【Mリーグ】ドリブンズはなぜ弱いのか【戦略分析】


これはひとえに「麻雀が上手いから勝ってきたのだ」と勘違いをしているからである。
それはつまり、勝負に徹していないということである。

実力十分とされる、園田、村上、たろう、この三名の、じゃあその実力を裏付けるものがなにかと言えば実績であり、では実績がなにかと言えば、短期決戦や一発勝負での印象的な活躍はあったにしろ、その主たるものは、所属団体の最高峰のリーグ戦に於いて顕著な成績を残してきたことである。
これが問題なのである。

最高峰リーグ、およびこれを勝ち抜いた者とタイトル保持者によって行われる決定戦リーグ。
これらに出場する選手はいずれも、団体が設定する特定のルールの下でリーグを昇級してきた者たちであり、ルールへの理解が深まり損得勘定が洗練されれば、実力もさることながらその価値観が似通っていく。
そしてまた、最高峰リーグに所属するのは十数名で毎期の入れ替わりは数人であり、長く所属し続けるほどに互いの戦術や思考の傾向について深く知り合うことになる。

この舞台で高水準の成績を残し続けるということは、普遍的な麻雀の能力よりもなお、「特定のルールの下、価値観が近く互いの手の内をよく知る相手と戦う」という環境への適応力が物を言うことになる。
であるならば三人は、当人らが思っているよりも麻雀が上手くなく、当人らが思っているよりも環境適応力が高い。
素の麻雀能力8割で環境適応2割くらいに考えているかもしれないが、実際はもっと拮抗して5:5か、ともすれば4:6で、環境適応の重要度は非常に大きい。これはドリブンズの成績が教えてくれている。
もちろん素の能力は高いが、それだけで勝ち続けられるほどずば抜けてはいない。最高峰リーグはそれだけで勝ち続けられるほどぬるい場所ではないだろう?

ドリブンズは自分たちの長所を勘違いしている。上手いから勝ってきたのだと勘違いしている。実際は、麻雀が上手いからではなく、環境への適応力が高いから勝ってきたのだ。
それなのに、どんな場所でもどんな相手にでも通用すると思い上がっている。実力の内訳を思い違いしている。

どういう訳かMリーグの環境に適応する気がない様子であるのは、「上手いから勝ってきた」のだと勘違いしていると言うほかないだろう。
まるで殴り込みか道場破りでもやっているつもりなのだろうか。実績を背負っているから?団体の威信を背負っているから?
優勝争いを台無しにしてまで勝ちを拾いにいったのに、であるか。それじゃあこだわっているのは勝利ではなく、実績や威信や今まで作り上げてきた戦術ではないか。
勝つために戦術を変えることの何が恥ずかしいものか!実績や威信よりも勝利を優先するのであれば何も恥ずかしいことなどない、何もやましいことなどないだろうに、いつまでも固執しているように見える。
その結果、丸山までもが、その上手くなる方向性というのが、Mリーグへの適応からは遠ざかっているように見える。

これはドリブンズとしてのチーム戦略の失敗とも言える。Mリーグのために自身の麻雀を作り変えることのできる覚悟を持った選手、勝つためなら体面などかなぐり捨てて変化を恐れない選手、つまり勝負に徹することのできる選手、これを獲得できなかったという失敗である。
今更ながら、一番エンタメに振り切ったチームなんじゃないかなあ、ドリブンズ、そんな気がしてきた。
ルールに対応せず状況に対応せず相手に対応せずに、素の麻雀能力だけでどこまでできるかの腕試し!まるで漫画の主人公みたい。俺たちの戦いはこれからだ、っていつも言ってるし。
現実は甘くなく、勝負に徹していないから負ける。試合内容でまでエンタメしているから負ける。

得になることをするって言うけど、麻雀に普遍的な得なのか、環境適応としての得なのか、本当に区別できていますか?その技その知識その洞察、いつでもどこでも誰にでも通用することですか、それとも?


