究中心シンポジウム、2010年10月17日、北京外国語大学
③大山誠一「天孫降臨神話から聖徳太子へ」
聖徳太子信仰研究会(聖徳太子信仰の成立と展開)、2010年10月2日、中部大学
④吉田一彦「聖徳太子伝の変貌」聖徳太子信仰研究会(聖徳太子信仰の成立と展開)、2010年10月2日、中部大学
⑤藤井由紀子「聖徳太子という価値一摂関家の聖徳太子信仰と寺院」」聖徳太子信仰研究会(聖徳太子信仰の成立と展開)、2010年10月2日、中部大学

 〔図書〕(計15件)
①吉田一彦「聖徳太子信仰の発展とその特色」
 『変貌する聖徳太子』(吉田一彦編)、平凡社、印刷中、2011年、(8月刊行予定)
②吉田一彦「聖徳太子信仰の基調一四天王寺と法隆寺-」『変貌する聖徳太子』(吉田一彦編)、平凡社、印刷中、2011年(8月刊行予定)
③吉田一彦「日本大学所蔵『異本上宮太子伝』について」『変貌する聖徳太子』(吉田一彦編)、平凡社、印刷中、2011年(8月刊行予定)
④脊古真哉「聖徳太子絵伝の世界一聖徳太子十四歳廃仏の場面からー」『変貌する聖徳太子』(吉田一彦編)、平凡社、印刷中、2011年(8月刊行予定)
⑤藤井由紀子「聖徳太子霊場の形成一法隆寺・四天王寺と権門寺院-」『変貌する聖徳太子』(吉田一彦編)、平凡社、印刷中、2011年(8月刊行予定)
⑥榊原史子「『四天王寺縁起』と「聖徳太子未来記」」『変貌する聖徳太子』(吉田一彦編)、平凡社、印刷中、2011年(8月刊行予定)
⑦永田一「聖徳太子信仰と蝦夷」『変貌する聖徳太子』(吉田一彦編)、平凡社、印刷中、2011年(8月刊行予定)
⑧大山誠一「-『日本書紀』の解明に向けてー」『書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一編)、平凡社、5-21頁、2011年
⑨大山誠一「記紀の編纂と〈聖徳太子〉」『書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一編)、平凡社、査読無、25-70頁、2011年
⑩曾根正人「飛鳥仏教と厩戸皇子の仏教と『三経義疏』」『書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一編)、平凡社、259-282頁、2011年
⑪八重樫直比古「『日本書紀』の上宮王家滅亡の物語と『六度集経』」『書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一編)、平凡社、193-212頁、2011年
⑫榎本淳一「『隋書』倭国伝について」『書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一編)、平凡社、119-137頁、2011年
⑬加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」『書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一編)、平凡社、215-236頁、2011年
⑭原口耕一郎「『日本書紀』の文章表現における典拠の一例―「唐実録」の利用についてー」『書紀の謎と聖徳太子』(大山誠一編)、平凡社、139-168頁、2011年
⑮大山誠一『天孫降臨の夢一藤原不比等のプロジェクトー』、日本放送出版協会、全294頁、2009年
6 研究組織
(1)研究代表者
 大山 誠一(OYAMA SEI ICHI)
 中部大学・人文学部・教授
 研究者番号:90410670

(2)研究分担者
 曾根 正人(SONE MASATO)
 就実大学・人文科学部・教授
 研究者番号:70368695
吉田 一彦(YOSHIDA KAZUHIKO)
名古屋市立大学・人文社会系研究科・教授
研究者番号:40230726
脊古 真哉(SEKO SHINYA)
名古屋市立大学・人文社会系研究科
研究者番号:20448707
増尾 伸一郎(MASUO SHINICHIRO)
東京成徳大学・人文学部・教授
研究者番号:60183943
八重樫 直比古(YAEGASHI NAOHIKO)
ノートルダム清心女子大学・文学部・教授
研究者番号:50102984
嘉原 優子(YOSHIHARA YUKO)
中部大学・人文学部・教授
研究者番号:70333169
本田 恵美(HONDA EMI)
中部大学・人文学部・講師
研究者番号:90454363
(3)連携研究者
 小口 雅史(OGUCHI MASASHI)
 法政大学・文学部・教授
 研究者番号:00177198
 榎本 淳一(ENOMOTO JUNICHI)
 工学院大学・工学部・教授
 研究者番号:80245646


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