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【最新長編】ホクロ男

 この作品は、メフィスト賞2022年下期に応募され、落選したものです。今作においては、キャラクターのリアリティーを追求しました。生き生きとしたキャラクターたちのそれぞれの苦悩を身近に感じていただけるのではないか、と期待します。

 いちばん下のコメント欄で今作に関する感想を書くのは自由です。気軽に書いていただいて構いません。しかし、批評は求めておりませんので、ご遠慮ください。

 本作は全体で18万字程度で、文庫本にすると350ページくらいの長さです。Wordからコピペしたときに段落冒頭の一字下げがうまく反映されなかったところが多々ありますが、あまり気にしないでください。また、本作には、転落死や首吊りなどの残虐描写や、希死念慮や殺人衝動などのネガティブな心理描写が含まれています。あらかじめご了承ください。なお、作中に登場するキャラクターはどれも架空のものであり、作者の真意を代弁するものではありません。
 
 では。あなたにとっての充実した暇つぶしになれば幸いです。









   第一章 娯月


いちばん後部の座席で、バスの揺れに身を任せていた。

黒い夜だった。車窓の一面には、白い車内灯に上塗りされたブルーの座席やオレンジの吊革がうっすらと映り込んでいる。ショッキングイエローの停車ボタンも窓の中で蛍のように輝いていた。

ふいに髪の乱れ具合が気になり、右隣の車窓を見つめた。半透明の鏡の中で、若い女の小顔にショートヘアはいつもどおり似合っている。

ゆるりと首の力を抜いて、窓から視線を転じる。

バスの天井には、健康診断が売りの私立総合病院や、スクープが大好きな週刊誌など、いろいろな広告が貼られている。どの広告も、ビッグマウスな投稿をしてしまうSNSアカウントのようにギラギラしていた。

運転席背部のディスプレイでは、ゴールデンウィークを狙ったものだろう、ロマンス映画の宣伝CMが流れている。三十秒おきに、男女が激しく喧嘩し、涙を流し、抱きしめ合い、キスをする。

そのディスプレイの真下――運転席のすぐ背後の座席-―には、首の細い男がいた。バスの振動によって頼りなく、ぐらぐらと、薄毛の後頭部が揺れている。その男と自分を含めて、乗客はわずか五人だった。

突然、車体が、突き上げるように揺れた。

揺れのままに、上半身が前屈みに倒れる。

あやうく、目の前の座席の背もたれに額を打ちつけるところだった。

ふっと息を吐いた。近くにあったグリップを掴み、身体を起こす。

あれ、と思った。

ディスプレイの真下に座っていたはずの、あの薄毛の男がいない。

おかしいのは、それだけではない。かなりの衝撃だったのに、車内アナウンスはなく、バスは正常に夜を走っている。ほかの乗客も、動揺した様子はない。極めつきは、すぐ右隣に激しい違和感を覚えることだった。

右隣には、窓がある。

夜のつくった鏡によって自分の姿が映っているはずだが……どうも、違う気がする。自分ではない、誰かが、そこにいるような。体内の臓器が急激に冷却されていくような思いがした。恐るおそる気力を集め、じりじりと首を右に回した。

ひっと息が乱れた。

車窓の中――さっき見たときにはショートヘアの自分が映っていたところ――に、首の細い、薄毛の男の顔がある。

さっきまで車内にいた、あの男だ。三十代くらい。目や鼻や口には特徴がない。ただひとつ、ダンゴムシのような大きさのホクロが三つ、左の頬骨のあたりから唇の左端のあたりまで、等間隔で垂直に並んでいるのが、印象的だった。

無表情の男の口はゆっくりと動いている。バスのエンジン音以外はなにも聞こえない。男がなにを話しているのか、読み取ることはできなかった。


「でも、その男のこと、本当に知らなくてさ」

 ハンガーにかけた店員用のエプロンをロッカーに仕舞いながら、神野千尋は、気味悪がりながら言った。

「だって、ふつー、夢に出てくる人って、見知ってる人か、それとも見知っている人たちの融合体か、そのどちらかでしょー」

 千尋の経験上、さまざまな顔が混ざり合ったような顔の人間が夢に出てくることは何度かあった。しかし、今回の夢に登場した男の顔は、誰かの顔が混ざり合っているようには思えなかった。

「ぜんぜん見覚えないの? まったく? これっぽっちも?」

 同僚の町井は、逆に、エプロンをロッカーから取り出しながら、好奇心に満ちた顔で応じた。千尋と同じく二十代だ。ほどよく遊び心がある女性なので、同僚の中でもとくに千尋が親しくしている相手だった。

「ぜんぜん。まったく、これっぽっちも」

 千尋は、吐き捨てるように口早に言い、それから、少し強めにロッカーの扉を閉じ、控室内のパイプ椅子に座った。バイト終わりで気が抜けているせいか、自然に背中が丸まってしまった。

「朝からずっと頭から離れなくて、いろいろ記憶を探ったけど、ダメみたい。わたしの記憶の中には、あんな顔の人はいないよ」

 左頬にまっすぐホクロが並んでいるという特徴的な顔であれば、絶対に忘れることはない。あの夢に登場した男について、千尋は、少しも心当たりがなかった。

軽く要約すれば、その夢は次のような内容だ。黒い夜、バスの後部座席でゆったりとしていると、急に、がくんと車体に衝撃が走る。なんだろうとバス車内を見回したところ、いつのまにか、乗客のうちのひとりが消えている。そのとき、右隣に誰かの気配を感じ、そちらに振りむくと、本来は自分の姿が映るべき車窓の中に、車内から消えたばかりの見知らぬ男がいる。そういう夢だった。

思い出すだけで、気味が悪い。

あの男はいったい誰なんだ。さっぱり、わからない。

今日の未明は、その悪夢のせいで、はっと目が覚めた。もう一度寝てからも別の夢を見たような気がするが、そちらの記憶はない。見知らぬ男の顔―-左頬に大きなホクロが三つ並んでいる――だけ、頭に強く残っている。日中になっても夢の記憶が残っているのは、千尋にとっては珍しいことだった。

 ぐったりとしている千尋の隣に、「まあまあ、夢なんて、なんも意味ないし」と、さっそく興味を失ったような様子で言いながら、町井も、パイプ椅子を持ってきて座った。いつのまにか、店員用のグリーンのエプロンを着用している。

エプロンのポッケからピンクのゴムを取り出した町井は、柳のように垂れている薄い茶髪を後方で束ねて、そのゴムでくくっていく。

千尋は午後六時までのシフトだが、町井は午後六時半からのシフトだ。町井は準備のために三〇分前には控室にやってくるので、いつも、同じ時間に控室で会うことになる。

そんな町井の背筋はまっすぐと伸びている。自分の姿勢が情けなく思えてきた千尋は、町井に合わせるように背筋を伸ばした。それから、町井の顔を左横から覗きこんで、いまいちど、聞いてみる。

「町井さんは、そういう経験ない?」

「残念だけど、わたし、夢なんて見ないんだよね、まったく」

 流すような勢いでさらりと言った町井は、そこでふと、あ、という口の形で顔の動きを止めた。なにかに思い当たったような感じだった。「え、なに?」と千尋が反応すると、町井の顔にバルーンのようにむくむくと笑みが膨らんだ。

「いや、ちょっと思い出しちゃったんだけどさ、聞く?」

 話したくて溜まらないという顔だった。

「聞くって……何系の話?」

「いや、だから、その夢の件についてさ、なんていうか都市伝説みたいな話なんだけど」

 うさんくさっ、と心の中ではつぶやいたが、千尋は、笑顔を返した。

「なになに、それ、気になるじゃん。ちょっと話してよ」

 そんな反応をされると、さばさばとしたところのある町井としても、みんなと同じように気分がよくなるものらしい。わざとらしく低い声で、ゆっくりと語りはじめた。

「これは、たぶん数年前、どっかのまとめサイトで読んだ都市伝説だと思うんだけど。神野さんと同じように、ある日、突然ね、ある若い女性の夢の中に知らない顔の男が出てきた。その顔が長い間ずっと見つめてくるだけの意味不明な夢。それはそれは気持ちが悪かったんだって」

「……同じじゃん」

 千尋は、薄気味悪いものを感じ、ぼそりとつぶやいた。

「そう、同じ。だから、思い出しちゃったんだけどさ」

 町井は、そのとき一瞬見せた笑みをさっと片付け、千尋に横顔を向けた。

その妙に深刻な雰囲気を出そうとするところ、怪談の語り部になったつもりらしい。ちょっと過剰に演出しているようにも感じられたが、たしかに気味の悪い話であることは否めそうにもない。

「でね、最初のうちは気持ちが悪いなぁ、ってだけで流してたんだけど、毎晩、毎晩、その男が夢の中に出てくるようになって、さすがに無視できなくなっちゃったわけ。それで思いきって、その夢の中で、男に対して訊いてみたの。『あなたは誰ですか?』ってね。そしたらね……」

 そこまで話すと、想像を促すかのように、町井はあえて口を閉ざした。

千尋は、考える。あなたを殺すために監視しているんです、とか、あなたは明日死ぬことになりますよ、とか、そんなところではないか。小学生が好きそうな王道のホラー展開である。

しかし、町井は言った。

「その男は言ったの。ごりごりの関西弁で、『お前こそ誰やねんな』ってさ」

「は?」と千尋は首を傾げた。その反応が気に入らなかったらしく、どうしてわかってくれないのよ、とでもいうように町井は大声で補足した。

「だから、男も、同じだったわけ。男も夢を見ていて、その夢の中で見知らぬ女がじっと見つめてきていた。この女は誰だよ、って男も思っていたわけ。つまりね、夢の中だけで、見知らぬ人同士がずっと見つめ合っていたの」

「それはわかったよ。だけど、その……怖い話じゃないの?」

 つい怖い結末を予想していた千尋にとっては、いささか拍子抜けした気分だった。緊張感を高めようとする語り方は町井なりのミスリードだったわけか。

「まあ、怖くはないけど不思議な話」

 おそらく、突然の関西弁のところで、千尋に笑ってほしかったのだろう。目的が叶わずにヘソを曲げそうになった町井だが、そこでなにか話したいことを思い出したらしく、勢いを取り戻した。

「でさ、この都市伝説にはまだ続きがあって、その数年後に夢に出てきた男と実際に会ったんだって。それから仲良くなって、恋に落ちて、ついには結婚した。そんな話だったと思うけど」

「なしなし、そんなの」

 千尋は、大袈裟に右手を振った。

「だって、年上だよ。優しそうな雰囲気なくもなかったけど、しょせん、年上だから。わたしは、年下がいい」

 その千尋の即答ぶりが面白かったらしい。町井は、浮き輪から空気が抜けていくようにくすくすと控えめに笑った。

 一方、当事者の千尋にとっては笑い事ではない。そういうロマンチックな展開になるのなら、自分のタイプの相手が夢に出てきてほしかった。そういう切実な思いもあるし、そもそも、夢そのものの気味悪さは解消していない。町井が話したのは、信ぴょう性のない都市伝説に過ぎないのだから。

 都市伝説といえば、そういえば、米軍の実験によって夢の中に特定の男の顔が出てくるという話を聞いたことがある。なんでも、米軍の洗脳作戦だとかなんとか。だが、千尋には、そんなくだらない都市伝説などを真に受けないくらいには常識を持ち合わせている自負があった。

 ガチャリ。

そのとき、突然、控室のドアが開いた。

慌てて背筋を伸ばして振りむくと、ドアのむこうから、ふさふさの黒髪アフロの男が顔を出した。アフロの陰で輝いている大きな目が千尋を見るなり、「神野さん、まだ帰ってなかった。よかった、よかった」と、朗らかに声を上げる。

まだ三〇代の店長だった。『アフロ店長』とこっそり呼ばれている。

すかさず、千尋は、「店長、なにか?」とパイプ椅子から立ちあがった。店長は、鷹揚にうなずきながら、控室内にすたすたと踏み込んでくる。

千尋の前までくると、悪巧みをしている子供のようなニヤケ顔で、千尋の両手に一冊の単行本を押し込んできた。

「これ、今月の一冊。もらっちゃってよ」

 両手には、冷たい厚紙の感触だ。目を落とすと、それなりに分厚い単行本がある。

表紙には、水溜まりで溺れている蛙のイラストの上に、『蛙の戯曲』というタイトルがおどろおどろしいフォントで描かれている。

著者名は、『何故いきる』。『なにゆえ いきる』と読む。サディスティックな描写のせいで大勢の読者から嫌悪され、軽蔑され、憎悪されながら、同時に一部の読者層から強烈な支持を集めているベテランのスプラッターホラー作家だ。覆面作家としても有名であり、年齢すら公開されていない。

デビュー当初からスプラッターホラー一本で貫いてきたが、デビュー二十年目にして突然、『蛙の戯曲』という純愛ラブストーリーを執筆したことで注目を集めている。

何故いきるは、千尋がいちばん好きな作家だ。

今年の一月に発売された『蛙の戯曲』にも当然のように興味はあった。何度も購入しようかと迷ったが、結局のところ、三か月以上、決断できていない。いかんせん二〇〇〇円以上もする単行本なので、文庫本になるのを待つしかなかった。

嬉しい気持ちがある一方で、少しばかり引っかかる。千尋がバイトするその書店では、店長の粋な計らいで、一か月につき一冊、文庫本を無料でもらえる店員特典がある。ただし、単行本は除外されていた。千尋は、「これは……」と言葉を濁した。

「いいよ。単行本だけど、一冊くらい、なんてことないんでね」

「でも、これ、二五〇〇円もしますし。これを、無料で?」

「そうです。いつも頑張ってもらってるお礼みたいなもんですよ。遠慮せず、もらってってください」

 その迷いのない言葉のおかげで、後ろ髪を引かれるような思いが消えた。店長本人がよいと言っているのだから、べつに悪いことはしていない。千尋は、ありがたく『蛙の戯曲』をもらった。

 書店から出ていくときは、気づかぬうちに闊歩していた。バス停でバスを待っているときも、意味もなく、爪先立ちをしたり、小刻みにうなずいたりした。

帰りのバスがやってくると、すぐさま、座席を確保し、リュックから『蛙の戯曲』を取り出した。冒頭から読んでいくうちに、じわじわと得をしたという思いが膨らんでいった。


 その夜は、夕食や風呂を済ませてからずっと、『蛙の戯曲』を読んでいた。栞を挟んだのが、午後十一時ごろだった。

予定していた起床時間は午前七時だったが、それより先に、目が覚めた。

ローテーブルに置かれたデジタル時計に目を走らせると、まだ午前五時二〇分だ。前日の午後十一時ごろから早朝の午前五時二〇分まで、睡眠時間は六時間以上だ。いちおう必要最低限は確保している。

身体を起こすと、息を殺すように自室が黒く沈黙している。まるで、部屋そのものが緘黙症に陥ったようだ。

千尋の頭には、残像とはいえないほど鮮明な悪夢のイメージが残留している。目が覚めたのは、その悪夢のせいだった。

昨日に続いて、今日も。これで二度目。バスの中でゆったりしていると、車体に衝撃が走り、乗客がひとり消え、その乗客が車窓の中でなにかを話している。その乗客は、左頬にホクロが三つ並んでいる。

まさか二日連続で同じ夢を見るとは、思っていなかった。まるで町井が話していた都市伝説と同じじゃないか。

不可解に感じざるを得ない。千尋は、ひとまず立ちあがり、照明をつけた。突然に眩しくなった自室を、目を細めながら、ふらふらと進む。ローテーブルの脇に置かれた座布団にあぐらをかいて座る。

 ふっと諦念のような息が洩れた。

果たして、あの夢は、町井が話していたように、いつか出会うパートナーが夢に出てくるというロマンチックな現象なのか。

 んなわけ、と思った。いったい、あの夢はなんなのだろう。

夢に登場したバスは、現実に千尋が利用しているバスとはどこか雰囲気が違った。天井に貼られていた病院や週刊誌の広告も、現実には見たことがない。そのくせ、やけに臨場感があった。夢を見ている間は夢だとも思えないほどだった。

あの夢の正体を知りたければ、フロイト派のカウンセラーなどに相談したほうがいいかもしれない。だが、あいにく、カウンセリングを受けられるほどのお金は用意できない。結局のところ、なにもできない。

 千尋の胸には鉤爪が引っかかっているような気持ちの悪さがあった。

なにもできず、むやみに時間を過ごしていると、部屋の外から「ちひろ、起きてる?」と祖母の声が聞こえた。デジタル時計は、午前七時を示している。いつのまにか、朝食の時間になったらしい。

 部屋の遮光カーテンを開けると、派手な効果音が聞こえてきそうなくらいに朝陽が飛び散った。千尋は、その場で一度きり大きく伸びをしてから、自室を出た。

整然としたリビングのテーブルには、ふたりぶんの朝食が用意されている。スクランブルエッグの澄んだ匂いがBGMのように漂っている。

キッチン側の席には、すでに祖母が座っていた。千尋の顔を見るなり、祖母は、くしゃっと笑った。

「おはようね、ちひろ。今日も、寝ぐせがひどいじゃないの」

「え、そうかな?」

 千尋は、右手でショートヘアを撫でた。本当だ。たしかに、はねている。寝相が悪いのだろうかと自分を心配しつつ、祖母と対面する席に座った。

手を合わせようとしたとき、千尋は、挨拶を返していなかったことに気が付いて、「あ、おはよ」と付言した。祖母は優しく笑った。

 いまいちど手を合わせてから、軽く一礼する。手前の箸を手に取り、かつお節ふりかけのかかったご飯へと箸を進める。

今日の献立は、いつもと同じように、かつお節ふりかけのご飯と、豆腐が盛りだくさんの赤味噌のみそ汁と、ちょっと多めのスクランブルエッグだった。テーブルの上には、オプションとしてヤクルトも置かれている。

 千尋が黙々と食事を進めていると、左の壁から、ばたばたとした物音やぐちゃぐちゃと言い合う声が聞こえてきた。いつものことだ。会話の内容がわからないくらいには壁が厚いが、お互いの声を遮断できないくらいには壁が薄い。隣の山崎家は、毎日、千尋たちと同じ時間に起床している。

もちろん、当初は気になったが、いまではすっかり慣れていた。山崎家の物音を静かに見守りながら朝食をとるのが日課だ。

 一方で、山崎家にとっては、千尋たちは静かな住人なのかもしれない。朝食のときも、夕食のときも、それどころか、日常生活全般において、千尋は祖母とほとんど会話をしないのだから。

仲が悪いわけではない、と千尋は思っている。なにか話したいことがあれば、お互いに口を開くし、なにも話したいことがなければ、気にせず無言を貫くだけ。

 今日は、前者だ。千尋にとって、なにか話したいことがある日だった。

ご飯を半分ほど食べ終えたとき、千尋は、「あのさ、ばあちゃん」と慎重に呼びかけた。祖母は、「ん?」と少し意外そうな顔をした。それも一瞬だけ、すぐに笑顔になってくれたので、千尋は安心して本題に入る。

「変な夢を見たんだよ。昨日と今日、二日連続で、まったくおんなじの」

 千尋は、ホクロ男が出てくる夢について具体的に話した。共感してほしいからではなく、純粋に新しい情報を得たいからだ。人生経験が長い祖母なら、自分よりも物を知っているだろうと千尋は思っている。

「へえ、そんな奇妙な夢が。でも、なんとなく、ばあちゃん、どこかで聞いたことがあるような気も……」

 祖母は、しわくちゃの顔を斜め上方に向けた。既視感を覚えているような微かな戸惑いの表情を浮かべている。

ナイスな感じ。千尋は、ひそかに手応えを感じていた。期待どおり、なにか知っているのかもしれない。

千尋の箸も止まり、口の中の唾液も乾いていった。しばらくは祖母の言葉を待つために無言を貫いていたが、どうも、祖母はすぐには思い当たらない様子だ。居ても立ってもいられず、千尋は、思わず口出しした。

「ネットでは都市伝説みたいな話があるようなんだけど、『どこかで聞いたことがあるような気』って、それのことじゃない?」

「ばあちゃん、ネットなんか見ないもの」

「じゃあ、テレビでは?」

「ニュースしか見ないから、たぶん、テレビでもないと思う」

となると、いよいよ、絞り込まれてくる。ネットでもテレビでもないところで、ホクロ男の夢について聞いたことがあるのなら、身近なところ――たとえば、千尋が小さいころの出来事――で見聞きしたのではないか。

千尋の期待は大きくなっていった。この胸の中の気持ち悪さも、夢の正体さえわかれば解決するだろう。風邪薬を処方してくれる医師に対するのと同じような信頼感を、祖母に感じていた。

ところが、すぐのうちに祖母はゆるりと首を振り、柔らかい笑みをつくった。

「なにか引っかかる気もするけど、思い出せない。ごめんね」

 それなりのショックを受けたのは事実だ。思い出せないなら、思い出しそうな顔しないでよ、とも言いたくなった。そういう激しさが喉を通るときには緩和されて、口から出てきた言葉は全年齢対象だった。

「……そっか」

 いかにも残念そうに顔を伏せてしまった。祖母は、申し訳なさそうに「ばあちゃん、記憶がダメだからね」と言った。

これにはさすがに千尋も心苦しくなった。なにか心温かいファミリーソングとかの雰囲気をイメージしながら、ズレているくらいの唐突な笑顔をした。

「気にしてないよ、ぜんぜん。また、なんか、思い出したら教えてね」

 とってつけたような優しさには、心の内をカバーするだけの大きさがない。自分の言葉が嘘くさいな、と千尋は自分で思った。相変わらず温かく微笑んでいる祖母も、心の中では千尋と同じように思ったかもしれない。

もっと自然に、優しくなれたらいいのに。

そう思っただけなのに、千尋は、急に胸が苦しくなった。もう二十五歳。人生の春が遠ざかっていく。代り映えしない日々に、不安が増していく。

慌てて、ご飯を口の中に押し込んで、ぎゅっと嚙みつぶす。すごく苦しい。まさに自分がぶつかっている現実みたいだ、と千尋は思った。


 レースカーテンのような雲が青空にモザイクをかけている。

 心の中にも、いろいろなモザイクがかかっているのではないか。触れないでおきたい心のパーツが日に日に増えているような気がする。

そんな暗い思いに背を向けるようにして、千尋は、ダークトーンで統一されたカフェに入店した。

何度かこのカフェの前を通ったことはあったが、入るのは初めてだ。ビジネスパーソンが仕事の合間に来るオアシスみたいな場所である。ファミレスのような博愛主義の雰囲気がないので、ちょっと入りづらい。

もしも誘われていなかったら、このカフェは、人生を通してアウェイでありつづけただろうな、と千尋は思った。

ほどよく薄暗いカフェ店内を見回すと、すでに相手は到着していた。

 小走りでテーブルまで行って、すかさず、「待った?」と声をかけた。

「ふつうに待った」

 当たり前だ。千尋は、約束の時間から二十分ほど遅刻しているのだから。

「ごめんなさい。どのカフェか、わかんなくてさ。普段、カフェとか来ないから、入りづらいのもあったりして」

 すらすらと言葉は出てくる。しかしながら、本当に心の底から申し訳ないという気持ちにはならない。そのことが自分で受け入れがたく思い、積極的に申し訳なさそうな素振りをしたくなる。

 そんな千尋の内心を鋭く見抜いているような目をした相手は、無言でメニュー表を差し出してくる。遅刻の件は責めないであげようという寛大な態度に思えた。千尋はうやうやしくメニュー表を受け取り、いちばん安いミルクコーヒーを頼んだ。

「なんか、こんなところで会うの、新鮮だね。いつも、控室でしか会わないから」

 千尋が自分の失態をはぐらかすように口早に言うと、茶髪を柳のように垂らしている相手―-町井は、「ね」とうなずいた。

 町井とは、バイト先の書店でしか会ったことがない。それも、町井とはすれちがいでシフトが組んであるので、控室の中でしか会話をしたことがない。だから、町井から「相談したいことがある」と言われたときは、予想外のオーダーに戸惑った。

 それほど信頼してくれているとは思っていなかった。千尋自身、相談相手にしたいほど町井を信頼してはいなかった。

 日曜の午前ならいいよ、と返答したのは、気まぐれだったのかもしれない。

 誰かの相談に乗るのは、久しぶりだった。千尋は、急に緊張してきた。店員が運んできたミルクコーヒーをずるずると少し吸ってから、「いいよ、相談のほうを」と促す。

その途端だった。カジュアルだった町井の顔がシリアスに転じるのが、手に取るようにわかった。

意外に重たい相談なのかと思うと、余計に緊張してきた。それを顔に出さないように気をつけながら、町井が話しだすのを静かに待った。

「まずは、ありがと。相談に乗ってくれて」

 町井は、自分の本気度を証明するかのように、まっすぐと目を合わせてきた。

「ネット掲示板でも相談してみたんだけど、あれは的外れで。やっぱ、同じような境遇の人にしか、伝わんないかなって思ってさ」

その揺るぎない町井の視線のおかげで、確信に変わった。町井は、深く悩んでいる。ちょっと気を抜けばその細い両目の奥から涙が零れてきそうな、そんな重たい荷物を背負っている。

あてがはずれたな、と千尋は思った。

正直、もっと軽っぽいものだと思っていた。相談という名の談笑をするのではないか、とさえ思っていた。二十分も遅刻してきたことが、いまごろになって、心の底から申し訳なく思えてくる。

このまま生半可な対応をすると最低な人間になってしまうぞ、と恐れを抱いた。千尋としても、気軽に目を逸らすわけにはいかなくなった。

「同じような境遇って、フリーターってこと?」

 町井は、さらさらと首を振った。

「じゃなくて、親のこと」

 親のこと……。またもや、不意打ちだった。

千尋の中で、親の姿はいつも憎々しいイメージをまとっている。愚痴程度ならさておき、真面目な相談の中では、できれば触れないでおきたい話題だった。

とはいえ、だから相談には乗れません、というわけにもいかない。千尋は、抵抗感を抱きつつ、慎重に言葉を紡ぐ。

「言われてみれば、そうかも。境遇、似てる。わたしたち、親と仲良くやれていないもの同士か」

 バイト先の控室で町井と話す中で、お互いに両親との関係が良好ではないことは打ち明けていた。千尋と同じように、町井も、両親とはほとんど絶縁状態のはずだ。

「もう何年も会ってない。神野さんも、そんな感じでしょ」

「まあ。このまま、一生、会わないのかも」

そう応じつつ、千尋は想像する。もしかしたら、町井としては、同じような境遇の相手として千尋に親しみを感じていたのかもしれない。千尋としては、親に対する愚痴のような会話をするための相手に過ぎなかったが。そんなことを思いめぐらせているうちに、町井は、話を進めた。

「そんで、その親がね、死んだの」

 躊躇なく放たれた言葉に、三度目の衝撃を受けた。重い相談のうえに、内容は親に関することで、しかも、その親が死んだという。

 死んだ。こんなにも冷気を放つ三文字を耳にしたことはない。身近に死を感じたことがない千尋の胸には、かつてないほどに動揺がひろがっていく。

ふたりが向きあうテーブルの上にいまにも現れようとしていた長い沈黙を防ごうとするかのように、町井は、「父が、一週間前」と続けた。妙に淡々としている。

「それまで元気にしてたようなんだけど、突然、心臓がダメになったみたいで。本人が嫌がって健診をしぶってたから、まあ……」

「ちょっと、ごめん。いったん、ストップ」

 耐えきれず、千尋は、一方的に町井の話をストップさせた。どうにか動揺を落ち着かせるために、テーブルに置き去りにされていたミルクコーヒーをごくごくと飲む。

ほとんど絶縁状態だった父が死んだ……。頭の中で何回も、朗読した。いつのまにか、ミルクコーヒーのたっぷりと入っていたグラスが空になっている。

これ、手に負えなくないか。千尋は正直、逃げ腰になる。

なんとかカフェを飛び出さずに済んだのは、町井に頼られている以上は空気の抜けきったトランポリンになることはできない、という、かろうじて持ち合わせていた社会人としての責任感のためだった。

