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自然法則と偶然性

壱.科学哲学における帰納の問題と物理学の道具主義的な態度について

自然界におけるすべての事物は自然法則に従って運動する。

これは物理学者のみならず日常的な経験から我々がこれまでに検証を重ねてきた実感である。「自然界で生起する事象は全くデタラメに生起するわけではなく、そこには何らかの規則性=秩序があり、同じ条件のもとでは必ず同じ現象がくりかえされるはずである」という自然の斉一性についての原理を、我々は共通認識としてもっている。これはつまり一定不変の自然法則が自然界にはあり、自然界の諸物はいつのときも例外なくそれに従うと我々が信じているいうことである。

ひとたび物理学者の手によって構成された自然法則は、それが定式化の不備を含まないのであれば、それは変わらず、自然界の事物ないし模型=modelにおける対象の、未来の状態の予測に用いることができる。これはつまり、事物や対象の運動が「自然法則に従うはずである」という必然性が仮定され、げんにまず間違いのない予測をもたらしていることから、必然として認められているということである。{模型における対象の運動は物理学者自身の手で管理できるためさておくとして、自然界において自然法則に反する現象を見かけたとき、人々は自身が微睡の中にいるか、あるいはビデオゲームにのめりこんでいることを自覚する。}

ところが、以上は論理的に正しい論証ではない。

自然の斉一性原理、すなわち「現在の感覚経験を所与として、その現在の感覚経験と過去の記録から未来へと至る推論」を論理的に正当化するには、演繹的論証あるいは帰納的論証という論理学的な手続きが必要となるが、結論から言って、どちらも失敗する。

  • 演繹的論証:未来の事物の運動は自然法則に従うことになる。というのは、自然法則とは、過去および未来の事物の運動が従う法則だからである。

  • 帰納的論証:過去のすべての事物の運動が自然法則に従った。よって未来のすべての事物の運動も自然法則に従うことになる。

まず前者の演繹的論証は前提に結論が含まれていることから論理学的に不適だとして、帰納的論証については、帰納的論証に従った論証であり、成功しているように見える。しかし、それは帰納的論証が論理学的に正しい論証であることが認められている場合のみである。

帰納的論証とは、個別事例から一般事例への汎化をおこなう論証である。 演繹的論証については真理保存性が成り立つため、論理学的に正しい推論である。帰納的論証が論理的に正しい推論であることが認められるためには、演繹的論証によってこの正当化をおこなう必要がある。その論証は以下のようになる。

大前提、もしある言明が過去において信頼できるものであったならば、その言明は未来においても変わらず信頼できるものとなるだろう。(斉一性原理)
小前提、過去において帰納的論証は信頼できるものだった。
ゆえに
結論、帰納的論証は未来においても信頼できるだろう。

この論証は演繹的に妥当なものであるように見えるが、しかしそれは大前提の斉一性原理が真である場合のみである。よってこれは循環論法となり、帰納的論証ならびに斉一性原理の両者を論理学的に正当化することはできない。したがって、自然界の事物の運動が「自然法則に従うはずである」という実在的な必然性もないということになる。

科学哲学において、これは帰納の「問題」という言い方がなされることがあるが、実際のところこれは問題ではなく、経験における事実である。自然界の事物は全時空間にわたって明らかに自然法則に従っているが、論理学的にこの必然性の妥当性を論証することはできない。しかし模型に関しては、自然界における時空間が所与のものであるのに対して、模型における時空間が物理学者によって与えられているものであるため、時空間全域にわたって任意の自然法則の機能を適用することが可能である。

そしてまた物理学者が自然法則を未来の予測に適用するにあたって論理学的な論証を必要としないのは、自然法則に{論理学的に妥当な}必然性が認められないとしても、物理学者自身は不利益を被ることがないということによる。歴史的に、論理的な整合性云々を度外視して、「使用に耐えうるかぎり、それは有用である」というテーゼを根本に据える考え方は「道具主義」と呼ばれるが、まさにこのためによる。

物理学的推論は、有用な予測を得るための道具である。模型として時空間領域を定義し、対象をそこに置いて初期状態を設定する。予測を求める最小限の対象と諸条件を設定するに際して、物理学者はよく「簡単化のため」という枕詞をよく用いる。例えば、球体が虛空を落下する運動についても、空気抵抗、球体の膨張、風向き、等々、様々な初期状態を設定することが可能である。もし垂直に落下する時間を知りたいのであれば、そしてこの球体が空気抵抗を無視できるほど十分に重いのであれば、鉛直方向の力だけを考えればよい。ここで「無視できる」とは、結果として求める数値の精度に対して、それが作用することで生じる差分の値が小さい、ということである。物理学的推論においては常に、どの程度の精度の数値を求めたいか、を念頭において初期状態/初期条件を設定し、立式することが求められる。そのようにして自然法則に基づいて計算された結果は、工学的な設計や気象の予報に使用される。この使用に耐えうることが、物理学に要求されることである。この使用が現様のようにうまくいくのは、自然界において斉一性が実効的に機能しているためである。論理学的に妥当に論証されずとも、そこには斉一性があり、物理学者はこれを頼みとしている。

