【ショートショート】人間になりたい

 人間になりたい、とは言ってみるが、実は妖怪ではない。頭に来たりしたときに猛獣に化けることはないし、満月の光を浴びたからといって血が騒ぐこともない。形も人間だし、思考傾向も人間だし、成長過程も人間だった。
 人間になりたい、と思うこと自体、人間にしかできない、とも言える。
 そういうような、ちょっとだけ歪んだ論理を用いることによって、人間になりたがろうとしている自分はすでに人間であると納得し、なるほど、それなら、万事OKですね、と思うこともできなくはない。
 屁理屈を重ねていくことは愉しいが、そのような問題の先送りは名目賃金の上昇と同じような構造をしている。
 実際に受け取る賃金は増えていても、それより速いスピードで物価が上昇していれば、徐々に賃金を減らしていることとなんら変わらない。そんな姑息な手を使う日本企業のように、どうやら、人間というのは姑息である。
 姑息な戦略で覆いつくされた世間に生きる人々も、いつも出かけるスーパーでお好みのアイスの値段が上がっていることに気づけば、財布のお金の価値が下がっているのではないかと疑いを持つようになる。
 それと同様に、あまり過保護になりすぎないようにと慎重にタイミングを窺いながらスマホに届く母のメッセージに気づいたとき、どわっと疑いがあふれた。俺は人間なのか、どうなのか、どうなのだ、わからない、黙れ。
 そして、唐突に、人間になりたい、という明らかな憧れが込み上げてくるのを避けられなかった。
 酒場の喧騒の中にあまりにも静かな言葉の羅列が、冷気とでも言うべきものを放っている。『夕食はいりませんか』と、それだけのメッセージ。その静かな優しさは母自身さえ気づいていない無意識の殺意に満ちているように思える。その威力は、たちまち俺を海を見下ろす崖の淵まで追いつめて、とても俳優とは思えないような恐ろしい顔をした刑事の鋭い目が睨んでくる。その刑事は、俺に言うのだ。「夕食はいりませんか。必要ならつくりますが。いらないなら、つくりませんが」。俺は、いりません、いりません、と涙を流しながら首を振り、その場にくずおれてしまう。どうか、命だけは勘弁してください、すぐに人間になる予定なのです、どうか勘弁してください、と土下座までして、どうにか許しを得たあとも心の奥になにか残り、それは俺の人生の全体に大きな重石をつけることをけっして忘れないのである。
 そしてまた、俺は思っている。人間になりたい。
「なに、ぶすっとしてんの? そんなぶすっとしてたら、ブサイクになっちゃうわよ」
 俺の隣に割り込んできたこいつ――佐藤――は、ビールを二杯飲んだだけで、オネエ言葉を放つように進化する習性を持つ。
「そいつは心外だな。この美少年ぶりに、ヒビをいれるわけにはいかない」
 バンバン、とさっそく俺の肩を叩いた佐藤は、ぷは、と笑った。
「そりゃ、ケッサクねえ。まあ、たしかに、わたし、べつにナシじゃないわよ」
 いつものこととはいえ、ちょっと煩い。あまり会話をする気になれないので、適当にあしらおうとした。すると、完全に酔っぱらっているように見えていた佐藤も、どこからか理性を働かせたらしく、いちおう空気を読んだ。
「誰かから、ラインでも来た?」
「は?」
「だって、さっき、スマホ、覗き込んでただろ?」
「ああ、ちょっとだけ、素人の画像を」
「うそつけ、うそつけ」
 これもいつものことだが、佐藤は、なぜか、嘘を見抜くこと(だけ)には刑事並みの洞察力を発揮する。
 さっき俺がスマホを覗き込んでいたのはもちろん、母から届いたメッセージを見つめていたからである。『夕食はいりませんか』と来たので、素直に『いらん』と返した。それだけのこと。
 ――そう、それだけのこと。
 大学卒業に伴って地元を出てからのこと、お盆に地元に帰る理由はひとつだけ。その時期に同じように帰ってくる友達と飲むこと。それ以外に理由はない。
 そのためだけに帰ってきたというのに、せっかくの友達と飲む機会を断り、わざわざ実家で夕食を、なんて、そんな優等生みたいなこと、俺にはできない。残念だが、俺は優等生になりたいとも思っていない。
「うちの母ちゃんが、夕食はいるか、って。だから、いらん、って返しただけよ」
「それで、なんで落ち込んでるわけ?」
 適当にはぐらかそうとも思ったが、どうせ「うそつけ」と言われる気がしたので、あえて真面目な顔を用意した。
「まあ、マジな話、なんか俺、ひどいことしてんのかな、って思ったわけだけど。べつに悪くないよな? 友達と遊んでんだから。法に触れてるわけじゃないし」