 千尋は、こつん、とグラスをテーブルに置く。依然にして動揺は抑えられないが、少しは落ち着きを得たような気もする。

 千尋がいまいちど再開を促すと、町井は、まっすぐの目のまま、うなずいた。

「そんでね、わたし、父が死んだことを知ったときからずっと――いま現在もそうなんだけれど――心の中が騒がしくなってる。実は、心の中には父の死を喜んでいるような気持ちもあって、それがいいのかな、っていうか。ダメなんだけどさ、でも、そういう気持ちもあって。そういうのって、どうやって片づけたらいいのかなって悩んでる」

 そんな町井の言いぶりに、千尋は、微かな違和感を覚えた。

「喜ぶ気持ちって、どういうこと?」

 町井は、まじまじと千尋の顔を見つめた。なんでわからないのよ、とでも言いたげな様子だ。しばらく無言を貫いたのちに、町井は、俯いてから口を開いた。

「だって、小さいころから殴られたりしたし。『お前なんか生まなければよかった』とか、ふつうに言ってきたし」

 町井の目に力がなくなり、俯いた目の奥に涙が浮かんでくる。

「あれがいなくなったんだって思うと、息がしやすくなった。でも、人の死を喜ぶ人になんてなりたくないし、どう思えばいいのか……」

「ごめんなさい、本当に」

 千尋は、ある重大なすれ違いに気がついて、咄嗟に頭を下げた。すごく居心地が悪い。たしかに両親と不仲という意味では千尋と町井は同じような境遇かもしれないが、その原因と程度がまったく違うようだ。

千尋は親から虐待された経験はない。当然のように、それが原因で親との関係が疎遠になっていたわけでもない。町井はおそらく千尋を誤解している。

一度きり深く息を吐いてから、千尋は、具体的な自分の状況の説明を始めた。

両親との関係が決裂したのは、四年ほど前だった。それ以前はむしろ仲のいい家族だったのではないか、と千尋は思っている。

父も母も、どちらかというと温厚な性格だった。もろもろの現実を見据えたうえで普通科ではなく工業高校の機械科に進学したい、と千尋が決断したときも、ふたりとも千尋の考えを尊重してくれた。

神奈川県内の工業高校を卒業したのち、千尋は、同じく県内の航空機器メーカーの工場に工場員として就職した。当初は覚えることが多くて戸惑ったが、落ち着いてくると満足感が増えてきた。小さな歯車として社会に関われていることに充実感があった。

転機となったのは、ある同級生の存在だった。

千尋にとって工場員として生きていこうという思いは、現実の側面でしかなく、それは夢とは言えなかった。千尋の心の中に忘れがたく絡みついていたもの――俳優になりたい――その思いが、千尋にとっての夢だった。とある同級生の存在がきっかけになり、その思いが強く刺激されることになった。

いまになって思えば、いささか衝動的な選択だったかもしれない。千尋は、二十一歳のとき、三年ほど働いた工場を依願退職した。当たり前のように両親は猛反発したが、聞く耳を持たずに実家を出た。

なにをそれほど急いでいたのか。工場を辞めてすぐに俳優になれるわけでもないのに、両親から逃げるように上京した。東京に行けば、なにかが解決する。そう思っていたのかもしれない。

はじめのうちは、都内で働いている友人宅で居候生活を続けた。さすがに長居するわけにもいかない。都内のマンガ喫茶やカプセルホテルなどで凌いだ末に、足立区にある父方の実家に辿りついた。

それが現在の生活拠点である。祖母がひとりで住んでいたところにお邪魔した格好である。すでに住民票も移してしまった。肝心の祖母は、千尋に対して「応援している」とは言わないが、これといって反発もしなかった。

可能であるならば、演技を学べる専門学校に通いたかった。もちろん、実家を出たきり音信不通になっている両親が協力してくれるはずがない。

まずなによりも実感したのは、この世界では、お金がなければ可能性は縮んでいく、という現実だった。

千尋は、すぐに東京駅内にある書店でバイトを始めた。そこで稼いだお金の一部を生活費として祖母に払い、演技レッスンの受講料を払い、あとの残りを自分の趣味にあてるようにしている。

現在は、芸能事務所への応募を続けながら、毎週日曜の午後に都内で演技レッスンを受けている。その演技レッスンの講師とのつながりでドラマのエキストラをやったことはあるが、それくらいだ。なにも成果は出ていない。

そんな生活がもう四年くらいだ。いちばん入りたいと思っていた芸能事務所の応募要項が二十五歳以下であるから、今年が最後の挑戦である。

 以上のように説明しながら、千尋は、ずっと落ち着かなかった。役者志望だということを隠していた自分のことが恥ずかしい。

「これでダメだったら、土下座でもして神奈川の実家に帰ろうかなって。そんな感じだから、両親が心の底から嫌なわけじゃない。俳優になりたいだなんて自分の子供が言い出したらさ、そりゃ、パニックになるだろうし」

 説明を終えると、町井は、どこか爽やかな顔になった。

「こっちこそ、ごめんね。わたしの頭の中では、神野さんは親に虐待されてたって設定だったから。でも、人に話せてよかった。ちょっと、すっきりした」

 その言いぶりは無理をしているのか、とも訝しんだが、それ以上は深入りしないことに決めた。あまり人には打ち明けないことを話し合ったせいか、お互いにぐっと距離が縮まったような気がしていた。

「そういえば、神野さん。例の夢はどうなの?」

 五月に入ってから突然に始まった悪夢は、現在も、続いていた。もう二週間くらいになるだろうか。毎夜というわけではない。断続的に、夢の中にホクロ男が出てきて、じいっと見つめてくる。

 町井は、さらりとした長い茶髪を右手で揉みながら、「今度出てきたら、話しかけてみたらいいかもよ」と含み笑いをするように言った。


 その夕方、演技レッスン終わりの帰りのバスの中で、千尋はひとり、その日のカフェでの会話を思い出していた。役者志望であることを町井に打ち明けたときの恥ずかしい気持ちが蘇ってくる。

 なんとも不服だ。なんで、憧れの職業を目指すという行動を、自分で恥ずかしいと思わなければいけないのか。

 堂々と胸を張り、はっきりと宣言し、着々と実行する。そういうものに、わたしはなりたいが、残念ながら、そうはなれない。

俳優になりたいという思いの中に、モラトリアムに似たような甘えや、抑えきれないままに暴走している自己顕示欲などがあるのではないか。そう問われたら、千尋は、「それもある」と答える。

そんなだからいつまでも胸を張れない。今回のように恥ずかしがることになる。

じゃあ、いつになったら胸を張れるようになるのか。そう考えたとき、千尋はいつも同じ結論に辿りつく。ちゃんと売れるまでは無理かも、と。

人間だもの。

こんな、もやもやとした気持ちがなくならないときは、自分が好きな作品を頭に浮かべることにしている。バスの揺れに右往左往する千尋の頭の中に、『緑色の眼球をひとつ』の印象的なラストシーンが浮かんできた。

何故いきるのダークファンタジー小説、『緑色の眼球をひとつ』を映画化したものだ。二〇〇九年の冬に全国公開され、予想を裏切り、大ヒットした。そのラストで、絶望の果てに見えてくる針の穴のような希望が強く胸を打つ。

まだ千尋が神奈川の工業高校に通っていたときだ。そのとき劇場で味わった止めどない興奮と、その興奮をたった二時間で与えてくれたクリエイターたちへのリスペクトを思い出す。

人生をかけられる。ただ、そう思える。

たったそれだけの思いでも、もやもやとした気持ちを宥めていくのには十分だった。やっぱり、俳優になりたい。情熱が勝つ。

情熱があふれてくると、焦燥感も膨らんでいく。急がなければ、間に合わない。熱い思いだけが先走り、現実がついてこない。

思いきり走りたいのに足が言うことを聞かない感じ。それが悔しい。

ぽたり、と左頬に液体が落ちてきた。いつのまにか、ヘタクソなドラマみたいに泣いている。人目のあるバスの中で、なにをしているのだろう。千尋は、自分の顔がどんなに無様になっているだろうか、と右隣の車窓を見た。

その途端、どきりとした。あの男の顔がある。

そこまでの思考の軌跡がダイナマイトの勢いで吹っ飛ばされた。頭の中は、目の前にいる男の顔でいっぱいになる。

よく考えてみれば、まだ夜ではないはずなのに、どういうわけか外は暗く、車窓が鏡になっている。気が付かないうちに、夢の世界へ突入していた。車窓の中では、無表情のホクロ男がなにか言っている。その声は激しいエンジン音に搔き消されている。

千尋は、勇を鼓して、口を動かした。

「誰なんですか?」

 なにも反応はない。引き続き、男はゆっくりと口を動かしている。その口の動きを凝視したが、どうにも解読できない。

「あの、本当に、誰なんですか?」

 千尋は、もういちど声量を上げて、訊いた。それにも反応はない。

町井の話していた都市伝説によれば、「お前こそ誰だ」と反問されるはずだ。現在、そう反問されているようには思えなかった。

これが例の都市伝説とは違うのなら、これはなんだ。不可解さが増していくと恐怖も増していく。千尋はそれ以上、ホクロ男に声をかけるだけの気力を失った。

目を逸らそうとしても、思うように身体が動かなかった。あとちょっとでキスできるくらいの近い距離で、見知らぬ中年男性の顔と目を合わせつづけている。

はやく目覚めてよ、と千尋は一心に祈った。すぐにでも解放されたい。このまま目を合わせていると、頭がおかしくなりそうだ。

 その祈りのせいか、ふいに、はっと目が覚めた。息が荒い。身体のいたるところで血がどくどくと巡っている。

周囲を見回すと、自分が夕暮れ時の住宅街を走るバスに乗車していることがわかった。これも夢の続きでは、と疑心暗鬼にもなったが、それは大丈夫そうだ。右隣の車窓には、本当にうっすらとだが、ショートヘアの小顔が映り込んでいる。それはわたし。千尋は、安堵の息を吐いた。

これで、何度目なのだろう。五月に入ってから突然に始まり、もう五月も半分を過ぎようとしている。ずっと記憶を探りつづけたが、やはり、左頬に大きなホクロが並んでいる中年男性には心当たりがない。

そのホクロ男のことだけでも十分に気味が悪いが、状況はもっと深刻だ。いままで千尋は同じ夢を何度も繰りかえすことはなかった。まるでリピート再生をするかのように繰りかえされていく夢は、どこか脅迫的だった。

バスに乗車したときとは別の意味でもやもやとした気持ちを抱えながら、千尋は、バスを降車した。

バス停から徒歩で十分ほど離れたところに、横に長い七階建てのマンションがある。その七階の真ん中あたりに、祖母が住んでいる父方の実家がある。

マンションまで歩いているうちに、気まぐれな千尋の頭の中で、ホクロ男の夢に対する無責任な解釈が進んでいった。もしかしたら、あの夢は、俳優になりたいという理想を叶えられないままでいることの不安や、悔しさや、怖さや、自尊心の傷つきを、抽象的に表現しようとしたアートなのかもしれない。あのホクロ男は、千尋が直面している現実そのものの比喩なのではないか。

だとすれば、あの夢を見たときの怖さは、当然だろう。この一度きりの人生で俳優になれないまま青春を終えるとしたら、どんなに怖いことか。

祖母の待つマンションの『703』号室に到着すると、千尋は、真っ先に自室に行った。

そこは父が子供のころに利用していた部屋だ。ベッドをふたつは並べられるくらいの広さがある。

父が中身だけ抜き取って残していったという本棚には、小説や雑誌はちょろりとしか置かれていない。その代わりに、膨大な量のDVDやブルーレイのディスクが並んでいる。千尋のコレクションだ。中古屋で安く買いそろえたものである。

千尋は、その中からひとつを抜き取った。二〇〇九年に大ヒットした『緑色の眼球をひとつ』。邦画ではありえないレベルの残虐描写があったにもかかわらず、そのインパクトのある世界観で、あらゆる批判を薙ぎ倒した。

持ち運び用のプレイヤーをローテーブルに置き、そのディスクをセットする。チャプター選択の画面でラストシーンを選んだ。そのラストの一〇分間を、千尋は、わくわくとした気持ちで観る。

まだ死ねないだろ、こりゃ、と今日も思う。


 一日のうち、いちばん幸せな時間はいつか。バイト中は接客時にどうしても緊張感があるし、演技のレッスン中は思うようにいかずに苛立つことが多い。逆に、自室に籠っているときは、居ても立ってもいられない気持ちになる。なにかに取り組まねば、遅れを取る。そんな慌ただしい思いがこみ上げてくる。

バイトでもなく、レッスンスタジオでもなく、自室でもないとすれば、残っているのはバスの乗車時くらいだ。

バスに揺られているときは、ゆったりと落ち着くことができる。バイト先の書店への行き来は、いつもバスだ。

当初は電車で足立区と東京駅を行き来していたが、満員電車が嫌だった。人の多さが嫌いというわけではない。人が多くて心が弾むからこそ、東京駅内の書店をバイト先に選んだくらいだ。とはいえ、程度の問題がある。パーソナルスペースに見知らぬ人がずかずかと入り込んでくることには、拭いがたい不快感を覚えていた。

そこで自然に、都営バスという選択肢が頭に浮かんできた。

バスでも通勤手当が出る。かりに通勤手当が出なくても、バスと電車の料金に大差はないので、金銭的な問題はなかった。そういうわけで、満員電車に乗りたくないあまり、早々のうちにバス通勤に切り替えた。

午後六時半ごろ、千尋は、東京駅の丸の内北口のすぐ近くにあるバスターミナルから『荒川土手行き』に乗車した。まだ暗くはない夕方、乗客は五人ほどである。

バイトの疲れを発散するように、背もたれに深く背を預ける。

バスに乗っている間は、どんなに怠惰に過ごしても、さまざまな神々―主に地元のお地蔵さん――に許してもらえるような気がしていた。

ぼんやりと、バスの中から東京の景色を見つめていると、高い壁に囲まれた迷路を進んでいるような気分になった。立ち並んでいる建物はどれも背が高いので、死角だらけだ。五十メートル先の景色さえ、ほとんど見えない。

唯一、幅の広い川を渡るときだけ視界が開かれる。そのときになって、ああ、と思う。ここは巨大な平野だったのだな、と。

もう五月も終わりを迎えている。

 その間ずっと、同じ内容の夢が繰りかえされていた。もはや、一か月に達しようとしている。いくら見ても怖さは消えない。その夢の中でいつもバスが出てくるから、バスに乗車するとどうしても思い出す。

 なにかの警告なのではないか。千尋は、そんな気もしていた。たとえば、あの顔の男には気をつけろ、というメッセージなのかもしれない。もしかしたら、この先、あの男が現実に登場することもあるのではないか。

 そんなことを漫然と考えているうちに、陽が沈んで、荒川土手に到着した。土手とはいっても、バス停があるのは荒川堤防の外側であるため、河川敷は見えない。窮屈そうに縮こまっている薄暗い住宅街の中で、一〇分程度、待った。それから時間どおりにやってきた『西新井駅前行き』に乗車した。

 バス車内では、三人の乗客が思い思いにゆったりとしている。

いちばん後部の座席から車内を見回したとき、千尋は、なんとなく、バスの運転席背部にある小型モニターに目が止まった。最近になって、このようなモニターが付随したバスを見かけるようになった。

そのときちょうどモニターでは、「一緒に夢を叶えよう」と少年がガッツポーズをする有名予備校の宣伝CMが流れていた。

それが終わると、月間ニュースの画面に切り替わった。全国紙のひとつが提供しているらしく、モニターの下部にでかでかと新聞社名が掲げられている。モニターの上部に現れた横長の枠の中を、コンパクトなニュースが流れていく。

『4月1日時点で14歳以下の推計人口が1553万人であったと総務省が公表。37年連続の減少に』

その予備校を皮肉ったようなニュースは、過労死に向かう島国の暗い未来を暗示しているようじゃないか。

いやいや、と千尋は考え直す。国というよりは、個人の問題かもしれない。このまま役者志望を続けていると、万全に老後資金を確保できない。俳優になりたいという夢を追いつづけることは経済的に厳しい。

そんなことはわかっている。だからこそ、ときどき演出がかった涙が出るくらいに焦っている。いまはただ、少しだけ猶予が欲しい。最後のチャンスに賭けたい。いまだけは――本当にいまだけは――むやみに現実を突きつけてくるニュースには目を塞いでいたい。

千尋がモニターから目を逸らそうとしたときだった。横長の枠の中に『何故』という二文字が流れてきた。思わず目が引っ張られる。

『何故いきるの新作【蛙の戯曲】が来年に映画化。主演の浦上直斗、「難しい役なので、いままでにない挑戦になる」とコメント』

 ナイスフォローなニュースだった。すぐに次のニュースに移っていったが、千尋の頭の中では、『蛙の戯曲』映画化のニュースが留まっていた。

そのニュースをはじめて知ったのは、今朝、バイト先の書店に行ったときだった。

店員用の控室に入ったとき、挨拶もしないうちに、『蛙の戯曲』のポップをつくってほしいとアフロ店長から頼まれた。店長が言うには、『蛙の戯曲』の映画化が決定したという速報がネットを駆けめぐったらしい。千尋が半分信じられないような気持ちで調べると、『緑色の眼球をひとつ』の美術監督でもあった坂島真一監督がメガホンを取り、いま流行りの演技派俳優、浦上直斗が主演を務めるという。

 こんなに心が躍るニュースはそうそうない。事件や汚職、不倫にパワハラ、災害と利害関係、そして、残念な人たちの謝罪会見……そんなのばっかりだ。やっぱり、この世界には映画が必要だ。千尋の頭から現実がするすると抜けていって、空いたスペースを『蛙の戯曲』が埋めていく。

 五月のうちに、単行本で五〇〇ページ以上の大作、『蛙の戯曲』は読了済みだった。

内容としては、たしかに純愛ラブストーリーだった。とはいえ、さすがは何故いきる、ただのラブストーリーでは終わらせない。

設定からして、常軌を逸していた。主人公の少年は連続殺人鬼。数えきれないほどの後頭部をハンマーで割り、無差別に人々を殺してきた。殺人衝動が生まれたきっかけを、「人間の底が知れたから」と主人公は語る。

物語は冒頭から動く。心の底から美しいと感じてしまった少女の登場で、主人公は動揺する。美しさは、相手の感情を強制的に動かすという点において暴力的だ。多くの人間を見下してきた主人公にとって、非の打ちどころのない美という暴力は耐えがたかった。胸が裂かれるような思いで過去を内省し、人生をやり直そうとする主人公。その心はすごく脆い。贖罪の先に見えてきた、少女との未来。しかし、物語のラストで待っていたのは衝撃の結末だった……。

千尋は、そのラストを気に入っている。ネット上では少々炎上しているが、それくらい強いラストであるわけだ。映画化となれば、かなり期待できる。

しかも、主演は、浦上直斗だという。

四年前、とある青春ラブコメ映画の宣伝CMの中で、浦上直斗の姿を確認したときは、とても驚いた。

浦上は、千尋が工業高校に通っていたときの同級生だ。浦上も同じ演劇部に所属していたので、お互いに見知っている。そこまで親しい仲ではないので、リアルタイムで連絡を取り合っているわけではない。それでも、その活躍に刺激されたのは事実だった。

千尋が上京せざるを得なくなったのは、浦上のおかげだった。

もうすっかり、手の届かない人になった。大学入学とともに上京した浦上は、都内にある大手芸能事務所『イーストマインド』にスカウトされ、まずは舞台での俳優デビューを果たした。

そこでの活躍が認められ、ゴールデンタイムのドラマにも出演し、前出の青春ラブコメ映画では主演デビューも果たした。

その段階では、まだ、二枚目に過ぎないという声も多かった。マンガ原作の作品など、ポップな作品に出演することが多かったせいかもしれない。しかし、昨年公開されたドキュメンタリータッチのクライム映画では、孤独の果てに心が崩壊していく引きこもりを熱演し、これが業界内で高く評価された。今年の三月には、同作品への貢献によって、日本アカデミー賞主演男優賞を受賞した。

いま日本の芸能界で、いちばん勢いのある演技派俳優である。

千尋は、こっそりと浦上の活躍に励まされてきた。わたしもやるのだ、ちゃっかりと。やっぱり、まだ死ねないわけだ。千尋は強く思う。


   第二章 麓月


 胸の底に響く重低音に、臓器をすべて洗浄してもらえたような感覚。これがヤミツキ。普段は手の届かないところまで、きれいさっぱり。

 爆風で飛んでいくのは、どれもバッドなコスチューム。憂いで縫われたジャンパーも、悲しみで加工されたキャップも。すべて脱ぎ去って、踊る。

 ステージでシャウトするロックンロール。顔立ちの整ったバンドマンは、歓声を浴びるとモンスターになる。

地下の小さなライブハウスは、狭いくせに人が多く、熱気の密度がすこぶる高い。観客は合体してひとつの巨人となり、その分散的なシステムを、ミュージックというタクトが連帯へと導く。

このまま、ずっと……。

いつまでも、ずっと、ここにいたい。

ひかりを嫌がるモグラみたいに、地下に潜伏していたい。もう期待など、していない。この地上には、救いがたいほど救いがない。戻りたくない。死んでもいいから、ずっと、ここにいさせて。

そんな儚い思いも脱ぎ去って、刹那の発散のためにダンス。

ステージの前を確保しているのは、コスプレのような衣装をまとったバンギャだ。小悪魔的なミニスカは豊満なフトモモを見せつけ、ほとんどブラだけみたいな派手なファッションは人形のようなくびれを披露している。

そういう人たちと同じような世界観で生きている。べつに見下してないし、見下されるつもりもない。これだけ激しい空間に行かないと、心が静かにならないだけ。あの人たちだって、だいたい、そういう動機でしょ。

振り付けのないダンスに明け暮れている中、ふいに、ライブハウスの隅っこのほうに暗い兆しを感じた。目を走らせる。

あんた、誰よ。ライブハウスの前方の左に、ぜんぜん溶けこめてない中年男性がいる。なぜか、ステージに背を向けている。じいっとこっちを見つめてくるのだが、絶対に知り合いではない。

なんで、こっち見てくんのよ。思いきり睨んでやったが、気味が悪いくらい反応がなかった。よく見ると、その男は無表情のまま、ゆっくりと口を動かしている。なにか言っているようだが、エレキギターの爆音の中で聞こえるはずもない。

なんか、あの男、顔にいっぱいハエが止まっていないか、と思ったら、それはホクロだった。どうやら、左頬に三つのホクロが並んでいるらしい。

もしかして、仕事先の知り合い? それ、ヤバ。もう睨んじゃったよ。急いでぺこりと頭を下げたが、それにも無反応だった。

半殺し状態。これ、どうすればいいわけ。よくわからないまま、とりあえずダンスだけ続けた。その空間にあふれてくる波を、サーファーのように楽しむだけ。


あれ。なんだか、白い。雪に包まれたような清潔感がある。杉田奈央は、いまにも消えそうな意識で世界を見つめていた。

視線の先にあるのは、真っ白い壁だ。なにも模様はない。かりにその壁のほうへ手を伸ばしたとしても、指先が届きそうにないくらい、距離が離れている。ベルリンの壁みたいに自由を制限されているような気がした。

なんだろう、この壁は。

杉田は、うっすらとだけ開いていた瞼を、もうちょっと大きく開いた。そのとき、気が付いた。そのシンプルな白い平面は、壁ではなく、天井だ。

なるほど、と合点がいった。自分の視線と天井が垂直に交わっているなら、現在、この身体は天井と平行に寝転がっている。当然のように、寝転がった状態で天井に手が届くわけもない。

杉田は、考える。寝転がっているということは、いままで、寝ていたわけだ。ということは、いまさっきのヘンテコな体験は夢だったわけだ。ライブハウスの中で身元不明の男がじいっと見つめてくるという夢だった。

杉田は、さらに目を開いて、左右に首を動かした。つるっとした素材の白いカーテンに囲まれている。ここは病室だろうか。

ここは、いったい――。杉田は、その場に上半身を起こした。四方のすべてがカーテンに囲まれている中で、直近の記憶を探っていく。

杉田の記憶にある限り、今日は、六月の初日だ。とくに変わったことはなく、単調な事務仕事をしていた。いつものように嫌なことを思い出してしまい、いつものように必死に手元に集中しようとしていた気がする。

それでも、強烈な眠気も加勢して、どうしても集中できなかった。そこで、いさぎよくトイレに立った。洗面所の特大サイズの鏡を見つめていると、そこに映り込んでいた開きっぱなしの小窓の先に、広大な青空が見えた。

この青空の中を落下することができたら、どんなに気持ちがいいだろう。そう思ったところまで、記憶が残っている。

まさか、と一瞬は思ったが、その『まさか』はあり得ない。こんな病室みたいな天国はないだろうし、どっちかといえば地獄に落ちるタイプだと思う。

杉田は、いまいち状況を把握できず、カーテンの外へ声を投げた。

「あの、誰か?」

 すると、すぐさま、「いま、行きます」と、女性の渋い声で反応があった。

すたすたと近づいてくる足音に続いて、サアっと足元のカーテンが引かれた。そのむこうから顔を出したのは、見慣れた女性だ。五十代くらいの、白衣をまとった細身。企業内医務室の看護師だった。

「やっと起きたんですね。どこか、不調など、ないですか?」

「そんなことより、わたし、どういう経緯で、ここにいるんですか」

 杉田が慌てると、看護師は、柔和に笑った。

「杉田さん、女子トイレの洗面所で、洗面台に手を突っ込んだまま、床にお尻をつけて寝てたみたいですよ。起こそうとしても、半分しか起きなかったみたいで、とりあえず、ここ――医務室のベッドに運ばれてきたんですが」

 ぞっとするのと同時に、思い出した。洗面台の冷たい水が心地よくて、蛇口から出てくる水で意味もなく手を濡らしていた。それを続けていたところ、溜まっていた眠気に襲われたのだ。

 これはまずいことになった、と杉田は余計に慌てた。できることなら、すぐさま仕事に戻って醜態を詫びたかった。

しかし、医務室の看護師が言うには、「今日はもう帰って十分に睡眠をとっていいぞ」という伝言を、杉田の直属の上司から受け取ったらしい。杉田の荷物も、医務室まで運ばれてきていた。

 まるで、体調管理もできないダメなやつだな、と邪魔者扱いをされたみたいだ。

杉田の胸の中では、弁解したい気持ちがあった。対策として、毎夜、市販の睡眠導入剤を服用していた。その効果が発揮されないまま、いつまでも暗闇と対峙する毎夜だった。しかるべく対処はしていたのだと、そこだけは認めてほしい。

 どうあれ、上司の指示なら従うしかない。どっちにしろ、これ以上、迷惑をかけるわけにもいかないのだから。杉田は、いさぎよく早退することに決めた。まだ、帰宅ラッシュまで数時間の猶予がある時間帯だ。

両腕にダンベルを持っているような重さを感じながら、杉田は、医務室を出て、オフィスビルを出て、電車に乗った。開放感なんて、微塵もない。吊り革を握ったまま立っているだけで、余計に気分は悪化していく。

電車に乗るだけでも、いちいち忌々しい記憶が呼び起こされてしまうのだから、なおさらである。

最寄りの駅に到着すると、対角線を辿るようにまっすぐとマンションまで向かった。杉田の居住するマンションは、下車したプラットホームから徒歩で五分もかからない場所にある。オートロックの玄関を通り、エレベーターで最上階の九階に上がり、ひとり暮らしをしている『912』号室に入る。

 さっと手洗いを済ませてから、杉田は、浴室に行った。もうアラサーなのに、その浴室には誰も招いたことがない。

熱いシャワーを浴びているうちに、ちらちらと頭の中にナイフが浮かんでくる。その鋭利な刃先で頸動脈をざっと切ったなら、どれくらいの時間で死ねるのだろう。そんな卑しいことを頭に浮かべる自分に、嫌悪感を覚えずにはいられない。

 突如、吐き気がした。我慢できず、浴室のタイルにぶちまけた。珍しいことではない。いつもの心因性嘔吐だ。喉の奥から産卵したようなグロテスクな気分も、毎度のこと。肩で大きく息をしている裸の自分が、鏡に映っている。

