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【奇談】伝染

 最初は、高校生のときだった。
 当時、交際関係にあった同級生の男の子から、性行為を要求された。「男は我慢できないんだ」と切実に訴えてきていた。興味がないわけではなかったが、痛そうだし、気分が乗らなかった。
 いくら断りつづけても、要求は弱まらなかった。仕方がない。彼のことは好きだったし、そこまでなら、と結局、折れることになった。
 ゴムでやった。やってみると意外だ。好きな人と恥ずかしい領域を共有する感覚が心地よかった。
 それから何度も、彼とつながった。
 彼は生でやりたいと言い出したが、さすがにそれはできない。せめて口で受け止めることを許可した。
 彼の出した精液を口に含むと、思っていたよりも苦くて、急に気持ち悪くなった。飲み込めず、吐き出した。
 そのとき、はじめて、あの、強く鋭い劇的な感覚を体験することになった。
 体内への異物の混入とでも言えばいいだろうか。異物というのは、単に物理的なものだけではなく、価値観や感覚、色、匂い、世界の感触。それまで自分が触れてきたものを揺るがすほどの大きな衝撃を伴いながら、容赦なく流れ込んできた。わたしはそれから数日間、放心状態になり、そのまま彼とは別れてしまった。
自分の中に入ってきたものに冷静に対応できるようになるまで、一か月以上の時間を要した。
急な暗闇に少しずつ目が慣れていくように、わたしの中に入ってきたものの輪郭がちょっとずつ見えてくるようになった。
 それは激しく燃えているようなものだった。恐ろしいほどの激情が白く透明で美しい何かに向かっている。純粋にも感じられたが、現実的な抑止の力も存在していた。ゆえに息苦しさがあった。スケールが大きすぎる。全体を俯瞰するなら、スケールは小さく、なんら異常はないようにも見えるが、その最終的な結果に達するまでには信じられないほどに壮大なエネルギーの衝突があった。まるで、一トンを超える岩を、背中で受けとめつづけている。その岩を押し上げる力が常に存在しているからこそ、傍から見れば、当然の日常であるかのように見えるのだった。
 簡単にまとめてしまうことはできないけど、わたしにはそれが「男性の性欲」であるように思えた。
 少し誇張していたかもしれない。どうあれ、わたしは、それから数年間は、どんな男性とも交わることができなかった。
 大学生のときだ。
 同じサークルに優しい先輩がいて、彼のことが好きになった。たまたま音楽の趣味が合い、共通の話題で盛り上がるうちに交際関係に発展した。清潔感があって、紳士的だったが、彼も男性であるという現実をどこかで意識していた。交われば、またあの強く不快な感覚に陥るのでは、という不安を拭えずにいた。
 夏の夜、わたしは躊躇いを感じつつも、見えない引力に誘われるようにして彼に心を許した。
 口に出すのは嫌だ、と伝えた。彼はわたしのお腹に精液を出すと、それを舐め、その唇でわたしにキスした。
 それが二回目だった。
 あの、強く劇的な感覚が頭から足先まで突き抜け、またもや呆然となった。一回目とは違った。静かな怒りのようなものが、ぞっとするほど、ひっそりと息をしていた。わたしはそのとき思わず、笑顔を浮かべるサイコパスをイメージしてしまったが、人間的な心の温かさも感じられた。
 わたしは気づいた。
 彼が抱えている「なにか」が、わたしに伝染したのだということに。
 一回目のときわたしの中に流れ込んできたのは、「男性の性欲」などではなく、わたしの口に精液を出した彼個人の心の内側だったのだ。息苦しいほどの欲望に振り回され、まるでとんでもない苦行をしているかのようだった。
 二回目のときわたしの中に流れ込んできたのは、内に秘めた怒りだった。あとで知ったことだが、彼は幼いころに両親を交通事故で失っており、両親を轢き殺した男のことをずっと憎んでいた。それは社会に対する漠然とした怒りとなり、紳士的な顔の裏側にそれを隠しつづけていた。
 自分の身に起きている出来事を把握できるようになると、それまでの躊躇はどこかに消えた。
 にわかに湧き起こる好奇心を抑えられなくなった。
 わたしは何度も、闇を抱えた彼と交わった。そのたびに伝染してくるものを研究者のように細かく見つめた。そのうち、ぼんやりとではあるけれど、映像的なイメージも浮かんでくるようになった。血だらけの男女が地面に倒れこんでいて、男のほうはひざの部分で右脚が逆に折れ曲がっている。それは彼の記憶だった。
 わたしは、彼のことを知れば知るほど、彼のことが好きになった。彼はしっかりと闇を抱えているからこそ、相手を思いやる優しさはあっても、きれいごとを言うことのできない人であった。人間の弱さを理解しており、短絡的な差別意識がない。そういう人のほうが信頼できる、とわたしは思った。
