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S. ラフマニノフ:交響的舞曲( Symphonic Dances ) 作品45

Sergei Rachmaninoff - Symphonic dances op. 45
指揮:マリス・ヤンソンス
演奏:バイエルン放送交響楽団

ラフマニノフの白鳥の歌となったこの曲は、1941年、ナチス・ドイツが
ソビエト連邦に対して攻撃を開始して独ソ戦が始まった年、そして、日本の真珠湾攻撃により大東亜戦争が始まったその年に、アメリカ合衆国ニューヨーク州のロングアイランドにて作曲されました。

すでに癌に侵されていたラフマニノフ自身が「何が起こったのか自分でも判らないが、おそらくこの曲が私の最後の煌きになるだろう」と語ったという逸話が残っています。

チャイコフスキーの薫陶を受け、アントン・チェーホフからはその人柄と
才能を称賛され、トルストイとの知遇を得、ボリショイ劇場の指揮者を務めるほどにロシアでの作曲家としての才能を花開かせていたラフマニノフ。

しかし、勃興する共産主義革命を受け入れることはできず、1917年12月、
十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアから、家族と共に出国し、スカンディナビア諸国への演奏旅行に出かけ、そのまま二度とロシアの地を踏むことができませんでした。

1918年の秋にはアメリカに渡り、以降は、主にコンサート・ピアニストとして活動し、1925年以降はヨーロッパでの演奏活動も再開。
が、こんどは、ナチスが勢力を拡大すると、拠点としていたスイスにも滞在することができなくなってしまいます。

この時期、同様の境遇にあった ウラディミール・ホロヴィッツ 等と 親交を結び、フリッツ・クライスラーとの共演による演奏、録音などもたびたび行いました。が、作曲活動は低下し、アメリカでの演奏活動にて、生計を支えねばなりませんでした。

この「交響的舞曲」を完成した翌年1942年には、家族と共にカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住み、演奏活動は亡くなる直前まで続けられ、1943年3月、70歳の誕生日を目前にして、癌のため、ビバリーヒルズの自宅で逝去されました。

こよなくロシアを愛し、死後は、チェーホフやゴーゴリ・ツルゲーネフ、
友人だったスクリャービン達が眠っている、モスクワのノヴォデヴィチ修道院墓地に埋葬されることを望んでいたラフマニノフの想いは、又も、叶わず
遥か彼方のアメリカはニューヨーク州のヴァルハラに埋葬されました。


「交響的舞曲」は、チャイコフスキーの薫陶を受けたラフマニノフの、
進境著しい最終曲であり、ロシア・ロマン派を締めくくった曲であり、
また、後に続くプロコフィエフやショスタコービッチへの激励のメッセージが色濃くにじむ曲であります。

チャイコフスキーが第6交響曲を「自分の人生を書いたもの」と言った、
その言葉を借り、自身の人生を愛おしみつつ書き付けた記録なのでしょう。

まるで、動乱の時代を生きた自分が踊ってきた、哀しみに満ちた、狂おしい「ダンス」を書き綴ったかのような曲。「悲曲」という表題が相応しい・・

冒頭は、いきなり、ロシアを襲った革命のマーチから始まります。

自身がこよなく愛したロシアが、押し寄せる、抗いようのない大津波に飲み込まれ、崩壊していく哀しみを湛えつつ、祖国ロシアを逃れて生きざるを
得なかった自身の人生への悲しみと、飢えるような 望郷の念 が入り混じる
何とも言えぬ緊迫感に満ちみちています。

祖国脱出後、生きる戦いの中に身を置きながら、
時に「なんて情けないことをやっているんだ」と自身をあざ笑い、
周囲の空騒ぎの中、ふと自分の中に空いた空洞を見つめつつ、
その中に潜り込むラフマニノフ。

第2次世界大戦に参戦するアメリカの大喧騒の中、教会の 静寂 の中に身を置き、たぶん周囲に判らないよう微かに、ロシアの言葉で、神への祈りを
独り呟く ラフマニノフ。

そして、祖国ロシアの友に向けた「元気でいて欲しい」という激励と、
”後をよろしく”と挨拶をつぶやきつつ、悔いなく生きた自身の生涯への
力強い肯定の念を込めた終曲。

この「交響的舞曲」を聴くとき、彼の生涯を想い、目頭を押さえてしまう
のであります。

軽薄な騒音だらけのアメリカの日常に身を置きつつ、彼の脳内にはきっと、荘厳な「レクイエム」が聞こえていたことでありましょう。
曲中にちりばめられた「怒りの日」のメロディが心に染みわたります。
ふと、ゴーリキーがラフマニノフの作品を聴き「彼は静寂を聴くことができるんですな」と感嘆したという伝承が、悲しく頭をよぎるのです。


ラフマニノフは、タタールの血を引く、ロシア没落貴族の家庭に生まれました。その為でしょう、彼の音楽は、甘美でロマンティックで、そして何処かオリエンタルな叙情を湛えています。


チャイコフスキーは、ロシア革命に繋がるロシア帝政の危機の中を生きましたが、高い名声と評価の絶頂を迎えた瞬間に、突然の死を迎えました。

ラフマニノフは、ロシア帝政の崩壊と共産主義革命の中、祖国と故郷を捨てざるを得ない生涯でありましたが、聴衆に愛され続けた人生でありました。
(少なくとも、表向きは)

ラフマニノフの後を引き継いだ、ショスタコービッチは、ソビエト連邦の
過酷な思想統制と戦いつつ、しぶとく生き延び、多くの名曲を残しました。

それぞれ、まったく異なる「生」の時間を送りつつも、
共通して、必死に生きる意味を考え抜いた「人生」を全うしたことに、
心震える感動を覚えるのです。

チャイコフスキーの交響曲第6番、
ラフマニノフのシンフォニックダンス、
そして、ショスタコービッチの交響曲第15番。

是非、未だお聴きになっておられぬならば、なにとぞ是非に、お聴き
いただきたい曲であります。


⇒ S. ラフマニノフ:14の歌曲集 Op. 34 第14曲「ヴォカリーズ」 を
  お聴き頂ければ、幸甚に存じます。


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