 なんで、わたしが、こんな目に遭わないといけないの。

 それは怒りか、あるいは悲しみか。胸から離れない不快な感情がストーカーよりも悪質につきまとってくる。

 浴室を出たあとは、ガウンを羽織って寝室に向かった。分厚い遮光カーテンで閉ざされた寝室は、昼と夜の区別を持たない。

その寝室には、ひとつ、浦上直斗のための専用の棚が用意されている。公式グッズがほとんどだが、中にはオークションサイトで販売されていた浦上直筆のサインもある。三万円以上だったが、意地でも競り落としたものだ。

棚の上部には、浦上のドアップの顔のポスターがあった。ベッドに横になったまま、杉田は、そのポスターを見つめる。

 非の打ちどころのない美貌だ。見ているだけで癒される。

次回は不幸にも、『蛙の戯曲』という趣味の悪い映画に主演するようだが、どんなシーンがあるのだろう。

そろそろ、ベタベタしたシーンも見たいな。そんな想像をすると胸が高鳴るが、長くは続かない。今日もちゃんと眠れないのだろう、と杉田は半分、諦めていた。


   *


バスのいちばん後部の座席で、千尋はゆったりとしていた。

一か月も同じ夢を見ていたせいか、「これは夢だ」と自覚できるようになった。この臨場感のあるバス車内も、いつもの夢だ。

運転席のすぐ背後の座席には、お馴染みとなった薄毛の後頭部がある。その先の展開がわかっているせいだろう、その後頭部が邪悪に見えてくる。

もうそろそろだろうと思ったタイミングで、案の定、車体が大きく揺れた。気が付くと、その問題の後頭部がバス車内からなくなっている。いつもどおり、右隣の車窓にその男が映り込んでいるはずだ。

 振りむくときは、いつも怖い。べつに振りむかなくてもいいのかもしれないが、それもそれで怖かった。なにか異常なことが起こっているときは、その状況をはっきりと確認しておきたい。千尋がゆっくりと首を右に回すと、そこに――。

 あれ、と思った。

 車窓の中には、ショートヘアの小顔が映り込んでいる。それはホクロ男ではなく、自分の顔だった。

いつもと違う。千尋は、動揺した。こんな展開になったことは、五月の間は一度もなかった。現在は、六月の初日の夜。正確には、六月二日の未明だ。一か月もの間ずっと同じ内容だったのに、ここに来て突然、内容が変わるというのか。

どんな気まぐれだ。千尋は、きょろきょろとバス車内を見回した。薄毛の後頭部がなくなったこと以外には、車内に変わった様子はない。隅から隅まで目を向けても、ホクロ男の姿はどこにもなかった。

車窓の外は闇に包まれている。あまりにもできすぎた闇なので、車窓の外側をべったりと黒いペンキで塗りたくったかのようにも見える。そうでなければ、照明を落とした長いトンネルでも進んでいるのだろうか。

すごく嫌な気がする。冷静に考えると、夢の内容がいつもと違うだけだ。そうはわかりつつも、人生を通しての非常事態であるような気がしてならなかった。

なにか行動を起こさなければ、という漠然とした思いに駆られていた。千尋が咄嗟に思いついたのは、バスを停車させることだった。深く考える前に、近くにあったショッキングイエローの停車ボタンを押した。

ピンポーン、と甲高い音が車内に響いた。それに続けて、あらかじめ録音されたものだろう、事務的ながらも柔らかい女性の声でアナウンスが入った。

『次は、もう、停まれません』

 なんだ、それは。そんなアナウンスは一度たりとも耳にしたことがない。千尋は、もういちど停車ボタンを押そうと手を伸ばしたが、それはやめた。また意味不明なアナウンスが応じるのではないかと思うと、気が削がれたのだ。

 このバスが停まらないというのなら、自力でバスから抜け出すべきだ。千尋は、その座席から立ち上がった。

逃げたほうがいい、と本能が叫んでいる。このまま車内にとどまっていると、なにか恐ろしいことが起きそうな気がする。千尋は、車体の揺れに気をつけながら、バスの真ん中のあたりまで進んで、降車口の前に立った。

降車口のガラス越しに見える外には、闇だけが続いている。

……とばかり思っていたが、予想に反して、ひとつ、異質なものが存在していた。降車口から、おそらく十メートルくらい離れたところに、真っ赤な扉が見える。バスは前方に進行しているはずだが、その扉は動かない。

まるで、バスの降車口と、赤い扉のある黒い空間とが、ワープ装置によって接続されているかのようだった。

あの赤い扉は、なんだろう。

 千尋は、思いきって、降車口のドアの取っ手をつかんだ。ひんやりとした感覚がはっきりと右手に伝わる。その冷たさを体温で殺すようにぎゅっと握り、取っ手を引く。

すんなりと開いた。

意外だった。千尋としてもドアが開くとは思っていなかったので、数秒間、予想外の事態に動けなくなった。

外から入ってくる空気は、車内よりも新鮮だ。

あらためて、外の様子を観察する。ガラス越しに見えていたとおり、真向いの奥に赤い扉が沈黙している。

よく見ると、そのバスの外の空間が黒い壁に囲まれていることがわかった。壁によって仕切られた空間は直方体ではない。赤い扉を中心点とした中心角が鋭角の扇形、または赤い扉を頂点とした二等辺三角形、と言えばいいだろうか。この空間を真上から俯瞰すれば、ホールケーキを五つ以上に切り分けたときのひとつの塊のような形になっているだろう。

ちょうど、現在の千尋は、扇形の弧または弦のどちらかの部分に立っている。切り分けられたケーキにたとえるなら、ホールケーキのクリームに覆われた側面である。いちばん奥に見える赤い扉は、ホールケーキを切り分けたときの中心点の位置にある。

その空間は明らかに、そこに固定されている。バスが進んでも後退していない。もしかしたら、その空間とバスが同じスピードで同じ方向に進んでいるのかもしれない。

きっと、この空間は安全だ。千尋は、胸騒ぎから逃げるように、闇の中へと右足を踏みだした。

黒い床に、運動靴の底がついた。硬い感触が足裏に伝わる。揺るがない。床はやはり動いていない。千尋は、ほっとして、左足も進める。

少し進んでから、振りかえった。そこにはバスの車体があるとばかり思っていたが、またもや予想が外れた。そこには、降車口のドアはあったが、そのバスの車体はない。ドアだけがある。本当にワープみたいだ。しかも、緩やかに湾曲している黒い壁には、降車口のドア以外に四つ、いろいろな扉があった。

重そうな鋼鉄の扉、夜の川岸が見える透明なガラス戸、書店名がプリントされた透明ガラスの自動ドア、お風呂用のくもりガラスの折れ戸。

これらはなんなのだろう。気になりながらも、千尋は、ひとまず向き戻る。奥に向かって壁と壁の幅が狭くなっているため、赤い扉までの距離が長く感じられる。ここにやって来た以上は、あの赤い扉の先まで進みたい。

千尋は、不安を抱えつつも、弱い心に鞭を打ちながら足を進めた。

赤い扉に辿りつくと、まずは耳を澄ませた。純粋な赤色で上から下まで塗られている扉のむこうからは、とくに物音がしない。人が話す声もしない。そのせいか、静寂に浮かんでいる扉がやけに重そうに感じられた。

千尋は、その金色のドアノブを握った。がっちりしている。それを右に回すと思ったよりも抵抗感があった。

扉の先に待ち受けているのはなんだろう。千尋は少しばかり考えてみたが、考えてわかるものでもなかった。こんなところ、入らないほうがいいのではないか、という弱気な心もある。とはいえ、いまさら、バスに戻るつもりもない。

どうせ夢の中の出来事に過ぎないのだから、と思うと、不安も和らいだ。千尋は、覚悟を決めて、ドアノブをまわしきり、ぐっと押した。

ふわりと漂ってきた空気に、どこか懐かしいような感覚を覚える。

開いたドアの隙間から中を覗くと、そこはこじんまりとした一室だった。手前には、ふたつのブラウンの椅子に挟まれたブラックのローテーブルが見えた。そのテーブルには暖色のテーブルランプが置かれていて、その明かりが部屋の中にいたタキシード姿の男の後ろ姿を照らしている。

タキシードの男は、小さな部屋の奥で花瓶を持ち上げ、じっくりと見つめているところだった。後頭部が少し薄い。

あいつだ。千尋は、はっとした。ここずっと悪夢に登場していたホクロ男だ。思わず叫び声を上げそうになったところで、それを制するように声が上がった。

「ノックくらいはしていただけると、返事くらいはできたのですがね」

 少しざらりと濁っているが、それがむしろ余裕を感じさせる、低い男の声だった。白くて小さい花が挿されている花瓶をそっと棚に置くと、タキシードの男は、くるりとスムーズな動きで振りむいた。

その左頬には、ホクロが三つ並んでいる。

千尋は、恐怖を感じた。反射的に、首を引っ込ませ、赤い扉をちょっと閉める。いままでにないくらいに心臓が暴れていた。やっとの思いで、震える声ながら、ひとつだけ質問できた。

「あなたは、誰なんですか?」

 男は、ふっと小さく笑った。千尋の質問を的外れに感じたようだ。

「そんなに怖がられるようなことをしたつもりはないんですが、怖がらせていたなら、ごめんなさい。私は、言ってしまえば、指揮者みたいなものです」

 優しく微笑んだその男の顔には、邪悪さを感じない。この人はひょっとして安全な人なのか、と感じられなくもなかった。再考の余地はあるかもしれないと考えつつ、千尋は、「指揮者……ですか?」とオウム返しに言った。

「そうです。まあ、とりあえず、ここに座ってください。あなたのお話を聞こうと思いましてね、ここで待っていたんですよ」

 ホクロ男は、ここですよ、とでもいうようにローテーブルの奥にあるブラウンの椅子の背もたれをぽんぽんと叩いた。まるで紳士のようじゃないか、と千尋は思った。


   *


 一日の仕事が終わったあと、杉田は、迷路のような東京駅を歩いていた。曲がり角や出入口からは水蒸気のようにもくもくと人間が飛び出してきて途切れないのに、不思議にも、肩がぶつかり合うことはない。

腕時計によると、現在時刻はおよそ午後八時半だ。

杉田は、丸の内のオフィスビルで事務員として勤務している。六月の頭までは、仕事終わりの時間は午後六時だった。寄り道をしなければ、六時半までには帰宅できる。午後八時半という時間に、東京駅にいることはなかった。

ではなぜ現在、平日の午後八時半にまだ東京駅にいるのかと言えば、勤務時間を変更したことが大きな要因である。連日の不眠によって朝早くからの勤務が困難になっていたため、フレックスタイム制を利用して勤務時間を二時間だけずらした。それが六月の頭だ。それ以来、仕事終わりの時間は午後八時となった。

その生活が二週間くらい続いており、六月も半ばを迎えている。

相変わらずの不眠によって、日中もずっと、眠気が途切れない。そのくせ、夜になってもすぐには眠れない。ベッドに寝転がったまま、同じようなことを考えつづけることで睡眠時間を侵食していく。いっそのこと、夜間勤務を申し出るのもひとつの策かもしれない、とさえ考えている。

 なにひとつ達成感を得られないままの杉田は、未練がましい地縛霊のように東京駅を離れることができなかった。

 このまま電車に乗ったって、また嫌なことを思い出すだけだ。自宅に到着しても、そこにはリラックスできる空間がない。かといって、東京駅に残留して楽しいわけでもないが、人が多いぶん、ちょっとは心が軽くなったような錯覚がする。

 それもちょっとだけ、だけど。

無気力に歩いていっても、どこまでも景色が変わらない。どこも同じように騒がしい店舗が延々と続いている。

 杉田は、ついに歩くのに疲れて、近くにあった冷たい壁に背を預けた。日常生活が困難になっている現状に、重たい息を吐きたくなる。

 なんで、こうなってしまったのか。できるだけ、他人のせいにはしたくないから、自分の過去を内省することにしている。中高一貫の学校からエスカレーター方式で有名大学に進学したことが、よくなかったのではないか、とか。子供のときにそれほど努力していないから、精神が未熟なままなのではないか、とか。

 そうやって自分を責めるのが苦しくなると、思わず、他人をターゲットにした汚い言葉が胸の奥から迫りあがってくる。

激しく、痛々しく。表面上は仲良くしているのに、親も、親戚も、友達も、いつでも悪役にできる。頭の中では数えきれないほど放っている感情的な言葉を、直接に口にしたことはない……はずだけど。

友達はどんどん減っていってるから、うまく隠しきれていないのかもしれない。

この際、きれいさっぱり失ってしまったほうがすっきりするかもね、という過激な考えもありながら、かろうじて理性で食い止めている。冷静になると、結局のところ、受け入れられない現実を他人のせいにしているだけ、と気づく。

しかし、例外もある。アイツだけは……。

その憎たらしい顔が浮かびそうになり、慌てて、頭の中に竜巻を起こした。ぐちゃぐちゃにして、なかったことにする。

杉田は、ポッケからスマホを取り出して、ほとんど無意識に浦上直斗の公式SNSアカウントを検索した。そのアカウントのトップには、『写真集、好評販売中です』とセカンド写真集の告知があった。

そういえば、まだ買ってなかった。杉田は、無理にでも頭を切り替えて、駅内のいちばん近くの書店へと向かった。

何度か立ち寄ったことがあるだけで、書店内のジャンルの配置には詳しくない。かなり大型の書店なので、目的の写真集を探すのに苦労しそうだった。

杉田は、自力で探すのは早々に諦めた。書店の出入り口のところで、ちょうど近くを通りかかった女性の書店員を呼びとめた。

「あの、すみません」

 振りかえったその顔を見る限り、同年代くらいの女性だ。うっすらとした茶髪を後方で束ねている。胸元のネームプレートには、『町井』とあった。

「すみません、忙しいところ。写真集って、どのあたりですか?」

 そう端的に問うと、町井という店員は、仄かな笑顔を見せた。「芸能ですね。それなら、こちらです」と歩きだす。きびきびとした歩き方で、十秒くらいだ。写真集の置かれたエリアは出入り口のすぐ近くだった。

「こんな近くでしたか。どうも、ありがとうございます」

杉田は、丁寧に頭を下げた。それに負けじと、町井という店員も深く一礼して離れていった。ほんのちょっとだけだけど、劣等感を覚えるくらいにテキパキとしている。杉田は、その背中を見送った。

きっと、あの町井という店員には少しも見抜けなかっただろうな、と杉田は思った。社会人としての一定の礼儀はあるし、変質的な言動もしてないから。心の中はボロ雑巾みたいになっているのに、それは本人しか知らない。

外面が整っていることで、はみだしかけている自分も正常な人間の一員であると認識されることに、安心感があった。

 人間なんて、みんな、俳優みたいなもんだ。そう思いながら、杉田は、浦上の写真集の表紙を見つめた。結局、見た目がどうであるかしか見えない。その内側を覗きこんだような気になっても、しょせん、悟ったような自分に酔っているだけ。

他人にどう見られるかについては、自分で常に計算している。ほかの人だってそうだろうから、たいてい騙されていると思ったほうがいい。

杉田は、妙に落ち着いた気分で、浦上のセカンド写真集を購入した。

座席が空いていたら電車の中で見ようかなと思っていたが、いざ帰りの電車に乗ると、満席だった。購入したばかりの写真集をバッグに入れたまま、少し混んでいる車内の吊革につかまっている。

写真集を買ったことの興奮のため、さすがに電車の中でも気分は下がらないだろうと思っていた。そんな自分は楽観的だったらしい。電車に乗ると、どうしても嫌な記憶が呼び起されてしまい、いつものごとく気分はだだ下がりだった。

どうか、吐き気だけは込み上げてきませんように、と切に願うばかり。これ以上、誰かのお荷物にはなりたくない。

電車の外には、黒い世界がひろがっている。

毎夜のごとく、車窓はシックなダーク調の鏡になっている。そこに映っているのは、黒いスーツを着ている女の全身像だ。スタイルがよくて、顔は明るい。

こんなにも人生のどん底を這っているのに、外から見れば、成功しているようにも見えるかもしれない。杉田のプライドが維持できるのは、そういう体裁の整った見た目と肩書きがあるおかげだった。

杉田は、車窓から目を逸らし、腕時計に目を落とした。この電車を出られるのはいつごろだろうと計算すると、まだ八分以上あった。のろのろと進んでいく秒針に嫌がらせをされているように感じた。

「あれあれ。もしかして、ナオちゃん?」

 そのとき、突然、頭上から男の声が降ってきた。顔を上げると、そこに見知った男の顔がある。杉田は、みるみるうちに明るい気分になった。

「西島じゃん。まだシャバにいんの?」

 大学時代に同じダンスサークルに所属していた西島だ。大学時代は、銀髪に金色のピアスと、いかにもな感じであった。

現在は、黒髪でピアスもない。グレーのスーツまで着こなしている。ただひとつ、お皿のようにカーブした口がタバコ臭いのだけは同じままだった。

「生まれてこの方、ムショ暮らしはないんだけどね。ナオちゃんは、どうよ。もう、タッちゃんと結婚した?」

 それは禁断の話題だった。杉田は、何事もなかったかのように堂々と無視して、「まだ、新卒のまま?」と話題を変えた。「同じままよ」と西島。どうやら、ずっと大手飲料水メーカーの営業マンをやっているらしい。

 ひさしぶりの再会で、とても盛り上がった。電車の中にもかかわらず、これだけ明るい気持ちになれたのは、ここ一年ではじめてかもしれない。

西島は人脈が尋常ではないほど広いから、世間話が面白かった。大学時代に四股していた佐々木が親の金の力で地元の県議になったと聞いたときは、さすがに笑えた。真面目な議員から陰湿にイジメられても、我関せずの態度を貫き通しているらしい。それは安心感のある笑いだ。自分よりも終わっている人がいるのかと思うと、そのままの自分を肯定してもらえた気がする。

「あ、よかったらさ、これから後輩のライブに顔出すんだけど、行く? あんたんち、田端でしょ? ちょうど駅近のハコだしさ」

 断る理由などない。杉田は考える間も惜しんで「行かせて!」と即答した。

田端駅で降りると、自宅のあるマンションをすたすたと通りすぎて、ライブハウスへと向かった。

 西島と一緒に地下のライブハウスに入ると、ちかごろ忘れかけていた青春の熱狂が渦を巻いていた。鼓膜を破らんばかりの大音響は、力づくで現実を侵略する防衛軍のようだ。この空間には、秩序がないあまりに成立する落ち着きがある。

 小さいハコだから、後方からも、ステージの様子はよく見える。ステージ上で思いの丈をマイクにぶつけるバンドマンの清々しいことと言ったら、もう格別だ。

 胸の底を震わす爆音に身を預けていると、杉田は、ふと夢のことを思い出した。

 ここ最近――六月に入ってからだろうか――まったく同じ内容の夢を繰りかえし見ている。ライブハウスの中で群衆の中に紛れていると、前方に見知らぬ男がいて、その男がじいっと見つめてくる。それだけの夢だ。

 いままでは、同じ夢を繰りかえす経験はなかった。睡眠不足が影響しているのかもしれないとは思いつつも、その不足を解消する術はない。べつに同じ夢を見ることで害があるわけでもない。いまのところ、放置している。

 とはいえ、立ち止まって考えると、ミステリアスな現象だ。

 あの夢の中の男は、年齢としては、おそらく三十代だ。杉田よりもちょっと年上くらいである。職場で顔を合わせる相手は固定されているので、職場の人ではない。事務作業が主な仕事だから、現在の仕事で取引先の人と接することはない。社会人になってからは、プライベートでも、あまり人に会わなくなっている。

 となると、ますます、あの男は誰なのだという疑問が浮き彫りになる。

 夢に出てくるくらいだから、どこかで会ったことはあるはずだ。小学校のときの担任だろうかと考えたが、さすがに、それは憶えている。可能性があるとすれば、校務員とか、給食のパートとか、そのあたりの記憶の脇役ではないか。

 遠く昔まで記憶を手繰りよせてみたが、断定できるほど定かではない。どっかで見たような気もする。そう感じるだけで、進展はなかった。

 パワフルな演奏が終わると、杉田は、ライブハウスから吐き出された。

西島も、後輩だというバンドマンにからかい程度に声をかけてから、同じように吐き出されてきた。

 太陽が息を殺している。月光の注ぐ路上では、ライブ終わりの若者たちのグループが四つほど、名残惜しさを紛らわせるためか、無理やり盛り上がろうとしている。じめじめとした空気に、そういえば梅雨だった、と杉田は思い出していた。

「あのさ、実は、俺、知ってんだよ」

 雑居ビルの壁に背を預けていた西島は、タバコを吹かしながら、急に言った。なんのことだか、わからなかった。振りむこうともしない西島の横顔を見つめ、杉田は「え?」と反応する。

「いや、え、じゃなくてさ。あれだよ、あれ。タッちゃんと別れたんだろ? 今日も、元気なさすぎだしさ」

 バレてたのか。杉田は、内緒にしていた痣をむりやり覗かれたような不快感を覚えた。俳優を気取ってみても、心のうちまで見抜かれていたようである。隠そうとしていたものが筒抜けになっていたことにプライドは傷ついたが、その痛みは顔に出さない。

「別れたけど、べつに、よくあることだし」

「よくあるわけないだろ、五年の付き合いが途切れるなんてこと。強がんないでよ、俺らの仲でさ」

 妙に馴れ馴れしい。あんたに相談なんかしないよ、と言おうとしたら、「なにか話したかったら、電話ちょうだいよ。じゃあな」と一方的に別れを告げられた。

 それだけ言いおいて、どっかのドラマのワンシーンのように大きな背中が夜の路上を去っていく。

杉田は、幼稚園児のようにぽかんと立ち尽くした自分が恥ずかしくて、西島が去っていったほうに毅然と背中を向けた。そんな簡単な問題じゃない。そう言いかえせばよかった、と思いながら、夜の路上を歩いていく。


   *


 千尋とホクロ男の最初の対話は、当たり障りのない雑談だった。梅雨の季節がやってきましたね、とか、緩やかにも景気が上向いているようですね、など。一か月ずっと恐怖と不安を温めてきたこともあり、すぐには切り替えられなかった。

 恐るおそる話題を選んでいたと言ってもいいかもしれない。

 その中でのホクロ男の態度は、意外にも、丁寧だった。笑顔は少々出し惜しみするが、千尋が気楽に話せるようにするための配慮には手を抜かない。適度なうなずき、安定感のある間の取り方、千尋が言葉を探している間の待つ姿勢。

しかも、補足情報もしっかりしている。梅雨入りはまだ先のようだ、とか、景気に対して賃金の上昇率が低いことは大きな問題だ、など。教養のありそうな雰囲気があり、危険人物のレッテルを張るには申し訳なさすら覚えた。

その翌日も、そのまた翌日も、さらにまた翌日も……と対話を続けていく中で、ホクロ男への恐怖は消えていった。車窓の中でじいっと見つめてくるのが怖かった、と千尋が素直に打ち明けたときには、「怖がっている人の顔を見つめつづけるのも怖かったですよ」とにやにやと笑った。

「でも、怖がらせるつもりはなかったんです。べつに笑顔をしてもよかったんですが、それもそれで気持ちが悪いかな、と思いましてね」

ホクロ男によれば、あの夢の中のバスでの出来事にはこれといって意味がないらしい。もともと千尋と対話をすることが目的だったようだ。対話を始めるまでの準備期間としてバスの中で顔だけ合わすことにしていたという。

その論理はよくわからない。彼なりの配慮だと思えばいいのだろうか。

どうあれ、一か月もの不信感は浄化されていった。身元不明の危険人物というイメージから、頼りになりそうな人生の先輩といったイメージに切り替わっていく。

振りかえれば、ただの過去。以前は怖かったという記憶がほんのりと残るだけ。

 せっかく親しくなれそうだったから、名前くらいは知りたかった。何度か名前について訊ねたが、「指揮者みたいなものです」としか名乗らない。

 このまま「あの……」と呼ぶのも失礼な気がしたので、対話が始まってから一週間くらいのときから、「先生」と呼ぶようになった。

 実際に指揮者の方々が先生と呼ばれているのかは知らないが、違和感はない。先生と呼んでも成立するような厳かな雰囲気を身にまとっている。大きな三つのホクロに、言い知れぬ大物感があるのも原因かもしれない。

 かといって、重々しいわけでもなかった。適度に砕けたところもあり、千尋に同調する中でチクリとした皮肉を言うこともあった。

親しみが増していくにつれて、千尋は、自分に関することも気軽に話すようになった。心待ちにしていたホラー映画がハズレだったとか、バイト先でカスハラに遭った同僚が辞めてしまったことが他人事には思えないとか。

 それなりに親しくなってからのことだ。一度だけ、この夢はなんなのか、あなたは誰なのか、と千尋は訊いたことがあった。そのとき、先生は次のように説明した。

「ある重要な目標を達成するための指揮役として、わたしは動いています。その目標の内容については現時点では、お答えできません。わたしが夢の中の住人なのか、地球のどこかに実在している人物なのか、その点についても、たいへん申し訳ないのですが、黙秘させてください」

 つまり、詳しいことは話せないということだった。

なにも、焦る必要はない。新たな情報がひとつとして得られなかったわけではないのだから。その物言いからして、先生が夢について重要な事実を知っていることは間違いない。それどころか、先生自身が夢を操作しているようでもある。

見知らぬ人同士が夢の中で遭遇する、という町井が話していた都市伝説とは異質な現象だということは、ひとまず確定していい。千尋は、そう考えていた。

そのほか、新たな情報が入ってくることはなかった。先生はいつも聞き役に徹しているので、先生に関する情報はなにも浮かんでこない。具体的に質問しても、同じことを反問されて終わる。

家族の有無や、趣味や得意なこと、仕事やプライベート、頭の中に詰まっている記憶なども、いっさい打ち明けない。

幸いにも、それは信頼関係に向けての障害にはならなかった。先生に関する情報はほとんどなくても、むやみに疑うべき人間ではないことくらいはわかる。

いつからだろうか、日常の中で、先生への言葉を考えていることがある。バイトや演技レッスンの最中などに、感じたことや考えたことをどういう言葉でどのように先生に伝えようか、と頭を回している。千尋は、そんな自分のことを理解していた。明らかに、先生との対話を楽しむようになってきている。

 六月も半ばを過ぎていく中、千尋は、ついに、家族以外では町井にしか打ち明けていなかったことを先生にも話すことに決めた。

 闇を進んでいるバスの中で目覚めると、早々に降車口から外へ出た。その黒い空間を足早に進んで、赤い扉の中へと入る。扉のすぐ近くにいた先生は「待ってました」とぺこりと礼をして、千尋を奥の椅子へと促す。

そこは、夢とは思えないくらいの現実味がある、寒くも暑くもない一室。

ローテブルの上に置かれたカボチャサイズの暖色ライトのおかげで、そこはカウンセリングルームのように空気が凪いでいる。

先生は今日も、べったりと赤く塗られた扉を背にしていた。

いつもと同じように、「それで、今日は、どうですか?」と、オープンな質問によって対話の始まりを告げた。木材をヤスリで削ったときのような濁りがありながらも、注射針のようにするりと胸の奥に届く声だった。

千尋は、あらかじめ用意していた言葉の群れにゴーサインを出した。

「内緒にしようと思っていたわけじゃないんですけど、ずっと話していないままだったので、今日こそは、と思いまして。実はわたし、俳優を目指しているんです」

「ほう、俳優ですか」

 その先生の声は、芝生の公園でぼんやりと空を仰いでいる人みたいに、嘘がなくて真実もない。歓迎をしているようでもないし、拒絶をしているようでもない。過保護のようでもないし、他人事のようでもない。

「わたし、小さいころから映画が好きだったんです。ジャンルにこだわりはないんですけど、あえて言えば、ファンタジー寄りの作品が好みです」

 千尋は、包み隠さず、自分の趣味嗜好について話した。

 いまになって振りかえれば、小さいころから重度の妄想好きだったに違いない。現実を貫いているような作品には関心が持てず、独特な世界観を楽しめる作品ばかりレンタルしていた。とくに気に入っていたのは、『猫の恩返し』とか、『パンズ・ラビリンス』とか、『ナイトミュージアム』だ。

