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9時のアラームで水田は起きた。
毎日がつまらなかった。ただただ時間を消費していた。どこへ向かっているかもわからないまま、水田は毎日満員電車に自らを押し込んでまで、大学の講義に出た。しかし一方で、自分が死に向かっているという自覚があるわけでもなかった。時間など無限に続くような気がしていた、いやもっと正確には時間についてまともに考えたことはなかった。
最近1日が終わるのが早い気がする。今日は特に予定もなかった。朝に比べれば混んでいるわけではないが座れるわけでもない地下鉄に乗って、一人暮らしをしている最寄駅に着いたのは夜の20:00だった。駅前すぐの雑居ビル2階にあるレンタルビデオ店に入って、特に借りるわけでもないのにラブストーリーの棚を見たり、アニメの棚を見たりする。雑居ビルは5階建てになっていて、3階から5階までは居酒屋が入っていた。水田はエレベーターの上ボタンを押した。5人入れば満員になるくらいの狭いエレベーターの扉が開いた。水田が驚いたのは、エレベーターの床が真っ黒だったことだ。反射するわけでもなく、この世の全てを飲み込んでしまいそうな黒。日本中の大学生が髪の毛をブリーチしたことによって、行き場をなくした黒が一斉集合したような黒。しかし、かといって床が抜けているわけでもない。もはや本来的なテニスシューズへと回帰したスタンスミスを履いた片足で、恐る恐る床をつついてみた。低反発クッションのような感触が返ってきた。その時だった。身体がズブズブと黒い床に吸い込まれていった。水田は当然ながら恐怖心を抱いた。でも恐怖心を抱いたのはほんの一瞬のことで、次の瞬間には自分の全てが肯定されていて、それでいて自分の全てが破壊されているような、不思議な心地の良さに包まれた。

9時のアラームが鳴った。気づくと自分の家にいた。なんだか夢を見ていた気分がした。顔を洗って、歯を磨いて、いつものベージュのチノパンとボーダーのロングTシャツを身につけた。黒のリュックと古着屋で買った質が良いのか悪いのかイマイチよくわかっていないデニムジャケットを手に持って、家を出た。また消化するだけの1日が始まった。しかし水田の目に見える景色に変化が生じていた。端的にいって、なぜか見るもの全てが色鮮やかに見えるのだ。水田はそれが、それ以前に識別できていた微妙な色が見えなくなって、ただ視界がビビッドな色だけで再構成されたという事実によるものだとは気づいていなかった。しかしそれでも大学の講義は退屈だった。また夜が来た。水田は夜の渋谷へと向かった。たった1人で神泉近くのクラブでジンバックを飲んだ。特にナンパをするわけでもなく、ひたすらそういう光景を水田は呆然と眺めていた。耳をつんざくような音楽の中にいるのが水田は心地よかった。特に翌日に予定があるわけではなかったが、終電で帰ろうと思った。クラブから出るとき、入るときにはクラブの名前が堂々とデザインされたマットが敷かれていた場所に真っ黒のマットが敷かれていた。まるで油性ペンのインクを5本分絞り出したような黒だった。水田はその黒に見覚えがあった。マットに片足を乗せた。

9時のアラームが鳴った。外にはすこし強めの雨が降っていた。今日は休みだった。出会い系アプリで知り合った女の子と会うことになっていた。水田はもはやつまらなさなど感じていなかった。雨が降っていても、景色は鮮やかに見えた。水田はまた一つ、微妙な色を失った。失ったが故に、世界は鮮やかだった。5時ごろになって、支度をした。渋谷で待ち合わせした女の子は、とても品が良く(少なくとも水田にはそう見えた)、同時にノリが良さそうにも見えた。居酒屋に入った。話は割と盛り上がった。水田が好きな音楽バンドの話をすると、相手の女の子は、「あーそれわたし気になってたんだ」と答えた。女の子はハイボールしか飲まなかった。水田はビールしか飲まなかった。酔いがかなり回ってきて、水田はなんだか人肌恋しくなった。一言断ってトイレに行った。トイレの扉を開けた。そこにトイレは無かった。代わりに真っ黒な床があった。#000000が黒色ならば、#-3-3-3-3-3-3といったような黒だった。水田はその黒に見覚えがあった。嬉しくなって一歩を踏み出した。

9時のアラームは鳴らなかった。知らない天井がぼんやりと視界に入ってきた。女の子が起きてから、一緒にホテルを出た。歓楽街特有のきつい色に包まれた。しかし、朝の歓楽街の色はもはやきつくはない。水田はもうほとんど色を失ってた。赤と青と黄色と緑くらいしか見えていなかった。水田はもっと鮮やかさが欲しかった。家に帰る途中の歩道橋に登ると、そこには黒が待ち構えていた。それは、無を意味していた。むしろそれは白だったのかもしれない。

もうアラームは鳴らない。水田は色を失った世界にいた。いやだからといって白黒の世界なわけではない。世界は全て赤一色に染まっていた。しかし逆に、水田はいつのまにかこの世の誰よりも物事の陰影がわかるようになっていた。世界のカタチが、本来のカタチがよくわかるようになっていた。水田にとってそれは大きな学びの一つだった。あまりに大きな学びだった。

水田は、淡くて儚い今にも消えそうな微妙な色のことをふと思い出した。


#小説 #ショートストーリー

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