21. 現人神思想と柿本人麻呂
現人神思想は天皇制を考え出した藤原不比等が生み出した国王イメージである。不比等はそれまでの国王とは違って、君臨すれども統治しない国王、神を祭り、自らが神になる国王イメージを作り出した。最終的には701年選定の大宝律令に明津神(あきつみかみ)として法制化したが、その始まりはいつごろであろうか。
不比等は持統と相談して、686年、陰謀によって大津皇子を謀反の罪で処刑して権力を奪取したが、その頃には現人神天皇制を考えていたはずである。それを示す証拠は少ないが、万葉集の和歌の中にその痕跡が残っている。
万葉和歌の歴史について概略を述べておく。万葉和歌は655年頃になぜか突然に出現している(私にはその理由が分かっているのであるが、学説は無視して論じることがない)。655年から680年頃までは額田王、鏡女王、中大兄、天武大王などが和歌を作っており、この時期を万葉和歌初期と言ってもいいであろう。
680年ごろから700年ごろまでの間に諸皇子、皇女らの歌が数多く残っているが長歌を歌ったのは柿本人麻呂ただ一人である。私はこの20年間を柿本人麻呂時代と名付けたい。初期の和歌はかなり当事者だけの和歌のやり取りの感があるが、人麻呂の朗々とした長歌は声を出して藤原京で歌い続けられ、多くの人々が和歌に初めてなじんだ時期である。文芸史の上で人麻呂の出現はエポックメーキングである。
長歌を読んだ歌人は柿本人麻呂ただ一人と書いたが実は作者不詳の優れた長歌が2首ある。藤原京役民歌と御井の歌である。これについては人麻呂作とする説と、これを否定する説があるが、私は長歌を開発、発展させた、クラシック音楽でのベートーベンレベルの人麻呂以外の作者は考えられないと思う。
人麻呂は680年頃から686年頃まで略体歌を書いて試行錯誤していたが686年、持統の代作として天武挽歌を詠んだ。人麻呂の初めての長歌である。詞書は持統作となっているが、この時代に人麻呂以外に長歌に挑戦した人はいないし、人麻呂が長歌を歌う前に持統天皇が長歌を歌ったとは考え難い。
次に人麻呂が詠んだのが688年(ごろ)の新田部皇子賛歌と長皇子賛歌である。そして長皇子賛歌の中に「現人神天皇思想が初めて現れる」
●長皇子遊獵路池の時の歌
030239 八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三獵立流 弱薦乎 獵路乃小野尓 十六社者 伊波比拜目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拜 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞
やすみしし わごおほきみ たかひかる わがひのみこの うまなめて みかりたたせる わかこもを かりぢのをのに ししこそは いはひをろがめ うづらこそ いはひもとほれ ししじもの いはひをろがみ うづらなす いはひもとほり かしこみと つかへまつりて ひさかたの あめみるごとく まそかがみ あふぎてみれど はるくさの いやめづらしき わごおほきみかも
反歌一首
030240 久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓為有
ひさかたの あまゆくつきを あみにさし わごおほきみは きぬがさにせり
或本反歌一首
030241 皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞
おほきみは かみにしませば まきのたつ あらやまなかに うみをなすかも
この或本反歌一首に皇者 神尓之坐者(おほきみは かみにしませば)が初めて現れている。
689年に持統の長男、草壁皇子が薨去したが、人麻呂は次の歌を歌っている。
●日並皇子尊殯宮之時の歌
020167 天地之 初時之 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 〃座而 神分 〃之時尓 天照 日女之命 一云 指上 日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 一云 天雲之 八重雲別而 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 〃座奴 一云 神登 座尓之可婆 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 一云 食國 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為
あめつちの はじめのときの ひさかたの あまのかはらに やほよろづ ちよろづかみの かむつどひ つどひいまして かむはかり はかりしときに あまてらす ひるめのみこと さしのぼる ひるめのみこと あめをば しらしめせと あしはらの みづほのくにを あめつちの よりあひのきはみ しらしめす かみのみことと あまくもの やへかきわきて あまくもの やへくもわきて かむくだし いませまつりし たかてらす ひのみこは とぶとりの きよみのみやに かむながら ふとしきまして すめろきの しきますくにと あまのはら いはとをひらき かむあがり あがりいましぬ かむのぼり いましにしかば わごおほきみ みこのみことの あめのした しらしめしせば はるはなの たふとくあらむと もちづきの たたはしけむと あめのした をすくに よものひとの おほぶねの おもひたのみて あまつみづ あふぎてまつに いかさまに おもほしめせか つれもなき まゆみのをかに みやばしら ふとしきいまし みあらかを たかしりまして あさことに みこととはさず ひつきの まねくなりぬる そこゆゑに みこのみやひと ゆくへしらずも さすたけの みこのみやひと ゆくへしらにす
この長歌の中に「飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇」とあり、飛鳥浄御原で神としておられた天皇イメージを読み込んでいる。もちろん、飛鳥浄御原で神としておられた天皇は天武天皇である。
持統が即位した690年頃と考えられる歌がある。
● 天皇が雷岳で遊ばれた時の歌
030235 皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨
王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座
おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも
おほきみは かみにしませば くもがくる いかづちやまに みやしきいます
「おほきみは かみにしませば」つまり「天皇は神であるので」と歌っている。
即位した690年の夏頃に近江の崇福寺で前年に亡くなった草壁の法要をした可能性があり、柿本人麻呂が持統の名代として近江に出向いた可能性がある。
●近江荒都を訪れたときの歌
