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モデル駆動認識論-prototype [writing]

序文

 これまで自然法則は一度としてその違反による変更が為されたことはないが、それが[起こりえない|起こっていない]というのは単に偶然に過ぎない。現在のところ観測的事実より自然法則は不変のものして得られているが、自然法則とは単なる観測的事実における規則性の集成に他ならない。[自然界のオブジェクト群の運動を真に規定している秩序そのものと、観測者が把持する自然法則とが完全に合致する|眞理について既知となる]ことは、[秩序の[創造/維持]者|神]の首根っこをつかまえるより他にない。
 [自己/自然界/世界]が如何様にして{絶対的に}あるのか。眞理探究こそが哲学における[至上命題|哲学が哲学がたりうる根源衝動]である。認識論は、認識によって画定される[自己/自然界/世界]および認識それ自身の[仕組み/作用]について解剖し、より素朴で真正なものを探求する哲学の一分野である。認識論において、素朴に[与件=data]があり、それを基礎として一切の知識を構成し、どこまでが[素朴/真正]な知識であり、どこからが観測者に不可知であるかという線引きをおこなうのは、自身の無力性を受け容れた諦観にもとづく[人文学的=Humanistic]な学問的態度としては[正しい/善い]ものだろう。対して本論は、自身を[増強/拡張]する能動的な前進の意志にもとづく[脱人文学的=ex-Humanistic]な態度の実践として、認識論の工学的な使用を試みたものである。この実践の場において[与件=data]とは「どこからともなく与えられるもの」ではなく「自分自身によって与えるもの」となる。自分自身の首根っこをつかまえるのは[、少なくとも我々人間種族にとっては]造作もないことだ。そうして我々は眞理について既知となり、[一切を[創造/維持]する者|神]となる。