 彼は酔っぱらうと、やけに饒舌になった。
「社会なんて、ひどいもんだよ。ほら、小学校のクラスとかってさ、けっこうな頻度で席替えがあるだろう? でも、社会はずっと同じ席でやってる。これがよくない。まったく、よくない。とんでもなく、よくない。百年に一度くらいは革命が起こったほうがいいと思うんだよな、俺は」
 なんでそんなことを言うのか、わたしにはよくわかった。わかりすぎるほどだった。両親の死亡事故と社会に対する不満とは、論理的にはつながりが薄いけれど、彼の中では大きなパイプでつながっている。
 わたしは、いつからか、彼の苦しみに寄り添い、彼のために死んでやる、とまで思うようになっていた。
 わたしには見えた。
 彼は近いうちに大勢の血が流れるような大事件を起こすだろう。わたしは、その大事件の計画を打ち明けられたら、全力で支える――。
 もしも、当時、そんな心の内を親友に打ち明けていなかったら、本当にひどい結果になっていたかもしれない。そのとき親友は、やばいよ、それ、別れたほうがいいよ、洗脳されてるよ、と何度も何度も強く説得してくれて、そのおかげで、どうにか彼との関係を断つことができた。
 あのときは危なかったな、と思う。
 彼の中身が伝染しすぎていたせいで、もともとわたしの中にあった倫理観が機能しなくなっていた。
 それから十年以上、わたしは誰とも交わっていない。最近まで、彼氏をつくることもなかった。反省の気持ちもあったが、それよりも、他者の内面など知らないほうがトラブルに巻き込まれないだろうという実利的な考えのためだった。
 ひさしぶりにできた恋人は、勤め先の同僚だ。わたしよりも三つ年上の、ひょろりと背の高い男だった。
 仕事上のやり取りをしているうちに気が合うことがわかり、ぜひ、お茶でも行きませんか、という自然な流れで始まった。相手の容姿が好みなわけではないが、いままで出会った男性の中ではかなり紳士的な部類に入る。気遣いが上手だし、下品な話題やズレた冗談を口にすることがなく、とても好印象だ。
 これといった障害が見つかることもなく、順調に仲良くなっていった。
 それでも、わたしは彼と交わることを躊躇した。交わってしまえば、また、生々しい相手の中身が筒抜けになってしまう。他人の心の中など、たとえどんなに身近な人であったとしても、知らないほうがいい。わたしの短い人生の中で得た、なによりも説得力のある教訓だった。
 わたしは彼と交わらないことで、彼の中身を知らないままにして、適切な距離をとりながら交際を楽しんでいたのだった。
 それがどうしたことか、一か月前のこと。
 ながらく感じていなかった、あの、強く鋭い劇的な感覚がやってきた。突然のことである。彼がひとり暮らしをしているアパートの一室でふたりきり、ゆったりとテレビを見ていたときだ。交わっていないのに、遺物が注入されたような感覚。すぐには冷静になることができない。世界がぐらりと安定感を失った末に、自分のものではないと断言できる何かが、わたしの中にどぼどぼと、それはもう容赦なく、入り込んできた。じわじわとひろがっていく悪意のようなものを感じた。それはやはり彼の心の中のものであるようにしか思えなかった。
「どうしたの? 大丈夫?」
 呆然としてしまったわたしを優しく気遣ってくれたが、わたしとしては、それどころではない。
「ちょっと、考え事しちゃって」
 紛らわそうとしても、うまくいかなかった。
「疲れてるんじゃないの? せっかくだから、ホットミルクを用意するよ」
 本当に気が利くのだが、わたしは、そのとき、まともに感謝の言葉を伝えることもできなかった。
 なんで、彼の身体に触れもしていないのに、こうなるのか。
 しかも、それが何回か、続いた。
 その感覚に襲われるのは、いつも、彼の部屋でゆったりとしているときだった。
 こんなこと、誰にも相談することはできない。彼にも相談できない。真面目に相談すれば、頭のおかしい人だと思われてしまうだろう。
 わたしはひとりきりで悩みを抱え、自分の頭で考えた。
 過去の出来事をひとつひとつ丁寧に整理していくと、わたしの身に起こる超自然的な現象にははっきりとした条件があった。
 相手の精液を口に含むことだ。それが唯一の発動条件となっていることは、まず間違いない。相手の精液を口に含むことで、相手の心の中にあるものがわたしの心の中へと流れ込んでくるのだ。
 では、なぜ、性的なことを一切していないのに――つまり、唯一の発動条件が起こっていないのに――こうなるのか。
 彼の部屋に遊びに行ったときは、本当に一度も、性的な接触には及んでいない。そういうの苦手だから、と伝えてあるので、求めてくることもない。彼はいつも最近あった面白いことを話してくれて、そして、いつも、お茶は好きじゃないんだよね、と言いながらコップ一杯のミルクを用意してくれて……。
 え。
 マジで?
 彼とはすぐに縁を切った。