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『悪の教典』を読んで感じたこと【共感能力は不快/共感能力があったら、行動できない】

 こんにちは、山本清流です。


 今回は『悪の教典』を読んで感じたことを書きたいと思います。

 なかなかお気に入りの作品です。


 いまの僕の心の声は以下のとおり。

 『悪の教典』の主人公、ハスミンはカッコいい。共感能力が一切ないからだ。なぜそれがカッコいいかと言えば、「達観するカッコよさ」「できないことができるカッコよさ」があるからだ。相手の気持ちに共感すると、達観できないし、行動もできない。ハスミンのように共感能力が一切なくなれば、思う存分達観し、できなかったことができる。

 この心の声について、以下、深掘りします。

 よかったら、ぜひ。


 【共感能力は不快である】

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 上記したとおり、ハスミンが魅力的なのは、共感能力がないからで

 思う存分達観しているから、です。


 なぜ、共感能力がなく、達観する人が魅力的なのでしょうか。

 ちょっと実験してみましょう。


 【実験:ある日の出来事】

 想像してみてください。

 ある日、街中を歩いていたら、見知らぬ人に喧嘩を売られました。

 

 あなたは頭に来てしまい、喧嘩を買い、やりあいました。

 あなたたちが喧嘩する横を、好奇心の目を向けて、人々が通り過ぎていきます。


 通りすぎていく人たちの中には、「喧嘩するとか、馬鹿だなぁ」と見下すような目の人もいます。


 この状況にいるとき、あなたは自分のことをカッコいいと思いますか?

 思わない、はずです。たぶん。


 一概には言えないけど、この場合、「喧嘩するとか、馬鹿だなぁ」と見下す人のほうがカッコいいのではないでしょうか。


 でも、どちらのほうが共感能力が高いでしょうか?


 あなたが喧嘩を買ったのは、喧嘩を売ってきた人のバカにする気持ちを理解できた(つまり、共感した)からであり、

 通りすぎていく人たちは、俯瞰しているだけで、まったく共感はしていない、ですよね。


 なぜか、共感能力が低い人たちのほうがカッコいいのです。(もちろん、喧嘩する人たちの共感能力が高いとも言えませんが)


 【つまり】

 人間は、常に、達観したい生き物であり、

 共感能力があると、達観できないのです。それが不快なのです。


 【達観できないことの不快さ】

 最近は、マウンティングと呼んだりしますが、

 誰しも、大なり小なり、そういう傾向があると思います。


 達観したいのに、達観できない。

 その不快さの源泉は、相手の考えや感覚の正しさに気づいてしまう能力(共感能力)があるからだと思います。


 【不快さを消すには、共感能力は要らない】

 達観するためには、いちいち共感したらダメですよね。

 共感能力はないほうが達観しやすいのですから。


【しかし、なぜ、達観できないと不快なのか】

 これは持論ですが(というか、はじめから全部持論ですが)。

 多くの人の頭の中にはそれぞれ、理解の枠組みがあると思いますが、その枠組みがなんらかの形で、「達観=カッコいい」と示しているのです。


 逆に、「達観できない=カッコ悪い」とも示しているはずであり

 だからこそ、達観できないと不快になります。


 その「達観=カッコいい」を示す公式の背景には、

 それぞれのバックグランドによって、バリエーションがあると思います。


 【僕の場合】

 僕の頭の中の枠組みを公開します。

 以下のとおり。

 達観する人は数々の困難を乗り越えてきた人たちである→達観できることは、その人があまたの困難に打ち克ってきたことを証明している→逆に、達観できない人は幼稚であり、数々の困難から逃げたことを証明している→それゆえ、達観できる人は、逃げず、打ち克ち、強くなった、カッコいい人たちである。

 以上のような理解の枠組みから、

「達観=カッコいい」という認識になり、達観を邪魔するもの(共感能力)を排除したいと考えているのです。

 

 もちろん、人それぞれの枠組みになっているはずです。


 以上。「達観するために共感能力は要らない」という観点でお話ししました。

 以下では、「行動するために共感能力は要らない」という、べつの観点からお話しします。


 【共感能力があったら、行動できない】

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 僕はたぶん共感能力が高いほうだと思うのですが。

 共感能力の高い人って、こんな感じだと思います。

・通り魔のニュースを見ると、被害者と同様、通り魔本人が可哀そうになる
・いじめられたことがあるが、いじめてきた相手の苦しみに共感してしまう
・目が合っただけで、なんとなく相手の気持ちがわかってしまい、疲れる

 などなど。


 極端な話、議論したときに、相手の考えがよく理解できてしまい、自分の考えを主張するまでもなくなってしまったりすると思います。


 共感能力が高すぎると、意見を主張したり、相手を責めたりできません。


 でも、共感能力があり、かつ、誰かを責められる人っていますよね。

 そういう人たちの能力を「部分的共感能力」と呼ぶことにしましょう。


 【部分的共感能力について】

 これは僕が考えた言葉なのですが。

 一方には共感し、一方には共感しない、という能力のことです。


 半沢直樹みたいな感じです。

 仲間は大切にするけど、敵には「倍返しだ!」と吠える。


 でも、このタイプ、実際には少ないんじゃないでしょうか。

 多くの人は、敵にも共感してしまうんじゃないか、という気がします。


 敵にも共感してしまうため、「倍返しなんてひどいんじゃないか」と思ってしまいます。

 っていうか、それ、僕か……。


 【しかし、ちゃんと怒りは抱えている】

 しかし、「相手に悪い」とは思いながらも、相手への怒りは感じたりします。


 怒りを胸に溜め込みながらも、行動はできない。

 共感能力がブレーキとなっているからです。


 『半沢直樹』が多くの人の心に響くのは、たぶん、

 実際には、あんなことはできない、からだと思います。

 

 胸に怒りがあっても行動はできない。

 もちろん、立場上もあると思いますが、それ以上に、「相手に悪い」と思うからです。相手が誰であれ、面と向かうと、情けが出てきます。


 『半沢直樹』は、そんな人たちの怒りをうまく浄化するような作品なのでは、と思います。


 【共感能力はブレーキ】

 日本って、集団主義的なところがあるので、

 他人の顔を窺ったりする能力は長けてると思います。


 だからこそ、あれこれ想像して、行動にブレーキがかかりがち。

 

 その点、サイコパスはブレーキなし、です。

 これでは、たしかに、サイコパスにも憧れてしまうわけです。

 

 以上。『悪の教典』を読んで感じたことでした。「達観することのカッコよさ」と、「できないことができるカッコよさ」の二点から、サイコパス小説が魅力的に受け入れられたのかもしれませんね。