【番外編】「みんな同じ」とは、どういうことか【道徳を支える「一般人」という幻想】
※以下、『道徳二元論』を前提にして、話を進めます。これを読んでないと、たぶん、理解できません。↓
こんにちは、山本清流です。
「みんな同じだから、あなたも頑張りなさい」という言葉があります。
ある意味正しいかもしれないけど、文脈によってはひどい言葉です。
たとえば、僕は、作動記憶があまり発達していません。
いきなりたくさんのことを覚えることはできないし、
言われたことはすぐに忘れがちです。
ぶつかった問題についてもじっくり考えますが、
考えたことを逐一忘れていくので、実地ではほとんど役に立ちません。
作動記憶のレベルは人によって違います。一度言われればすべて忘れずにいられる人もいるし、僕よりも深刻な状態の人も大勢います。
さまざまな人がいる中で、一般に、道徳は、「同じ人だから」という前提に立って、普遍的な価値観として共有されています。
たとえば、上記の例で言えば、「覚えられないのは、覚えようとしないお前が悪いからだ」とか、「覚えるのが苦手でも努力している人がいる」とかの道徳的発言(闘争的道徳)が向けられるかもしれません。
僕の勘違いでなければ、そのような発言が成されるのは、「わたしもあなたと同じであり、あなたと同じように頑張っている。だから、あなたも頑張りなさい」というようなメッセージが込められているからではないでしょうか。
この、「わたしもあなたと同じである」という認識は、なぜ、存在しているのでしょうか。
そして、それが進んだ形としての「みんな、同じである」という共通認識は、なぜ、存在しているのでしょうか。
そして、「みんな、同じである」という、その言葉は、なにを表しているのか。その言葉が示す内容は正しいのか。
この問題を道徳的観点から考えましょう。
社会は全体でひとつの道徳的戦略を取っていることが、道徳二元論の最後の講義で明かされました。
ある特定の行為を禁止することで、それを犯した人にあらゆる意味での罰を与え、全体としての利益が最大化するようになっています。(公平的道徳の範囲を決めると、闘争的道徳の範囲も決まる)
最後の講義でも指摘したように、社会全体でひとつの道徳的戦略を取れば、大勢の人が戦略の失敗に陥ります。
ある人は、「それほど禁止しなくても、わたしの利益は守られるのに……」と思うだろうし、
またある人は、「もっともっと禁止の範囲を広げていかねば、わたしの利益は最大化されない……」と思うはずです。
しかし、道徳は人々の間で共有されているので、それを受け入れるしかありません。
共有されてこそ、効力を発揮するのですから。
そのとき、人々は、次のような幻想を抱くのではないでしょうか。
「世の中で、この道徳が用いられているということは、この道徳を持っている人が一般的な人なんだ」と。
道徳にしたがい、かつ、それで満足度を最大化できる人=一般人。
これは、幻想でしょう。
道徳二元論の説明によれば、本来的に、満足度を最大化する道徳は人によって種々様々であるはずだからです。
世の中に、一般人は存在しないのです。
しかし、道徳が共有されれば、その道徳にぴったりと当てはまるのが一般人であるという認識が生まれます。
同時に、世の中の道徳にぴったりと当てはまらないわたしは一般人ではないのだという認識を、ほぼすべての人が持つことになります。
そして、「わたしは、一般人ではない」という認識そのものが、ついに社会の共通認識になっていきます。
「わたしは一般人ではないが、一般人のように振舞う」という人があふれていきます。
その結果、一般人というのは、最初からあるものではなく、自らなるものなのだと誰もが感じはじめるのです。
さて、そんな「一般人ではないが、一般人になった人々」は、「みんな同じだ」と言いはじめるわけですが、それはどういう意味でしょう。
これは単に、「みんなが同一の人間である」という意味ではありません。
さきほどの例で言えば、「すべての人間の作動記憶は同じである」と言いたいわけではないということです。
もっと別の観点から、「みんな同じだ」と言っているのです。
つまり、「努力して、一般人になっている」ことについて、「みんな同じ」なのです。「だから、あなたも頑張りなさい」ということです。
つまり、社会全体の公平的道徳によって不作為が命じられている対象について、その道徳の準備を全員がやり遂げねばならず、道徳の準備をいかにやり遂げるかについては闘争的道徳の価値観が共有されている、ということです。
そのように僕は考えているところですが、ちょっと待ってください。
目指す方向性が人々の間で共通していること(一般人になろうとすること)はたしかかもですが、その難しさは人それぞれではないでしょうか?
