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言語が考え方をつくる

白一色の世界で暮らすエスキモーは、白を表す言葉を何十種類も持っているそうだ。白色の僅かな違いで場所を判別して伝えたり、吹雪を予測したりする。違いを判別していることは、脳の反応を観察しても分かるという。エスキモーが特殊な識別能力を持っているというよりも、彼らがそれぞれの色を示す言葉を持つからこそ、明確に違いを捉えられるのだろう。全てまとめて白と呼んでしまう私たちには、決して見分けられない多様な白。

日本語の場合、特に豊かなのは季節の情景を表現する言葉。例えば、雨の降り方や月の姿などだ。五月雨、霧雨、俄雨、秋雨、氷雨、涙雨…。朧月、薄月、偃月、望月、寒月…。

これらの言葉はすべて、いにしえの日本人の、季節の移ろう気配を楽しむ心から生まれた。今となっては、これらの美しい言葉があるからこそ、愛でる気持ちが生まれるという循環になっているのかもしれない。

驚いたのは、ある民族が方位をとても大切にしていて、左右前後などを示すために必ず方角で説明するという話。彼らの言葉のお作法では、私の右手、ではなく、私の南南東側の手、という風に説明する。だから、同じ手でも身体の向きが変われば北側の手、に変わる。

通りすがりの挨拶も、もちろん方角トーク。「あら、こんにちは。今日はどちらへ?」「ええ、ちょっと西南西の方へ。あなたは?」「私は今日は東の方へ。ごきげんよう!」てな具合。要するに、常に自らの姿勢を方角的に正しく認識していないと、他者とコミュニケーションできないことになる。

冗談みたいな話だ。方向音痴な私が、もしそんな国で暮らしたら大変なことになる。「あの人ったら、南に行くと言っておきながら、北東の方角に歩いて行ったのよ。信用できないわ!」なんて、陰口を叩かれちゃったりなんかして…???

それとも、そんなふうに言葉を使い始めれば、もしかしたら私も方角コンシャスになるのかも?うーん?


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