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ムーミンは哲学の才能があると思う話

ムーミンとスナフキン

「楽しいムーミン一家」のアニメなどムーミンの話を見ていると、いろいろなキャラクターがポロッと哲学的なフレーズを言ったりするのですが、中でもそのイメージにピッタリくるのはスナフキンでしょう。ムーミンの親友で、すぐ一人旅に出てしまうスナフキンは、経験豊富でいつも落ち着いていて、どんな質問にも答えます。すごいですよね。

でも私は、哲学的なフレーズをさほど言わないムーミンのほうが哲学の才能がある、何なら哲学者のじゃこうねずみをはじめ、登場するどの大人のキャラクターよりも哲学的であると、特に大人になってから思うようになりました。

ムーミンは、いつも何かに疑問を持っていて、何かに困って、質問したり、それほど自信があるわけでもない感想を言ったりしています。自信に満ちたスナフキンほどカッコいいキャラクターではありません。でも、自信のない状況に延々と耐え、それでいて好奇心を失わずに、あれは何故こうなんだろう?と考え続けられる能力があります。私はそれが哲学の真の才能だと思うわけです。

苦痛の解消に向かう哲学

世の中には、感情が伴っている哲学と、そうではない哲学があります。やたらと理屈をこねくり回しているだけに見える哲学は、正直たいくつです。何がその哲学者のモチベーションなのかが分からないからです。

例えば、中島義道さんという哲学者がいますが、この方の師匠である大森荘蔵さんは、「なぜ見えるのか」を延々と考えるタイプの哲学者だったと、中島さんの何かの著作で読んだ覚えがあります。

デジカメは、風景を写し取ってデータ化します。人間の目も同様に、風景を心のスクリーンに投影し記憶に残します。でも、デジカメはそのデータが「見えて」いるわけではないですよね。一方で人間は風景が文字通り見えています。なぜデジカメは見えないのに、人間は見えるのか?
「なぜ見えるのか」とは、そのような問いに近いものです。

ここで重要なのは、その問いが、大森さんにとって切実な問題かどうかです。恐らく切実なのだと思います。そうでなければ、考え続けられる気がしないですよね。見るという行為は人間の最も基本的な活動です。それなのに、見ることが分からなければ、何も分からないじゃないかと。

自分にとってどうでもいいことなら、分からないことは苦痛ではないでしょう。でも大森さんにとっては、そうではなかったのです。このように、人間誰しもその人にとって切実な問題があり、それを理解できない苦痛を解消したいという欲求があります。

この欲求に根ざしている感じを、相手に共感させる力。これが私が好きな哲学力です。哲学のアウトプットに芸術的価値があるか、社会的価値があるか、高度な技術によって構築された理論か、そうしたことは重要とは思いません。

自分の仕事にたまたま社会的な価値があったって、自分にとって切実でも何でもないことを延々と論じても退屈ですね。仕事ってそういうもの、という側面もありますが、それは仕事論であって、何がワクワクする哲学かということとは別問題なわけです。

だからムーミン

経験豊富なスナフキンの言葉は、彼にとって解決済みのことを思い出して言っているだけです。一方でムーミンの素朴な疑問は、知らないままでいることが苦痛であるから、その解消に向かって発せられたSOSのメッセージだと私には感じられます。

ムーミンの言葉はことごとく、彼が何をモチベーションとして話しているのかすぐ分かります。だからムーミンが好きだし、彼を主人公にして物語を作ったトーベ・ヤンソンも好きです。もし皆さんがムーミンのお話を見ることがあったら、そのような目で見てみるのも面白いかもしれません。

おわり。

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