山本清流の精神構造について

 就活生は自己分析をするらしいです。

 そこで、僕も、自分のことを分析的に把握しようと思った次第であります。


 結論を先に述べると、僕は「抑うつ回避型の精神構造」であると考えます。

 これは、僕の特徴的な性格に関する観察から導かれた結論であり、

 その性格というのは、「涙を流す気持ちがわからない」という個人的な特性です。


 僕は、涙を流す人の気持ちがあまりわかりません。

 ドラマなどで涙を流す人が登場すると、「また、始まったよ」と思ってしまう傾向があります。


 どうしてこのように感じるのかと言えば、それはもちろん、僕自身がほとんど涙を流さないような性格だからであり、

 とてつもなく苦しいときにこそ、一滴も涙が流れなかったという経験を持っているせいでしょう。


 僕は比較的に不幸な人生を送ってきた人であり、そのぶん悲しみも多いのだろうから、涙の流出量も多くなっているはずですが、

 現実には、涙はほとんど流れませんでした。


 いじめられているときでさえ、記憶している限り、二度しか涙を流していませんし、そのときも瞬時に堪えました。

 

 なぜ、僕は涙を流そうとしないのでしょうか。

 これは、涙を流すことによって抑うつ的な気分になるのを避けるためではないか、と考えてみましょう。


 そのように考えていくと、わりと辻褄が合うことがあります。

 辻褄が合うポイントとしては、過度なプライドの高さと、被害妄想的な傾向です。


 まずは、過度なプライドの高さについて。

 プライドとは、「主観的、自己中心的な価値観によって利己的に自己の優位を保とうとする、防衛的な心の状態のこと」であり、その傾向が僕にはあります。


 たとえば、僕はミクロ経済学にはちょっとだけ詳しいのですが、それを鼻にかけ、「知識を保有している人は優れている」という独自の価値観によって自己の優位性を保持し、精神的に安定させようと企んだりしています。


 これは、プライドの高さによるものです。

 このようにして自分の「すごさ」を維持し、誇示しようとするのは、言うまでもなく、他者から悪い評価をされることが怖いからであり、


 他者の評価を意に介さずに自分を保つために、わざわざ、独自の基準を用意して、自分の心を守っているのだと言えるでしょう。


 このような対策を講じているのは、他者の評価に対する防衛策を持っていなければ、抑うつ的な状態に陥るためであり、


 僕のプライドの高さは、抑うつ的な状態を回避するための戦略であるとも言えるのです。


 続いて、被害妄想の傾向について。

 昔から言われているように、被害妄想が発生するひとつの要因としては、理想自己と現実自己の相違による抑うつを防ぐために、原因を相手に帰属させるという心的メカニズムがあるせいでしょう。


 たとえば、僕は、挨拶をするときにぼそぼそと声が小さくなってしまったときなどに、「相手に『気持ちが悪い」と思われただろうな」というような被害妄想に走ることがあります。

 これは、「堂々としていたい」という理想と「堂々とできない」という現実の相違についてまともに認識すると、抑うつ的な気分になるために、あえて、悪意を相手に想定することによって原因の所在をうやむやにしているというわけでしょう。


 また、僕は、被害妄想にくわえて、被好意妄想も生じやすいです。これは相手に好かれているだろうと勝手に妄想するものであり、これも被害妄想と同じようなメカニズムによって、自分の失敗を相手に帰属させて生じるものとであると考えるのも無理ではありません。


 以上のように、僕には、「あらゆる手を使って、抑うつになるのを避けようとする」傾向があり、その結果として、プライドの高さや、被害妄想の過激さなどが生じていると言えます。

 ほとんど涙を流そうとしないのも、抑うつになりたくない、という全力の抵抗なのでしょう。


 そのせいか、僕は、だるーん、と沈み込むことはほとんどなく、被害妄想による激しい怒りに囚われることが多く、脳内で洪水が起こったように記憶や思考が暴走することがあります。


 絶対に泣いてやるか、最後まで戦ってやる、という異常な闘争心が存在し、そのためにネガティブな感情を発散しにくいというデメリットに苦しんだりします。

 とはいえ、現在は、日常生活においてストレッサーがほとんど存在しないので、なんとかやっていけているのです。


 もはや生涯に渡る精神エネルギーの多くを使い果たしてしまったのではないかという危惧さえあり、

 もしもまた誰かにいじめられるようなことがあれば、僕はすぐに死んでしまうかもしれません。


 このような分析の結果、僕は、「なるべくストレスの少ない仕事」を選ぶのが適職だろうと判断せずにはいられません。

 僕の精神構造は、抑うつをせん滅しようとする宗教的とも言える目標を持っているのであり、その目標のために自滅的に負のエネルギーを溜め込む傾向にあり、どうも持続的に機能しうるものではないのです。


 もっと素直にならないといけないのかもしれませんが、もはや、精神構造を変えるのは難しいでしょう。

 「活躍したい」などというような高望みはせずに、自分に合った仕事を選ばねばなりません。