いじめはナッシュ均衡(お互いが最適な反応をしている状態)だった……

 こんにちは、山本清流です。


 最近、ゲーム理論って、面白いな、と思っています。

 まだ勉強は進んでいませんが、あることに気づきました。


 なんと、僕がいじめられていた状況はナッシュ均衡だったのです。

 ナッシュ均衡というのは、「どのように戦略を変更したとしても誰も得しない」状況のことです。


 つまり、いじめる、いじめられる、という関係性が、それ以外の関係性に変更されると、「誰も得しない状態」に陥っていたんです。


 簡単に解説しましょう。

 以下に示すのは、いじめられっ子B(僕)と、いじめっ子Aの利得表です。


 それぞれ、服従する、孤立する、いじめる、いじめない、という戦略を保持しています。

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 いじめられっ子Bは友達をつくる能力を持たないので、いじめっ子Aが仲良くしてくれなければ、孤立します。

 もしも孤立を選択すれば、マイナス3になり、それは嫌なので、よりよいほうの服従を選択することになります。


 こうして、まずは、いじめられっ子Bといじめっ子Aが仲良くなるところから物語が始まります。(実際、そうだった)

 しかし、いじめっ子Aは、いじめないときの利得が5で、いじめるときの利得が10です。

 いじめられっ子Bをいじめたら、それはそれは楽しくて仕方がないんです。


 だから、合理的に行動するならば、いじめたほうがいいわけであり、いじめるほうを選択します。


 このとき、いじめられっ子Bは、友達をつくる能力を持っていないので、味方をつくることができません。

 もしもいじめられっ子Aに歯向かったりすると、孤立する結果となり、いじめられながら孤立するという苦しい状況に追いやられることになります。


 孤立すると服従するよりもさらに悪い結果になるので、服従し続ける選択を続けることになります。


 この、「いじめる」「服従する」という関係性は、見事なまでのナッシュ均衡です。

 いじめっ子Aは、いじめるのをやめると、利得が5低下することになり、そんなことはしたくありません。


 一方で、いじめられっ子Bは、孤立を選択すると同じく利得が5低下することになり、服従するしか方法がありません。

 こうして、ナッシュ均衡が達成し、これは存続することになります。


 経済学部の人なら知ってると思いますが、囚人のジレンマの例に代表されるように、ナッシュ均衡は必ずしも好ましい状況とは限りません。


 経済学は、長らく、人々が自分勝手に行動すれば社会のためになると声高に語ってきましたが、実際は、そうではないのです。

 みんなが自分勝手に行動したら、誰かがわりを喰うんですね。


 この場合、解決策としては、ふたつ考えられると思います。

 ひとつは、いじめの厳罰化、あるいは、法的制裁の仕組み化をすることによって、いじめをすることの利得を低下させる方法です。


 もしもいじめっ子Aがいじめたときの利得が5よりも低くなれば、いじめるという選択は合理的ではなくなります。


 もうひとつは、いじめられっ子Bが孤立するという選択をしたときの利得をどうにかして上昇させることです。

 つまり、孤立したとしても、問題ない、という仕組みが学校の中にあれば、いじめられっ子Bはわざわざいじめっ子Aに服従することなく、その仕組みに逃げ込むことができます。


 たとえば、特別学級みたいな感じで、クラスを離れて、べつのクラスで授業を受けることができるような仕組みをつくるといいかもしれません。あるいは、フリースクールの充実などでも、いじめられっ子Bのとりうる戦略は変わってきます。


 ともかく、どうにか、利得を調整することによって、ナッシュ均衡を崩さなければ、同じようなことが起こりそうです。


 僕はずっと思っているのですが、道徳教育で人間は変わりません。


 本来的に人間は道徳的な生き物ではないからこそ、経済がぐるぐると回っているのだという当たり前の事実を、そろそろ、ご理解願います。

 

 以上のように、ゲーム理論の枠組みを利用して、いじめをなくすための制度設計を考えることができました。

 かなり面白いと思いませんか?


 プレーヤーが有限で、戦略も決まっているなら、必ずナッシュ均衡が存在するということが、数学的に証明されているようなので、

 あらゆる社会関係はゲーム理論で考えることができます。


 ハマりそう。