そして、物理学は現在もなお発達・進歩をつづけている。仮に、それまで扱われていた自然法則が経験から外れた数値を計算したとき、この自然法則は、少なくともその系においては適用できないことがわかる。このように自然法則は常に、検証にさらされているのであり、検証をパスしなかったものは、そこに改良の余地があるということになる。これは物理学者の努力によって遅かれ早かれ、従来の自然法則がより一般化されて修繕されるか、あるいは新たな自然法則の発見によって、物理学者はその系についても予測ができるようになるようになることだろう。物理学者が問題を抱えることになるとすれば、この検証と修繕による方法論がうまくいかなくなる、そのときだけである。以降の章では、これについて詳細を見る。


弐.確率と偶然について

我々は明らかに、「自然法則」という語を二つの意味で用いている。それはつまり、実在論的な世界に実効的に機能している秩序としての自然法則と、物理学者たちが経験――観測的な事実から導き出した、予測と検証に使用される自然法則である。以降、本論では前者を「自然秩序」、後者を「自然法則」と呼んで区別する。
 自然秩序とは、経験から発見された自然法則の実効的な機能を実在の側に帰着させたものである。経験とは単なる知覚情報の総和であり、実在についての知識ではないが、そこに習慣的・反復的に繰り返す規則性を発見できるということから、実在がそのように規則的なものであることが素朴に予想されるのである。自然界において「同じ初期状態を与えてやれば必ず同じ現象が生起する」という必然主義はこの自然秩序の機能を根拠としている。そしてまた帰納的に言えば、自然秩序が現在の形から変化するということは起こりえない。なぜなら、それはかつて起こらなかったからである。

とはいえ、しかしこの必然的な自然秩序なるものは単なる仮定に過ぎない。素朴実在論は、経験からの素朴な推論として、我々に経験されるような仕方で、我々という経験主体の外部に実在がある、と主張するが、じつのところ実在について経験から真に知りうるところはない。それは経験によって検証することが不可能だからである。したがって以下のような必然性のすべては単なる仮説であり、この仮説が有効であるのは、自然界において斉一性が実効的に機能するかぎりにおいてである。

  • 自然法則が他のどれでもなく現在得られているような形であることの必然性

  • 自然法則が一定不変であることの必然性

  • 自然界におけるすべての事物が時空間において一様に自然法則に従う必然性

ここで、必然性を欠くという性質を「偶然性」と呼ぶことにするとき、以上の必然性についての言明は、以下の偶然性についての言明によって置き換えられる。

  • 自然法則が他のどれでもなく現在得られているような形であることの偶然性

  • 自然法則が一定不変であることの偶然性

  • 自然界におけるすべての事物が、時空間において一様に自然法則に従う偶然性

自然法則がこれまで一定だったのは偶然だった。そのため、いつ変化しても――もし次の瞬間に重力定数値が仮に十倍になったとしても――何ら不思議なことはない。その可能性を我々は自然秩序に対して素朴に見出すことができる。これらの偶然性は、未だ開示されていない自然界の本性が露わになったときに、初めて広く受け容れられる言説となる。というのはこれが「自然界において未だ一度として起こらなかったし、今後も起こりそうもないこと」についての仮説だからである。

この自然の斉一性についての偶然性の仮説によれば、自然界の諸事物ないし我々の経験中の諸事物は、「既知の自然法則に従わない運動」ではなく、常に「既知の自然法則に従う運動」がとられつづけてきたということになる。

たった今この瞬間についても、仮に自然界に1億の事物があったとして、それぞれの事物が次の瞬間に「自然法則に従う運動」をおこなう確率を、簡単に0.5ずつ割り振ってみたとすると、確率は0.510^8となる。これが毎瞬間ごとに累乗されてゆくことから、仮に『瞬間』を1µsとしてみても、1sも経過すれば、その確率は(0.5^(10^8))^(10^6)となる。これを「直感的に起こりそうもないこと」と考える者は、確率論について十分な理解をしていない。

確率論的に妥当な推論は以下のようなものである。まず整理のため、

事象:自然界の事物すべてが次の瞬間に「自然法則に従う運動」をおこなう確率
余事象:自然界の一つ以上の事物が次の瞬間に「自然法則に従わない運動」をおこなう確率

とする。全事象は事象と余事象の和であり、その生起確率は一である。事象・余事象に割り振られる確率は、観測的な証拠をもとに設定しなくてはならない。ここで観測の証拠は、事象の生起確率が一であり、余事象の生起確率はゼロである。これをもとにして再度計算すると、自然界に一億の実在物があったとして、この実在物すべてが次の瞬間に「自然法則に従う運動」をおこなう確率は一である。