 その中でも、『ナイトミュージアム』はお気に入りだった。それを観て以来、アパレルショップに並んでいるマネキンがいまにも動き出すのではないかと冷や冷やするようになったことを憶えている。高校生のときまでこっそりマネキンを恐れていたことは、墓場まで持っていくべき秘密のひとつだった。

 将来は映画に携わるような仕事がしたい。できれば、俳優になりたい。

すでに小学生の時点でそんな夢を持っていたが、中学三年のときには現実しか見なくなっていた。いかに生きていくか。それを真正面から考えたとき、俳優などという不安定な職業は前提から除外された。

勉強は得意ではないから、頑張っても、優れた学歴はつくれない。それなら、専門的な勉強をして、早めに大手メーカーに職を得たほうが経済的だ。そう考えて進学した工業高校では、未練がましく演劇部に所属した。

 その高校時代にも、夢に対する思いはあった。なにげなく観に行った『緑色の眼球をひとつ』には衝撃を受けたし、少なからず心は揺らいだ。こんな作品に参加したい。そのような情熱は衰えていなかった。

ただし、千尋の目前には、険しい表情で威嚇してくる現実という圧倒的な暴力がどっかりと座り込んでいた。

 死ぬまで現実とともに生きていくものとばかり思っていた千尋にとって、現在の状況は悲惨とも言えるかもしれない。じっくりと説明して両親にも賛同を得た生き方を、自分で壊すことになるとは。

 いまの自分のままでは、どうしても、堂々と生きていくことができない。

浦上が所属している芸能事務所、『イーストマインド』のオーディションには毎年応募してきたが、いずれも書類選考の段階で落とされていた。迷いが心の中にあふれて、アイデンティティーが揺らぐ。

 千尋は、そんな心のうちをひとつずつ、嘘偽りを避けながら先生に打ち明けていった。うんうんと穏やかに耳を傾けていた先生は、たったの一言だけで千尋を満足させた。

「いつか過去を振りかえったときに、絶対に後悔できないほど、必死に取りくんでみるしかないんじゃないですかね」

 そうなのだ。わたしもそう思っていたのだ。最後のチャンスに賭けたいのだ。千尋は、その言葉だけが現在の自分に必要だったのだと気づいて、思わず泣きそうになった。


   *


 人の密度が高い場所はいくらでもある。通勤ラッシュ時の地下鉄や、外国人観光客の多い浅草寺、渋谷のスクランブル交差点など、どこも、日本有数の過密スポットだ。

それらのスポットに欠けているものがあるとすれば、そこにいる人たちのつながりの強さじゃないか。杉田は、そう考えている。たまたま同じ場所に居合わせただけの他人に過ぎない。つながりは希薄だ。

そういう観点で言えば、このライブハウスは稀有な場所だ。人の密度が高いうえに、そこにいる人たちのつながりが強い。

同じ音楽でハイになっていることを、お互いのスマイルで証明している。だから、見知らぬ人であっても、肩がぶつかり合ったくらいのことは気にならない。

――しかし、あれは、いったい、なんだ。

ライブハウスの左前方に、左頬にホクロが三つ並んでいる男がいる。毎晩のように見ている、あの男だ。どういうわけか、今日は、真顔ではない。果汁があふれてきそうなほどの弾ける笑顔でまっすぐと見つめてくるではないか。意味不明なダンスまで。

ちょっと不快だ、と杉田は思った。

たしかに真顔で見つめられるのも辛かったが、あんな笑顔で見つめられても、どう対応すればいいか、わからない。いちおう杉田も笑顔を返してみた。その男は、相変わらずのハッピースマイルをやめない。機械のような優柔不断さに、苛立ちを覚える。

あんた、だれ、ホントに。疑問を抱きつつも、杉田は、ぐうんと水面に浮き上がるように目を覚ました。

その途端に、忘れていた重力が戻ってくる。

薄く開いた目で、その空間を見つめる。ひとり暮らしの寝室だ。ひとりきりだとすごく広い。宇宙の果てで迷子になったみたいに。

休日であればいいのに、という虚しい祈りが胸に込み上げてくる。ずぶずぶと溺れていくように気分が沈んでいくのがわかった。こんなに孤独な現実世界に放りだされるくらいなら、あのまま奇妙な男の様子を不快に感じつつも見つめていたほうが幸せだったかもしれない。

よし、起き上がろう、という無意味な決心を幾度も重ねた。強く身体が拒んでいる。この肉体を形づくっている細胞のひとつひとつがいちいち重たい。ちょっと動けば抑えられなくなりそうな、そんな吐き気もする。

杉田は、なかなかベッドから起きだせなかった。

枕の傍には、スマホが落ちていた。昨晩もなかなか眠れず、月額制の動画配信サービスで、浦上が主演を務めているコメディー映画を視聴していた。ラストまで観た覚えがないから、途中で寝落ちしたのだろう。

杉田は、そのスマホを拾った。重たい腕でどうにかディスプレイを顔まで持ち上げ、いまにも軋みそうな親指で操作する。

まずは、SNSを開いた。勤務時間をずらしたため、杉田の起床時間に上司はすでに会社にいる。体調不良でお休みします、というメッセージを送信した。数秒で既読になった。『了解。次回からは電話で報告してください』とだけ返答が来た。

それで、ひとまず、一日の休みは確保したが、それだけで解決するような問題ではなかった。背中とマットが磁石で張りついているかのように、起きあがろうとしてもマットに吸い寄せられて、起きあがれない。杉田は、友達登録しているアカウント一覧を開いて、画面をスクロールしていく。

タバコの箱をプロフィール画像に登録しているのは、西島だ。

先日、電車の中でひさしぶりに再会した西島とは、あの夜以来、会っていない。連絡すら交わしていない。

杉田は、少し迷っている。タバコ臭いのは嫌だが、アリかナシかで言えばアリだ。甘すぎず辛すぎない、辛子マヨネーズ顔とでも呼べばいいのか、わりとタイプである。それに、西島なら、ちゃんと盛りあげてくれる。黙りこんでその場にいるだけで女が満足してくれると思い込んでいるようなナルシストじゃない。

杉田は、思いきって西島にメッセージを送ろうと思った。ささっと右の親指で、『土日、どっかで会わない?』と打ち込む。

そのメッセージを送信しようとした親指が、突如、スマホのディスプレイ上に出現した透明なハードルにぶつかった。杉田の胸に引っかかるものがある。

ダメみたい。やっぱり、忘れられない。

杉田は、SNSを閉じると、写真フォルダを開いた。まだ消せないままでいる写真が山のようにある。タッちゃん――田嶋秀人とのツーショット。ふたりのスマイルは、ふたりの愛の強さを証明しているはずだった。

杉田の頭に、いつも電車に乗るときに思い出してしまう嫌な記憶が浮かんできた。もういちど、どこかで会えるなら、田嶋にどうしても言いたい。ふたりで幸せになろうって言ってたのに、あんな仕打ち、ズルいよ……。

頭にひろがっていくのは、電車の悪夢だ。

もう一年以上も前のこと。杉田がはじめて武道館に出かけた日だった。好きだったビジュアル系バンドの念願の武道館ライブ。本当は田嶋と一緒に行きたかったが、仕事が入ってるからごめん、と言われて、仕方なくひとりで行った。

その帰りの電車の中には、ライブの特販で売られていたオリジナルTシャツを着ているファンがたくさんいた。ライブの余韻が続いていた。いつもは不愉快な電車の振動を心地よくさえ感じていた。

杉田がほどほどに混んでいる車内をそれとなく眺めていたときだ。同じ車両に、偶然にも、田嶋の姿を見つけた。

運命のような気がして嬉しくなったが、同時に、違和感も覚えた。普段はマスクなんてしないのに、黒いマスクで顔を覆うようにしている。しかも、スーツではなく、カジュアルな普段着だ。仕事だったんじゃないの、と不審に思いながら近づいていくと、田嶋がひとりきりではないことに気が付いた。

見たこともない大学生のような雰囲気の女と一緒にいる。なにやら楽しそうに話しているうえに、ベタベタと触れあっている。

ウソ、だよね? タッちゃんに限って……。

酸素がなくなったみたいに、息が詰まった。杉田は、ずかずかと人込みをかきわけていって、なにしてんの、と声を上げた。

ヤベ、だから、この時間はヤバいって言ったのに。

田嶋の心の声が、そのまま口から飛びだした。それが笑顔の裏に隠されていた本音。予測不能のうちに飛来した隕石が、心の真ん中に大きなクレーターをつくった。

杉田は、そこが公共の場であることも忘れて、その場でその女について問いただした。田嶋はいろいろな弁解をしていたが、その内容はなにも憶えていない。

怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになって、頭もぐちゃぐちゃになって、そのときの記憶もぐちゃぐちゃになった。

ただひとつ、追い詰められた田嶋が口走った言葉だけ、はっきりと憶えている。もう、別れよ。それでいいだろ。はなから冷めてんだよ。

とどめの一撃みたいだった。なんで、そんなこと、言うの。子供のように喚きながら泣きくずれて、無様にも車両の床に尻をついた。迷惑そうに遠ざかっていく人たちの見下すような視線がひどく冷酷に見えた。

あの車両の中で生まれた心のクレーターは埋まるどころか、深まっていく。

笑顔だけじゃ、証明できない。人間はみんな、俳優みたいなものだから。それは数えきれないくらい頭に浮かんできている言い回しだった。そう思いたいのか、そう思いたくないのか、どっちだろう。

きっと、本音では、そんなふうには思いたくない。ゆっくりと大切に温めてきた愛が、少しも届いていなかったなんて信じたくないから。田嶋とふたりで育んでいたはずの愛を信じていたい。

必死に突き放そうとするのに、本音がそんな感じだから、うまくいかない。田嶋なんて嫌いだし、もう顔も合わせたくないのに、好きでもあるし、また会いたい。裏切る前の田嶋のことを、どこかで信じている。

 今日も、ふたりの写真を削除できそうにない。


   *


 赤い扉をノックしたときには、千尋は、すでに話すことを決めていた。「どうぞ」という先生の反応に少し食いこむタイミングで、赤い扉を押し開ける。ローテーブルに置かれた暖色のライトがただひとつの灯り。星空の下にあるテントの中というか、隠れ家のような雰囲気がある。

千尋は、先生が促すのも待たずに既定の椅子に座った。

すぐにでも話したくて溜まらなかった。カフェで会って以来さらに親しくなった町井にはすでにメールで伝えた。同居している祖母には夕食の席で伝えた。両親にはいっさい伝える気がない。次に伝えたい相手は、先生だった。

 明らかに千尋のテンションが高いことには気づいただろうが、先生は、そのことには触れなかった。千尋と対面する椅子に座ると、いままでの形式を重んじるように、「それで、今日は、どうですか?」と同じセリフで始まりを告げた。

六月も終わりを迎える中、先生との対話も二〇回を超えている。

 いままでの対話の中でも、こんなに心が騒がしいことはなかった。陸に上がった海魚のように胸の中で興奮が暴れている。千尋は、その興奮を鎮めるために息を吐いて、先生の顔をまじまじと見つめた。

手前で発光しているライトによって、先生の左頬に並んでいる三つのホクロがはっきりと見える。バスの中で出会った当初は失礼にも気味が悪いと感じていた。もうすでに、先生の顔を見るだけで親しみを感じるところまで来ている。空気の中を漂うように座っている先生には、ほかの誰にもない安心感を覚えた。

 できるだけ心の中を整えたうえで伝えたかった。ゆっくりと呼吸して興奮を抑えようとしたが、どうやら、無理みたいだ。

千尋は、ついに諦めて、いさぎよく笑顔を零した。すると、ドミノ倒しのように連鎖反応が起きてしまい、どばどばと感情があふれた。

「実は、はじめて通ったんです。あの、ずっと言ってたオーディションに」

 浦上も所属している『イーストマインド』の次世代の俳優発掘オーディションは年に一度おこなわれていた。書類選考の倍率は一パーセント以下とも言われている。応募要項には二十五歳以下という規定があるため、もはや二十五歳である千尋は、その最後のチャンスでとてつもない運を引き寄せたわけである。

「自分でもまだ信じられないです。でも、本当にちゃんと、一次選考を通過したことをお伝えします、つきましては、二次選考のご案内です、っていう手紙が来たんです。この場所は夢だけど、その手紙は夢じゃないんです」

「おめでとうございます。これは本当に嬉しい報告ですね」

 先生は、ストックのあまりない笑顔を惜しみなく出した。千尋も、笑顔が途切れない。いまなら、どんな困難にも前向きに取り組んでいけるような気がした。最初の難関を突破したのである。

 二次選考では、演技審査があった。書類選考でずっと落選してきた千尋にとって、いまままで、準備してきたものを披露する機会は一度もなかった。その絶好の機会がついに自分にも訪れたのだ。

そのことについて、時間をかけて先生にも伝えた。ずっと演技レッスンを継続してきたのにそれを試す機会が訪れなかったことの焦りと悔しさ。ついに機会が恵んできたことのとてつもない喜び。

それを一通り話しきったとき、先生は、一瞬の間――ちらりと腕時計に目を走らせた――を置いてから、大きくうなずいた。

「であれば、取り組むべきことも定まったわけですね」

「二次選考のために準備するつもりです。スタジオを借りるのは金銭的に無理がありますから、どっか、カラオケにでも通って」

「それなら、バイト終わりがいいかもしれません。毎日、バイトを終えてからちょっとだけカラオケで練習するというのも」

「いいですね。それで、決まりです」

 ゆったりとした性格の先生と、こんなにもテンポの速いやり取りをしたのははじめてかもしれない。やるぞ、という思いが千尋の胸の中で膨らんでいく。一世一代のチャンスを無駄にするわけにはいかない。

 先生は、また腕時計に目を走らせた。それから、どこか焦っているような様子で、「本当に嬉しいことです」と繰りかえした。喜んでくれているのはたしかだと思うが、なにか、そのほかに気になっていることがあるようだ。

「なにかあるなら、言ってください。いまなら気にしないので」

 まだ夢が醒めていないような精神状態の千尋が陽気に促すと、先生は、申し訳なさそうに頭を下げた。

「いや、それがですね。ちょっとスケジュールを組むのに失敗したみたいで。こんなに嬉しい報告を前にしてあれなんですが、この先、予定が詰まっています。本日はこれくらいにして、また次回、お話を聞かせてください」

 それだけ、先生にしては口早に言ってから、さっとブラウンの椅子から立ち上がった。


  第三章 質月


 夜の川は墨汁みたいだ。

 真っ黒の液体が迷うことなく硯の海へと流れていく。

テカテカした水面を見つめていると、街中のサービスステーションからどろどろと漏れだしてきた膨大な量のガソリンにも見えてきた。うっかり火のついたタバコでも落としたら激しく燃えあがりそうだった。

 座っているのは、川岸のベンチだ。落下防止用柵のむこうに、五〇メートル走ができそうなくらいに幅の広い川が流れている。どこか幻惑的なその川の様子を、横並びでお互いの手を握りあったまま、ゆったりと見つめている。

柔らかくて弾力のあるその手の感触を、脳が喜んでいる。

 不思議だ。なにも言葉を交わしていないのに、心は満たされている。どこまでも正直な関係ではないが、ふたりの間には嘘や演技など、ないのではないか。そう思わせてくれる信頼という幻想に沈みこんでいることを、お互いに了解している。

 ぽちゃん。

 急に水の音が鳴った。

 焦点が合っていなかったが、たしかに水面に動きがあった。柵のむこう、音のしたあたりでは、小さな水紋も生じている。

 淡水魚が跳ねたか。水紋の近くに焦点を絞っていると、ぽちゃん、とまた跳ねた。

 今度は、はっきりと見えた。小さな魚ではなかった。おそらく、十五センチ程度――ちょうど定規が入るペンケースくらいのサイズ――だ。細長い楕円形のようなシルエットだけでは、魚の種類の判断はできない。それほど詳しくもない。ただ、季節から考えると、鮎かもしれない。

 そういえば、最近は川魚を食べていない。七月の若鮎なんて塩焼きにしたら最高じゃないか。焼き魚の味覚を思い出していると、ほとんど無意識に口が動いた。

「鮎って、ちょうど、いまが旬だよな」

 じゃあ、今晩は鮎にするよ、とでも、好意的な返答が来るのを期待していた。十秒くらい待ったが、静寂が続くばかりだ。

なんと、予想外の無反応だった。おいおい、無視すんなよ、と抗議するつもりで、ぎゅっと手を握った。

 この手の形、絶対に違う。そう思った途端、背筋が凍った。

 妻の右手を握っているつもりだったが、よく触ってみると、違う。若いときに何度も握っているから手の形を憶えている。これ、誰の手だよ。恐怖で冷却された自分の左手は動かなくなり、誰かも知らない右手を握りつづけている。リラックスしていた神経がフル稼働になる。

このまま、じっとしているわけにもいかなかった。どうにか気力をかきあつめて、ゆっくりと首を回していった。呼吸が速まり、息が苦しい。

ようやく左隣に目を向けると、そこにいたのは、やはり妻ではなかった。見たこともない男の顔が、ドアップで、こちらを見つめている。なぜか、ピエロの仮面のようなむりやりな笑いを浮かべている。

わあ、と思わず声を上げた。その大きな声の勢いのままに、思いきり手を振りほどいて、ベンチから立ちあがった。荒い息のまま、後ろ歩きで、ベンチから離れる。二メートルくらい離れたところから、ベンチに座ったままの男を見つめる。目を逸らしたら、きっと襲われるぞ、と感じた。

「あんた、誰? なにもん?」

必死に震えを抑えながら問うたが、いっさい反応がない。

じっくりと見つめたところ、男はまだ若い。四十は超えていないだろう。その顔の個々のパーツにはこれといって特徴がない。どんな目だったか、どんな口だったか、どんな鼻だったか、目を瞑ったらもう忘れてしまいそうだ。

その中でも、左頬に大きなホクロが三つ縦に並んでいるのだけは、珍しい。その特徴のために、個々のパーツは忘れたとしても、男の顔全体を忘れることはないだろう。

その男と対峙するだけの時間が、終わる気配もなく続いた。

男の背後のずっと遠くにはひとつ、電話ボックスが見える。その存在が避難所のように思えるくらい、こいつは異常だ、と感じていた。


 目が覚めてから十分ほど経過した。森山吾郎は、暗闇をぼんやりと見つめながら、いまさっきの夢の残像を追っていた。そのうち、フロイトが著した『精神分析学入門』を思い出していた。

 たしか、大学三年のときだった。数理経済学の厳密性に辟易してきて、もっと文系っぽい読み物を、と手に取ったのが、『精神分析学入門』だった。

その古くさい書物によれば、夢というものは、当人の願望を反映したものだという。かといって、願望そのものではない。心の中には、願望をそのままにしてはならぬと規制する動きもあり、その心の動きによって願望は検閲される。夢とは、検閲を受けたあとの願望というわけだ。

だから、夢を解釈する際には、検閲を受けた箇所を見つけ、もとの状態に読み替えなければならない。その際になによりも重要なのは、当人の感覚である。願望を持っているのが自分なら、それを検閲しているのも自分だから。

 森山は、その考え方にしたがって、いま見たばかりの夢を解釈していく。

夜の川をふたりで見つめるというロマンチックなシチュエーションは、あのように緩やかな時間を過ごしたいという願望の表われだろう。大学時代に妻とデートした川岸に似ていたから、青春の懐古でもある。

だから、手を握っている相手は妻でなければならない。それが見知らぬ男に変更されていたのは、どう考えても、検閲された結果だ。あの見知らぬ男は、妻という存在が検閲されて歪められたイメージなのだ。

 俺の超自我は検閲が下手すぎるな。森山は、ふふ、と力なく笑った。そのままベッドから起きあがり、ざざっと遮光カーテンを引く。

大きな窓からは、タワーマンションの群れと東京湾の青い輝きが見える。当初は気に入っていたが、二〇年も経つと、いくら絶景でも心が動かない。

 自室を出てから、リビングへと向かった。そのリビングには、誰もおらず、照明も落ちている。ピラミッドの大回廊のように静かで荘厳な空気が流れていた。

キッチンより手前にあるテーブルの上には、ひとりぶん、朝食用の市販のサラダチキンが置かれていた。それは毎朝のことだが、その隣にケーキが置かれているのは珍しい。切りわけられたショートケーキがサランラップを被って残されていた。冷房が効いているせいか、形は崩れていない。

 リビングを見回すと、ゴミ箱近くのフローリングの床には、赤い花びらが二枚、落ちていた。

心当たりのないショートケーキに、心当たりのある二枚の花びら。

最悪だ。森山は、嫌な予感を覚えずにはいられなかった。リビングの明かりをつけ、ゴミ箱へと向かう。

ゴミ箱の蓋に手を近づけると、センサーが反応して蓋が自動で開いた。その中には、ホールケーキを包んでいた細長い透明なフィルムが押しこまれていた。その奥には、小さな花束もあった。

嫌な予感が少しのズレもなく的中した。まさに、検閲されてしまった願望みたいだ。森山は、思わず、目を瞑った。

 昨日は、妻の誕生日だった。なにもプレゼントを渡さないのは問題だろうと思い、帰りに小さな花束を買った。それを夕食の席で妻に渡した。伏せたままの目で、ありがとう、とは言ってくれたが、それだけだった。

 その花束はいま、ゴミ箱の中で焼却場で燃やされる運命を待っている。

さすがにショックだ。森山は、その場から動けなくなった。ゴミ箱の近くにいるせいでセンサーが反応し、ゴミ箱の蓋は閉まっては開くを繰りかえす。その動作音――じいい、という機械音―-が、静まりかえっている広いリビングに断続的に続いた。

 ケーキについては、森山はいっさい関与していない。おそらく、昨晩、森山が部屋に戻ったあと夜遅くに、それぞれひとり暮らしをしている娘ふたりが母を祝いに来たのだろう。その際、四等分したケーキのうちひとつを残していったのだ。その祝いの席に森山は呼ばれなかった。会いたくないあまりに夜遅くを選んだのだろう。

 ふたりそろって胸くその悪い娘だ。奨学金なしで私立の大学に通わせてやったのに、少しも恩を感じていないらしい。

それとも、そんな恩着せがましい自分が悪いというのか。

念のために自分に問うてみたが、そんなわけがない、と感情的な返答が来た。森山は、テーブルに残されていたケーキを皿ごと持ちあげ、ゴミ箱の上でひっくり返した。花束の上にサランラップが膜をつくるように落ちて、その上に白いクリームがべちゃりと引っついて、その塊ごと沈んでいった。


   *


 また、だ。なんで、繰りかえされるのか。杉田は、小さなライブハウスの熱狂に身を任せている自分を客観視していた。もちろん、夢である。ビジュアル系ロックバンドのシャウトは好みではあるものの、気分はよろしくない。今日も、あの左頬にホクロの並んだ男に見つめられるのか、と思うと嫌だった。

 いつも、左の前方にいる。六月の終わりのころから急に満面の笑みをするようになったことが余計に不快だった。

 杉田は、ステージのほうに目を向け、その左側に焦点を絞る。あの中年の男は……。

――いない。杉田は、意外に思った。どういうわけか、あの男が、今日は、いない。乱れきって踊る観客たちの姿が確認できるだけだ。

それならそれで越したことはない。

ただちょっと、ルーティンのように固定されていたルートから外れるのは気味が悪い。いつもとは違う展開に、なんともいえない不安を覚えた。杉田は、ひとまず、周りに合わせるように振り付けのないダンスを続けた。

そのダンスが無秩序であるように、そこに流れている無名の曲も無秩序だ。歌詞にも、意味はない。安らかにならない魂を力づくで眠らせようとする勢いだけで、その歌詞が編まれている。

いつからか、『クレーターが深まる 逃げろ 逃げろ』という歌詞がループしていることに気が付いた。

そんな歌詞は知らない。やはり、ステージに立っているアマチュアバンドが自作した曲だろう。どことなく親近感の湧いてくる言い回しだ。杉田は、マイクを握る男と呼吸を合わせて、同じように叫んだ。それを続けていると、不安も和らいでくる。

『クレーターが深まる 逃げろ 逃げろ』

 そのループが終わった。今度は、曲の二番に入ったのだろうか、マイクを握るナイスガイは囁き声を出していく。

『信じていた すべての愛を捧げた 全身にキスした お前が見せたスマイルはどこからペルソナ?』

 さっきまで『灼熱』とか『髑髏』だとか言っていたのに、急に、ファミリー向けソングのような、わかりやすい歌詞になった。ほとんどBGMに過ぎなかった歌詞が、急に、気になってきた。

『お前は言った 幸せになろう 一緒に幸せになろう その幸せのために貴重な時間を分け合い、涙の数だけ稼いできたお金を使おう』

聞き覚えのあるフレーズに、どきっとした。記憶を探らずともわかる。『貴重な時間を分け合い――』というのは、田嶋の口癖だった。

思わず棒立ちになった杉田は、甘い声に耳を傾ける。よく聴いてみると、歌詞の内容はありえないほど杉田の現実と重なり合っていた。結婚まで考えていた相手に裏切られ、いつまでも立ち直れない、という現実。

それも、冷静になれば、大したことはないかもしれない。これは杉田の夢なのだから、自分に関する情報が出てくることは不自然ではない。

杉田がどうしても気になるのは、そもそも、これは本当に夢の一種なのか、だった。六月の間は、深く考えてこなかった。七月になって節目を迎えるにあたり、よく考えると、こんなに臨場感があるのはやはりおかしい。これが夢とは異質な現象ならば、杉田の個人情報が出てくることも不自然だという結論になる。

なんか、嫌な気がする。言い知れぬ不安がふたたび胸の中で膨らんでいった。ライブハウスでは、またもや、『クレーターが深まる 逃げろ 逃げろ』というサビの歌詞がループしている。

杉田は、その不安を抑えられなくなった。熱を帯びた人の群れに体当たりをするように進んで、ライブハウスの後方へと向かった。とりあえず、この空間から出たい。人にぶつかるたびに、エイリアンの体液のようなぬるりとした汗がつきまとう。

なんとか辿りつくと、そこには鋼鉄の扉があった。ひとりで開けられるのか、不安になるほど重そうな扉である。

どっちにしろ、試さずに諦めるわけにはいかない。

杉田は、力強く、扉のグリップをつかんだ。ぐっと力を込めて押したところ、ゆっくりとながら、扉は開いていった。

扉のむこうに見えてきたのは、暗闇に浮かんでいる赤い扉だった。その扉のことが無性に気になり、ほとんど無意識で、その空間に足を踏みだした。帰り道を断つ気にはなれなかったので、鋼鉄の扉は開け放したままにした。

その中をぐるりと見渡すと、その黒い空間は扇形になっている。前方の赤い扉を中心点とする弧には、五つの扉が並んでいる。鋼鉄の扉のすぐ隣にあるのは、東京駅のバスターミナルでよく見かける都営バスの降車口だ。

そんなのはどうでもいいけど、あの赤い扉はなに?