「みんな、同じ」という言葉は、部分的に正しく、部分的に間違っていることになります。
目指している目標が同じであることと、その目標を達成するための難易度が同じであることを、どこかで混同しているのではないでしょうか。
この二つは、区別した方がよいのではないか。
僕はそう感じているのです。
そこで、はっきりと区別するために、モデルをつくりました。
目標が同じであることと、その難易度が同じであることを混同しないように、視覚化できたらよい、と思ったのです。
以下のとおりです。
点Aは目標で、これは誰もが共有しています。
横軸は左に行くほど数が大きくなります。これはある人の初期状態を示しています。
数が大きくなるほど、点Aから遠ざかります。
つまり、数が多い方が、初期状態が目標から遠いという意味です。
ただ、それだけではなく、初期状態から点Aへ向かうために、変化する力も必要になってきます。
適応力みたいなものです。これも人によって違います。
この適応力を直線の傾きで表したいと思います。傾きが大きいほど適応力が弱く、傾きが小さいほど適応力が高い、と考えます。なお、その傾きの直線は、点Aを通るものとします。
たとえば、初期状態が5で、傾きが1の人は、こんな感じ。
この点Bと点Aを結んだ線分が、目標Aに辿りつくまでの難易度です。距離と呼ぶことにします。
点Bは、初期状態が5のとき、傾き1の直線を点Aから引いたときに交わるポイントです。この点Bを現在地点と呼びましょう。
現在地点Bから目標Aまでの距離が、難易度ということです。
次に、初期状態が2(比較的、点Aに近い)で、傾きがとても急な人(適応力が弱い)をプロットすると、こんな感じになります。
点Aと点Cを結んだ線分が、その人の距離です。線分が長ければ長いほど難易度が高いことを表します。さっきの例と比べると、こちらの人のほうが距離が長いので、難易度は高いです。
このモデルは、目標Aを達成するための難易度は、初期状態と、適応力によって決まることを示しています。(つまり、現在地点は、初期状態と適応力によって決まる)
初期状態が悪ければ悪いほど、適応力がなければないほど、難易度は上がるのです。
Aという目標と、Aという目標に向かうことは誰もが共通していても、その道のりは人によって違うことを、このモデルで示すことができました。
つまり厳密には、「Aと、Aに向かうことはみんな同じ。だけど、その距離はみんな違うね」というのが正しい言い方なのかもです。
というわけで、最後にちょっとまとめてみます。
「みんな同じ」という言葉は、多くの場合、「みんな、一般人になろうとしている」という命題を拡大解釈していました。
「みんな、一般人になろうとして同等の苦痛を感じている」というように、目標Aとそれに向かう図式がみな同じであることに加えて、その距離までみな同じであるかのように混同した結果、「みんな同じ」と口から出てきたわけです。
道徳は、みんなを同じ方向に導いていて、その結果として「みんな、同じ」という共通認識を生みだし、効力を持つようになっています。
その「みんな、同じ」という認識は、「すべての人の能力が同じ」という意味ではなく、「すべての人が同じになろうとしていることが同じ」なのです。本来は、それだけの意味のはずでした。
しかし、「一般人」という幻想を維持していく過程で、もっと広範に「同じ」であるかのように錯覚していき、ついには、そのAへの距離までも同じであるとの認識が共有されはじめました。
距離が同じということは、「初期状態も適応力もみな同じ」、あるいは、「初期状態や適応力は違うが、Aを達成する難易度は全員同じ」(距離が同じ)ということを示します。
つまり、最初は、「一般人になろうとしている」という動きそれだけが同じであったとの認識であったはずが、いつからか、拡大解釈されはじめ、もともとは区別されていた「能力値はみな違う」という当たり前のことが無視され、混同され、「能力値はみな同じである」という強引な普遍性を獲得してしまったのです。
その結果、どうなったか。
全員、同じ場所からスタートしていて、Aに辿りつくのには同じ労力しか要らない。
そのような認識が共有されると、完全に努力だけがすべてを左右するという価値観が生まれます。
努力している人は結果を出しているのであり、結果を出していない人は努力をしていないのだ、と。
これは、「一般人の誤謬」とでも言うべき現象でしょうか。
一般人というのは、おそらく、道徳によって生み出されており、道徳の内側にいる人を指すようになっていると思います。
だから、本来の「一般人」の意味は、一般人という目標Aを目指している、あるいはその目標を達成している人たち、です。それだけの意味でした。
しかし、定義が曖昧だから、いろいろと混同されはじめ、「一般人」というのは「そもそも、まったく同じ人の集合である」というような、ありえない一括りの論理が生み出されました。
しかし、道徳二元論で考えたように、それぞれの道徳は人によって種々様々なのであるから、その道徳によって導き出される「一般人」(自分)も多様なはずです。
現実には、同じ道徳を強引にも全員に適用しているわけだから、その中で、「一般人とはなにか」という問いが生まれ、「能力値も含めて、みんなは同じである」という、明らかに誤った認識が無意識のうちに生じています。このような結果として、
自分にもできるから、あいつにもできるだろ。
というような、一般人という名のもとに、「自分」と「あいつ」を混同した論理が世間にあふれかえっているわけです。
そのような、お話しでした。ややこしくて申し訳ありませんでした。
イメージだけでも理解していただけたら、幸いです。
読んでいただき、ありがとうございました。
(押しつけになってたら、申し訳ないです💦)