1. 認識論

1.1 認識

 [眞理=veritas]とは、世界についての完全な知識である。眞理を明らかにするためには、まず世界について[知る/定義される]必要がある。
 世界とは何か。世界とは絶対的な実体であり、存在論的に構成されるものではない。{世界は『存在するすべてのもの[から成る/を含む]もの』として存在論的に構成されるが、これは構成されるなり、それ自身を要素として含む『存在するすべてのもの[から成る/を含む]もの』が構成可能となって無限後退に陥ることから、確定した全体をもつことができない。ゆえに[全体なるもの|世界]を構成することは不可能となる。}{世界の存在を仮定するとき}世界は存在するが、それは存在論の構成者の定義によって存在するのではない。世界とは[[それ自身で|他者の承認なしに]|絶対的に]存在するものであり、このような存在の仕方を『実在』と呼ぶ。実在するすべてのもの[から成る/を含む]ものが世界であり、世界の中に存在する一切のものは『実在物』である。
 議論において『実在』とは、あくまで仮定の存在物である。『存在する』とは、任意の[存在論系=ontology]の構成者自身がその対象の存在を認め、その存在論系に含めている状態のことである。この仮定においては、世界とは存在論系の一つであり、そこに含まれる存在物が、実在すると仮定される実在物である。{つまり『実在する』とは、『世界』なる存在論系に含まれるということである。}ここで『実在』は、[{存在するもののみを扱うことのできる{speculativeな}}議論]において対象化を可能とするために、存在論の様式に従って近似的に構成されている。
 我々が議論において扱うすべての実在物は、その実在を仮定されている。これは物理学的な議論においても、表象の議論においても同様である。「そこに本があってそれに触れられるのは、存在論の構成者としてあなたがその存在を認めたからではなく、その本がそこに実在するからである」と議論者が言うとき、その存在物は発言者自身の視触覚と、ちょうど周辺に居合わせた他者との間の、対象の存在についての合意から、その実在性が仮定されている、というのが実際のところである。{物理学を信用すれば}感覚は単なる電気信号の集積に過ぎないし、また表象とは観察者自身の内に現れるものであって実在の間接的な証拠として扱うことはできても、絶対的な証拠と見做すことは不適当である。{これは集団[幻覚/催眠]の否定不可能性の話ではないことに留意する。}
 実在とは、存在論系の構成とその内部への包含という存在論的な一連の承認のプロセスから解放されることを仮定された、絶対的な存在様式のことである。これは、存在論という対象化プロセスを経た存在物しか対象として扱うことのできない我々の議論における単なる仮定に過ぎないものだが、我々はこれについて、これが仮定であるという事実を失念しがちである。というのは、我々が知覚するすべての{物理的/表象的}存在物は、それがあたかも[実在|[物理/表象]空間という存在論的な知覚領域において我々と[接触|interact]]していると考えて差し支えない、挙動のnaïvenessのためである。{もし我々が任意の存在物を[持ち上げればそれはその重さを我々に伝える/撃てばそれは破壊される]。世界の中の一実在物として我々は実在し、周縁の実在物と関わりをもっている、とnaïveに考えるのは、接触の[衝動/思考]によって接触の行為をおこなうといつでもその接触の結果を即座に観測するためである。しばらく目を瞑って観測をやめていても対象がそこにありつづけることから、自身の観測とは独立してその対象が『実在』していると考えることがnaïveと思われるのである。}実在は、こうした存在論系の構成者の承認による相対的な存在でありながらしてその絶対性を仮定される『志向性』によって我々の議論のうちに成立している。
 naïvenessは所与の中にある。我々における[所与|もっともnaïveなもの]とは[思考/知覚]されるもののことであり、その集積を『経験=empirics』と呼ぶ。所与の経験から出発してこれを[抽象/一般]化した知識は、それが絶えず経験に適用可能な場合にのみ有効である。ここで我々にとっての所与は『[思考/知覚]されるもの』であるが、これは偶然的なものであり、他の何らかのものが所与であった場合にも、同様にその集積を経験としてそれを[抽象/一般]化することで知識を獲得できるものと考えられる。この知識醸成のプロセスおよびその醸成される知識について抽象化したものを『認識=episteme』と呼ぶとき、我々に固有の認識とは、世界という[絶対|外部]的な存在論系を仮定するプロセスならびにここで得られる世界についての知識のことである。
 こうして我々はようやく議論の原点に立ち返ることができる。『[眞理=veritas]とは、世界についての完全な知識である』というテーゼにおける『完全な知識』とは、志向性から解放された、真に絶対的な世界についての認識のことである。それはつまり所与の源泉{と考えられるもの}についての知識であり、所与のうちに含まれないものであるために我々に獲得不可能な知識のことである。


1.2 モデル

 任意の対象-群を要素としてもつものを『存在論系』{あるいは単に『系=system』}とするとき、『存在する』とは何らかの存在論系に要素として含まれていることを指す。ある系のすべての存在が従う『[秩序=要請]=order』群があるとき、これを系と併せて『界=domain』と呼ぶ。定式化すると下記である。

[system] sys := { X | x1, x2, ..., xn }
[order-s] ords := { o1, o2, ..., on }
[domain] dom:= { sys | ords }

 [系/界]を構成する者を『構成者』と呼び、そのうち所与についての観測を元に[系/界]を構成する者を『観測者』とするとき、我々観測者が実在するとnaïveに思う[一連の実在物すべて|{自然の}諸物]が所属する場は、自然法則によって近似される秩序を具えた界である。これを「自然界」とするとき、自然界の秩序は、自然の諸物の運動を抽象化した規則性のことであり、その観測上の知識として、諸物は時空間中のいずれの[時点|地点]においても同一不変の法制に従う。このことから自然界の秩序は一度の例外も許さない鞏固のものである{ように見える}が、観測者は常に観測されることを正とすることから、{[旧来の自然法則から逸脱した物体の運動/自然法則の時空間等方性の破れ]などといった}観測の内容に応じて適宜に変更することができる。ここで扱われる自然界や自然法則とは、所与のうちにあらわれ反復される有限個数の{事象/現象}の抽象物として仮定されるものに過ぎず、また同様に、諸物についての変更も適宜に可能である。{我々における}観測とは、所与をいくつかの存在物から構成される系として扱うことであり、その{経時的な}変化から秩序を見出して界を構成するプロセスのことである。