ライブハウスの中で感じていた不安は、膨らんでいく好奇心で塗りつぶされていく。杉田は、チョウチンアンコウに釣られる小魚のような自分を心の中で笑いつつ、赤い扉まで足早に進んだ。その取っ手をつかんで、回して、押す。

即座に目に入ったのは、フラスコのような陶器の花瓶。小さくて白い花が、黄昏を模したようなライトで照らされている。

「あらら、また、ノックもなしですね」

 急に穏やかな声が降ってきた。ぼんやりとした灯篭のようなその部屋の隅には、黒いタキシードをまとった男がいる。杉田は、あっと思った勢いで、ぽろりと言葉を落とした。

「いつもの、スマイルおじさん?」


   *


 ホクロ男――先生に会えなくなってから、一週間ほど経過した。予定が詰まっているからまた次回で、と言われたきりだ。あのバスの夢どころか、先生に関係のない夢さえ見ていない。一か月も続いた対話は、突如、断線したように途切れていた。

せっかく仲良くなれそうな感じだったのに。なにも夢を見ずに目覚めるたびに、千尋は、残念な気持ちを感じていた。

とはいえ、そういうマイナスな気持ちをカバーできるほどのチャンスを手にしていることは幸せだったのかもしれない。先生にも報告したように、千尋は、恐ろしいほど狭き門を突破していた。

 週五で入っている書店バイトは午後六時に終わる。そのまま直帰するのが六月までの恒例だったが、七月になってからは、帰宅する前にカラオケに寄るようになった。

バイト終わりに八重洲のカラオケボックスで演技練習をするようになってからは、八時十三分発の『荒川土手行き』に乗車することになった。いつも後部の座席に腰をおろすのが千尋の癖だ。

その時間帯には、都会は暗い海に沈んでいる。充実感に浸るように、ぐらぐらと揺られながら、車内の前方に設置されたモニターをぼんやりと見つめる毎夜だ。

七月になってからのこと、バスのモニターでは、ちょうど千尋の好みの新作映画の宣伝CMが始まった。はじめて見たときから、面白そうだと感じていた。毎日のように見ればなおさらのこと、どうしても観に行きたくなった。

それで、千尋は、バイトのない休日、ひとりきりで近場の映画館へと出かけた。

ちょろっとしか観客がいない平日のそのシアターで観たのは、アメリカからやってきた心霊映画だ。仕事の関係で移り住んだ大きな家で奇妙な出来事が頻発する、という王道的なストーリーである。その家の秘密を探っていくうちに、おなじみのように、邪悪な事件が浮かびあがってくる。

やはり、ホラーは映画館で観たほうが面白い。持ち運び可能なポータブルプレーヤーではどうしても体感できない世界がある。

とくにラストがよかった、と千尋は思った。べつにバッドエンドにこだわりがあるわけではないが、拭いがたいほど嫌な気持ちにさせられるようなバッドエンドには名状しがたい中毒性があった。

ネット上の批評サイトでは、そのホラー映画に対して辛辣な批判が相次いでいた。星の評価も、二・一と、著しく低い。それには一理ある、と千尋は思った。オリジナリティーは正直なかったし、演出や展開もありふれたものばかりで、技巧的に優れているとも言えなかった。渾身のバッドエンドにしても、『ミスト』や『セブン』などの名作と比べるとインパクトに欠ける。

時代が進んでいる影響もあるだろう。あと一歩で助かりそうだった家族が目の前で火だるまになって死んでいったところで、現代の観客はそれほど驚かない。ショッキングなシーンを含んだ映画など、数えきれないほどあるのだから。

激しい批判のコメントをチェックしているうちに、千尋の胸の中で、不安が膨らんだ。クリエイターになる――俳優も一種のクリエイターであるとする――なら、これらのコメントを浴びる立場になるということだ。

そんな覚悟、自分にあるのか。そういう些細な心配事についても、先生と話がしたい。そんな千尋の願いは、いっこうに叶う気配がなかった。


   *


 森山吾郎は、四〇年以上も前に義務教育で学んだことをいまだに大事にしている。はきはきとした挨拶や、周りの人たちと協力する姿勢、主体的に動く能動性など。その中でもとくに重視しているのは、三〇分前行動だった。

 森山が卒業した中学校では、約束時間の三〇分前には目的地に到着しているべきだという厳しめの教えがあった。当時はバカバカしいと思っていた。その重要性を痛感したのは社会人になってからである。

 社外の人と信頼関係を結ばねばならない仕事において、約束を破らないことはなによりも大切だった。

もちろん、すべての予定において三〇分前に行動するのは不可能だ。可能な範囲においては、できるだけ余裕をもって行動するようにしている。

 まだ正午を過ぎないうちに、森山は、スタジオに到着した。今日はCM撮影の見学に過ぎないから、時間を守る必要はない。いつもの癖で三〇分前に着いたわけだ。

 スタジオでは、すでに、数名のスタッフが打ち合わせをしている。ここで待ち伏せするのも迷惑だろうと配慮し、森山は、同じ建物の中のラウンジに移動した。

 そこにあった自販機で微糖の缶コーヒーを買い、ソファに腰かける。苦みと甘みのハーモニーを愉しみつつ、スーツのポッケからスマホを取り出した。

 隙間時間ができたときは、きまって、社会に関するネットニュースをチェックすることにしている。とくに経済ニュースは重要だ。仕事柄、経済の動向に関するニュースは正確に把握せねばならない。

 興味の湧いたニュースをふたつチャックしたあと、森山は、ふと、検索したいワードを思いついた。すぐさま、『浦上直斗』と検索する。

 浦上の公式ブログや、事務所の紹介ページなどが並ぶ中に、最新のインタビュー記事が紛れていた。こういうのをチェックするのも仕事の内だろう。森山は、そのインタビュー記事を開いて、冒頭から丁寧に読んでいく。

 それは、来年に公開が予定されている何故いきる原作の映画、『蛙の戯曲』についてのインタビュー記事だった。

周知されているとおり、浦上はその映画で主演を務めることになっている。撮影は今年の夏にも始まるという。主人公は連続殺人鬼という特殊な設定であるため、浦上としても不安を感じているらしい。

『ちょっと変な人を演じるのは、ある意味では、やりやすいところもあるんです。ふつうな状態からズラせば、あれ、この人、変だな、ってなりますから。そういう意味では、ふつうの人を演じることのほうが繊細で、難しさを感じます。しかし、ですよ。まったくもって異常な人を演じるとなったら、話はべつです。ふつうな僕が出てしまったら、それで終わりですから。そこは隠しつつ、根っから変な人にならなければならない。しかも、今作においては主人公ですから、異常であって理解のできない存在でありながら、同時に、ある側面においては観客の共感を得なければならない。それが純愛の部分にあたるわけです。監督ともいろいろ話し合っているんですが、これは本当に難しいな、と感じています』

 そのインタビュー記事を読んでいるうちに、ようやっとるな、と森山は感心していた。エンタメ業界には詳しくないが、表からは見えないところで細かな努力があるようだ。意外と職人気質なのかもしれない。

 ひととおり、その記事に目を通した。

そこで腕時計に目を落とすと、ちょうど、正午だった。もうすでにスタジオに浦上が到着している時間になっている。撮影の準備に入っているところだろう。

 森山は、握りつぶした空き缶をゴミ箱に放り、こじんまりとしたラウンジを出た。開け放された扉からスタジオに入ると、入り口近くの鏡の前に、美貌としか言いようがない男が座っていた。浦上直斗である。ヘアメイクさんに髪を整えてもらっているところだ。鏡越しに目が合った。

「ああ、森山さん。お越しいただき、ありがとうございます」

 すらすらと言葉が出てくるところ、若々しい見た目に寄らず、しっかりとしている印象である。すかさず椅子から立ちあがるところも、その際にヘアメイクさんに「ああ、すみません、失礼しますね」と声をかけるところも、まっすぐの目を逸らさないところも、本当にしっかりしている。

そんな浦上の丁寧な対応を制するように、森山は、大胆にも、両手を振った。

「いやいや、どうぞ、座ってください。監視じゃなくて、見学ですから。そんなに気を遣われたら敵いませんよ」 

 浦上をもとの位置に座らせてから、森山自身も近くの椅子に座り、雑談程度に言葉を交わしあった。

森山がIR・広報部長に就任したのは、五年ほど前だ。最初のうちは、株主や取引先などの身近なステークホルダーとの緊密な情報のやり取りに力を注いできた。

それも一筋縄ではいかなかったが、それよりも、もっと大きな問題があった。テレビなどで流れる消費者向けの宣伝CMが明らかに失敗していたことである。テレビ業界との高度に政治的な思惑が働いていた影響で、肝心の顧客層に響かないタレントを起用していた。これは戦だ、と意気込んだ。どうにか、若年層に訴求できる旬な俳優、浦上直斗を企業ブランドのイメージキャラクターに起用できたことは、就任以来、森山が起こした改革のひとつである。

 浦上と会話をしていると、そのときの、さまざまな思惑が渦巻く社内を奔放した記憶が鮮烈に蘇ってくる。なんともいえない達成感が、いまごろになっても湧きあがってくるのだった。

そんな回顧に沈んでいるうちに、気が付くと、浦上の準備が整っていた。「それじゃあ、失礼します」と、グリーンバックへと移動していく。

その頼もしい背中を見送っていると、背後から突然、「あのう、すみません」と控えめに声をかけられた。

振りかえると、顔見知りの浦上のマネージャーがいた。三十代半ばの小柄な男性だ。話したいことがあるという。森山はまったく見当がつかない。マネージャーに連れられて、さっきまでいたラウンジに戻った。

「こんなところで申し訳ありません」

 ソファで対面した状態で、マネージャーは心からお詫びするような暗い顔をしていた。そんな顔をされると、森山としても緊張してくる。

「そんなこと構わないのですが、いったい、なんのお話でしょうか?」

「実は、あらためて、直接にお伝えしておきたいことがありまして。現在、浦上は『蛙の戯曲』という少々残虐な映画に主演することが決まっております。それは以前にもお伝えしたとおりです。そのことにつきまして、とあるスポンサーさまから、浦上のイメージダウンについて心配するお問い合わせがございました。そのときは、そのスポンサーさまへ、あらためて映画の詳細についてご説明に参る事態になりました。ですから、平等製菓さんも、引っかかるところなどがあれば、こちらから説明に……」

「ああ、それなら、ご安心ください」

 森山は、すっと緊張が抜けた。もしやスキャンダルではないかとちょっとだけヒヤッとしたが、どうやら違う。ぜんぜん深刻なものではない。

「その件はすでに片付いていることです。それに、うちの社長、ああ見えて、SAWシリーズのファンなんですよ。残虐な映画を気にするような人じゃないです」

 がはは、と少しばかり大袈裟に笑い飛ばした。マネージャーの顔から張りつめていた緊張感がさあっと抜けていくのが読みとれた。

「せっかくですから、こちらからコンタクトを取って、その映画とコラボをするのもアリですよ。『殺人鬼もこころ温まる甘さ』なんてね」

そんな軽いジョークに、マネージャーの小さな口は笑った。

平等製菓の主力製品は、一口サイズの丸いミルクチョコを箱詰めした若者向けのチョコレート菓子だ。浦上直斗を企業ブランドのイメージキャラクターにして以来、売り上げは好調である。今回の『蛙の戯曲』への出演についても、浦上のイメージダウンを不安視する声は社内から上がってきていない。

いろいろな利害関係に挟まれてしまう仕事も辛いよな。そう同情する気持ちが森山の胸の中にはあったが、一文字も言葉にしなかった。

 マネージャーとともにスタジオに戻ったあとは、新CMの撮影を見学した。それが終わってからは、居合わせていた広告代理店の人と仕事上の相談をした。そのあとはオフィスに戻り、手をつけていなかった仕事に取りくんでいった。

 このように忙しく働いていると、人生が充実しているように思えてくる。社会を動かしているというほどの実感はないにせよ、少なくとも、ひとつの歯車となって滑らかに回転していることに疑いはない。

まっすぐと歩んできた人生について、最近になって森山は、いまいちど考えを巡らすことが増えてきた。

 人生に対する考えはいつも、ふたつの両極端のどちらかの結論に辿りつく。ひとつは、いままでの人生に大きなハナマルをつけようとする結論である。

 子供のときから、スペックの高さには自信があった。なにか問題が発生したときにはすかさず対策を講じ、確実に問題を除去してきた。中学のときに始めた柔道では高校のときに県大会で準優勝を勝ち取り、熾烈な受験戦争では頂点に辿りついた。それは当然、冷静に現状を分析し、解決策を導きだす、そのスペックの高さに依存している。

 大学時代にも、その高さは際立っていた。入学後、真っ先に取りくんだのは、意外とバカにできない、異性関係だった。高校のときまでは無頓着だったが、いざとなれば確実に成果を収められる自信があった。

 その自信は、口先だけではなかった。LOVE理論は早々に身に着け、実践した。その中で独自の理論を構築していっただけでなく、相手の気質や性格に合わせた柔軟な行動規範の構築にも手を抜かなかった。その結果は言うまでもない。自分の思いどおりに女性を導くことができた。

 社会人になってからも、自分の望んだとおりに物事を進めていけることが多かった。企業ブランドのイメージキャラクターに浦上を起用したことは社内でも高く評価され、顔見知りの社員からの評判もいい。現在の地位に辿りついたのも、それは運だけでなく、綿密な計画の上に成し遂げられた結果なのである。

 そう考えていくと、汚点などひとつも見えてこないのだが――。

 しかし、森山は、もうひとつの結論に辿りつくこともあった。その、もうひとつの結論というのは、この人生が実は間違っているのではないかという結論である。

 それは、目を塞ぎたいくらい、恐ろしい考えだ。

 旧来の友達から縁を切られたときも、親の死を知ったときも、不景気によってリストラの風潮が高まったときも、こんなに恐ろしくはなかった。いままで身に降りかかってきた災難は、結局のところ、テストの問題みたいなものだ。正しく解決法を探れば、必ず出口が見えてくるものだった。

 それに対して、いままでの人生にペケをつけようとする結論は、テストの問題とは明らかに違う。なにしろ、すでに人生の半分は終わっている。やり直しができない。

生み出してきた成果のひとつひとつがゴミになって燃やされていくようなイメージが頭に浮かぶ。もしも人生をリセットして最初からスタートできるなら、こんな気持ちにもならないだろう。

森山の頭からは、ゴミ箱の底に押しこまれていた花束が離れない。娘たちがリビングのテーブルに残していったショートケーキもひどい悪夢だ。

そのせいか、最近は、精神状態がよくない。ちゃんと働いていても、のめりこむようには集中できない。疲労も溜まりやすく、朝から身体が重たい。

毎日のように効果の強い栄養ドリンクを飲んでいるが、そんな子供騙しの対策ではすぐのうちに限界が来るのは目に見えている。次の策として、評判のいいカウンセラーを探しだしたところだった。

精神状態の悪化を象徴するかのように、七月に入ってからはずっと、まったく同じ夢を繰りかえしていた。川岸のベンチで誰かと手をつないでいて、振りむくと、隣には見知らぬ男がいる、という夢だ。

何度か同じ夢を見ることは誰にでもあるかもしれないが、その頻度が尋常ではない。ほとんど毎夜のように見ている。現時点においては、その夢を見た回数は少なくとも一〇回は超えているだろう。

スピリチュアルに考えるならば、潜在意識からの警告とでも言える。

より現実的に考えるならば、現在の悩みが整理できないままになっていることの証拠とも言える。その悩みが片付いていないから、何度も、同じように夢に出てくる。

この現象については判明していることなどひとつもないが、とくに強く、不可解に感じているところがあった。

夢というのは、ふつう、最近の出来事やその日に起きたことをきっかけにして、過去の記憶と結びついて、ときに具体的に、ときに抽象的に、心の中を映しだす現象だ。

そう考えたとき、細部までまったく同じ夢が繰りかえされることはどう捉えようとも不自然だ。日々の体験がなにかしら夢に作用するはずである。いっさい反映されないほどに日々の体験の印象が薄いわけでもない。

そのまま放置するわけにもいかず、森山は、七月の半ばに、睡眠科学に関する本を購入した。すぐさま、ざっと必要な箇所に目を通した。

残念ながら、夢の役割に関する仮説がいろいろあることがわかっただけで、役に立つ情報にはアクセスできなかった。


   *


 人生は起承転結の構造を持たない。

その言葉は、なかなか理に適っている。もっとその話について聞きたくて、杉田は、無言のうちに促した。

赤い扉を背にブラウンの椅子に腰かけているのは、スマイルおじさん、もとい先生だ。なんと呼べばいいか、と訊ねたとき、とある若い女性からは『先生』と呼ばれていた、と答えたから、そう呼ぶことにしている。

先生は、杉田の期待を正面から受けとめるように瞬きをしない。あからさまに気分をよくする様子もなく、けっして謙虚な態度を崩さなかった。

「これはまあ、わたしの持論に過ぎないわけでありますから、真に受けていただく必要はないのですがね」

その物言いからして、先生としては聞き役に徹していたいようである。杉田としては、もっと先生の話を聞きたい。

その意思を伝えるためにも、引きつづき、先生の顔を無言のうちに見つめた。淡い暖色のライトに照らされた大きな黒いホクロが三つ、星のように浮かんでいる。ライブハウスで見たときに感じた異質さは消えてなくなり、マンガでしか見たことがないような紳士の印象で刷新されていた。

最初は変な人だと思っていたが、ちょっと話すと、そこらへんの男どもより芯がしっかりしていることがわかった。ひとたび相手の本質が見えれば、それからは秒速で仲良くなれるのが、杉田のアピールポイントである。

杉田の目から見ると、先生は善悪の判断について揺るがない自信を持っているように見える。それでいて、その判断を積極的には明かそうとしない。誰かの共感や批判とはいっさい関係がないところで、自分の価値判断を確保している。

これが夢なのであれば、それで構わない。現実ではなかったとしても、これほど頼りになる相手が目の前にいることは幸せだった。

「ある種、併読だと言えるかもしれませんね」

 先生は、杉田の様子に注意を払いつつ、語った。

「『起』という音が聞こえたあとに、『承』という音が聞こえて、それに続いて『転』の音が聞こえて、最後に『結』の音が聞こえる。そんな単純な物語になっていると思っているのなら、それは著しい視野狭窄に陥っていると言わねばならないでしょう」

「それなら、人生とは、どんな物語なんです?」

「いまさっき言ったように、併読みたいなものですよ。さまざまな音が混ざりあい、複雑に絡みあっている。その時点ごとに、いろいろな合わさり方がある。いろいろな音が同時に鳴り、ときに調和し、ときに傷つけあう。さっきまで『起』の音だったのに、次の瞬間には『結』の音が鳴り響いているかもしれない。あるいは、数えきれないほどの『結』の音が共鳴している中で、ひとり寂しそうに『起』の音も鳴っている、という、そんな状態もあるかもしれませんね」

「だとしたら」と、杉田は水を差すように口を開いた。

「現在のわたしは、いたるところで『結』の音が鳴り響いているのかもしれません。たっくさんの『結』が集合して、ごちゃごちゃ共鳴しあって、より強力にラストに向けて勢いをつけているところ、みたいな」

 そうやって杉田が意味深につぶやいた言葉に対して、先生はあからさまな反応を示すことはなかった。

先生にはすでに、現在の杉田が置かれている深刻な状況について説明している。結婚を前提に交際をしていた男性に裏切られて途方に暮れている、と。だから、杉田が仄めかしたことについて、まさにそれだと思い当たっているはずだ。

それでも、自ら、それだろうと指摘するようなことはない。先生の温かみにあふれた沈黙は、杉田の次の言葉を受けとめるための準備のように思えた。そのおかげで、肩に力を入れずに済んだ。

「心はもうボロボロで、たくさん吐いちゃうし、夜になっても眠れないし。メンヘラだって笑ったやつはマジで殺すから……っていうのはまあ、冗談なんだけど」

うっかり飛びだした本音を、ちょっとでも誤魔化せるように笑顔をつくった。そんな杉田に、先生は引っ張られることなく真剣な眼差しを維持している。

やはり、先生はどこまでも慎重だ。相手の動きを観察し、短絡的な理解に終わらないように神経を尖らせている。杉田は抵抗感なく、心に棲みついている過去について話しだすことができた。

「考えてみると、もう、けっこう昔のことなんです」

 田嶋秀人とはじめて出会ったのは、もう、一〇年くらい前のことになる。エスカレーター方式で系列の私立大学に進学した杉田は、一般入試で入学してきた田嶋とダンスサークルの活動で知りあった。

 第一印象としては、どこにでもいる気取った男という印象だった。

そういう男は経験が多いから、どうすれば女性に気に入られるか、だいたい、わかっている。ちょっとした気遣いができるのだ。そういう男なら、デートで素敵な時間を過ごせることはたしかだった。

問題として考えられたのは、あくまでも表向きの気遣いでしかないというポイントだ。はじめのうちは楽しく盛りあげてくれるが、親しくなるにつれて、その努力をしなくなる。最初だけのサービスに過ぎない。そういう男の特性を、杉田は自分や友達の経験によって把握できていた。

当初は、田嶋にもその特性をあてはめていた。どこにでもいる、くだらない男。

それくらいの印象だったのが突如として変化したのは、大学二年の夏、とある都内のスタジオで、ダンスサークルの活動中に起きた事件のときだった。

そのとき、前触れもなく、サークルメンバーのひとりが倒れた。いちばん最初に駆けつけた先輩が、心臓が止まっているぞ、と叫んだことはいまでも忘れられない。スタジオはパニックになり、かろうじて救急車を呼べただけだった。

その中、田嶋は誰よりも冷静だった。高校のときに練習したから、と心臓マッサージを始めた。それだけでなく、建物内に設置されているAEDを持ってきてくれ、と指示まで出した。そのような迅速な対応の結果、救急車が到着する前に、倒れたメンバーはその場で奇跡的に蘇生した。

そのときの迷いのない田嶋の動きに、杉田は、正直、きゅんとした。たしかに目の前の消えそうな命に対して一生懸命になるのは当たり前のことかもしれない。とはいえ、数秒のうちに決断して先人を切る行動力や、その責任感の強さは、誰もが保有している類のものではない。

それをきっかけに田嶋の行動を子細に観察するようになった。田嶋のいろいろな側面を知れば知るほどに、杉田の胸の中で切なる思いが膨らんでいった。

この人と一緒に人生を歩んでみたい。

それは遊びではなかった。本格的な思いを抱いたのは、はじめてだった。告白をするなんて簡単なのに、なかなか言いだせなかった。それもはじめてのことだった。

大学時代のうちは友達を続けた。べつべつの場所に就職してからは、このまま思いを秘めつづけることを恐れるようになった。思いきって告白し、交際がスタートしたのは、社会人になってから一年くらいが経ったときだ。

 交際がスタートしたときには、すでに、結婚を前提にしようというお互いの思いを共有していた。

だからこそ、杉田は、いろいろな家具家財やファッションアイテムなどをたくさん田嶋にプレゼントした。杉田の父は株式や債券などのディーリングによって稼ぎ、その収入で生活しており、毎月、杉田のもとへ巨額の仕送りがあった。そのため、その時点において経済的に余裕のある杉田が、ふたりの経済面を一時的に支えることにしたのである。この借りは未来の生活で解消しよう、と田嶋は優しく言ってくれた。そんな田嶋のことを、杉田は心から信じていた。

 もちろん、大人の男女なのだから、交際が始まった当初から、身体の関係についての話題もあった。杉田は喜んで受けいれるつもりだった。それが叶わなかったのは、田嶋がアセクシャルだと打ち明けてくれたからだ。どんな相手に対しても性的な思いを抱くことがないのだという。

 杉田は自分の魅力に自信を持っていたぶん、残念だった。自分が選んだ相手だから、肉体関係に対する欲はどうにか我慢していた。

「いま思えば、アイツ、わたしのことをカモとしか思っていなかったのか、なんて思っちゃうけど、そうは思いたくない気持ちもあるし……」

 そこで言葉を切り、それ以上、口を動かすことは諦めた。いつのまにか、胸の苦しさが増している。

はじめて本気で愛した、と心から言える相手だった。こんなに辛い終わり方があるとは思っていなかった。ただの結婚詐欺だとは言われたくないから、誰に対しても詳細な経緯は明かしていなかった。先生にだけ、はじめて明かした。

 杉田が話しおえたのを確認すると、先生は、優しい声で語りだした。

「わたしには、その苦しみは計りかねます。ただ、さっきも言ったとおりですよ。人生は単純な起承転結じゃない。きっと、いまの杉田さんは、併読することを忘れていて、ひとつの物語だけを追いつづけている。ほかの物語に首を突っ込むこともひとつですよ」

「新しい人と?」

「それもひとつだというわけです。それに、ぶっちゃけてしまえば、嫌なものに挑むのも人生ですが、嫌なものから逃げるのも人生です。いつも電車に乗っているのでしたね。そのたびにフラッシュバックするなんて、しんどいですから、この際バス通勤に切り替えるのもいいような気がしますが」

 過去の物語を忘れて、新しい物語を始める。なんとなく気づいてはいたが、やはり、そこにしか幸せに向けた道はないのかもしれない。杉田は、先生の言葉にほのかな救いを感じていた。


   *


『話したいことがあります。まっすぐに帰ってきてください』

 そのメッセージがスマホに届いたのは、港区の高層マンション群に向かうバスに揺られているときだった。すでに暗い夜だ。仕事終わりの安らぎのひとときをぶち壊されたことが気に入らない。

 当然のように、楽しい話が待っているわけではない。森山はうすうす勘づいていた。案の定、自宅で待っていたのは、予想通りの現実だった。

 胸くその悪いメッセージを送ってきた当の本人である妻は、無言のままリビングのテーブルに両腕を放り出して待っている。森山がリビングに入っても、顔を上げない。目が合わないことは毎度のことだが、かすかなダメージは受けつづけている。

そのリビングのテーブルには、法的な手続きを進めるための一枚の紙きれが置かれていた。ただの紙切れなのに、人生を左右する魔力のようなものを感じた。

それは、離婚届。

言いたいことはわかるが、森山は、どうしても腹が立った。口を少しも動かさずに現実を突きつけようとするその姑息な手段が気に入らない。森山は、カバンを床に投げ、妻の目の前に座る。

「物事には順序がある。いちいち直情的に動いてくれるな」

 開口いちばん、さっそく好戦的な発言をしていた。妻のその伏せられた目を睨むように直視するが、いっこうに目が合わない。森山の視線を跳ねかえしているように見えて、余計に苛立ちが募る。

 こりゃいかんな、と森山は焦りを抱いた。これでは直情的になっているのは自分だ。なんとか呼吸をコントロールし、あふれてくる感情を抑えた。

「いまのは訂正。とりあえず、なにが言いたいかは、わかった。でも、本当にそれを望んでいるなら、ちゃんと話をしてくれないと納得できない」

 妻の話を促すように間を取ると、ようやく、妻が動いた。テーブルに放り出していた腕を引き戻し、テーブルの下に滑りこませて、わずかに背筋を伸ばす。前屈みになっていた姿勢が解消するにつれて、視線が上がってくる。

 ついに目が合った。

 大学時代に出会ったときから好きだった、きれいな二重。その目の中に美しい輝きを見つけていたのは、ずいぶんと昔のことだ。いまでは、憎しみや恨みが籠っているように思えてならない。

 妻は、揺るがない決意を示すかのように、瞬きをせずに告げた。

「これ以上、一緒にいられない。とてつもなく辛い。細かいことは話さなくても、わかるでしょ?」

 それだけの言葉で、妻の心の奥のほうまで手に取るようにわかった自分のことを、森山は意外に感じていた。わからないフリをしたところで無知になれるわけじゃない。本当は、森山の心の中にもいろいろと思い当たるものがあった。

 頭に浮かんでくるいくつかの事柄を口にしようかどうかと迷っていると、今度は、妻のほうが痺れを切らしたらしい。強く力の籠った目で、怒りを隠しきれないままの力が入りすぎた声を出した。

「わたしがどれだけ我慢してきたか、本当にわかってるの?」

 ばちん、となにかが切れる音がした。それは理性がはちきれた音かもしれない。森山としても、引き下がるわけにはいかなくなった。こっちだって好き勝手に生きているわけではないのだから。

「言いたいことがあるなら、こそこそ隠さずに、そのまま言えばいいだろ。なにを我慢してきたか、はっきりと言えばいいんだよ。俺が抱えている我慢より、ちゃんと大きな我慢を抱えているならな」

 こりゃアカン、と森山自身も思っている。かっと見開かれた妻の目が証拠だ。こんなくだらない言葉の応酬を始めたって、なにかが好転するわけではない。

この際、妻が黙ってくれればいい。そうすれば、この場は鎮まる。そんな微かな期待が儚くも胸に浮かんでくる。こっちが折れるときもあれば、あっちが折れなければならないときもある。いまがまさに、妻の踏ん張りどころだ。

 そんな期待は、もちろん、叶わないからこそ儚い。いまさっきまでの無言が嘘みたいな大きな声で、妻は言い出した。

「わたしだって、働きたかった。昔の友達は、それぞれのところで居場所をつくって、社会に貢献してるよ。わたしだって、そういう生き方を望んでたのに」

「何年前のことを掘り返すんだよ」

 森山も、どうしても抑えきれない。妻が仕事を辞めて家事に専念することになったのは、ふたりで話しあった末の合意によってである。

その当時、本当は、納得していなかったんです、などと言われても、その場で言えばよかっただろ、としか言いようがない。言葉にして吐き出す前に、すでに、脳内で反撃の言葉があふれている。

