13. 中臣氏について考えるべきこと
日本書紀では中臣氏は4世紀ごろからすでに倭国にいた古くからの氏族として描かれている。それどころか高天原から天皇の側近として地上に降りてくる皇室に最も近い、最も重要な氏族である。天皇側近であるはずの大伴氏は、地上でそれをお迎えしたというのであるからとにかく凄い氏族であるが「天皇の側近として地上に降りてきた」のは明らかな作り話である(誰が何のために作った作り話か、皆さんに考えていただきたい)。
しかし、古くからの氏族であるということを疑った歴史家はいない。ただ最近、関氏が新しく渡来してきた氏族であると主張している。
中臣氏については、本貫の地が今も分からない。古くからの有力氏族とされていてどこにいたのか分からない氏族と言うのは稀であろう。本貫の地がないのは私の史観では当然である。中臣氏は643年、百済から亡命してきた氏族であり、それ以前には日本にはいなかったからである。ちなみに中臣と名乗ったのは中大兄の臣だったからである。中臣氏は連であるのに臣という字が入っていること自体、おかしなことだと疑うべきことである。
中臣氏が古くからの氏族であると思わされているのは不比等が日本書紀を粉飾しているからである。祭祀氏族の中臣氏が新羅征伐の将軍になっている記事があるが、不自然である。またさまざまな政局に中臣氏を登場させているのも怪しいところである。仲哀大王が亡くなった場面とか、欽明紀の仏教受容の場面とか、舒明即位の場面とか目立ったところにいつも中臣氏がでてくる。祭祀氏族が国論を二分するような場面で大きな権力をもっていたというのも不自然である。祭祀氏族は忌部氏のような地味な存在のはずである。
中臣氏の系図は飛び飛びで大伴氏や物部氏のように3代続いた系図は日本書紀には表れていない。単発の粉飾記事を挿入しているからである。ちなみに古事記には中臣氏の活躍の記事はない。古事記は推古紀までであり、日本に来ていなかったのであるから当然である。
そのほかにも中臣氏について考えるべきことがある。それは中臣氏は古くからの祭祀氏族だとされているが、いったいどのような神の祭祀をとり行っていたのかということである。
現在、アマテラスは古くからの国家神ではなく、アマテラスが祭られる前にはタカミムスヒが祭られていたと考えられている(かの本居宣長でさえ、それに気が付いており、日本書紀にはそれを推測する手掛かりが残されている)。アマテラスを祭る伊勢神宮ができたのは持統期であるが、丁度そのころ国家神がタカミムスヒからアマテラスに代わったと考えるべきであろう。では祭祀氏族の中臣氏はアマテラスが出現するまではタカミムスヒを祭っていたのであろうか。専門の歴史家にこの点を明らかにしてもらいたい。
中臣氏は祝詞氏族であり、祝詞を奏上することによって神に仕えるのが仕事である。しかし、祝詞を含む日本語表記ができ始めたのもやはり持統から文武にかけての時期である。中臣氏は持統の即位式に天神寿詞を奏上しているが、それ以前の日本語表記がなかった時代にはいったいどのような祭祀をしていたのであろうか。
天智期にも中臣氏は祝詞を奏上しているが、日本語としての祝詞はこの時期が限界で、これより前の祝詞というのは粉飾記事の疑いがある。日本古代史について考える場合、日本語表記の起源を探求することが重要であり、これに関連して和歌の起源を早急に解明すべきであるが国文学は稲岡東大名誉教授に間違った方向に導かれて行き詰まっている。和歌の歴史が解明できていないのである。
現在、残っている公式の日本語表記は697年(文武元年)に出された第一宣命である。持統期以前の公式日本語表記は全く残っていないのは、記録の散逸というよりも日本語表記がなかったことを示している。しかし、和歌の世界では655年あたりから作品が残っており、公式ではないが、そのころには日本語表記があったことを示している。
但し、稲岡東大名誉教授らは680年ごろの柿本人麻呂の和歌が最初の日本語表記であり、それまでの額田王、鏡女王、斉明、天智、天武の歌は「声を出して歌われたが、文字として書かれなかった」歌だとしているのである。かりに稲岡説が正しいとすると、では祝詞はどうだったのかと聞きたくなる。祝詞も「声を出して歌われたが、文字として書かれなかった」ことになるからである。あの長い祝詞を神主さんは「すべて口から口へと」と伝承してきたとでも言うのであろうか。
655年ごろの和歌が最初の日本語表記であり、この辺りを研究する必要があるのに、歴史学者も国文学者も事の重要性に気づいていない。
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