見出し画像

鬼滅の刃に気づかされた、僕のやりたいこと。

0. はじめに

先日、鬼滅の刃の最終巻が発売された。全編を通して、気づかされたことがあったので、まとめておこうと思う。具体的なネタバレは避けます。途中から鬼滅あんまり関係なくなっちゃうかも。

まず結論から。僕がやりたいと思っていること。二つある。
一つ目。「想いを残すこと」。
二つ目。「心にセカイを取り戻すこと」。そのための一つのアプローチとして、まずは「心に自然を取り戻したい」と思っている。

では、はじまりはじまり。

====

1. 想いを残すこと

僕は死ぬのが怖い。子供の時から、眠れない夜なんかに突然怖くなることがあった。いまだにそう。そういう人は僕以外にもたくさんいると思う。
それから、人生で何度か「ヤバイ死ぬ」と思った経験もあって、実際にその時死ぬのは怖いと思った。

なぜ死ぬのが怖いのだろうか。それは突き詰めて考えると(自分の心と正直に向き合って言語化しようと試みると)、僕が死んだ後も世界は当たり前のように続き、それを知覚できなくなることを恐れている気がする。

以前に一度「ヤバイ死ぬ」と思った時、「子供が欲しかった」と思った。「好きな人に想いを告げておけば良かった」と思った。それ以来、言葉を書きたいと思った。なぜか。それはまさに鬼滅の刃の言うところの「想いは不滅」をその一瞬のうちに、体感したからだと思う。

僕は死ぬ。でも自分の子供がいれば、自分の想いは子供へ将来の世界へと受け継がれていくだろうと感じた。今考えると、「子供が欲しかった」とは、そういう意味だったのだろうと思う。「好きな人に想いを告げておけば良かった」というのは、誰かを愛おしく思う気持ちを誰かに託したかったからだと思う。言葉を書きたいと思い始めたのは、死ぬ前に、自分の想いをカタチにして残したくなったからだと思う。

 死後の世界を知覚できなくても、そこに自分の想いが生きていると思えれば、死後の世界の予想がつく。それは本当に適当な予測だけど。でも、それは僕の息のかかった世界になる。

鬼滅の刃を読んでいて、まだ生きていたいと思いながら死んでいくキャラクターたちに心を打たれた。戦争・不治の病・事故など、そうした状況は、実際に珍しくもなく存在する。自分がそうならないとも限らない。僕は死ぬのが怖い。もしそういう状況に置かれた時、それでも何か希望を持って死ねるかどうかは、僕の想いがどれだけ世界に残せたかにかかっていると思う。だからこそ、今の僕にとって、人生は世界からのTakeではなく、世界へのGiveを中心に回る。

====

2. 「心にセカイを取り戻すこと」

僕は死ぬのが怖い。それは、死後の世界の知覚不可能性からきているのではないか、という話を先ほど書いた。

しかしここで別の角度から疑問が湧き上がった。「知覚」に対する違和感だ。いつから僕は、世界を知覚対象だと思ったのだろう。いつから、僕と世界とは切り離されてしまったのだろう。

僕は、東京生まれ東京育ちだ。換言すれば、狭い空と、コンクリートの躯体と、アスファルトで均一化された地面と、流路を固定された川と、オリオン座くらいしかわからない星空の中で生きてきた。
 大学生の時一年休学して、日本と世界を放浪した。そこには、自分の悩みがちっぽけになる空があり、生活と結びついた住処があり、なまの大地があり、生命の源となる水があり、地球すらちっぽけにする宇宙があった。
 それらと出会うたび、生きる気力が湧いた。それらは身体化された記憶となって、僕の軸となっていた。そして、「僕も世界の一部だ」と感じるようになった。僕と世界とは切り離されていたけど、本来、ヒトと世界は一体なのではないかと思う。それが、死の恐怖をどれくらい和らげるのかは疑問だが、自分が再びNatureの中に帰っていくという感覚は得られそうだ。まだそこまで至っていないけれど。仏教における悟りも、そういう状況なのでは無いだろうか。心に世界を取り戻すこと。

そしてこれは、死の恐怖だけではなく、生きていく上でのあらゆる困難にも活きると思う。自分の心の中に世界がある限り、人間一人の悩みなんてちっぽけだ。心の中に世界を取り戻す、という言い方がわかりづらければ、心に青空を取り戻す、でもなんでも構わない。

本当いうと、「自然=世界」では無いと思う。「自然<世界」だろう。世界の中には、自然以外にも、人間関係とかも含まれると思う。近年のコミュニティブームも、心に世界を取り戻すムーブメントに見える。ただ、やはり東京生まれ東京育ちの僕にとって、決定的に欠如している世界の要素は、人間ではなく、自然Natureだと思う。まずはこれから取り戻したい。

追伸

満員電車の例を出せば早い気もするが、この前経験したことを書いておく。

僕はカフェにいて、本を読んでいた。店員さんが、カウンターの向こう側で食器を落としてしまって、パリーンと音がした。次いで聞こえてきたのは、「失礼しました!」というフロアーに向けられた店員さんの申し訳なさそうな声だった。

そこで僕は急に自分の心がモヤモヤし始めていることに気づき、5分くらい自分と向き合った。そうして気づいた。なぜ、店員さんが「失礼しました」なのか。僕は、僕の本心は、僕自身がその店員さんに向かって「ケガないですか?大丈夫ですか?」と声をかけたがっていたのだ。なぜ僕は声をかけない。なぜ誰も声をかけない。いっそ、「失礼しました!」がマニュアル的な棒読みであって欲しかった。

過度な都市化なのか、過度な資本主義化なのかはわからないけど、人間すらも失い始めているのだ。それは気づかないうちに。生まれた時から。アハ体験のように、僕らの人間を緩慢に殺し続けている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?