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スピン的哀しみのクラシック音楽史(6):ブラームス 交響曲 第1番 ハ短調

ヨハネス・ブラームス:交響曲 第1番 ハ短調 作品68
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
演奏:ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

この記事は、スピン的驚きのクラシック音楽史(5):ブルックナー 交響曲 第4番 "ロマンティーク" の続きです。

1871年1月、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は ドイツ帝国皇帝に就き、
ここから、覇権主義・軍事力強化・植民地支配・列強支配、そして1914年の第一次世界大戦へ、1917年のロシア革命と共産主義国家成立へと、人類は、
魔王の下に支配されて行きます。

1872年、ドイツ帝国の庇護を受け「純粋ドイツ種族のための神殿」とワーグナーが夢見たバイロイト祝祭劇場の建築は始まり、劇場は1876年に完成。『ニーベルングの指環』が華々しく上演されました。
全てのドイツ音楽は、バイロイトの支配下に置かれてドイツ的純粋音楽を
創造する筈でした。

その1876年、ブラームスは、20年間に渉り熟成してきた「交響曲第1番」を発表し、ブルックナーの交響曲第4番と同様、ワーグナーへの絶縁状を
突き付けます。

ブラームス23歳で着手し、43歳で完成させたこの交響曲第1番は、奥深く、
ベートーベンの第10番と呼ばれるほど古典的で、感動的な内容を持って
いました。

第1楽章冒頭の、濃厚で、新鮮で、聴く人の心を鮮烈な感動に包み込む、
焦がれるような濃縮された想いは一体何に向けられて放たれたのでしょう? 

ブルックナーが1年前の1875年にリンツにて初演した交響曲第4番”ロマンティーク”同様、ベートーベンの第9交響曲同様、メンデルスゾーンと共にライプチヒ音楽院を育ててきたロベルト・シューマン同様、自由と安寧の世界を待ち望む叫び、戦乱と差別と排斥を忌み嫌う、ブラームスの渾身の想いで
あったと思うのです。

この後、ブラームスとブルックナーはワーグナーと袂を分かち、秘かに、且つ親しく、盟友として連絡しあっていたと思われます。

そして、ワーグナーの死去(1883年)の年、
ブラームスは、ベートーベンの第3番に匹敵すると評された古典的「交響曲 第3番」を、ブルックナーは、ヨーロッパの古き良き時代への追悼曲「交響曲第7番」を、そろって作曲・初演しています。

いずれも政治権力におもねることのない、むしろ批判的な精神をこめた音楽でありました。

ブラームスは以降『クラリネット三重奏曲』『クラリネット五重奏曲』『クラリネット・ソナタ(ヴィオラ・ソナタ)』『4つの厳粛な歌』等など、
寂寥と宗教的境地に満ちている曲を世に出していきます。

ブラームスの盟友ブルックナーは、交響曲 第9番、容赦なく迫りくる軍靴と権力を描いた作品を執筆中、1896年に世を去りました。

葬儀の日、ブラームスは会場の扉に独り佇んでいた、といいます。
中に入るよう促されたが「次はわしが棺桶に入るよ」と寂しそうに呟いたと。

翌1897年 ブラームスもブルックナーの後を追いました。

彼の部屋にはベートーヴェンの像と、ワーグナーを排したドイツ帝国の宰相ビスマルクの写真が飾られ、「ユダヤ人差別は狂気の沙汰だ」と呟き続けたと、謂われています。

残念ながら、バッハ以前と同様に、政治の前には、国家の権力の前には、
音楽は単なる道具に過ぎなくなっていきました。
以降、多くの作曲家は国家高揚の音楽を書くことを生きる糧とせねばなりませんでした。

永い沈黙の時代が始まったのです。

⇒ ブルックナーの絶筆、交響曲 第9番 を一緒に聴いて頂ければと
  思います。


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