どうすればいいのか。森山自身、自分の激情に困っている。仕事を通して築いてきたものが、森山のプライドを歪に大きくしている。日本随一の菓子メーカーで大きな成果を残してきたことを、一から全部、妻に説明したいくらいだ。よせばいいのに、と心のどこかでは思いつつ、森山は反撃せずにはいられなかった。

「言っておくが、社会の問題を個人になすりつけるのは、心外だ。男のほうが稼ぎやすい社会の仕組みにしたのは俺じゃない。それには、ちゃんと納得してただろ。それは俺の個人的な問題じゃ……」

「もう、いい! なにも言わないで」

 突然の大声だった。昼間に打ちあがった花火のように、大きな声が響くだけ。妻の表情を見ようとしても、俯いていて見えない。

森山は、ひどく不愉快な気分だ。自分から話を始めておいて――まして、わざわざ離婚届を持ち出して森山の気持ちを揺するような真似までしておいて――追い詰められたら口を塞ぐ。そんな同情を誘うようなやり方が、とにかく気に入らない。

妻の気に入らない行動はいろいろある。花束をゴミ箱に捨てたこともそうだ。よくよく考えてみれば、森山はかなり器が大きい。誕生日にあげた花束をゴミ箱に捨てられたのにもかかわらず、そのことは責めずに我慢しているのだから。

もっと森山の努力を尊重してくれたら、心地よく過ごせるのに。いまの妻はどうも、自分ばかりな印象である。

沈黙が続くリビングで、森山は、正直、途方に暮れていた。けっして口にはできない本音がふらっと頭に浮かぶ。彼女と一緒に残りの人生を過ごしたいのにな。その気持ちを明かすわけにもいかず、森山は思いきり咳払いをした。


   *


 コンビニには昼夜の概念がない、と千尋はよく思う。

昼に行っても、夜に行っても、いつも同じように運営されている。いったん入店すれば、それまでの時間感覚はリセットされて、まるでコンビニという時間が存在するかのように感じる。

 カラオケ帰りのバスを下車したあと、千尋は、祖母と同居するマンションへの途上にあるコンビニに寄った。

なんとなくグミを食べたい気分だった。最近になって輸入されてきたヨーロッパ産のグミをさっそく見つけ、そのままレジに向かった。

店員が待つレジに辿りつく前に、千尋は、ふと、足を止めた。視界の隅に入った雑誌に目が留まったのだ。それは都市伝説を専門に扱っている月刊誌だ。表紙には、『夢に関する都市伝説特集』とある。

そんな特集、気になってしまうじゃないか。くだらないものだろうとは思いつつも、つい興味が湧いた。千尋は、グミを手にしたまま、雑誌コーナーへと足を進めた。その月刊誌を手に取り、冒頭の目次に目を通す。

あった。

千尋が期待していたものが、あっさりと見つかった。五十三ページから、『夢に出てくる男』というタイトルの記事が載っている。千尋は、そのページを開いた。

斜め読みしたところ、千尋が知っている――つまり、たいての人は知っている――おなじみの都市伝説がそのまま掲載されているだけだった。多くの人の夢の中でまったく同じ顔の男が登場するというものだ。その男の正体については、多くの人が共有する原型のひとつだとか、とある企業によるマインドコントロールの実験だとか、いくつかの仮説が紹介されていた。

次のページを開くと、夢に出てくる男の顔写真が載っていた。オカルト好きな人たちの間では、すごく有名な顔写真だ。This manと呼ぶらしい。六月末まで千尋の夢に幾度となく登場してきたホクロ男とは、まったく違う顔であった。

そのほかのページもぱらぱらと読んでいるうちに興味が失せてきた。千尋は、その雑誌をもとの場所に戻して、当初の目的であったグミをレジまで持っていった。

もう、七月末である。五月になってから突然に始まったホクロ男の夢は、その後、六月末までの二か月間、続いた。七月になってからは途絶した。この一か月ほどの間、千尋はなにも夢を見ていない。もともと、あまり夢を見ない体質だったから、平常状態に戻ったと言えば聞こえはよい。

千尋の本音としては、ホクロ男――先生ともっとたくさんの話がしたかった。あんなに聞き上手な相手は、そうそういないから。

どうしても残念な気持ちが残る。あの夢がなんなのかさえ把握していない千尋には、なにもできなかった。

コンビニを出ると、千尋は、買ったばかりのグミを口に入れた。シュワシュワとしたソーダが口内の隅々に行きわたる。その味を楽しみながら、ぽつんぽつんと街灯が佇む夜の住宅街を歩いていく。

 先生と会えなくなったことは寂しいが、一方で、現在の千尋の胸には充実感もあった。暗い夜道をひとりきりで歩いても、心まで暗くはならない。この人生に可能性を感じている限り、前向きな気持ちを維持することができる。千尋は、その充実感をより強めるように、次から次にグミを口に投げいれていった。

突如、スマホが震えたのは、そのグミを一〇個くらい食べ終えたときだ。祖母のマンションとコンビニのちょうど中間地点だった。

こんな時間に急に電話が来るのは珍しい。千尋は、グミの詰まった袋をズボンのポッケに仕舞った。電柱の隣で立ち止まり、もう一方のポッケからスマホを手に取る。

そのディスプレイに表示されているネームを確認し、千尋はさらに驚いた。電話をかけてきたのは、マンションで同居している無口な祖母だ。

いままで、祖母と電話で話したことはないような気がする。それどころか、対面でもそれほど言葉は交わさない。おはよう、ただいま、などの挨拶に毛が生えたくらいだ。お互いに共通の話題があるわけでもない。

祖母からの電話が普段ではありえないことなら、その要件は普段のトピックではないはずだ。なにか嫌な予感がした。千尋は少々の躊躇いののち、電話に出た。

「もしもし、ばあちゃん。なにか、あった?」

 数秒の間があり、『違うのよ』と祖母の声が聞こえた。その声に、ほっとした。いつもどおりの緩慢なその反応からすると、なにか緊急の事態が起きたわけではないようだ。千尋は、ひとまずの安堵に浸り、「なんの話?」と訊いた。

 すぐには祖母の反応がなかった。そこで、「なんの話……ですか?」と、丁寧語を加えて繰りかえした。祖母はマイペースに、ようやく口を開いた。

『ほら、ちひろ、言ってたじゃない。知らない男が出てくる夢を繰りかえし見たって。そのことについて、いま、急に思いだしたの。すぐに話したくなっちゃって』

 ナイスなタイミングだ、と千尋は思った。ちょうど気になっていたところである。あの夢については、いまだ把握できていないことが多い。なにか手がかりがあれば、先生との対話も再開できるかもしれない。

思わず膨らんでいった期待を、千尋は自分の力では制御できなかった。車通りのない路上に足を止めたまま、「いいよ。話して」と、食い気味に促していた。

『うん。ばあちゃんが子どものときのことなんだけどね』と、祖母は、ゆったりと話しだした。

『そういえば、小さいころ、ほとんど同じような話を聞いたことがあったの。それをすっかり忘れていたの。たしか隣の小学校に通っていた女の子の話だって、そのときの友達から聞いた気がする。その女の子に起きたってことが、本当に、ちひろの話と同じだったのよ。夢の中に知らない男の人が出てきて、じっと見つめてくるだけ。そんな夢が毎晩のように続いたって』

「ホントだ。なんか、ちょっと怖いくらい」

『そうなの。で、その女の子は、最初のうちは夢に出てくる男の人が怖かったみたい。そりゃ、そうよね。見知らぬ男が見つめてくるなんて。でも、話してみると意外と親近感の湧く人だったみたいで。それで、いろいろ、自分の個人情報を話したみたい。で、その直後なんだけどね……』

 数秒の間を置いてから、祖母は一息に言った。

『その女の子、死んじゃったって。殺しで』

 思いがけない言葉に、千尋は、ぞくっとした。いま、たしかに、祖母は、『殺し』だと言った。そう読みとった聴覚には、かなりの自信があった。

それでも、どうしても信じられない。『殺し』だなんて野蛮な言葉が、あの穏やかな祖母の口から飛び出してくるのか。千尋は、「殺しって、殺し?」と、トートロジーでしかない質問を口にしていた。

『そう、殺し。ホントに殺されちゃったのよ。その犯人として捕まったのは二〇代の男だった。そのときに、その男について噂が立ったみたいでね』

 それについては、すぐに察しがついた。頭ではわかっていても、そのままの内容を口にするのは躊躇われた。

「つまり、その犯人が……ってこと?」

『言ってしまえば、そういうことね。その殺されちゃった女の子が見ていた夢に何度も登場していた男っていうのは、その犯人だったんじゃないかって。犯人の男は、夢を通して、女の子に接触していたんじゃないかって』

 すごく嫌な話を聞いてしまった。夜の住宅街が急に不寛容になったように感じる。千尋がなにも言えないうちに、祖母は、付言した。

『こんな怖い話をして、ごめんね。すぐ話したくなっちゃって』

 そんな祖母の気遣いにも、適切な反応を返すことができなかった。絶句とは、こういうときに用いる言葉なのかもしれない。

千尋はなにも言葉を形づくれないまま、電柱の隣で佇んでいた。そのあたりの空気がコンクリートのようにじわじわと固まっていって、いっさいの動きを封じられているようにも感じた。

 もしも、その祖母の話と同じことが自分にも起こっているなら、近々、あのホクロ男に殺されるということになる。そんな想像をひろげていくと、いまさっきまでなんとも思っていなかった夜の路上が急に恐ろしい。

 そのまま、スマホを耳にあてたままで無言でいたときだ。『あちちっ!』と祖母の叫びが聞こえた。それもまた急だった。その声量は明らかに電話を意識していない。身体がびくっとするほど大きな声だった。

「ばあちゃん、今度は、どうしたの? なにか、あった?」

 慌ててスマホに食らいつくが、祖母の返答はない。電話口からは、ばちばちと木が爆ぜるような音が聞こえてくる。その音量が大きすぎて、ほかの音を遮断している。祖母が急に叫んだ『あちちっ!』という言葉と、そのばちばちという音が結びついて、ひとつの仮説が組みたてられた。

 ――機械の故障で、電話から出火した?

 千尋は、今度は、べつの意味でぞくっとした。スマホに向かって「ばあちゃん」と何度も叫んだ。それにも返答はない。

これはまずい。心臓から汗が噴きだしたように感じるくらいの不安が湧き起こる。現在の地点から祖母のいるマンションまでは、それほど遠くはない。千尋は、スマホを握ったまま、夜の街を駆けだしていた。

 ここ最近は、いつもより動きが多い。奇妙な夢を繰りかえしたり、その夢の中で先生と親しくなったり、その夢が急に途絶したり。俳優オーディションの書類選考を突破したことも人生における大きな動きだ。いい意味でも、悪い意味でも、いままでの人生がべつの人生へ切り替わっていく途上のように感じる。

 この途上で、なにか失うのではないか。

そんな漠然とした思いも、かすかに自覚できるところで燻っていた。いままでの地盤が崩れていくような怖さ。祖母を心配する気持ちが加勢して、その怖さがぞわぞわと胸にひろがっていく。

 思えば、もう夏だ。噴きだしてくる汗を後方へ押しやるように、思いきり走る。

 千尋は、マンションのあるほうへ、曲がり角を折れた。視界に現れたマンションの七階のあたりに目を走らせる。

 ――そんな!

千尋は、思わず、足を止めた。バクバクと動いていた心臓が瞬間で凍りつく。七階のベランダから炎が上がっている。部屋が燃えているようではない。ベランダでもぞもぞと動いている人間が火にまみれている。

 その惨状を目にした途端、その現場が深く、深く、海底に沈みこんでいった。どんな夜よりも深く静かな場所だ。

遠くから、ぼんやりとしか聞こえない叫び声がする。耳を澄ませると、ちひろ、ちひろ、と繰りかえしているようにも聞こえる。その声を出しているのは、たぶん、ベランダで右往左往している燃えた人間だ。

 その人間が、はるか上空で負傷した飛行機のように遠くに見える。それがベランダから飛び立って目の前の地面に墜落していく様子を、実感が伴わないまま見つめていた。

 動かなくなった肉塊が、目の前で激しく燃えている。

 よくわからない。いったい、なにが起こっているんだろう。千尋は、麻痺していく心をそのままにさせていた。自分の感情がわからない。目の前で起きている現実さえも、よくわからない。その理解不能な現実を見つめていると、まるで、大きな鉄板の上で焼かれている特大サイズの牛肉みたいだ。

 千尋は、ただ、その場に佇んでいた。少しずつ騒ぎが大きくなっていく現場を、他人事のように見つめている。

救急車と消防車のあとにやってきたパトカーからは、制服の男性警官が降りてきた。千尋の隣に静かに近づいてくると、「ご家族ですか?」と慎重に声をかけてきた。千尋は、適当に相槌を打った。不明確な意識で会話をしているうちに、話が進んでいった。「こんなショッキングなときに、たいへん心苦しいのですが、少しお話を聞かせてください」とまで言ってくる。

 話すことなんて、なにもない。

 投げやりな意識の中で、ひとつ、奇妙に感じていることがあった。家族が目の前で火だるまになって死んでいく。それは、最近観たばかりのアメリカからきた心霊映画のラストシーンと同じだった。


   第四章 鉢月


 棚と棚の間には、誘惑が渦巻いている。

いつか読みたいと思いつつも手を伸ばせないままでいる本が多い。そういうタイトルを目にするたびに、迷いが生じる。

棚の足元にある台では、いろいろなポップと一緒に売れ筋の本が平積みにされていた。うまく仕掛けられているものには、思わず引き寄せられる。ちょっとだけ、と言い聞かせながら手に取ったら最後、冒頭を読みだしている。なんだ、過剰な宣伝だな、と思うときもあれば、さらに迷いが強くなることもある。そんなことを繰りかえしているだけで満たされるのだから、安いものかもしれない。

店内に流れているのは、おそらく最新のヒットソングだろう。なんとなく聴いているだけで真夏のビーチバレーが浮かんでくる。その軽っぽさのせいか、ちょっと気を抜けば間違った買い物をしてしまいそうだ。

財布には、一万円札が入っている。買おうと思えばどれでも買える。ここは手のひらサイズのアトラクションに満ちたテーマパークだ。

しかも、年齢規制はないし、検閲もない。やりたい放題なところがいい。

 ますます鬱陶しさが増してきた社会の中で、ここには自由が確保されている。自由であれば、単純に面白さの領域がひろがる。そのうえ、本――とくに小説――は、狭い視野を拡げてくれる。

 自分の基準で誰かを見たところで、なにも見えていないのと同じだ。そう教えてくれたのも本だった。脳の構造も、育った環境も違う、そんな人間を一括りにはできない。自分では理解できなかったり、感覚的に受け入れがたかったりする人間の一面が、自分の外側にはほぼ無限にあふれている。

 そこにアクセスできることに喜びを感じる。インターネットよりずっと深くまで、何光年先の星よりずっと遠くまで、自分の知らない世界がひろがっている。

 そんな店内を散策している中で、ひとつ、強烈に気になる表紙を見つけた。その表紙には、でかでかと寡黙そうな中年男の顔写真がはられていた。その男の左頬には大きなホクロが三つ、並んでいる。お世辞にも整った顔ではないが、すぐには忘れられないようなインパクトの強い顔だった。

その文庫本は、小さいころからお世話になっているSFの文庫レーベルの棚にあった。ハードなSFが集まっている文庫レーベルだが、ミステリや冒険小説などでもヒット作を出している。

タイトルは、『若きオジサンの悩み』だという。現代でもファンが多いゲーテの名作をカッコ悪く捩っているところからすれば、ジャンルとしてはコメディーだろうか。

その文庫本を手に取り、裏表紙のあらすじに目を通した。あまりに抽象的すぎて、あるいは詩的すぎて、ぜんぜんイメージが浮かばない。仕方なく冒頭を読んでいった。

『笑顔をするべきか、真顔をするべきか、長い間、思い悩んできた。最初は真顔にしていたのだけど、それに苦情が入ったこともあり、途中から笑顔に切り替えた。それでうまくいくかとも思ったが、その笑顔に対しても気味が悪いという苦情が入った。わたしはいったいどうすればいいのだろう。深く深く思い悩んでいるうちに、顔を出すことに対する抵抗感が増していった。その結果、わたしはただの顔写真として登場することになった。そのような経緯があることを、どうか、ご理解いただきたい』

 冒頭の一ページだけ読んだ。正直、なにを言っているのか、わからなかった。抽象的な煙をまき散らして読者を幻惑しようという魂胆だろうか。それにしては、文章全体が説明的で美しくない。

 あらためて、その表紙を見る。三つのホクロが印象的な中年男。威厳とともにどこか親しみも感じられる顔だが、初見だ。

どうしても、その顔写真が気になって仕方がない。その場で、『若きオジサンの悩み』を手に、ただただ立ち尽くしていた。


 そんな夢が八月になってから急に始まったことを、瀬田政之は、興味深く感じていた。もともと好奇心の強い性格で、そのために新聞記者になったくらいだ。

三十路を過ぎた現在も、新卒で大手の全国紙に就職して以来、依然に同じところでマスコミを続けている。

そんな瀬田にとって、突然に始まった夢の現象を放ったらかしにすることはできない。そのような同じ夢を何度か見ているうちに、その現象について探りたくなってきたのは瀬田の性分である。

 情報収集の方法はいろいろあった。いちばん簡易な調査方法は、もちろん、ネット検索である。ちょっと昔までは、真偽の怪しいような素人の記事が蔓延していた。最近では、さまざまな専門家や専門機関が積極的に情報発信をしているので、ネット上の情報の精度は日に日に増している。

 瀬田は、ひとまず、夢に関する記事をひとつずつチェックしていった。残念ながら、それだけではなにも成果は得られなかった。現代の睡眠科学でも、夢の神秘についてはあまり明らかになっていないらしい。ユングとかフロイトとかが唱えていたような客観的かつ量的な根拠に乏しいアイディアに頼るのは、科学のおかげで発展してきた現代社会に生きる個人としては憚られる。

 かといって、ネットを通して、なにも得られなかったわけではない。

ネットのすごいところは、ブログやSNSなどの身近なネットサービスのおかげで見知らぬ他人が発信している情報にアクセスできるところだ。それらは専門的な見地を提供してくれるものではないが、いわゆる民俗学的な興味を刺激してくれる。それに加えて、質は低かったとしても量は膨大だ。

 瀬田が調査したところ、瀬田と同じような境遇に置かれていると思われる人物のブログをひとつ、発見できた。

 そのブログアカウントの名前は、『ちひろ』だ。プロフィールを見る限り、俳優を目指して都内でフリーターを続けている二〇代だという。ある程度の語彙力からして、それなりに読書していることがわかる。

 五月四日付けの記事に、『変な夢が連日、続いている』と記されていた。それを詳しく読んだところ、瀬田と同じような夢の内容が描写されていた。夢に登場する見知らぬ男のことを、『ちひろ』はホクロ男と呼んでいるようだ。瀬田が夢の中で見た男と、おそらくは同一人物であろう。

 そのブログをさらに追っていった。基本的には、日常生活で起きた些細な出来事を日記のように書き綴っている。その中で、ときどき思い出したようにホクロ男についての記事を書いていた。具体的な説明はなく、『怖い』、『不安』などのネガティブな感情を添えているだけであった。

 ところが、六月になってから、『また会いたい』、『心待ちにしている』などとホクロ男に対するポジティブな感情を書くようになっている。最近の若者にありがちな感情が先行した文章で、なにがあったのか、その説明は致命的に欠落している。

 七月に入ってからは、急にホクロ男に関する話題がなくなった。記事数もがくんと減少していることからすると、積極的に発信したいという気持ちが薄まる出来事でもあったのだろうか。

七月末には、『たいへんなことになった。ちょっとトラウマかもしれない』という意味深なタイトルの記事が投稿されている。その記事の中身は、そのタイトルを水で薄めたような内容だった。どうやら、悲劇を匂わせたいらしい。それ以来、更新が途絶えている。

 このタイプの若者――しかも、夢追い人――なら、一般的な人よりも強い承認欲求を抱えていることは容易に推測できる。このブログ上でコンタクトを取ろうと思えば、簡単につながれるだろう。

 瀬田は、正直、関わりたくないと思っていた。

いつだって問題を起こすのは欲望の大きい人だ。たしかに満たされないままで生きていることには同情するのが正しいかもしれないが、だからといって、自分の人生の登場人物にしたいとは思えない。

適当なところで諦めて、現状に甘んじる。そんな簡単なことができないくらいの大きな欲望を抱える人には、ちょっと触れるだけでも気分が悪くなる。美談に首を絞められた純粋な人の末路など、見たくない。

 まあ、気が向いたらコンタクトを取ってみようか。そういうことにして、瀬田は、ネット上での調査をいったん中断した。


   *


 千尋は、たまに、自分の性格の悪さにびっくりするときがある。けっして口にすることはないのに、頭の中では誰かを傷つけるような刺激的な言葉を組み立ててしまう。どんなに善人ぶったっって、わたしも人間だから。

 千尋の頭では、現在も、他害性を帯びた言葉がぐるぐると回っている。

 ―-わたしと同じ状況に陥って、どうしようもできずに沈黙したところで、ざまあみろ、って言ってやりたい。

 その言葉の矢が向いているのは、目の前にいる母親だった。五〇代半ばになり、わずかながら白髪も出てきている。

つい最近まで寡黙な祖母とふたりで暮らしていたマンションの一区画。そのリビングにあるテーブルを挟んで、亡き人となった祖母に代わり、母と対面していた。

「ちひろの気持ちもわかるけどね、父さんも心配してるの」

 平日の昼間に訪れていた静寂に、使い古された母の言葉が落ちた。本当に変わらない。いつも、そう言う。千尋は、そんな母の言い方が気に食わなかった。

本気で娘の人生を心配しているなら、娘にとっての幸せとはなにか、そこに耳を傾けるはずだ。どうやら、その様子もなく心配だけしてくる。さらに悪いことには、心配しているのは『父さん』らしい。父は『母さんが心配している』と言うし、母は『父さんが心配している』という。

結局のところ、千尋の両親が気にしているのはただの世間体だ。娘がふつうの人間でいられるように心配しているだけ。

かりに本当に娘の幸せを心配しているのであったとしても、それでも納得はいかない。幸せとはなにかについて、哲学的な議論をしなければならない。両親のその凝り固まった頭と、恐ろしいほどの視野の狭さには、これ以上ついていけない。

 千尋の頭の中では、次々と、母を迎撃するための言葉が準備されていた。それらを口にしたら最後、全面的な衝突を迎える。そうなれば、話し合いは成立しなくなるだろう。それだけは避けたいあまりに千尋は言葉を抑え込んでいる。

「これで最後にするから、いまだけは見逃してほしい」

頭の中にあふれていた激しい言葉の数々からすると、信じられないほど温和な言葉で、千尋は応じていた。

その言葉、『これで最後にする』というのは、もちろん、オーディションのことである。信じがたいほどの狭き門である俳優発掘オーディションの書類選考を突破したことは、母にもすでに伝えてある。それを最後の挑戦にするという千尋の現実的な選択についても伝えていた。

それらを伝えたのは、七月末のことだった。都内で祖母の葬儀がおこなわれた際に、ひさしぶりに両親と再会した。そのときに千尋は現在の状況について包み隠さず説明した。書類選考を通ったことに対する喜びも、そのオーデションにかけている思いの強さも、伝えたつもりだった。

しかしながら、両親は頑なだった。

「オーディションでちょっと残ったからって、先がないじゃない」

 残念なことにも、それが母親の立場である。依然として千尋の夢を応援するつもりはないようだった。

「はなから否定しないでよ。わたしは、そこに情熱を持ってるんだから」

 言葉を選ぶのが難しい。千尋の頭の中では、感情と理性がフルスピードで会議を続けている。

それはひょっとすれば母も同じなのかもしれない。次の言葉を探すように口をパクパクさせてから、母は言葉をつづけた。

「人生は情熱だけじゃ、どうしようもないの。わかってるでしょう。人前に立つのは、外から見えるよりもずっと、しんどいことよ。千尋みたいな繊細な子がやっていけるところじゃない」

 質の悪い正論だ。いったい、どこの世界に、しんどいからって夢を諦める人がいるというのか。飛び出しそうになる本音を口の中で噛んで柔らかくしてから母に伝える。この報われない時間こそ、まさに、しんどい。

昼間の住宅街に満ちた静寂の中、そんなことを続けているうちに、千尋の精神は着実に削られていった。ただでさえ祖母の件で精神的に参っているのに、この母親は最悪だ。

七月末から八月の初頭――現在――にかけては、千尋の人生を通しても随一の、激動の日々だった。なんせ、同居していた祖母が壮絶な死を遂げたのだから。いろいろやらねばならないことが多く、忙殺されていたと言ってもいいかもしれない。

当然のように、千尋ひとりだけではなにもできなかった。

この祖母の死が契機となり、上京して以来ずっと電話でさえ言葉を交わしていなかった両親と再会する羽目になった。

それはかなりのストレスだった。千尋の考えに賛同してくれない両親なんて、はっきり言って、ただの邪魔者だ。正直に言えば、千尋が無言を貫いているうちに、少しくらいは反省してくれたかとも期待していた。それはまったくもって無駄だった。両親はほとんど現実に洗脳されている。

仕事があるからという理由で父は葬儀を終えたあとすぐに神奈川に戻り、ひとり、母が東京に残った。

この通り、千尋を応援するために残ったわけではない。明らかに、母は、千尋を説得するために残っている。しばらくは千尋とともにこのマンションで生活するという。

頑固な母がいかなる手段を駆使して説得したところで、千尋には、絶対に折れない自信があった。八月の中旬に予定されているオーディションの演技審査には行くつもりだし、母によるいかなる妨害も許すつもりはない。

千尋は、そのオーディションへ向けて、七月と同じように、カラオケでの演技練習は毎日、続けている。週一の演技レッスンにも参加していた。

もちろん、精神状態が万全であるわけではない。正直なところ、追い詰められている。現在のところ、まだバイトには復帰できていない。

ショッキングな祖母の最期の姿が瞼の裏にこびりついている。

電話器からの突然の発火によって祖母は炎に呑まれ、あまりの熱さに苦しみながらベランダに飛び出し、地上七階のそこから路上に落下した。そのときの記憶がブルーレイよりも鮮明な映像で上映される。

不定期に解像度が高くなるのも嫌だ。生々しいフラッシュバックがやってくる恐怖は、常に抱えている。

そんな苦難がありつつも、それは自分の未来を捨てる理由にはならない――というより、その苦難を理由にするつもりはなかった。どんな障害があったとしても、自分の人生は自力で切りひらく。

幸いにもと言うべきか、電話器の置かれていた部屋の中は微かに燃えたところがあるだけで済んだ。生活拠点が残ったのは、ちょっとした救いだった。

悲惨な祖母の死にどう向き合うかについては、まだ頭の中で考えがまとまらない。考えるのを避けていると言ったほうが真実に近いかもしれない。

父としては、発火した電話器のメーカーに対して損害賠償を求める計画を進めているらしい。現在の千尋には、それほどの余裕はない。自分の置かれているシチュエーションに対する不安だけで精いっぱいだ。

祖母の死を契機とした一連の動きで、いつのまにか、千尋の孤立は深まっていた。中立的だった祖母がいなくなった現在、千尋を素直に応援してくれているのは、ひょっとすれば、バイト先の同僚である町井くらいかもしれない。ホクロ男――先生も応援してくれていたが、ずっと会えていないままだ。

たとえひとりぼっちになったとしても、この一度きりの人生でなにをするか、それだけは自分で決めたい。千尋は、いまいちど、対面している母に告げた。

「わたしは、わたしの考えで行動する」


   *


 わざわざ公共の場でイキんなよ、と杉田は怒りを覚えた。

 ポップコーンを買おうと行列に並んでいるときだった。突然、若い男の声が耳に飛び込んできた。レジカウンターのほうだった。そこには、見るからにガラの悪い金髪とダメージジーンズの若い男がいる。手際が悪いだの、声が小さいだの、店員に対して偉そうに文句を言っている。

店員はいちおう丁寧に対応しているが、すっかり委縮している。周りの観客としても、見ていて気持ちがいいものではない。

 ――あんた、いったい、何様?

