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出会いと将来と自己愛と。

マッチングアプリを通して出会いを続けてきた。期間にしてトータル2年ほどといったところだろうか。手を替え品を替え、それなりに数をこなすことで間違いなく対人コミュニケーションのスキルは上昇した。それと引き換えに、結果的に自分が何をしたいのかあんまり分からなくなってきた。
単純に量をこなすことでもともと得意じゃなかった女性への(会話できないとか単純に話題が進まないとかそういったレベルの)コミュ障ではなくなった。当たり障りのない話から、徐々にプライベートな話をする表層ぐらいは人並みにはできるようになったし、それなりの関係性になる人も何人かはいた。
偶発的な出会いでレベルが引き上げられたのは間違いないが、昔と比べれば見違えたレベルにあると実感できる。

他方結婚に興味がなさそう、と何人もに言われてきた。
実際紐解いていくと多分結婚という行為そのものには興味がないんだろうな、と実感している。学生時代が草食系陰キャ、ナードのメイン層でもがいている人間だったから遅くにきた遊びたい精神も少なからずあるし、元々そこまで精神的な起伏を求めておらず、なんならそういった要素はできれば避けたいタイプのため一人の時間もほしい。そもそもとして関係性としての結婚はもはや意味を成しているとも思わない。結婚によって受けられる制度上の恩恵にあやかる以外に価値を見出せていないのもまた事実で、婚姻関係は自分にとっては意味がないものだというのは常々思い続けている。ともすれば枷とさえ言えるかもしれない。

心理的に支えてくれるパートナーは欲しい。セックスの相手も欲しい。自分の子供もいればきっとそれは生きる糧となるし理由になる。教育に携わろうと勉強していた身分柄、大いに注力する事だろう。でも別にそれら全てを1人に求めなくてもいいのではないかと感じてしまっている自分がいるのもまた事実なのである。
人の言う浮気なんかすこぶるどうでもいいし、きっと自分のパートナーに当たる人間が自分以外の人間と性交渉を持っていたからといってそれがなんだと言うのか、と言うのが自身の考えであることは紛れもない事実なのである。確かに婚約してしまえば法律上ルール違反であることには間違いない。そう言う意味で信用を損ねるという点については大いに共感できるし納得できる。しかし別に結婚という形でパートナーとしての契約を結んだからといって、パートナー以外の人間と性交渉する行為そのものがよくないのか?という点にはいまいち納得がいかない。いってしまえば赤の他人同士なのだし、それは成婚以前にした別のパートナーとの性交渉と行為そのものとしてはなんら差がないと感じてしまうのである。

思うにこのパートナーほしさというのも自己愛に起因しているところではないかと思い始めた。おそらく真にパートナーを求めているわけではなく、「パートナーがいる自分」が欲しいのだ。愛すべき相手がいる自分、かけがえなく愛してくれる存在がいる自分。結局すべては自分本位の自己愛に過ぎず、見透かされてるのかなとさえ思ってしまう。

結局のところ、マッチングアプリもパートナーが欲しいということを隠れ蓑にした自身の能力向上のゲーミングに過ぎないのかもしれない、と最近思いはじめた。目を見て話をすることすら難しかった精神的童貞野郎でさえ、心理的なハードルを練習で解消するだけで今までできなかったことが如実にできるようになるのだ。これほどわかりやすく結果を伴って成功体験を得られるものはない。わかりやすく自信につながるし、わかりやすくゴールがある。街にナンパ師が蔓延るのが今まで全くと言っていいほどに理解不可能だったのだが、体験的に理解させられる日が来るとは思わなかった。彼らもまたゲーミングなのだ。
心理的ハードルを下げ、身体的接触のハードルを下げ、最終的にはセックスへと持ち込む。一般化して形式化してしまえばおそらくなんてことのない作業だ。細かい所のノウハウはあるだろうから当然打率の良し悪しはプレイヤーによってあるだろうが、公然とナンパ師が何十人何百人とセックスの数を重ねるのがなぜかやっと自分の言葉で理解できた。構造としてはすこぶる簡単なものだ。構造を理解できたのがこの年になってからというのは少し遅かった気もするが、逆に構造を学んでしまったことで自分の中からより真摯さが抜けてしまったのかもしれない、とさえ思った。甘美な報酬を目の前にぶら下げられてその報酬を欲さずに自分を律することの出来る人間はそう多くはないだろう。果たして自分の考える大多数側に自分が位置するのも理解できてしまった。

「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私たちはあえて結婚する」というゼクシィのキャッチフレーズは時勢を象徴するフレーズだなと痛感している。
アプリも、結婚相談所も乱立しているこのご時世。結婚相手にメリットを求めるのはいつの時代もそうなのだろうが、メリットになり得る表面的要素が分かりやすくプロフィールに書かれているのはどの要素でも一緒だ。
メリットや額面上のステータスが明示的になればなるほど、人は理で考えてしまう。顔、年収、学歴、年齢。人を選べる要素は、同様に自分も要否を判断される側なのだなと実感させられてしまう。
あえての選択肢をそれでも望むのは、羨望か、動物的本能か、はたまた。

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