「そういうことね」と、佐藤は若干、目を伏せた。まだオネエが抜けきっていない気がするが、アルコールは抜け切ったようにも見える。中学のときは違う部活だったとはいえ、同じクラスではしゃいだ仲だし、真面目な話をしても恥ずかしいとは思わない。佐藤は、抜けきっていなかったオネエを吐き出すように、ふっと息を吐いてから、伏せていた目を、こちらに向けた。
「さすがにいろいろ見てきてしまうと、いろいろあるね、世の中。金のないやつとか、金のあるやつとか、モテるやつとか、モテないやつとか。まあ、とてつもなく重大な後者の問題はさておき、大学まで行かせてもらえたことと、それまでの生活を支えてくれたことには感謝するしかない。俺もそう思うよ。だけど……」
 さっ、と佐藤はまた目を伏せた。
「ずっとは思えない。だって、モテるかどうかのほうがそれより重大だから」
 そんな深刻な様子でモテたいという露骨な欲望を晒されると、ちょっと面白いが、笑うことはできなかった。
 少々、正直すぎるが、たしかにそのとおりであった。俺の場合、とりあえず彼女を確保しているので、モテる必要はない。ただ、日々の生活の中では、考えなければいけないことは多いし、それ以上にやりたいことも多い。カメみたいに、ときどき海面に浮上して、そのときだけ日光を浴びて、そのときだけ日光のありがたみに感謝する。それが言わば、俺の現実だった。
 もしも可能なら、どこかの少年マンガの主人公のように、いつでもどこでも揺れない芯を持っていて、いつも同じように変わらない感覚を叫びつづけたい。
 どこにでも持ち運べるお手軽なポーチのように、家族からもらった恩恵を持ち運んで、気が向いたときにいつでもその恩恵を手に取り、それに触れ、まるで連続ドラマのワンシーンのように温かい気持ちに包まれたい。
 それができないのは、なぜだろうか。
 会社に行けば嫌なことがあり、ひとりきりでアパートに帰れば孤独を感じる。とてつもなく大きな恩恵を受けているはずなのに、その恩恵が俺の人生の幸せを保障しているわけではない。
 だからこうやって友達と集まり、楽しく飲みたい。
 これは血の滲むような選択の問題だ。この選択においては、誰もが己に正直になることが要求される。どんなに断腸の思いが膨らんでも、キレイゴトに執着するのを諦めなければならない。
 ずっとは思えない、と断言した佐藤は信頼に値した。
「お前のバカみたいに正直なところは、ホントに尊敬するよ」
 バッチグー、と佐藤にむかって親指を立ててから、その親指と人差し指で手前の皿にあった枝豆をつかみ、いくつかの豆を口に入れた。
「それ、褒めてんのか?」
「褒めてるわけないだろ」
 そんなやり取りをしているうちに、忘れかけていた酒場の緩みが戻ってくる。そう。そうだった。ここには緊張感なんて、なにもない。すべてが緩んでいる。
 完全に緩みきることを許さなかったのは、天井から吊るされた古いテレビの中で始まったハートフルな番組だった。
 なにをテーマにした番組か、定かではない。急に出てきた顔の整ったタレントは、どう見ても嘘を吐いているとしか思えない言葉の群れを、詐欺師のように垂れ流している。俺はつい、カメラのないところではどんなふうに話すのだろう、と想像してしまった。驚くべきことに、佐藤は、俺の心の声を堂々と口に出した。
「なんか、イラっとくるよな、ああいうの。俺も優等生に憧れてんのかな」
「それは違うな」
 たしかにイラッとすることには同調できたが、腐っても鯛なわけである。俺は優等生になりたいと思ったことはない。
 つまり、この世のどこかに存在している誰かになりたいわけではないのだ。どこにも存在しないものを求めているのだとすれば、それはアニメのキャラクターに恋をしているのと似たような精神構造である。
「人間になりたいだけだろ。俺も、お前も」
 それはどこにも存在しない抽象的な実体としての人間。どこにも存在しないことなんて初めから理解しているのに、巧妙に仕組まれた社会の姑息な戦略によって、ときどき錯覚してしまう。本当に実在しているのではないか、とサンタクロースを夢見る子供みたいに。揺れてしまった心は、すかさず幻惑される。
 そしてまた、俺は思うことになる。人間になりたい。
 思考なんてすぐ感情に吞み込まれて、感情に沿うように現実が修正される。そんなことをずっと繰りかえしてきたのだが、時が経つにつれ、やがて静まっていくだろうことをどこかで期待している。
 いつか消える。消えて正しい。
 そういうことにしておこう。そういうことにしておこう。