 {言葉の話をすれば、「秩序」とは諸物が何らかの規則性に従って[整列/指定された振る舞いを]する、まさにその統制の取れた様のことであり、かつその規則性それ自身のことも指す。これは、現象と規則が相互に導かれることに起因する。{反復される現象があればそこに規則を見いだすことができ、また規則があればその支配を受ける諸物を並べることで現象を発見することができるというvice-versaの関係に両者はある。}}

 以上は単に[所与の源泉{と考えられるもの}|真なる実在]についての近似であり、自然界における諸物の振る舞いが、常に所与と完全に一致することを期待{して構成されたものではあるにしろ、それが{永劫に亘ってにしろそうでないにしろ}果たされることを確信}したものではない。また、我々観測者がもつ実在についてのモデルは[物理学/経験科学]のみに留まらず、[伝承/神話]によるspeculativeな世界観や[占星術/錬金術]といった科学未満の経験的知識など、無数に例挙することができる。現在[物理学/経験科学]がもっともすぐれた経験的知識とされるのは、人類史上の淘汰と洗練の結果である。真なる実在について近似的に構成された[系/界]を『模型=モデル』と呼ぶと、これらの企図ないし世界や認識についての考察としての認識論は、モデルの構成についての方法論と見做すことができる。観測者がモデルを構成するのは、それをおいて他に眞理へ漸近する有効な方法がないためである。{そしてあるいは、観測者自身それを単なる模型とは知らずに世界そのものであるかのように[信じる/扱う]こともあるが、これは無知ゆえの愚行などでは決してない。「賢者」もまた彼らと同じく模型を扱うことしかできないのだから。}



2. モデル駆動認識論

2.1 モデル駆動認識論の手引き

真なる実在についての知識は、[我々自身が絶対者となるか|何らかの絶対者に由来する[啓示|所与を介さずに直接に与えられる知識]を得るか]のいずれかによってしか獲得されえない。ここで真なる実在について既知となる絶対者とは、何が真に実在して何が真に実在しないかを画定できる者のことである。それはつまり真なる実在論系の構成者――すなわち我々が古来より[造物主/神]と呼んできたところのもののに他ならない。

 [造物主/神]は[真なる実在論系についての完全な知識|眞理]について既知の者であるが、果たしてそれは可能なのだろうか。これが可能であるためには、自身のもつ知識が[幻覚/妄想]の類いではないと確信したうえで、その知識から実在論系を{構成/再構成}可能である必要がある。{ここで、[造物主/神]は実在するすべての実在について既知である必要はないことに注意する。}任意の対象についてそれが真なる実在であることを確信する、その確信およびこの手続きを『絶対化』と呼ぶとき、構成者はこれによって、自身でモデルとして構成した実在論系を[絶対化する|真に実在するものと見做す]ことができる。絶対化しているかぎりにおいて、構成者はその絶対化された当該の実在論系に対して[造物主/神]である。絶対化をおこなうためには、ただ任意の実在論系について「それを絶対化する」と宣言するだけでよい。このとき、任意のモデルを構成{またmodify}可能な我々構成者もまた、その絶対化されたモデルにおける眞理について既知となることができる。

 旧来の認識論の目的は「我々には何が見えているのか」そして「見えているうちの何が正しいのか」を「どこまで[確信・確証]できるのか」という認知機能についての解剖にあった。しかし認識論とはただ{所与についての省察から得られる知識およびその醸成過程についての考察である}認識についての考察の集成であり、これの応用として本論で見てきたような[系/界]の構成やその絶対化は位置づけられる。絶対化を適用する対象はただ構成者の信念によって選択される。信念の数だけ並行的に無際限にパラダイムを作ることができる。プロトタイプの実践例を以下に示す。