・園田賢
東1局で1000点をアガる意味を履き違えている。
Mリーグルールではこれは、決してラスを回避するために行ってはならない。トップを逃がさないために行われなければならない。誰か一人が大きく抜け出すという状況を阻止するためでなければならない。だから小林剛のようにリスクを負って南4局までやり切らなければ何の意味もない。
トップかラスかという博打的なスタイルではないのだから、重要なのは2着時のポイントをどれだけプラスにできるかである。
であれば、2着なのにトップ目に大きく逃げられて削られてポイントが増えないということこそ最も避けなければいけない。高い精度で接戦を維持できれば結果的にトップを掠め取る可能性も増える。
今のままでは東場と南場でやっていることが逆である。南場に入って追い詰められてようやく腰を据えた手作りを始めるからいつも出遅れている。
だったら東1局の1000点を、満貫とはいかないまでもせめて3900点にする努力をすべきだ。
追い詰められたから、という理に、理という免罪符に頼りすぎるきらいがある。
特に序盤で、配牌とツモに素直すぎて、要すれば運に素直すぎる。素直だから東1局が1000点になった。そこに戦術はあっても戦略はない。
山を読むため手を読むためと言い訳して、決断を先延ばしにしすぎる。守備力が下がることを恐れないのはいいけれど、攻撃力が下がることをもう少し恐れろ。
Mリーグでは手はもらうもんじゃなくて、作るんもんなんだよ。
実利+1000点、しかし自分は手を作らず周りは手を作ることによって生じる機会喪失ー3000点では割に合っていない。

園田賢の能力をMリーグルールで活かすとすれば、ローリスクローリターンの局を減らし、多井・堀・滝沢らに近いミドルリスクミドルリターンの局を増やすべきである。押し引きのバランスが非常に難解になり、ぎりぎりのギリギリまで踏み込めないと成り立たないが、園田ならなんとかするだろう。


・村上淳
長い目で見るということの意味を履き違えている。
長い目で見れば得な選択であるとして忍耐をやりすぎる。
長い目で見ることの、まずその根拠となる経験が自団体での対局偏っており、Mリーグがその延長線上であると考えているのが間違いである。
次に、長い目で見れば得な選択は、相手が同レベル以上であれば同等の選択をしてくるので優位性を築けない。
最後に、自分が長い目で見れば得になる選択であるとしてバランスをとるとき、他三者が無理にでもトップを取ろうとした場合、トップもラスも他三者のうちの誰かが獲得する可能性が高くなる。
周りは無理をしてトップを目指すのに一人だけ無理のないバランスを目指しているから、まるで闘っていないように映る。

Mリーグルールはトップがとてもとても偉い。トップ1回ラス1回で十分なおつりが来る。
であればMリーグルールというのは、無理をしてでもトップを目指すのが正着となるルールであり、無理のないバランスの精度を競う場ではなく、無理をすることの精度を競う場なのである。
初年度はまだそういった共通認識が形成されておらず、競技麻雀従来の自然なバランスの精度を競う場であったためにドリブンズのスタイルは通用したが、年を経るごとにトップを目指すセオリーが醸成されていき、ドリブンズは取り残された。

もし無理をせずにバランスを取るのであれば、相手がする無理を逆手にとって2着獲得時のポイントの最大化を目指す必要があるが、長い目で見れば得な選択であるはずとの信念から自然なバランスを保って手数が少なすぎるため、無理をしてでも加点を続けるトップ目に大きく走られての2着や3着が増え、長い目で見るとジリ貧である。
だったらもういっそのこと、1半荘でアガり0のリスクすら負ってもっともっと大振りをするか、さもなくば果敢なるリーチ合戦に打って出るか。

村上淳の能力をMリーグで活かすならば、またこれまで積み重ねてきた経験を生かすのならば、10半荘未満で決着するなんらかの決定戦に出場したときのような、あるいは長い決定戦が残り8半荘の時点でほとんど横一線であるというような状況を想定した、優勝以外に価値のない短距離走、長期的視点を捨てた攻め重視のスタイルで打つべきである。それがMリーグルールに於ける”長い目で見れば特になる”選択である。


