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8. ソラミツヤマトの本当の意味


4世紀末から6世紀初めにかけて興味深い史実が三つある。

1つは広開土王碑に描かれた倭国である。

391年倭が海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた

ポイントは三つあり、抜き出すと次のようになる。

A 391年 倭が海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民とした。
B 399年「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
C 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた  

2つめは百済国はもともとは2国あったという話である。

高句麗の始祖王であった朱蒙の子(実際は子ではなく子孫のようである)の温祚と沸流の兄弟がそれぞれウィレ国とミチュホル国を建国したという話である。兄の建国したミチュホルは突然に姿を消し、弟の建国したウィレ国が百済になったという。   

3つめは512年、倭国は百済の求めに応じて4県を割譲し、翌年の513年に4県につながる2郡を割譲したという話である。

割譲したということはその時までは4県2郡は倭国の領土であったはずであるが、これまでの歴史家でこの問題を本格的に論じた人は少ない。領土ではなく、何らかの権益的なものであったという理解である。または日本書紀の粉飾記事であるとする説もある。私も長い間、それほど気にもせず放置していたが最近、4県の面積が広大であることを発見して驚いた。

さて私は以上の3つの事実を組み合わせて、すべてをうまく説明できる仮説を考えた。詳細は私の『古代史の仮説Ⅰそらみちゅやまと』(Kindle電子書籍)を読んでいただきたいのであるが、ここではさわりの部分だけをご紹介してきたい。

まず4県2郡の地図を見て欲しい。広大であると同時に異様に長細い地形である。この領土をなぜ倭国が領有していたのか。倭国が朝鮮半島南部のこの辺りを戦争で奪ったという記録は日本書紀の中にない。

実は4世紀の後半に神功皇后が朝鮮に出兵し、4県2郡どころかその5倍以上の面積の領土を奪取し、それを百済国にあげると百済国王が喜んでこれからずーっと朝貢しますと誓ったという記事がある。

かってはこれを史実とみなす人々も多かったが、4世紀後半の倭国の軍事力を考えるとあり得ない話である。無理な話であることは考古学的に証明できていると考えていいと思う。倭国の古墳が軍事的な色彩を帯びてくるのは4世紀末から5世紀前半である。したがって「領土を奪取し、それを百済国にあげると百済国王が喜んでこれからずーっと朝貢しますと言った」という子供だましのような話が史実であるはずはない。

そうすると倭国は朝鮮で戦争もしていないのになぜ4県2郡の領土を持っていたのか、その理由を説明しなければならない。

私は戦争もしていないのに領土があるのはもともとそこに居住していたからであると思う。4県2郡およびその近隣の地域にいた人たちが倭国に来たと考えればうまく説明できる。

この話につながる事実が日本書紀に書かれている。4世紀末の応神大王(天皇)は九州で生まれたが、生まれたときから大王(天皇)であったという。応神は母の神功皇后と瀬戸内海を攻め上り、当時のヤマト王権を倒したというのである。

九州で生まれたと書かれているが、九州に上陸したという意味であろう。もちろん、さきほどの4県2郡を含む一帯(全羅北道、全羅南道)から九州に来たのである。

日本書紀にも4県2郡を「応神由来の土地である」と書かれている。応神勢力が4世紀末に日本に来たことを示す考古学上の発見がある。田中晋作先生の研究では、4世紀のヤマトを中心にした古墳は三角縁神獣鏡を埋葬しているのが特徴である。ところが近畿一帯の4世紀末から5世紀前半の古墳からはたくさんの甲冑が出てくるのに三角縁神獣鏡は出てこないという。いくつかの古墳で両方を出土する例外はあるものに大勢がそうであるという。

つまり4世紀を通じて出現していた三角縁神獣鏡古墳と、4世紀末から5世紀前半の甲冑古墳は截然と区別されるという。私は甲冑古墳は応神勢力のもの、三角縁神獣鏡古墳は攻め滅ぼされた纏向王権のものと考える。正確に言うと、甲冑古墳は応神勢力に続いて倭国に侵入した広開土王(仁徳)勢力のものも含まれる。

私は応神大王(天皇)が朝鮮半島南部から倭国に侵入してつくった国はミチュホルという国名だったと推定する。ミチュホルはミツホに発音が変わるのである。

さてここから私が最初に提示した二つの興味深い話につなげていく。このミチュホルこそが歴史上、突然に消えてなくなった沸流のミチュホルなのである。消えてなくなったのではなく、倭国に侵入して新しい展開をしていたのである。時代は385年~390年ころと思う。なぜなら広開土王碑に見える「391年 倭が海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民とした」というのはミチュホル国のことだからである。391年はミチュホルが倭国の主要地域を制圧して、再び半島で勢力を伸ばし始める年であったと推定される。

この話が、最初に紹介した「新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきた」に繋がってくるのである。

広開土王が百済(温祚百済)を攻撃したとき、ミチュホル(倭国)はその南方にいた。広開土王は温祚百済を攻撃した後、南方のミチュホル(倭国)も攻撃し、そうとうの打撃を与えた。この攻撃に対してミチュホル中枢は半島に来ていた多くの倭人を新羅の都に向かわせた。陽動作戦である。広開土王は5万の大軍を派遣して新羅を救援したが、それによってミチュホル(倭)国内の軍事的締め付けが緩められたのである。

そして404年、劣勢のミチュホルは水軍を編成して帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入して挽回を図ったが、壊滅させられた。

以上のようにミチュホル仮説を導入すると私が提示した3つの史実が繋がっていくのである。


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