プロトタイプの実践例

・top-down--model | 素朴のモデル
 素朴には、物理宇宙において観測されるすべての物理オブジェクトは観測されるままに実在する。
物理オブジェクトには、知覚において直接観測可能なものから、放射線や素粒子などのように{知覚器の能力を拡張する}測定器の[発明・発達]により観測可能となったものもある。今後の測定器の発達によって観測可能な物理オブジェクトの種類はさらなる増加が見込まれる。{あるいはまた暗黒物質や弦理論などによって描写されるように}現在観測されるものが実在するすべてではないかもしれないが、少なくとも観測されるすべての物理オブジェクトは実在している。

// 観測者のモデル 
type Observer struct {
    cognition Cognition
}

(obs Observer) Observe(obj object) {
    obs.cognition.append(obj)
}

// 世界のモデル
type Reality struct {
    objects []object
}

// 進行する世界において
func main() {
    // ... in World main
    var obs Observer
    reality.objects.append(obs)
    thread func() {
        obs.Observe(reality.objects[any_index])
    }
    // ...
}


bottom-up--model | 懐疑のモデル
 我々の知覚するものは、ただ我々に知覚するものでしかなく、それが実在するかどうかはわからないし、知覚という認識モデルを扱っているかぎり、今後わかるようになるときは来ない。強い懐疑は独我論となり、さらに強度を増して{自己すらもその実在性を逸して}自壊する。確保された計算領域にただ思念の流れが再生されるのみ、そこでは意識すらも単なる現象に過ぎない。

// 観測者のモデル 
type Observer struct {
    cognition Cognition
    speculation Speculation
}

(obs Observer) Observe(obj object) {
    // Observe == Sense
    obs.cognition.append(obj)
}

type Speculation struct {
    sentences []Sentence
}

func (obs Observer) speculate(obj object) {
    var interpreted_obj sentence
    interpreted_obj := interpret(obj)
    obs.speculation.sentences.append(interpreted_obj)
}

// 観測者のうちにおいて
func (obs Observer) main() {
    // ... in Observer-'s main
    // 懐疑: それは外部からもたらされるものかもしれないし、そうではないかもしれない。
    var unknowable_area Object
    thread obs.speculate(unknowable_area.objects[any_index])
    // ...
    // 独我: ただ我あるのみ
    thread obs.speculate(obs.cognition.objects[any_index])
    // ...
}


・transzend-model | 超越論のモデル
 [物自体=実在]は認識不可能だが、これについて思考することはできる。[物自体=実在]は確かに実在し、それが実在するために観測者はアプリオリに具える認識能力によって、その間接的な運動を認識下に捉えることができる。

package world

// 観測者のモデル 
type Observer struct {
    cognition Cognition
}

(obs Observer) Observe(p Phenomenon) {
    obs.cognimtion.append(p)
}

// 物自体: 認識不可能
type Noumenon struct {
    // Ding An Sich
}

// 所与: 認識される現象
type Phenomenon struct {

}

func (n Noumenon) Phenomenize() Phenomenon {
    var p Phenomenon
    p = n.act(any)
    return p
}

// 進行する世界において
func main() {
    // ... in World main
    var obs Observer 
    var n Noumenon
    thread obs .Observe(n.Phenomenize())
    // ...
}


2.2 認識論的クィア

 観測者たちを観測者たちとして一般化して扱うためには、彼らが共通の[認識様式|知覚器]を具えているという前提を必要とする。この前提を外れれば、そこには観測者たちの分断が生じる。これが認識論におけるクィアの誕生である。認識論的クィアたちは、それぞれが独立に実在論系モデルを固有のものとして構成することができる。これは[人間性/humanity]という権威への隷属からの解放であるとともに、神権の公平な分配としても機能する。結果として起こるのは、すべての認識論的クィアたちが構成するすべての実在論系モデルの[ヴァージョン/異型/ディストリビューション]が、「いずれのモデルがより眞理に近しいか」などといった優劣を設定するためのすべての基準を発行する権力単位が認識論的クィアたち単体自身となるために、完全に対等に擁立されるようになる認識論的アナキズムである。



