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日高屋の話と、差別について。(私見)

日高屋の話。
東京の大学に入ったばかりの頃、一度「英クラ」の同級生たちと日高屋というラーメンチェーン店にお昼ごはんを食べに行ったことがある。大学には1年次の必修科目として英語授業の参加が義務付けられており、ランダムに振り分けられた学生たちおよそ20から25人がまとまって、週に4日程同じ授業を受けていた。通称「英クラ」と呼ばれ、入学して初めて人間関係ということもあってか、多くの学生が授業以外でも飲み会やカラオケなど定期的に集まり、親睦を深めているようであった。当時、上京したばかりで財布の紐が堅かった私は、学外にご飯を食べにいったりすることはほとんどなく、誘いがあってもいつも「お金がないから」という理由で断っていた。そのため「英クラ」でついたあだ名は「ボンビー」。そんなボンビーな私が、一杯390円という安さと既視感のある看板につられてやってきたのが、日高屋だった。

その日はお昼時ということもあり、店内がなかなか混み合っていた。注文した食事は程なく運ばれ、同級生たちの毒にも薬にもならないような話を聞きながら中華そばをすすった。会計の時になって、同級生の一人が革財布からおもむろに何かを取り出し、テーブルの上に置いた。どうやらフリーペーパーに付いているセットメニューの割引券らしい。すると彼は「でもこれさ、期限過ぎてんだよねえ」と呟き、軽く笑みを浮かべた。よく見るとチラシの端には、およそ半年ほど前の日付が印刷されている。その時はまだ、別の同級生が放った「どうせわかんねえよ」という言葉の真意を正しく理解せずにいたのだが、そのことはすぐに明らかになる。と言うのも、その後、食べ終えたテーブルの食器を下げてきた店員は、どうやら日本語を母語としない外国人だったのである。見た目ではあまり判断がつかなかったため、どうやらアジア系だろう、若い留学生のような出立の彼は、混み合う店で黙々と汚くなったギョーザの皿を片付けていった。
期限切れの日高屋セット割引券を使えたのかは、まったく覚えていない。ただその時に、割引券をみて戸惑った彼の表情と、モヤモヤとした気持ちはなんとなく覚えている。

これは果たして「差別」なのだろうか。おそらくある人は「これは差別ではない」というかもしれない。割引券の日付をちょろまかすことに何人も関係ないという人や、割引券くらいで騒ぎ立てるようなことではないとも思うのも理解できる。ただ、あくまで私個人の意見として、これは狡猾な差別だとあえて言わせてもらいたい。なぜならこれは「有利・不利」の関係性を理解して、それを構造的に利用する試みだからに他ならない。外国人=言葉が母国語話者よりも不自由であるということを利用して、普通だったら咎められるような行為をしようとすることは、他者の弱みにより自分の行為を正当化することの常套手段のようにも思える。
このことは、世論的に見ればなかなか判断が難しいこところに位置するのも理解できる。それだけとても日常的で、またある人にとっては特別意識をしないようなレベルのことかも知れない。

差別と「秩序」
アメリカ・ミネソタ州で黒人男性が白人警官によって殺害された事件を発端に、アメリカ全土で抗議デモが起きている。私はアメリカに住んでいるわけではないし、黒人に対する人種差別について明るいわけではないので、ここでこの事件について直接言及することは避けたい。

(今回の運動の発端になったジョージ・フロイド事件と、その背景やアメリカにおける黒人差別と社会構造の問題については、こちらの記事がとてもわかりやすくまとまっているので、お時間がある方は是非読んでいただきたい。)
https://note.com/offtopic/n/n77a5f9de2587