・鈴木たろう
別解の意味を履き違えている。
別解の要旨はリスクリターンが見合っているかどうかではない。意表を突くことでもない。
別解の真髄は「今このときに別解を選択すべきかどうか」の判断にある。
今このとき、今このルールで、今この相手で、今この状況で、である。
別解は原理的に、それ単体でリスクにリターンが見合うことは絶対にない。見合うならそれは既にセオリーと呼ばれているはずである。
麻雀に普遍的には、別解よりもセオリーが絶対に正しい、絶対に得であり、別解はリスク過多の無謀、またはリスクを過大評価した消極である。
ところが麻雀に普遍的なセオリーではリスクにリターンが見合わない場面で、しかし今このルール・この相手・この状況だからこそ例外的にリスクにリターンが見合うことになるセオリー無視の一打、これこそが「別解を選択する」ということである。
鈴木たろうは従来、その卓越した知識・技能・洞察力によって、別解が成立する条件を見極めることが誰よりも上手だった。別解を発見すること発明することが上手だった。人呼んでゼウスの選択。それは言わば「鈴木たろうのセオリー」として巧みに繰り出されていった。
ところがMリーグでの彼を見るにつけ、神懸かりを感じられる場面はほとんどない。
これは一つには、鈴木たろうが研究され、平均が彼に近づいたために、相対的な特筆性が減少したということがある。
また一つには、自分の手牌に素直に真っ直ぐに押し引きを行う相手には、別解が通用しにくいということがある。
そして最後に、これが一番重大なことであるが、鈴木たろうが繰り出す別解のバリエーションは従来的な競技麻雀に適応しており、相手が無理を避けようとすることを逆手に取るものが主であるために、過半数の選手が無理をしてでもトップ獲りを目指すMリーグという場では基本的に通用しない。
従来の競技麻雀での経験を元にしたパターンとして独自のセオリーとしての別解を過去の自分から引用して提示するだけになっており、「知識・技能・洞察力をもって今このときに別解を選択する」ということが出来ていない。
このままでは”過去の人”だ。
今から探しましょうよ、無ければ作りましょうよ、新たな別解を。
Mリーグのルールで、Mリーグの相手で、Mリーグの状況で、相手がトップを狙って無理をしてくるのを逆手に取って、2着の最大化ではなく1着を獲り切る別解を。

鈴木たろうの能力をMリーグで活かそうとするなら、残酷なことを言うが別解を封印して素直に無理をすれば精度の高さで普通に勝ち越すだろう。もしくは、無理を避ける傾向を維持している選手と当たりやすくなるように采配することも選択の一つである。もちろん、Mリーグ用の別解を炸裂させることができたなら、それに越したことはない。


・丸山奏子
まず自身の傾向を分析し、自身のスタイルという土台を固めないことには、その上に何を乗せても砂上の楼閣。チーム内でのポジションも決まらない。

麻雀は失敗のゲームである。完璧な半荘など滅多に無い。どんなに上手くてもどんなに強くても、いつか必ず失敗をし、いつか必ず失点をし、いつか必ず敗北を味わうのが麻雀というゲームである。
(ほとんどの)人間は機械のように無感情では在れない。
だから勝負事でなぜ自分を信じるべきかと言えば、それは失敗したときに生じる精神的動揺を最小限に抑えるためであり、失敗したときに生じる精神的動揺を最小限に抑えることが出来れば失敗を想像することによって起こる精神的動揺をも抑制することができるからである。
そして自分を信じるためにこそ、自身の傾向に適った自身のスタイルというものの存在が助けになる。

傾向には二方向がある。
一つは「鋭敏」である。自身が何について鋭敏であるか。理に明るいのか、記憶力が秀でているのか、洞察力に長けているのか、構想力が優れているのか、展開を見通せるのか、創造性を備えているのか。
しかし鋭敏はスタイルという土台にはあまり関係が無い。土台の上に乗せる段階の事々である。
傾向のもう一つは「鈍感」である。これこそがスタイルの指針になる。
自身が何について鈍感で、動揺することが少ないか。
麻雀に於いてそれは、どのような失点ならば平然としていられるか、どのような敗北であれば納得できるか、要すればスタイルとは、「自分はどのような裏目であれば許容できるか」である。
これはメンタルなんてそもそも無いとか、とことんまで合理性に身を委ねることができるからとか、肝が据わっているからとか、臆病だからとか、その根拠となる個人の性質は何でもよい。自身に適したスタイルであることが肝要である。
役なしドラなしカンチャン待ちテンパイ即リーチして、追っかけリーチに満貫放銃しても後悔しないか。
喰いタンのみの両面テンパイで親リーチの一発目に、安牌無いしテンパイだから押した方がマシだと無筋を打ち抜いてロン12000と言われても平然として居られるか。
鳴けば親で満貫テンパイする牌をスルーしても涼しい顔か。
オーラストップ目で配牌から降りて、まさかの逆転を許したとしてもなんとも思わないで言い返せるのか。
これらは極端な例だけども、つまるところ自身が持つ鈍感によって「この裏目なら仕方ない」と思える範囲が多くの人とは異なっていて珍しいとき、独特のスタイルが形成され得るのである。
鈍感に基づいた麻雀スタイルは一般的には大きく分けて三種類。攻め合って捲り合って負けてもこれが自分だと思える攻撃型、ラスても放銃0なら仕方ないと割り切れる守備型、押したり引いたり手を尽くしたなら結果が悪くても納得できるバランス型。
これは何も麻雀に限った話ではなく、例えば野球なら三振を喫することに鈍感でなければどんなにパワーがあってもホームランバッターというスタイルにはなれない、だからイチローはホームランバッターではない。