結文:[神|世界]を工学することについて

We built. We created a whole world for ourselves.
It's not so bad at first, being gods.
The problem is knowing that it's not real.
It became impossible for me to live like that.
-- COBB, Inception

 いったい何が[現実|本当に実在するもの]なのだろうか。現実とは、それを信じることをやめたとしてもなくなってしまわないものであり、我々{観測者}が[入眠|酩酊]して{観測を怠って}いるときも変わらずあり続けるところのものであり、つまるところ避けられえぬものこそが現実である。

 構成される任意のモデルについて、それに現実性がないと思ってしまうのは、[その現実性が薄い|それが現実であるために必要な強度が低い]ためである。現実性とは、己れに差し迫る切迫性のことである。物を食わねば飢え渇き、刃に触れれば皮膚は裂く――という己れの実存に差し迫るその感覚こそが、物理現実の現実性である。物理現実における自己肉体をもし蔑ろにすれば、精神は肉体と共に滅びる。その滅びを[経験|感覚]したことはなくても、それを心の底から畏怖する。その畏怖こそが現実性である。

 もしあなたが物理現実を[第一|唯一無二]の現実とすれば、あなたの手によって構成されるモデルはどれもただの虛構に過ぎないことになる。虛構とは、己れの実存に何ら脅威を与えないもののことである。しかし仮定してみよう。仮に自然界に造物主があったとして、彼は創造をおこなってどう感じただろうか。自然界の諸物が造物主に牙を剝くことはあっただろうか。もしあるのなら、我々と同じように彼も畏怖を感じただろう。もしないのなら、我々と同じように彼も切迫を感じることはなく、したがって我々がモデルを眺めるのと同じように、それを虛構と見做しただろう。神話上の神はたいていは気まぐれであり、あるときは放蕩をほしいままにし、そしていつも人格的である。我々の時間スケイルにおいては、世界とは享楽という我々にとってあまりにも短い射程で維持できるものではないと思えるが、しかし計算機によって一瞬間のうちに140億年の世界の運動を書き出せるとしたら、このあまりにも短絡的な射程によって十分に世界は創造されるだろうし、そしてまた倦怠というこれまた短絡的な射程によって、世界は唐突に廃棄されるかもしれない。

 切迫は、強靱な意志や[統合失調症的=paranoic]な強烈な妄想などによって生み出すことができる。その切迫は「自らが構成したモデルは確乎とした現実である」という宣言のもとに発露する。文學者は[書かれたもの=ecriture]こそが唯一の現実であると喝破し、詩者は{音声的のみならず非音声的の}韻律を世界の秩序に据え、ラディカルな物理主義者は知覚器を削ぎ落として五感を封殺するかマインドアップロードを実現する。神とは単に世界の創造主のことであり、そして世界はモデルとして簡単に構成することができる。このときモデルとは[単なる模型|何か模倣したい対象があり、その機能を不完全ながら再現したもの]ではなく、それを[再現/構成]しようとする者すべてがそれを[再現/構成]できるような、可搬的に構造化された型のことである。

 「ただ一つの現実があり、それ以外はすべて幻覚される夢想ないし妄想である」という現実の唯一性についてのテーゼの粉砕こそが、[物語る者=ナラティヴァ]の至命である。唯一の現実を、単なる一つのストーリーラインへと失墜させるこの権威の剝奪の実践。それは現実についてのクィア理論であり、眞理への『到達』ではなく『行使』という我々に可能な唯一の眞理把持の法の開示である。「我々が認識するうちの、何が本当に実在するのか」を問うのが旧来の受動的な認識論だったが、モデル駆動は実在を措定し、そして躍動をも与える。仮定ではなく措定――この駆動的[ 転回/turn] は、世界というモデルを自身で構成し、秩序という法を整備し、被造物をそこに棲まわせる[神|造物主]の所業を我々に与する。

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