はっきりと言えるのは、差別の要因は、決して差別をされる側にはないということだ。

今からちょうど一年程前の話になるが、あるドイツ人と、ドイツにおける外国人について話したことがある。そのとき彼は「ドイツに来て犯罪を犯す外国人は排除すべきだ」という趣旨の主張をしており、その根拠が「真面目に働いて、生活をしている外国人がいる一方で彼らの存在によって外国人そのものを否定する風潮が強くなる」と言ったものであった。この時は思わず反吐が出そうになった。もちろん犯罪行為を正当化するつもりはないのだが、ある一点だけを見て、その社会の「秩序」に合わない者を否定・排除し、正しいと信ずる社会に「従順」なものだけを「良い外国人」として認める姿勢に、不快感を覚えたことは今でも記憶している。
今回のアメリカにおける抗議活動についてはどうだろう。暴動やデモを非難する前に、彼らがどうしてここまでの行為をしなくてはいけないのかを考えるべきではないかと思う。彼らが迫害されてきた歴史、日常的な差別を鑑み、そしてこうした理由のない差別を黙認、つまり「後押し」するような社会構造を問い直すべきではないのか。私たちが生きている社会において「秩序」だと信じているモノに果たして欠陥はないのだろうか。


沈黙することは容認すること同義である。
体感として、大多数の人は「差別は良くない」と言う。しかしこうした問題に対しリベラルだと信じ込んでいる中にも、自らの差別意識に無自覚な人はそれなりにいる。先に述べたドイツ人も、別に悪い人ではない。ただひたすらに、無知で無関心なだけなのだ。
そしてこのことは、私たち自身にも、常に問い続けていかなければならない問題のようにも思える。その無知や無関心から、気づかない間にしてしまう差別、またそれらを黙認していることがあるのかも知れないことを、念頭に置かねばならない。おそらく差別というのは、それだけ日常的で、社会の中に組み込まれているのだろう。多くの人が「そんな小さなことで」とか「もっと大きな問題があろうに」と呟くことに対して、日々苦しむ人もいるという想像力としかるべき知識を持つべきである。もちろん人種的な差別だけではなく、生まれや性別、性的嗜好、家庭環境、学歴、職業などが原因で起こる差別についても然りである。これらは日本人もまた日々感じるものではないだろうか。

だから人種による差別が発端の今回の事件も、当然私たち自身の問題として捉えていかねばならない、と思う。もちろん大多数の日本で暮らしている方にとっては、ほぼ無関係な問題かも知れない。あまりよく知らない話題に口を出すことははしたないと考える人もいるだろう。でももしかしたら、あなた自身が身近にある人種差別に気がついていないだけなのかも知れない。そしてもしかしたら、あなた自身が特定の人に対して差別意識を持っているのかも知れないと、少しだけ考える機会があってもいいのではないだろうか。
そして、ほんの少しだけ想像してほしい。あなたの家族や友人、大切な人が自分の出自や肌の色、顔の形だけで、突然理由もなく殺されてしまったら。

私自身は、海外に住んでいるので外国人の友達も多く、こうした人種差別問題に日本に住んでいる人よりも関心を持ちやすい環境にいる。もしかするとありがたいことなのかも知れない。しかし当然のことだが、私は日本で生まれて、大学まで出ているわけで、基本的には日本に住んでいる方と全く変わらないし、おそらくこのアメリカの黒人差別についても、日本の人と同様、外野の立場にいる。だから今回半ば衝動的に書いている内容が、海外に長く住んでかぶれているとか、そういうニュアンスで捉えられてしまうならそれは悲しいことだ。

いくら「お前には関係ない問題だ」と言われたとしても、今回のことについて私はなかなか他人事のようには思えない。多分、誰に対しても「差別」は愚かな行為であるという前提を、昔よりちゃんと理解しているからなのかも知れない。そして私たち全体の共通の問題である以上、このことを「静観」という言葉を使って黙認したくない、という気持ちがふつふつと湧いてきてしまったのである。だからこそ、敢えて言わせてもらいたい。


#blacklivesmatter

人種差別によってこれ以上の惨事が起きないことを祈ります。そして皆が安心して暮らせる社会はどうすれば実現できるのかを、考え続けていければと思います。