 大勢の監視の目と、隣のかわいい――ホント、タイプの――丸い目がなければ、杉田は大きな声を上げていたかもしれない。

杉田だって、日常の中で苛立つことは多い。誰だってそうだろうが、どんな不満があっても、他者への配慮には気を付けている。そこに頭が回らないのは、おそろしく幼稚だ。見ていて恥ずかしいし、それこそ苛立ちが込み上げてくる。

どうにか、杉田は、それを顔に出さないように気を付けていた。気を紛らわそうと館内の特大ポスターに目を向けると、それはちょうど、お目当ての映画のポスターだった。

旬のアイドルふたりがダブル主演を務めたことで注目を集めている恋愛映画、『キスで終わらせないで』。

孤独な日々を送っていた高校生の女の子と、ブラック企業で消耗していた二〇代の男。けっして出会うはずのなかったふたりが奇跡のように結ばれていく。そういうストーリーラインで宣伝している。

「ね、濡れ場あると思う?」

 杉田は、とびきりの笑顔を向ける。杉田よりも背が高い彼―ちょっとだけタバコくさい西島――は、杉田を包み込むような優しい笑みで応じた。

「俺は期待してるね。なんせ、『キスで終わらせないで』なんだから」

 おどけたその顔がイタズラ好きな子供みたいで、かわいい。いまさっきのモラルのない客に対する怒りも、吹き飛んでいった。

やっぱり、デートは神。あまりに尊くて困る。田嶋と別れて以来ずっとデートしていなかったから、余計に胸が動いている。杉田は、西島を映画館デートに誘った自分のことを褒めたくなっていた。

 思いきって西島に電話をしたのは、八月になってからだった。六月に電車の中で再会して以来、大学時代の青い記憶がふいに蘇ったり、ちょこちょこと西島の顔が脳裏にチラついたりしていた。幸いにも、西島が断らないだろうことは感覚的にわかっていた。「ウチら、わりと付き合えそうじゃない?」と言ったら、「ビンゴだわ。俺も、うっかり、おんなじこと考えてた」と即答してくれた。

夢に出てくる先生の助言にもあったように、新しい相手をつくれば、ぐちゃぐちゃの心も少しは紛れるかもしれない。そんな考えがあった。その考えが正解だったことに、杉田は現在、並々ならぬ確信を抱いている。

やはり、人生は単純な一本道ではない。終ろうとすればいくらでも終えられるし、始めようと思えばいくらでも始められる。

西島とともに映画館にいるという現実そのものが、麻薬みたいに杉田をハイにする。

初デートの行き先を映画館にしようと提案したのも、杉田だった。『キスで終わらせないで』を観たくなったのは、通勤手段を変更したおかげだ。

八月になってからのこと、杉田は、先生のもうひとつの助言――バス通勤に切り替えること――を実行した。東京駅の丸の内北口から出発する『荒川土手行き』だ。帰りは、だいたい、八時十三分発のバスに乗車する。

その車内に搭載されたモニターで『キスで終わらせないで』の宣伝CMを見たときに、どうしても西島と観たくなった。

 そんな経緯を振りかえると、あらためて先生への感謝が込み上げてくる。八月になってからは先生が出てくる夢を見ていないが、そんなことは気にしない。むしろ、先生がいなくてもよい状態になったのだ、と杉田はポジティブに捉えている。

「ガチで言えば、わたしは、濡れ場はないと思う。主演はどっちもファンの多いアイドルだしさ。事務所が許可しないっしょ」

 それはどうかな、と首を傾げた西島に、杉田は思いつきで言った。

「じゃあ、賭けしよ。濡れ場があったら、西島の勝ち。そのときは、ひとつだけ西島の言うことを聞いたげる。逆に、濡れ場がなかったら、わたしの勝ちね。そのときは、キスで終わらせないから……なんて」

「べつにいいけどよ」

 ただの冗談のつもりだったのに、西島の目には熱がこもっていた。

「俺が勝ったところで、キスで終わらせる気はないからな」

 まんざらでもない西島の言葉に、反応が遅れる。さすがに恥ずかしくなって、杉田は、苦笑いで流した。

どっちにしてもキスで終わらせない、という、なんの賭けでもない約束。その話題は置き去りにして、ふたりぶんのポップコーンを買った。そのままシアターまで移動し、お目当ての『キスで終わらせないで』をふたり並んで観た。

 濡れ場はなかった。

 ラストシーンでいやらしい展開になりそうだったが、肝心なところは映さないでブツリと終わった。どうやら、賭けに勝ったのは杉田のほうらしい。

 シアターから出てくるときは、ぎこちない会話しかできなかった。さっきの賭けをどうすればいいのか。絶対にビッチにはなりたくないのに、真面目に迷っている。正解がすでに決まっていることを迷うなんて、おかしな話だ。

シアターの外にある暗い通路では、聞き覚えのある男の声が響いていた。映画を観る前、ポップコーン売り場の店員にもキレていたあの金髪の男だ。今度は、ゴミ回収のスタッフにキレているらしい。数時間前の苛立ちが呼び起こされるにつれて、強い力で嫌な現実に引き戻されていくような気がする。

せっかくのデートも、あっという間に終わっていく。

突如、激しい孤独感が押し寄せてきた。それを西島に悟られたくなくて、杉田は、息を止めるように笑った。

「わたし、タバコくさい口とはキスできない。ごめんね」

「望むところだな」と、西島も、笑ってくれた。それなのに、嬉しくない。正常な人間を演じることは、ときに安堵をもたらすのに、ときに苦しみを増幅する。空気を得るための穴がひとつも開いていない仮面の下で、窒息しそうになっている。


   *


 職業柄だろうか、わからないことを放っておくことができず、つい調べたくなる。難解な資料に手を伸ばしたり、専門家に相談したりするのもひとつだが、いちばん効果があるのは現地調査だ。記者としての経験を通しても、現地に赴いて生身で受けた情報はなによりもクリアで、すこぶる雄弁だった。

瀬田は、八月になってから突如として始まった同じ夢のループ現象について、ついに本格的に現地調査することを決断した。

 夢の中に出てくる書店内についての調査は大方、済んでいた。

その書店は、本棚の設置箇所や内装からして、明らかに瀬田の知らない場所だ。現実に存在するかどうか断言することはできないが、おそらくは夢の中にしか存在しない書店であろう。

きっと、夢のために用意されたスタジオみたいなものだ。そう判断できるのには、理由があった。

本棚に並んでいる本をいくつか手に取ってみたところ、どれも中身はなかった。真っ白だったわけではなく、『Not found』という文字が最初から最後まで延々と続いていた。瀬田が確認できた範囲では、ちゃんとした文章が記されていたのは『若きオジサンの悩み』だけであった。そのほかの本―-マンガも、写真集も、単行本も、文庫本も――は、どれも中身がない。

文庫レーベルや、作品タイトル、表紙のデザイなどは、現実に存在するものも多く含まれていた。いずれにせよ、それらはどれも中身のない贋作で、いわゆる小道具みたいなものだった。

また、書店の中には、エプロンを身に着けた店員や、ぶらぶらと歩いている来店客など、合計で八人いた。いつも同じ八人しかおらず、彼らは毎度、同じような行動をする。どの来店客に、すみません、と声をかけてみても、なにも反応しない。レジにいる書店員のところに本を持っていくと、いちおう会計は済ませてくれる。残念ながら、店員はそれしかできず、適当に雑談をふっても反応がない。

そのような、ある種の機械的な動きからすると、夢に出てくる人間は全員プログラムの上でしか動かない偽物だ。彼らもやはり、そのシチュエーションを生み出すために用意された道具でしかない。

それらの観点からして、その書店が架空のスタジオに過ぎないのだと判断できる。

以上のように、書店の中のことは、ここ半月ほどの調査でだいたい把握できている。問題となるのは、書店の外だった。

自動ドアの透明ガラスのむこうに黒い空間があることに、瀬田は気が付いていた。意外にも、書店の外には街があるわけではない。夜でもない。その純粋に黒い空間の中には、ぽつんとひとつ、赤い扉が設置されている。まさに夢のような、現実性の欠如した無秩序なコラージュの世界である。

その黒い空間には、調査の手を伸ばしていなかった。瀬田はついに、書店の外へと現地調査を開始することにしたのだ。

ゲームオーバーするたびにリセットされて同じ場所から始まるゲームのように、書店内の同じ場所から、今日も夢は始まった。その時点ですでに、これが夢だということを明瞭に理解している。

書店内の構造も完全に把握していたので、どこに行けば出入口があるかもわかる。瀬田は、寄り道せずにまっすぐと自動ドアへと向かった。現在まで、そのドアが開くほどの近距離に近づいたことはない。

なんとなく不安もあるが、激しい好奇心を抑えることはできない。瀬田は、センサーの手前で立ち止まることなく、自動ドアの前に立った。その途端に勝手に開いていったドアが完全に開くのを待たずして、瀬田は、黒い空間に一歩、踏み出す。

空気はとくに変わらない。暑いわけでもないし、寒いわけでもない。ほんの少しだけ空気が緊張しているように感じるのは事実だ。それは環境のせいではなく、瀬田自身の精神状態によると解釈したほうが無難であろう。

遠くにある赤い扉まで、黒い壁が続いている。この空間は、その赤い扉を中心点にした扇形になっているようである。

瀬田は、その場で振り向いた。

「マジかよ」と、小さく口が動いてしまう。

背後には、いま出てきたばかりの書店の自動ドアのほかに、四つの扉が並んでいる。ひとつは明らかにバスの降車口だ。その透明ガラスのむこうには、小さな座席が見える。都内でも見かけるような一般的なバスであろう。そのほか、重そうな扉もあれば、軽そうな扉もある。中には、自宅にあるような浴室の扉らしきものもある。その五つの扉が、赤い扉を囲むようにして湾曲した黒い壁に並んでいる。

瀬田の好奇心をいちばん強めたのは、バスの降車口であった。もはや膨れ上がった探究心にはブレーキが存在しない。不安を感じる隙もなかった。

瀬田は、その降車口の透明ガラスに手を伸ばした。軽い力で押すと、なんの抵抗もなく開いた。瀬田は、首を伸ばして、バス車内を見た。

バスの天井では、資本主義の欲望が氷山の一角を晒している。運転席背部のモニターでは、ロマンス映画の宣伝CMが流れていた。数人の客がバスの振動にぐらぐらと揺られ、運転席には制服を着た無言の背中がある。

あのブログ――アカウント名は『ちひろ』――に書いてあったのと同じシチュエーションだ。瀬田は、ものすごい興奮を覚えた。ピラミッドの建造と忘却の歴史のように、思考が勢いよく組み立てられ、次の瞬間にはその組み立て方を忘れてしまった。思考の結果だけ、残っている。

 つまり、これは――。瀬田は、いまいちど思考の軌跡を発掘しながら、思考の結果を確認していく。

例の『ちひろ』の夢がそのバス車内からスタートしており、瀬田の夢が書店の中からスタートしていることからすると、おそらく、ひとりに対してひとつ、夢が始まる場所が割り当てられている。

五つの扉があるのだから、『ちひろ』と瀬田を含めた誰かしら五人がこの夢に参加している、または参加していた、あるいは、これから参加する。なぜかしら選ばれた五人は、夢の中でこの空間を共有し、なにかのイベントに参加させられている。

瀬田の個人的な推測によれば、ひとりに対してひとつ割り当てられている個別の空間は、その人がリラックスできるように配慮されている。ブログの『ちひろ』は、その記事の中でバスの中がいちばん落ち着くと記していた。

瀬田も同様だ。書店はどこよりも心休まる居場所だった。

全身をめぐる毛細血管の細部にまでサイコパスの血液が流れていることに瀬田自身が気が付いたのは、小学生のときだった。相手に共感できないせいで人間関係が難しい。その苦難の中でなんとか生きていけたのは、多くの小説を読むことによって人間の思考や感情パターンを論理的に把握するようになったからだ。瀬田にとって書店というのは、未知なる他人の世界を理解するための学校だった。

そういうわけで、瀬田にとっての書店は、『ちひろ』にとってのバスと、ほとんど同じような意味を持っている。そのほかの個別の空間も、同じように、その人がいちばんリラックスできるように考えられているはずだ。

以上のことを簡単に言い換えれば、どういうわけか、五人の人間が夢の中でひとつの空間に接続されており、それは強制的でありながらも、それぞれに対する不器用な配慮が見え隠れしている、ということになる。そこまでは曖昧ながらも理解できる。

しかし、その先がわからない。瀬田は疑問を感じていた。だいいち、目的はなんだ。これは、どういうイベントなのだ。深く検討するための材料が絶望的に欠けている。

かといって、なにも手がかりがないというわけでもない。

頼みの綱となりそうなのは、『ちひろ』がブログの中で書いていたホクロ男の存在だった。瀬田の夢の中にも、顔写真だけではあるが、すでに登場していた。『ちひろ』のブログをざっと読んだ感じでは、今年の六月、『ちひろ』は夢の中でホクロ男と対話をしていたようである。

そのホクロ男は、いったい、どこにいるのだろう。

とてつもなく怪しいのは、奥にある赤い扉だった。あの先になにかがあるような、誰かがいるような、そんな気がする。

瀬田は、もういちど振りかえり、黒い空間の奥を見つめた。そこには、静かに待ち構えている赤い扉。鮮やかに燃えているようなオーラを放っている。

あそこに行くしかない。瀬田は、小走りで黒い空間を進んで、赤い扉へと辿りついた。その金色のドアノブをしっかりと握り、ぐるりと回す。

ごっ、とドアノブが止まった。瀬田は鼻白んだ。どうやら、赤い扉にはロックがかかっているらしい。ひょっとすれば、脱出ゲームのように、ロックを解除するためにはなにかアクションを起こさなければいけないのかもしれない。そうでなければ、ロックが解除される時間や期間が決まっているのだろうか。

どうあれ、現時点では、その先には進めない。瀬田は、赤い扉を睨みつけ、「マジかよ」とまた言葉を零した。


   *


「ご安心ください。誰かが入室されているときには、厳重にロックをすることにしていますから」

 ごっ、という鈍い音がしたことについて、先生はすかさず説明した。いまさっき先生の背後にある赤い扉を誰かが開けようとした。ロックがかかっているせいで失敗し、いさぎよく諦めたようである。

 この空間には、ほかにも人がいたのか。そのことが意外で、考え込んでしまう。それは誰なのか。夢にだけ出てくる人か、それとも、同じように夢を見ている人か。知っている人だろうか、まったくの赤の他人だろうか。

それらの疑問をひとつにまとめようとしているうちに、先生は、その沈黙を不安によるものだと勘違いした。

「そんな、気になさらず。この空間は防音になっていますから、扉の外に話し声が漏れる心配もありませんので」

 そんなことはべつに構わない。それよりもずっと気になるのは、この、夢の中に建設された不可解な空間に、先生以外の誰かがいることだ。一か月もの間ずっと同じ夢を見てきたが、そこには先生しか登場人物がいなかった。先生との対話が始まってからも、それ以外の人とは会ったことがない。

 定規を用いて描いたかのように美しく三つのホクロが縦に並んでいる先生の顔を直視しながら、いまのは誰なのか、とストレートに問うた。

 タキシードをまとった先生は、その服装によく似合ったシルバーの高級腕時計に目を落とした。その盤上に小さな予定表が入っているかのようにまじまじと見つめている。ゆったりと間を取ったうえで、「この時間ですと、記者さんですかね」と、落ち着き払った低い声で応じた。

「どうあれ、気にしないでください。いずれ彼とも対面することになるでしょうが、いまのところ、接点をつくっておく必要もありませんので」

 なにかしら先の展開を匂わすような言い方だったが、そのことを追及しても新たな情報を得られそうにない。未来ではなく現在について問うのが現実的だと思い、何人くらいいるんですか、と問うた。

「五人の予定です」と、先生は、はっきりと答えた。

「五人とも、それぞれに面識はありません。実を言いますと、その五人のみなさんが偶然に遭遇することはなんとしてでも避けなければいけない、などと考えているわけではありません。べつに現時点で遭遇してもらっても構わないのです。だけれども、それぞれのプライベートを侵害することになるんじゃないか、という危機意識がありまして。そこで、念のため、わたしのほうで正確に、みなさんが顔を合わせることがないようにと、時間調整をさせていただいています」

 先生なりの配慮ということだろうか。そのおかげで、夢の中でほかの四人とは遭遇したことがないわけである。

 その四人のことがいっさい気にならない、と言えば嘘になる。

森山の胸の中には、どんな人たちが同じシチュエーションに陥っているのか、単純に知りたい気持ちがあった。

とはいえ、現状があまりに常軌を逸しているせいもあり、その四人に対する興味が相対的に小さく感じられるのも事実だった。

 七月になってから、夜の川岸で見知らぬ男と遭遇するという夢がループするようになった。かと思うと、八月になってから急にその男が口を開いた。「こちらです」と誘導されるままに川岸の電話ボックスに入り、その中にあった黒い空間を進んで、赤い扉の奥の部屋に辿りついた。そこで先生――年下ではあるが、『先生』という呼称に違和感はない――との気軽なトークが始まった。そのような一連の流れを振りかえると、それはミステリアスどころか、すでにファンタジックでさえある。

 森山の頭の中には、同じ境遇にある四人のことよりも、どうしても気になって仕方がないことが山積みにされている。

この夢の目的も、ひとつだ。率直に先生に対して訊ねたこともあった。そのとき先生はあからさまに話題を逸らした。どうやら、夢の目的に関する詳細については、現時点で明かすことはできないらしい。

 だったら、せめて、この夢の首謀者は誰なのか、それは先生自身なのか、それくらいは明かしていただきたい。森山は、慎重に間を置いてから、「その五人を選んだのは、先生ですか?」と訊いた。

「ええ、そうですよ」と、先生は、意外にも躊躇わなかった。

「参加者の方々をこの空間に接続しているのも、この空間そのものを用意したのも、また、この空間における活動の決定権を握っているのも、それは全部、わたしです。ここはわたし個人の、いわゆる独裁制によって運営されています」

 上機嫌なのか、先生の口がいつもより動いている気がする。この好機を逃さじと、森山は、取引先への接待の中で身に着けた聞く力を存分に発揮した。

 そのせいで口が滑らかになった先生が続けて語ったことは、主に、独裁制に対する政治学的な洞察であった。

多くの企業が社員による民主主義を採用しない。そのことを例に挙げながら、独制裁のメリットについてわかりやすく説明していた。それは興味深い話ではあったが、先生個人に関する新たな情報ではない。

ただひとつ、先生の素顔が覗いた瞬間もあった。理路整然とした文脈の中で、やけに感情的な色合いを帯びた言葉だった。

「民主主義なんてね、言ってしまえば、多くの賛成があれば正当に人を殺せる仕組みなんですよ」

 その言い方には、民主主義に対する批判の色はなく、ただ漠然とした一般社会に対する不信感が滲んでいるように感じられた。もっと言えば絶望感、あるいは軽蔑。案外、先生の心の奥は見た目以上に暗いのかもしれない。

 森山は、別段、それを悪いことだとは感じなかった。長く生きていれば、人間の不完全さは気にならなくなる。誰でも、なにかしら捻じ曲がったものを抱えている。それだけで過小評価はできない。

むしろ、森山には、先生の存在を盛大に歓迎したい気持ちがある。なんせ、優秀なカウンセラーを探す手間がなくなったのだから。森山は、カウンセラーの代わりとなった目の前の先生を、感謝の気持ちを感じながら、見つめた。

 ふいに、その先生の両目が、動揺したようにかすかに泳いだ。

まずい、といったような一瞬の焦りの意味を、森山は理解している。まんまと森山の策略にハメられた先生も、さすがにワナにハマっていることに気が付いたようだ。いまさっきまで胸の前で雄弁に動かしていた両手を、刀でも仕舞うような動作で、ブラウンの椅子の左右それぞれのひじ掛けに置いた。

「うっかりしました。これ以上、わたしのことを深掘りするのは勘弁してください。せっかくですから、どうぞ、昨日の続きを始めてください」

 ねっとりとまとわりつくような低い声は、すでに余裕を取りもどしている。感情の揺らぎが見えたかと思うと、霧が立ちこめるようにすぐ不明確になる。そんな先生のある種、非人間的とも言えるところを、森山は気に入っている。その非人間さがあるからこそ、話しやすいのだ。

 なんと言うべきか、先生と話していると、ちらりと赴任した見知らぬ地で偶然に出会った同士と話しているような気持ちになる。

仲がいいからなんでも話せる、という信頼感ではない。なにを話したとしても、それに対する相手の反応がべつに気にならない、といったところだろうか。

先生の非人間的な反応――感情に乏しく、あらゆる言葉を画一的に処理しようとするところ――は、話し手を安心させる。どんなことを言ったとしても、非難されたり、軽蔑されたり、怒りを買ったりすることはない。そういう表面的な反応に対する信頼感は、必要十分に形成されているのだろう。

森山は、躊躇いを感じることもなく、頭に浮かんでくる新鮮な言葉を音声で発信していった。

「わかっていることではあるんです。ビジネスだって、プライベートだって、双方の合意がないと成立しないことは」

 それは基本的な社会の仕組みであるとともに、人間関係における不文律でもあった。付き合いたくない人とは関係を遮断するべきであるし、誰かに縁を切られたのであれば追うべきではない。

 それぞれの選択がそれぞれに尊重されなければ、世の中は一夜にして崩壊する。社会が身分制度で成り立っているならまだしも、すべての人間に権利を保障している現代社会においては、合意のない関係はありえない。

「ですから、まあ、当然、こっちの思いだけを優先するわけにもいかないんですが、それがうまくいかなくて……」

 森山が抱えている悩みは、言うまでもなく、家族との歪な関係だった。とくに妻との関係はいつのまにか暗礁に乗り上げていたようである。

森山が把握している範囲では、妻とは、はじめから仲が悪かったわけではない。経済面における人生計画や、人間関係における利害の一致など、興覚めするような現実的事情によって結ばれたわけでもない。恋愛結婚と言ったら少々過剰かもしれないが、べつに間違いではなかった。

妻と出会ったのは、大学三年のときだった。

その当時、森山がバイトしていたレストランに、新人のホールスタッフとして入ってきたのがのちの妻だった。ふたつ学年が下で、通っている大学も違った。バイト先の先輩ということで、森山は、いろいろと仕事内容を教えた。

ずいぶん愛想のないやつだな、というのが第一印象だった。アドバイスをしても適当に返事をするだけ。さすがに接客のときは笑顔で対応していたが、それが余計に普段の愛想のなさを際立たせている。

なんだ、こいつ。森山は、ちょっとだけ不愉快な気持ちもあった。同じ職場で働いているのだから、同僚に対して愛嬌をふりまいても損はないのに。

そんな森山の不満が解消したのは、ある解釈の切り替えによってだった。

誰に対してもぶっきらぼうに対応しているのかと言えば、そうではなかった。どうやら、森山に対してだけ、とくに愛想の出し惜しみをしているようだった。まさか、こいつ、俺に惚れてんのか、と思った途端、急に、女性として意識するようになった。たしかに二重の目が愛らしいのは否めそうにない。そういうことになれば、森山としても逃すわけにはいかなくなる。

 LOVE理論に精通していた当時の森山の頭の中では、なにをすれば女性が喜ぶのかについての研究が充分に進んでいた。躊躇う理由などない。

 かなり強硬な姿勢で挑んだところ、あっという間に、落城した。いったん落城すると、人が変わったかのように森山に対しても自然な笑顔を見せるようになった。若干、人見知りが入っているのはネックでもあったが、そのぶん他者に対する真摯な姿勢があり、好感が持てた。

デートを重ねるうちに、頑丈な芯を持っているのが見えてきた。さまざまなことを真面目に受け止めすぎるからこそ、奥手になりやすいのだろう。人生のパートナーとしての資格を持ち合わせているのは一目瞭然だった。

 価値観が近いかどうか、それはわからなかった。政治的な考えや人生に対する思想も、知らない。そこに触れずにいたのは、不用意にお互いの違いに気付きたくなかったせいかもしれない。

結果論でしかないが、その関わり方の戦略が結局のところ、失敗していた。そのようにお互いの心をそれぞれに管理していたことが、ふたりの間に亀裂が入るのを防いでいた反面、結果として、厄介ごとを先延ばしにしていた。債券を発行しすぎて、のちのち増税せざるを得なくなる、あの某国の財政のように。

 二年遅れて大学を卒業した妻と、森山は、そのまま結婚した。希望通りに大手の銀行で働き始めた妻はみるみるうちにキャリアウーマンになっていった。森山としては、このまま共働きで生涯を終えていくものとばかり思っていた。

いまになってみれば、バカ丸出しだ。すれ違いが始まっているとも知らずに、のうのうと人生を謳歌していたのだから。

ふたりの問題が表面化したのは、妻が働きだしてから数年先のことだった。ある程度は職場に馴染んでいるようだった妻が急に、子供が欲しい、と言い出した。まさに青天の霹靂だった。

 そのときまで森山はうっかり、自分の考えを妻に投影し、ふたりとも同じ考えでいるかのように錯覚していた。

若いころからずっと、森山には、子供に対する思いはなかった。正直なところ、子供をつくることを超えるエゴはない、とさえ思っていた。事実をそのまま述べることが許されるのであれば、子供はやはり生まれてくるのではなく、強引に生まされている。そこには人道的な問題がある。

そんな森山の価値観に対しても、妻は感情的にならず、冷静に説得を続けた。エゴだったとしても、子供が欲しい、と。

森山が同意しなければ、ふたりの関係はそこで終わりそうだった。それだけは回避するために、森山は、ある条件を付随させたうえで子供をつくることに同意した。

育児については主に妻が取り組む、と。

 それは少しばかり聞こえが悪いかもしれないが、古くさいジェンダー論によって導かれた結論ではない。子供をつくりたい、と言い出したのが妻だから、という無責任な押し付けによるものでもない。

現実はもっと単純だ。

このまま仕事を続けていったら、妻よりも森山のほうが多く稼げる。そう予測ができたからに他ならない。それは邪推ではない。妻が勤めていた当時の銀行内部のヒエラルキーの上層部は男性で埋め尽くされていた。子供を育てるためにはお金が必要であり、より稼げるほうが家計を支える役割に回る。そうではないほうが子育ての役割に回る。偏見とは関係のない、目的合理的な判断だった。

その判断には、妻も納得していたはずである。それなのに――。

それなのに、である。

自分が社会の場から追われたことについて、妻は森山に恨みを抱くようになった。その感情の動きについては、たしかに一般的な感覚でも筋が通っている。それは認めつつも、そこまで器が大きくはなれない。納得していたくせにという真っ当な思いもあり、少なからずお門違いに感じる。

娘ふたりに対して妻がなにを話したかは知らないが、娘たちはどうやら妻の味方をしている。それも気に入らないのだ、と森山は包み隠さず、先生に打ち明けていた。

「なんだか、こう話していますと、自分が最低な人間のようにも感じますがね、俺は俺なりに筋を通してやってきたんです」

先生は、静かな眼差しを維持している。否定も、肯定も、ない。以前に『指揮者みたいなものだ』と名乗っていたとおり、まさに指揮者のように、森山の悩みと真正面から向き合っているように見えた。

森山が話し終わったのを慎重に確認してから、先生は、「不協和音の始まりは明確ではなかったりします」と空気を震わすような低い声で言った。

「と言いますと、どちらが悪いかはわからないとでも?」

「そこまで言うつもりはありませんがね。まあ、しかし、敵と味方、善と悪、始めた人と巻き込まれた人。はっきりとさせたら気持ちがいいのかもしれませんが、わからないことも多いですね。意外と、答えは理屈じゃなかったり、そもそも答えなんかなかったりするかもしれません」