010029 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 或云 自宮 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎 或云 食来 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而 何方 御念食可 或云 所念計米可 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之茂生有 霞立 春日之霧流 或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留 百磯城之 大宮處 見者悲毛 或云 見者左夫思母
たまだすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ ひじりのみやゆ あれましし かみのことごと つがのきの いやつぎつぎに あめのした しらしめししを しらしめしける そらにみつ やまとをおきて あをによし ならやまをこえ そらみつ やまとをおき あをによし ならやまこえて いかさまに おもほしめせか おもほしけめか あまざかる ひなにはあれど いはばしる あふみのくにの ささなみの おほつのみやに あめのした しらしめしけむ すめろきの かみのみことの おほみやは ここときけども おほとのは ここといへども はるくさの しげくおひたる かすみたつ はるひのきれる かすみたつ はるひかきれる なつくさか しげくなりぬる ももしきの おほみやところ みればかなしも みればさぶしも
この歌には天皇という漢字2文字が入っている。天皇という漢字2文字が入っているのは人麻呂の歌では2首あるだけである。その他の歌人の歌で、その例はあるが、時代が奈良期にまで下るので、ここでは問題にしない。
「天皇(すめろぎ)の神の命(みこと)の大宮」とあるので天皇=神となる。ちなみに天皇という二字を使っている2首というのは草壁挽歌とこの近江荒都歌であるが、草壁挽歌での天皇(すめろぎ)は天武をさす、この歌の中では天智をさしている。したがって崩御された大王に対してのみ使っているということもできる。
藤原宮へ遷宮する前年の693年ごろの歌と考えられるのが次の藤原宮之役民作歌である。作者は藤原宮之役民となっているが、長歌の発達、発展を考えた場合、人麻呂作と考えるべきであろう。藤原宮之役民作歌には「現人神」を直接に歌ってはいないが、神長柄(かむながら)、神随(かむながら)の表記が見える。
●藤原宮之役民作歌
010050 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
やすみしし わごおほきみ たかてらす ひのみこ あらたへの ふぢはらがうへに をすくにを めしたまはむと みあらかは たかしらさむと かむながら おもほすなへに あめつちも よりてあれこそ いはばしる あふみのくにの ころもでの たなかみやまの まきさく ひのつまでを もののふの やそうぢかはに たまもなす うかべながせれ そをとると さわくみたみも いへわすれ みもたなしらず かもじもの みづにうきゐて わがつくる ひのみかどに しらぬくに よしこせぢより わがくには とこよにならむ あやおへる くすしきかめも あらたよと いづみのかはに もちこせる まきのつまでを ももたらず いかだにつくり のぼすらむ いそはくみれば かむながらならし
人麻呂以外に現人神思想を歌った歌がわずか3首残っている。一つは大将軍贈右大臣大伴卿作と詞書にある次の歌である。
●壬申年之乱平定以後歌二首
194260 皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
おほきみは かみにしませば あかごまの はらばふたゐを みやことなしつ
訓読
大王は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
意味
大王(天皇)は神でいらっしゃるから、赤い馬が腹這う田んぼをたちまち都になさった。
これは贈右大臣大伴卿は右大臣を遺贈された大伴御行であり、時代的には壬申乱の後としか書かれていないが、「おほきみは かみにしませば」という表現から人麻呂の歌をまねたものと考えられ、690年の持統即位のころの作品と考えられる。この歌の後にもう一つ、「おほきみは かみにしませば」という歌があり、作者未詳となっているが同じ時期の歌であろう。
194261 大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通
おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ
訓読
大王(おほきみ)は、神にしませば、水鳥(みづとり)の、すだく水沼(みぬま)を、都と成しつ
意味
大君は神でいらっしゃるので、水鳥(みづとり)が群がり集まる水沼を、都としてお造りになった。
最後に699年作と思われる置始東人の歌を紹介したい。この歌で「おほきみは かみにしませば」と確かに現人神思想を歌っているが人麻呂の模倣であり、現人神思想は人麻呂のみが歌ったといっても許容されると考えている。要するに現人神思想を歌ったのは柿本人麻呂であり、ほかにその影響下の3首があると言えばいいと思う。
●弓削皇子薨去の時に置始東人が作った歌
020204 安見知之 吾王 高光 日之皇子 久堅乃 天宮尓 神随 神等座者 其乎霜 文尓恐美 晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡 臥居雖嘆 飽不足香裳
やすみしし わごおほきみ たかひかる ひのみこ ひさかたの あまつみやに かむながら かみといませば そこをしも あやにかしこみ ひるはも ひのことごと よるはも よのことごと ふしゐなげけど あきだらぬかも
反歌一首
020205 王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴
おほきみは かみにしませば あまくもの いほへがしたに かくりたまひぬ
以上のように688年ごろには現人神天皇思想が出現し、持統即位の690年を得て、694年の藤原宮遷宮のころに確立されたと考えられる。これに呼応して伊勢で皇大神宮の建設が行われ、699年ごろ完成したようである。701年の大宝律令で法制としての現人神制度ができた。この一連の動きを指導していたのが大宝律令制定の指導者、藤原不比等である(指導者存在説)。
歴史的な順序は逆であるが人麻呂時代の前の初期に、現人神思想はあったであろうか。実は通説が宮廷歌人とする額田王といい鏡女王といい、大王を恋人レベルで見ており、とても現人神と思っていたとは考えられない。皆さんご存じの歌を思い出してこの時代の雰囲気を思い出していただきたい。
010020 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
訓読
あかねさす 紫草野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
意味
(あかねさす)紫草野(むらさきの)を行き 標野(しめの)[普通の人が入ることを禁じられている丘陵]を行って 野守[禁野の番人]が見ているではありませんか あなたが袖をお振りになるのを