そしてポジション。
例えばサッカーならストライカーはチームで最も多くシュートを撃ちゴールを決めるポジションだが、最も多くシュートを撃つということは即ち最も多くシュートを外すことにもなるのであって、大観衆の前で失態を晒すことについて鈍感でなければ務まらない。
チーム戦の経験が豊富な麻雀プロは少ない。どんなに実績があっても、他人の成績はライバルのそれとしてしか見たことがなく、味方としてチームメイトとして考えたことがない。自分が勝ったり負けたりする分には折り合いをつけていつも通りにやれるように鍛えていても、味方の勝ち負けから受ける影響に免疫が無い。
チームメイトの成績との折り合いの付け方を身に着けるもの一案だが、それよりは興行的にもチーム戦であることを活かして、生来的に味方の勝ち負けにすら鈍感な選手や、チームメイトが手痛い負けを喫した直後の方がむしろ集中力が増すという勝ち気な選手を第二試合に起用するという采配は、決して馬鹿にできないものである。

自己分析し、また試合で実感することで、土台は形成されていき、ポジションの適性も顕かになっていく。
さて、丸山という選手をもう何年も見ているのに、Mリーグでの彼女がどういったスタイルの打ち手であるかさえいまだに判然としないのは、これは一体どういうわけであろうか。
育成だのなんだのと言っておきながら土台すら出来ていないというのはなんなんだ?
土台が無いところに高度な知識を乗せるばかりであるから、「確かこういう風に教わったはずだけどこれで合ってるかな」ではぐらぐらである、ぐっらぐらのぐらっぐらである。
勝負の最中にそんな余計な思慮に脳のリソースを割くべきではないし、裏目を引いたときに生じる動揺を拡大する原因にもなる。

言ったよな、育成する、と。じゃあ育成を行うための勉強をしたよな?一期一会の講習会イベントじゃあないんだ、少なくとも育成論の一つや二つや十や二十を読み込んでやってるんだろうな?それとも将棋などを参考に、質問には答えるし練習相手にもなるが基本は自己研鑽、として主体性を尊重しているのか?だったらもっと試合に出ないと始まらないだろう。

丸山奏子の能力をMリーグで活かすなら、というかもう活きているのだが、悲しいかなそれは試合の中でではない。個人的な本音として、また願望として、他のチームでの丸山を見てみたいと思っている、思ってしまっている。
光明は、丸山は現在のドリブンズの4選手の中で唯一、Mリーグのために自身の麻雀を作り変える覚悟を持っている、変化を恐れない魂を持っているということ。
まずはMリーグという多くの視線を浴びる舞台でもブレることのない、自身の麻雀スタイルを確立すること、これがスタートである。
スタイルがはっきりとすれば今まで砂上でふらふらと泳いでいた知識も、腑に落ちるか、スタイルとの不一致として捨てるかを判断できる。

丸山のスタイルが攻撃型なのか守備型なのかバランス型なのか特質型なのかは分からないが、「言いなり型」だけは絶対に駄目だ、誰のためにもならない。リスペクトはしても、鵜呑みにしてはいけない。操り人形になっては駄目だ。おんぶに抱っこでは居られない。

運命は、自分の足で立って自らの手で掴み取ろうとする勇者にこそ微笑む。

下衆の勘繰りをしてみれば、操り人形としての役割を期待されて獲得されたのかもしれない。ベンチを温めるポジションとして契約されたのかもしれない。だからなるべく実績に乏しく、我の強くない選手を?とも考えてしまう。
しかし、控え選手として契約されながら、主力の怪我や不調で巡ってきたチャンスをものにして一気に駆け上がるというのは、スター選手の逸話としてはうってつけじゃあないか。そういう物語を期待している。
丸山奏子は丸山奏子を信じていい。もっともっと信じていい。いや世界で一番信じていなくちゃいけない。そしてチームは、世界で二番目に彼女を信じていなくちゃあいけない。
スタイルを確立し、その上に、無理をすることの精度を競う場に適った知識や技術や洞察を積み重ねていけば、このチームの稼ぎ頭となることに疑いの余地はない。


以上



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