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悔しさの在処


 このお盆休みを通して、「ハイキュー!!」既刊分を読了した。本作の人気や知名度に関しては今に始まったことではない。自分自身、前々から名前は何度となく聞いていたし興味はあったのだが、他の興味を優先するためにタイミングを作ろうとしなかった。明確な目的のない長期休暇を過ごすには十分すぎる気分転換だった。
念のため簡単に説明しておくと、「ハイキュー!!」は週刊少年ジャンプに掲載されていた漫画(完結済)で、高校のバレーボール部の人間模様と練習や試合を通した成長がメインに描かれている。現実離れしたバトル漫画とは異なり、ビームを放ったりコート上で分身したり物理法則を無視した必殺技でボール制御しない、まさに王道スポ根部活ものとしての立ち位置である。
 王道スポ根ものだけあって、登場人物の各々が自分の無力さや非力さ、弱い意志選択を嘆き、悔しむシーンが幾度となく出てくる。個人的には特に共感を覚え漫画を魅力的に感じる一幕に感じられた。部活の違いこそあれど中学時代は運動部所属だったし、過去カードゲームという勝負の世界に競技的方向性でそれなりに傾倒した身としてはその悔しさには自分自身に思い当たるものもあったし、悔しさに対する共感で涙腺が緩むシーンさえあった。
経験の多い少ないはあれど(むしろ自身は少ない方だと思うが)同様の共感を覚えた読者は多いのではないかと思う。
そうした中で、近年実感していた自分に対する一つの疑念が頭をもたげてきた。自分は最近悔しいと思えているのか、と。そしてその疑念は反語で簡単に結論づいてしまった。今の自身は間違いなく悔しいという感情から遥かに遠ざかってしまっている。
勝負ごとに対する興味もそれにかける時間も一層と減りゆき、一傍観者としての立ち位置が板についてきていることを実感している。
悔しさは大人になるにつれ社会性を獲得することで薄れてゆく」とは棋士糸谷哲郎氏の言葉だが、それをまざまざと再実感させられた次第である。
いつの間にか悔しさが薄れ、悔しいという感情を覚える機会も少なくなり、もはやなくなってしまったといっても過言ではない。さながら牙の抜けた獣、勝負という弱肉強食の世界においては食われるだけの身である。社会性を獲得できたのかといえばそれは定かではないのだが。

ともあれ、自分がプレイするゲームの変遷につれ悔しさというものが薄れていっていたのは紛れもない事実である。ことカードゲームというジャンルにおいては主たるタイトルとして遊戯王、MTG、シャドウバースと順にプレイしてきた遍歴がある。その間約15年。その時々の頻度の差こそあれ、価値観や感じ方の移ろいはやむを得ないものがあるのかもしれない。
遊戯王の時は悔しかった。ゲーム自体を楽しみ勝敗に一喜一憂できていたのも間違いない事実だが、周囲の友人が一番傾倒していたのもこの時期だからだ。多感な時期だからこそ、切磋琢磨できる良き友人に巡り合い、研鑽することができた。研鑽できたからこそ、弱い自分に悔しさを覚えたし、
MTGの時はいい意味で悔しくなかった。大局的視点、ケーススタディからより一般化し応用できたことから自分の成長を感じられたし、それを自分の強みのように感じられた。幾何かの小さい成功体験を得られたことが幸いしているとは思うが、そうでなくても冷静にゲームを分析したし、何が悪いかを貪欲に考えようとしていた時期だった。
シャドバは悪い意味で悔しくなかった。悔しさよりももどかしさや理不尽に対する苛立ちが全面的に前に立っていた。
ゲーム性や実感的な運要素の大小の差、自分の得意苦手から来る向き不向き等自身の能力に起因する要素もあるのかもしれないが、それを差っ引いても感じ方の変化は如実なものに思えている。

結局のところ何を求めて自らがカードゲームを続けているのかといえば、成長を通した自己肯定感を得たいというところに行きつくのであろう。そして成長という面では現状行き詰まっている。悔しさを得ない状態にあっては、成長に繋がる動機の片翼を失っているに等しい。「コストパフォーマンスよく勝ちたい」などという勝利を欲するにしては貪欲さの欠片もないスタンスでいることが最も顕著な要因なのは言うまでもないのだが。

更なるブレイクスルーを求めて何をすればいいのかという明瞭な指針はまだないが、結局のところ自身の成長を伴うことこそ自身にとって価値のあることだと考えている。定量的な方面に舵を切ってみたり、チームのようなそれまで縁のなかった別の価値観の集団と交流を取ってみたりというのはこれまでの典型例のように思う。今こそ更なるブレイクスルーが必要な時期にも思えているが、いいプランは今だ浮かんでいない。悔しさを思い出せるようになる、ということが一つのいい可燃材料になるのかもしれない。

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