確率論的な結論と観測は、実感に沿うことがわかる。確率論とはすなわち、観測された事象の群について、回数ないし時間について均した結果得られる数値について扱う数学理論のことであり、観測されていない事象について扱うことはできない。それは謂わば、出目の偏りのない六面サイコロの投擲という運動について、七つめの面が出ること、サイコロが砕け散ること、という事象を議論に登場させるようなものである。いずれについても、一般的な議論においては生起確率はゼロである。そのような生起確率がゼロの事象は、思いつくだけ用意することができるが、議論の簡潔性のために不要なものは撤去するのが素朴で賢明な態度である。

しかしながら本論で扱う偶然性とは「確率論に扱える範疇にないものである」ということはなく、きちんと確率論的に扱うことができる。それはつまり「自然法則に従わない運動」をおこなう確率がゼロより大きいような模型を組み立てることができるということである。望めばその生起確率に好きな数値を設定することが可能であり、一定の確率で自然法則が変化するような系をシミュレーションすることができる。


参.破れ――自然法則/物理学模型が壊れるとき

物理学の理論は、定義のみによって成立する数学の公理系とは異なり、反証されうる仮説である。不断の検証によって反証されるまで、それぞれの仮説は理論として保持されるが、反証がなされた仮説は、補正・改善・棄却および代替仮説の採択のうちいずれかの対応が求められる。計測や定式化における失敗、自然秩序についての誤読――これらは過去に物理学が経験してきたものであり、今後も物理学の発達のためには当然経験するであろうことである。

ここで、こうした仮説と検証の方法論が有効ではなくなるときについて、観測者が無事では済まされないような自然法則の変化(ex. 原子が保たれないほど電子のエネルギー軌道が大きくなる)以外のものを検討してみよう。

自然秩序の偶然性の仮定によれば、これまでに物理学が経験したことのない、以下のような二パターンの反証が素朴に考えられる。

(一)自然秩序が偶然的に変化する
(二)自然の事物が、自然の秩序から逸脱した運動をとる。

両者について、物理学者にはこれまでとは異なる対応を求められることになる。

(一)について、仮にこの変化が恒久的なものであるとすれば、当該の自然法則の修正のみで修復には成功する。例えば、特定の物理系において重力定数の値が半分になるという規則性が見つかったとき、そのような系を扱う際にその重力定数を補正してやればよい。そしてまたたとえ何らかの定数値が時間変化を始めようとも、その項を定数から変数へするだけで済む。これは従来どおりの修繕方法である。自然法則とは、自然において経験される事物の運動に見出される規則性のことであり、そこに規則性があるとすれば、たとえ魔術であろうとも、それを理論としての定式化は可能であると見込まれる。

(二)について、これを例外的な挙動として、自然界にもときおり例外が発生するということを認めて、逸脱の現象に目を瞑れば、自然法則を修正しなくても済みそうである。例えば、リンゴを摑んで中空に持ち上げ、手を開いてそれを落とす、という実験を繰り返しおこなうことにする。あるときリンゴが何の外因もなしに破裂したとする。爆薬が仕込まれたことを疑い、人為的なものでないことが証明されれば次は、瞬間的に日光が射して水分が勢いよく膨張したなど、何らかの外力の作用について疑う。あるいはまた(一)と同様に、まったく未知の作用について疑う。ついに何も検知・測定できなかったとき、心霊現象あるいは超心理学的な作用など、こじつけ的な根拠を立てて満足するなどして、これはようやく自然の秩序から逸脱した運動であることについて納得する。

一見して、両者について『無秩序』ないし『(非物理学的な語用における)カオス』と言ってしまいたくなるかもしれないが、事実としてはそうではなく、単に実在論的な仕組みとしての秩序が我々にとって不可知というだけに過ぎない。とはいえ、かつて仮定していたような『秩序』などはなく、ただヒューム的に心理的な習慣・反復があるだけだった、ただ現象の連なりがあるだけだった、という仮説を採択したくなるほど自然法則が完全に崩壊してしまったとき、そのとき我々はようやくカオスの只中に微笑むことになるかもしれない。今はまだ彼岸の話である。

必然主義=決定論によれば、サイコロの投擲の瞬間にはもう既に出目は確定しており、さらに言えば、我々の存在するこの宇宙の誕生とともに、宇宙の終焉まで、一切の事物が辿るシナリオが確定しており、もし仮定の余地があるとすれば、自然秩序の変性という自然法則の破れが、この確定性のシナリオの外側に契機をもつのか、あるいはシナリオの枠内に契機をもつのか、ということである。とはいえ、いつでも秩序にはその上位の秩序の仮定が付きものであり、真なるカオスのためにはやはり秩序の解体が不可欠であると言わざるをえない。


2022/12/30 - C101頒布 『散裂 Vol.2- 真理』所収版

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