 キレイゴトで片付ける気か、と肩に力が入ったが、それも一瞬のこと。次の先生の言葉には思わず全身の力が抜けた。

「一生懸命に考えていることは、伝わりました。足りていないのは、奥様への理解というより、単純に時間なのでは、と感じます。もうちょっとリラックスできる時間を確保するのもひとつかな、と、わたしはそんなふうに思いました」

 自分が一生懸命に考えているだなんて、森山自身も認めていなかった。温かく現実的なアドバイスに、ひさしぶりの胸の昂ぶりを感じる。

たしかに時間が必要だ。現状を外から見つめるためにも、いま沈み込んでいる暗い湖から岸へと上がらねばならない。さすが先生は話が通じる、と森山は好感を強めた。


   *


 ラブホ街って、地味にいい。

品がないとか、治安が悪いとか、クリティカルに捉えようとすれば簡単だけど、そういうアウトローも含めてステキ。この世の快楽と苦痛がごちゃ混ぜになっているみたいで。なんていうの。期待という甘さと、不安という苦味が、半々で混ざっているコーヒー牛乳みたいっていうか……。

「ねえねえねえ、言ってること、わかるでしょ?」

 強引に共感を得ようとして、杉田は、大きな声を出した。フロントガラスのむこうを見つめていた西島の目は、こちらを向かない。

「たしかに。コーヒー牛乳みたいだね。俺も、そう思ってたわ」

 あとはジェスチャーで誤魔化そうと思ったのか、一瞬たりともフロントガラスから目を離すことなく、うん、うん、うん、と細い顎を縦に振った。

すごくテキトー。温度差があるようだ。せっかく、ラブホでファンキーに過ごす予定なのだから、もうちょっとテンションが高くてもいいのに。

 まあ、いいや。連日の仕事で疲れてるんだろうから。杉田は、なんとか寛大に受け止めることにする。

レンタカーを用意してまでドライブしてくれているのだから、西島には感謝しないといけない。ラブホ街へと車を走らせている西島の邪魔をしないように、杉田は、そこで言葉を切った。

 芸術作品のように輝いて見える西島のクールな横顔から目を離して、前方を向く。フロントガラスのむこうでは、大都会の足元、ごちゃごちゃと肩を縮めて群がっているビルやマンションが続いている。黒いボンネットには真昼の日光が降り注いで、ところどころで白く反射していた。

 冷房のひんやりとした風が頬に触れるたびに、外の暑さに恐れが膨らむ。外には出たくないから、この際、カーセックスでもいいような……。

 ダメ、ダメ。そんなの、どっかのシンガーソングライターみたいなビッチじゃん。かろうじて杉田は考え直した。

杉田の胸の中では、抑えようのない欲望が渦巻いている。

ひさしぶりすぎる。大学生のときに誰かと交わったような気もするが、記憶に曇りガラスがかかっている。ひょっとすれば、ふしだらだった高校生のとき以来かもしれない。少なくとも、アセクシャルだという田嶋に惹かれてからはずっと一途だったから、一〇年くらいの間は、この肉体は独りきりだ。

その期間のうちに、欲望は膨らみつづけた。年を重ねるにつれて欲は弱まっていくものとばかり思っていた。アラサーになるにつれて逆に欲がぐんぐん増していったことには動揺していた。

 それも今日のための準備だったのかもしれない。杉田は、いつになく気分がいい。社会にあふれた有毒なガスを防ぐために装着していた重たいガスマスクを、一〇年ぶりに外したかのような気分である。

 もう、過去の男に対する思いも薄れている。田嶋のことが頭からずっと離れずに苦しんでいたのは、現在の生活に進展がなかったせいだ。すでに田嶋との写真は削除した。未来に続く道が見えれば、過去に歩いてきた道を振りかえる気にはならない。

 先生――またの名をスマイルおじさん――のアドバイスのとおりである。神とか仏とかどうでもいいから、この際、あのオジサンこそ崇めるべきだ。いまはもう夢を見なくなったが、またいつか先生に会える機会があったら、ご神体のようにうやうやしく扱いたい。手を合わせてもいい。

 この胸の高鳴りと、明るい気持ちと、暗い過去からの脱却を、西島と共有したい。

それが杉田の本音だったが、運転中の西島はどうも会話を面倒くさがっているようだ。仕方がない。杉田は、心地よく揺られている助手席で、ピアノの鍵盤の模様がプリントされたポーチからスマホを取り出した。

 支配系統が独立しているかのように指が動く。気が付いたら、SNSのアプリを開いていた。浦上直斗の公式アカウントに、最新のメッセージが表示されている。

『謎に包まれているホラー作家、何故いきると対談しました。対面です。会ったときは、まさか、とびっくりしましたが、口外しないように言われたので黙秘せざるを得ません。気になる方はこちらの記事をどうぞ』

 そんな文章に添えて、URLが添付されている。何故いきるのことは嫌い。浦上が対談しているのなら、ちょっとは気になる。杉田は、ポチッとURLを押した。

 その対談記事を飛ばし読みしていったところ、案の定、つまらなかった。なんだか、難しい。攻撃欲動がなんだとか、愛と憎悪がどうだとか。おそらく、浦上が九月にクランクインすることになっている映画、『蛙の戯曲』について話し合っているのだろう。それだけ、ぼんやりと読み取れる。

 何故いきるは、その対談の中で次のように語っている。

『こんなことを言ったら誤解する人もいるかもしれないですが、誰かを殺したい、っていう抑えがたい衝動は、たぶん、誰かとエッチしたい、っていうのと同じなんです。理屈なんて欠如したところで、もう感情がうわああって、なっちゃってるんです』

それに対して浦上は、『ええ、わかります。だからこそ、先生が描かれている殺人鬼も、ある意味、すごく純粋なところがあるように思えるんですよ』と、終始、そんな調子で、少々読者を置き去りにしている。

浦上も、何故いきるも、いちおうクリエイターだ。それぞれ細かなこだわりがあるのかもしれない。杉田は、すぐのうちに興味を失い、対談記事のページを閉じた。浦上の公式アカウントのトップページに戻る。

「なんだよ、ナオちゃん。俺に飽きたの?」

  突然の声に、慌てて、スマホを裏返した。どうやら、信号で停まった隙に杉田のスマホを覗き込んだ西島が抗議してきたようだ。半笑いの顔をぐっと寄せてくる。冗談めかしてはいるが、その顔には本音が出ている。

そんなふうに嫉妬するのも愛らしい。西島にはちょっと申し訳ないが、「これは別腹ってものよ」と女性の現実を教えた。目の前の彼氏と、憧れの芸能人は、問題なく頭の中で両立できる。西島は、ふーん、と半分は納得したようだった。

 これ以上、西島の気分を害するわけにもいかないので、杉田は、ひとまず浦上の公式アカウントは閉じた。代わりにニュースアプリを開いた。種々雑多なネット記事を読み漁ることで時間をつぶしていた。

「おい、コーヒー牛乳みたいな匂いしてきたぞ」と冷やかしの声が降ってきた。

そのときになって、ようやく杉田はブルーライトを浴びせてくるディスプレイから顔を上げた。

 真っ先に目に入ったのは、薄くピンクに塗られた壁だった。そこには黒い文字で『休憩2時間 5300円』とある。それで目的地に到着したことがわかった。どくどくと鼓動が速まる。

 車を進めるたびに、オモチャのように派手なホテルが次々と現れてくる。ダークトーンの妖艶な建物もあれば、メルヘンチックな夢の国をコンセプトにしている建物もある。どれもミニチュアみたいに現実感のないところは、さすがラブホだ。古びた遊園地のような哀愁が漂っている。

 あらためてラブホ街を回ってみると、我ながら、コーヒー牛乳とは言い得て妙だな、と思えた。なにもかも脱ぎ去れることの甘さだけではない。母のような優しさとともに父のような厳しさを感じる。胸がぐっと締め付けられるような、ある種の現実の残酷さを、どこか雄弁に語っている。

どれにする、と話し合っただけで意外と楽しかった。

そのあたりをぐるぐると回った末に、ふたりが選んだのは、ハイスクールをモチーフにしたラブホテルだった。

 白く厚い壁に囲まれた駐車場に車を停め、そのホテルの中へと上がる。そのワンルームには、壁一面の黒板と白いチョークがあり、それにパステルカラーの引き出しの入った木製の学習机が三つあった。数学や物理、現代文、英語など、ずらりと科目名が並んだ予定表まで壁に貼られている。掃除道具が入っていそうなロッカーの中には精算機が入っていた。一般的な教室をイメージしているようで、禁断の空気が流れている。AVじゃん、と息を揃えるだけでさらに心臓が動く。

「そいえば、ゴム、買った?」と訊いたら、「ふつう、部屋の中に置いてあるよ」と、西島は部屋を見回した。ベッドの横にある木製のローテーブルの上に、真四角のプラスチック包装のものがある。西島はそれを拾い、「ほらね」と笑った。

 杉田は、ちょっと恥ずかしくなった。まるでラブホに来たことがないことをわざわざ強調するかのような自分の言動が、あんまりに策略的だったから。幸いにも、西島は、そんなことは気にしていないようだった。

「言っとくけど、俺、カラダ目当てじゃないからね?」

 ベッドに腰かけた西島は、急に、包装されたコンドームを投げたりキャッチしたりを繰りかえしはじめた。エモいセリフを発しようとしている自分に照れているのを、無駄な動きによって誤魔化しているのは一目瞭然だ。すでにツッコんでもいいのだが、もうちょっと泳がせることにする。

「もちろん、おカネ目当ての誰かさんとも違うんだよ。俺はね、おカネでも、カラダでもなくて……」

 西島はコンドームを投げ、放物線を描いたそれは学習机の天板に落ちた。それを見届けた西島は、にっと唇の端を上げる。

「俺はね、ナオちゃんのココロ目当てなの」

 予定どおりに決め台詞が吐かれた途端、杉田は、ついに噴き出した。ははは、と西島も続く。防音の部屋は深海のように静かなのに、ふたりの笑い声は海面を踊るトビウオのように輝く。

 おカネでもなく、カラダでもなく、ココロ目当て。

その、いかにもキャッチーなセリフは、先日ふたりで観に行った恋愛映画、『キスで終わらせないで』の中で登場していた。そのラストシーンで、主人公のふたりがついに行為に及ぼうとしたところで男が放ったセリフだった。西島は、一種のジョークとして、それを演じたのだ。

その先の展開は、ふたりで描けばいいわけね、と杉田は右足を踏み出した。


   *


 皇居の周りを走りたがる人が大勢いることは、ずっと前から知っていた。俗に皇居ランナーと呼ばれている。しかし、なんで彼らはそんなに走りたがるのかについては、まったくもって無知であったと認めなければならない。

同僚の町井から誘われなければ、おそらく一生、気づかなかった。

爽やかな高層ビルディングと鮮やかな緑に彩られたランニングロードがこんなに気持ちがよかったなんて。ごちゃごちゃとお互いに縮みあっている都会の中に、こんなにも開放感のある空間と時間があっただなんて。千尋は、その思いの量を少しでも正確に町井に伝えたかった。

「ヤバいわ、わたし。もう、リピ確定だよ」

「なら、よかった。わたしも最近、始めたばかりだから、先輩風は吹かせれないけどね。また付き合ってよ」

「それ、嬉しい。誘ってね。喜んで付き合うからさ」

 感謝の思いも込めて大袈裟に盛り上げると、町井も、我が意を得たりというように満足げにうなずいた。

 町井はいつも澄ました顔をしているから表情の判断がつきづらかった。それには困ってきたが、長いこと関わっていると、微妙な感情の動きを読み取れるようになった。現在の町井の顔には、間違いなく、喜びの心が反映されている。

 七月末に千尋の祖母が亡くなって以来、町井はメールサービスを介して千尋の心に寄り添ってくれた。八月の中旬ごろに千尋がバイトに復帰できたのも、そのような町井によるフォローに支えられたおかげである。

 今回、皇居周りのランニングに誘ってくれたのも、千尋に対する慰めの気持ちからなのかもしれない。

「元気、取り戻した感じあるよ。ありがとね、誘ってくれて。バイトも無事に復帰できてよかった」

 千尋がバイトを休んでいるうちに、東京は、どんどん暑さが強まっていた。夏も深まるにつれて、厳しく日光が降り注ぐようになる。まして、正午過ぎの熱波はすごい。

千尋と町井は、東京駅から見て右に皇居沿いを走り始め、ぐるりと回って、現在は、桜田門前のベンチで休憩していた。日光が雑巾絞りのように喉の水分を吸い取っていたぶん、持参していたペットボトルのお茶がとてつもなく美味しい。飲んでも飲んでも、渇きが消えない。

千尋は、ぐっと顎を上げ、ごくごくと飲み干した。顎のラインを地面と平行になるまで下げると、人の群れが見える。

ベンチの前を途切れることなく走っていく、あらゆる世代のランニングウェアの人々には、勝手ながら仲間意識を感じていた。彼らが飛ばしていく汗と、全身にまとわりつく自分の汗はきっと、同じ成分で構成されている。

「で、あえて聞いてなかったけど、あれはどうだったの?」

リラックスしたタイミングを見計らったかのように、町井は言った。ベンチに並んでいる町井の頬は左右どちらも、熱された刀のように赤い。その双方の頬を冷やすかのように流れる汗にも、千尋はネガティブなイメージを持たなかった。

「ああ、あれね。……例の、あれ」

 千尋としては、その話題を避けていたわけではない。俳優を目指しているという青い夢のことを打ち明けた数少ない友人である町井には、それ相応の信頼感を抱いている。ほんの少しだけ話しにくいのは、相手が町井だからではなく、その話題そのものが現在の千尋にとって重たいからだった。

 千尋は、町井の目を見つめかえした。その目の奥にある誠実さを信じて、ぐちゃぐちゃと数々のゴミが溜まった心のポケットをひっくり返す覚悟を決めた。

「まだ、わかんないんだよ、どうなるか。考えてもしょうがないから、もう、一時的に忘れることにしてるんだけど」

「親さんが反対してたみたいだけど?」

「ああ、あんなの、もちろん無視したよ」

 千尋は、思わず声に力がこもる。祖母の所有していたマンションの部屋に、千尋の母はいまだに居座っている。ウマいご馳走が水面に落ちてくるのを、いまかいまかと待ち構えている淡水魚みたいな顔をして。

「うちの母さん、わたしが夢を諦めるのを待ち望んでいるんだよ。サイテーでしょ? あんなの、放っといて、予定通り第二次選考に行ったけど」

 思い通りにできなかったわけではない。自分だからこその演技を、審査の中でも発揮できたと思う。きっと二次選考にも通っているという自信もある。だが、あっさりと落選したらどうしようという思いも当然、あった。

「でも、悪気があるわけじゃないでしょ。心配すらしてくれない母さんに比べたら、まだイージーだよ」

ぼそっとこぼれた町井の言葉に、千尋はやすやすと怯んだ。

「それはマジでごめん。わたし、ただの平和ボケだよね」

 とはいえ、相対的に恵まれていることが、ただちに、幸せを意味するわけではない。協力的でない母とともに選考結果を待つのは苦痛だ。

その選考結果に対する不安が頭に過ぎると、全身の細胞がスローモードに突入する。小さな落とし穴でも、その穴が深ければ、落下したときは致命傷だ。

どうやら、いままさに、些細な契機で落下したらしい。千尋は、半分、投げやりな気持ちで、悪循環に沈んでいく心を見つめている。

じわじわと頭皮のひとつひとつから噴き出してくる汗が、ぶくぶくと脳が沸騰していることを証明しているかのように感じた。

乱れは収まらない。町井の頬を流れていく汗にも、同じかそれ以上の不安の成分が混じっているのではないか。小さいころから激しく精神的かつ身体的な虐待を受けていたなんて、千尋にはなかなか想像できない。

目の前を駆けていく見知らぬ人も含め、視界に入ってくる汗のひとつひとつが、同等以上の夥しい不安を含んでいるような。

そんな思いに囚われると、ムンクの絵画のように太陽が暗黒に染まり、桜田門が忌々しい不協和音を奏でる。

時間と空間の裂け目から、絶叫が響く。ちひろ、ちひろ、ちひろ!

ばあちゃん? これは、ばあちゃんの声だ。千尋は、ベンチから立ち上がり、血の色に染まった空を見上げる。

どうして、こんなに赤いのか。その原因を探しながら、地上に目を落とすと、大地が燃え上がっていた。荘厳な門も、現代建築の高層ビルも、どれも等しく発狂したかのような炎を身にまとっている。

じわりと全身を包み込んでくる熱さは、先日の火葬場で骨だけになった祖母が横たわっていた台車を思い出させた。

 まだ……。

 突然、ジーンと耳鳴りがするくらい大きな声が聞こえた。千尋は両手で耳を塞ぐのと同時に、ついでに目も瞑った。

まだ生きたいですか、と、そう聞こえた。祖母は死んだのに、まだ千尋は生きている。生きることも死ぬことも選択しないままで生きているあんたは卑怯だ、と。そんな批判として脳内で解釈される。

それは誤解だ。わたしは生きたがっている。決然とした思いを胸に、千尋は、耳から離した両手を拳にして、声が聞こえたほうへ、目を向ける。

ひときわ鮮烈な赤が乱舞していた。桜田門のむこうから、炎に包まれた男がゆっくりと歩いてくる。赤い高温に炙られて、頬は溶け、ふたつの眼球は調理された魚眼のように白くなる。身に着けている黒いタキシードは表皮と接着され、溶接されたように身体に染み込んでいく。

 まだ、生きたいですか?

 はっきりと聞こえた声は、その男の口から発されていた。その左頬に三つの大きなホクロが並んでいるのが、かろうじて見える。そのホクロさえも容赦のない火の貪欲な進行に巻き込まれ、溶けていく頬に消えていく。黒々とした煙を吐きながら、男の口はなおも滑らかに動いていた。

 まだ、生きたいですか?

「生きたい!」

 千尋が叫び声を上げたとき、ぐらぐらと肩を揺すられた。我に返ると、熱がこもって赤くなった町井の頬が目前にあった。そのほっそりとした顔面には、茶髪の前髪が手を伸ばしている。その前髪をガラス棒にしたかのように、冷たそうな水滴―-健全な汗――が重力にしたがっていく。

 町井の目は大きく見開かれている。その黒目は、ぎょろ、ぎょろ、と千尋の左右の目を交互に見つめていた。

「だいじょうぶ? どうしたの、突然」

 周りを見ると、さっきまでと同じベンチ、高層ビルの群れ、ランニング中の人々、頑丈そうな桜田門。千尋はさすがに笑えなかったが、ひとまず肩に乗せられていた町井の両手を押し返して、「わたしは、だいじょうぶだから」とだけ、伝えた。胸の中を強烈に駆けていく激しい感情を、千尋は、ただ茫然と見つめていた。


   第五章 苦月


 冷水シャワーを頭から流すと、頭皮にトリハダが立つような感覚がした。

 頭の中に詰まったままで出てこなかった嫌な考えや、あとちょっとだけ置き去りにしておこうと『保留』のマークを張っておいた記憶など、いちおう頭の倉庫に留めてはいるが、それほど思い入れもないような、いわゆる不要物が、さらさらと流されていくかのように感じた。

 この狭い浴室だけ、唯一の居場所かもしれない。

 どんなに愛した女だって、ここには入れない。まして、ひたすらにエゴを流しているだけのネット空間なんか、絶対に入れさせない。スマホは部屋に置き去りにして、なにも身に着けずに浴室のひとときを過ごしている。

 冷水シャワーを止めると、今度は、熱いお湯を溜めた浴槽に入った。もう真夏だが、冷水を浴びたあとなら、高めの温度設定でも気持ちがいい。

 あーあ、と息が漏れた。

 すぐそこの壁に設置された操作パネルには、『23‥15』と、現在時刻が表示されている。その時間表示を睨みながら、必要とされる睡眠時間と、明日の活動で消費されるだろうエネルギーの量と、今日の疲れ具合と、現在までの心の動きなど、いろいろなものを加味して、この浴室にあと何分留まるか、考える。

 いくら、細かいところまでこだわりをもって特注した浴室でも、さすがに、時間からは逃れられない。

 ネガティブな本音には目を向けずに、この力の抜けた瞬間を楽しむしかない。

 なんせ、この浴室の外は、はっきり言って、地獄なのだから。よくも、まあ、こんな地獄に放り出されながら、ここまで辿りついたものだ、と自分でも不思議に思う。なおさら、仕事上で関わりのあるレジェンドたちには、もはやリスペクトしかない。うまくやっているように見えても、あの人たちも、きっと、毎日がギリギリなんだろう。

 ネット社会が生み出される前からすでにハードモードだったろうに、隅々までネット空間に接続されている現代は、超ハードモードだ。

 そんな厭世の思いをどう受け止めればいいのかもわからないまま、ひたすら無心になろうと重力が弱まった世界に感じいる。

 安らかな気持ちで目を瞑っていると、ピロリン、と電子音が響いた。

――え、どゆこと? 

 ここはひとり暮らしのマンションの一区画。浴室内の操作パネルとリビングの操作パネルを介して通話はできるが、肝心のリビングには誰もいないはずである。

それなのに、どういうわけか、リビングの操作パネルで、誰かが通話ボタンを押したようだった。

 まさか、イカれたファンとか……。そう思うと、突然、怖くなる。表舞台に立っている人は、数えきれないほどにバリエーション豊かなさまざまな感情のターゲットにされる。現実に、笑えない事件だって、起きてる。 

 身構えていると、操作パネルのスピーカーから声がした。

『申し訳ありません。突然ですが、はじめまして』

 ドキッとしたまま、固まる。誰だよ。怖すぎだろ。浴槽の中で身動きが取れなくなり、丸い防水スピーカーを凝視する。

いまのは、ボイスチェンジャーを用いたかのような声だった。年齢不詳どころか、生物学的な性別すらわからない。浴室内のスピーカーはリビングとしかつながっていないので、とりあえず不法侵入されていることはたしかだ。なるべく相手を刺激しないよう、誠実な対応を心がけた。

「えーと、あの、どちらさまですか?」

『申し訳ありません。突然ですが、はじめまして』

 まったく同じ内容と、同じ抑揚、同じ速さの声だった。それはまるで録音された声のようだなあ、と思ったら、案の定また、『申し訳ありません。突然ですが、はじめまして』と同じ声がした。

 それが、呪文のように続くだけだった。ゲシュタルト崩壊を起こしたような不快感。どうも洗脳されそうだ。こみ上げてくる不安と恐怖に対処できないでいるうちに、はじめて違う言葉が聞こえた。

『多忙につき、録音で対応しています。あらかじめ、ご了承ください』


 目が覚めると、書斎のテーブルの上で腕枕をしていた。ぼやけた視界が徐々に改善していくと、目の前の紙の束に焦点が合う。

 その表紙には、『蛙の戯曲 決定稿』とある。

 そうだった。夜遅くまで、自分にわりふられたセリフをどう解釈すればいいのか、考えつづけていた。いつのまにか、眠ったらしい。顔を上げると、目の前のレースカーテンの外は暗かった。まだ明け方にはなっていないようだ。

 決定稿とともにテーブルに置かれているのは、ノンフィクションの文庫本だ。そのタイトルは、『悲しみにつぶされた人々』。幼少期の激しい虐待などにより、精神が歪み、性欲が増幅し、抱えきれぬほどの攻撃的な欲動を抱えた人たちの実話である。簡単に言い換えれば、それは殺人鬼たちのノンフィクションだ。

 もう、やれるところまでやれた、と思う。平和ボケした価値尺度から批判するだけでなく、彼らの生身の苦しみのほんの片鱗くらいには触れれたような気がする。

 でも、本当は、きっと、その何倍、何十倍なんだろう。それくらいないと、人なんか殺せない。

 そこまで想像をひろげていくと、もう、こっちの身体がもたない。ひとまず、自分に可能な範囲の限界にはたどり着けたはずだ。

すぐ明朝からは、『蛙の戯曲』の撮影が始まる。変な夢を見たが、そんな些細なことを気にしている場合ではない。ちゃんと睡眠はとっておかないと。身体を酷使して演技に支障が出たら、元も子もないのだから。浦上直斗は、自分の身体を労り、ベッドへと向かうことにした。


   *


 いつの間にか、九月になっていた。気が付けば、人々はみな、暑い、暑い、と口を揃えている。台風に怯えたりもしている。もうすでに、残暑だな、と言う人までいる始末だ。冷房や頑丈な施設に恵まれている瀬田にとっては、世間一般の感覚がなにやら理解しがたくて疎外感を覚える。

 かりに環境に恵まれていなかったとしても、瀬田には、この世間を不気味に感じる自信があった。

それはもちろん、世間の問題ではなく、瀬田自身の遺伝的な失敗における問題――共感性の欠如――によるのだが。

 この一か月ほどの間、瀬田の関心ごとは主に、ふたつ、あった。

ひとつは、変わりゆく世界についていけるのか、この先の人生に対する不安だ。その問題の根っこを追えば子供のときまで遡れる。それくらいお馴染みの悩み事が、ここ最近、より重大かつ複雑になっていることは間違いない。この現代、サイコパスが己の欠陥を隠しながら生きていくのはより難しくなっている。依然に、具体的な解決策を模索している最中であった。

もうひとつの関心ごとは、言うまでもなく、八月に入ってから急に始まった夢のループ現象だった。

毎晩のように見ている。見るたびに赤い扉のドアノブを回すが、その扉にはいつもロックがかかっている。

黒い扇形の空間に接続されているのは、赤い扉を除けば、五つの扉だ。さらに瀬田自身のスタート地点につながる透明ガラスの自動ドアを除けば、四つの扉である。それらはすでに調査済みだ。

家庭用の小さな浴室、闇を走る路線バス、熱狂が渦巻くライブハウス、黒い川の脇にある整備された歩道。瀬田が滞在している間、どの空間にも、まともな人間はいなかった。ライブハウスやバス車内には人がいるが、それらは書店の中にいる人と同じで、本物の人間ではなかった。

あの空間に長時間滞在しようという計画を立てたこともあるが、どうやら、瀬田が滞在できる時間は決まっているようだ。毎回、一時間程度だ。どんなにここに残りたいという思いを持っていても、時間が経つと、強制的に目が覚めてしまい、あの空間から追い出されるのだった。

そんなこんな進展がないままに迎えた九月。今日も同じように書店の定位置からスタートした夢の中で、瀬田は、すでに身体が憶えている最短距離を進んで書店の自動ドアから外に出た。その先にあった黒いだけの空間を、脇目も振らずに、赤い扉のところへ、真っすぐと歩いた。

どうせ、ロックがかかっているのだろう。

わかりきったことではあったが、いつも繰りかえしているルーティンだ。瀬田は、水風船のように冷たい金色のドアノブを握り、力を込めずに回す。

お、と思った。ドアノブは止まっていない。抵抗感もなく、いつもは進まないところまでぐるりと回っている。

もしかして開いているのか。どうして、いまごろ。疑問が浮かぶと同時に、警戒心が芽生える。この空間だって、どういう目的でつくられたか、わかっていない。

瀬田は、一度、ドアノブから手を離した。瀬田の背丈より高い――おそらく二メートルくらい――の赤い扉の前で、いつでも動けるように腕は組まずに考える。いままでずっとロックのかかっていたドアが急に無防備になるなど、まるで、その中へとおびき寄せようと企んでいるかのようだ。ネズミ捕りみたいなものだったら、まんまと捕まる。ここは慎重に行くべきだろう。

はなから扉を開けるのではなく、まずは、ノックを。瀬田は、ドアの真ん中あたりを狙い、ゆっくりと二回、人差し指の第二関節で叩いた。

ドアに耳を近づけたが、反応はない。墓場のように静かなままだ。念のため、もういちど繰りかえしたが、その二度目のノックは、より静寂を引き立てるだけの役割しか果たさなかった。

なら、もう、思い切るか。ほんのちょっと室内が見えるくらいの隙間をつくればいい。瀬田は、いまいちどドアノブに右手を持っていく。

しっかりと握ると、五センチ程度、扉を開いた。真っ暗な空間に、仄かな光の筋が差し込んでくる。その先に見える室内には、灯篭のような優しい明かりがあるようだ。誰かがいるような気配はしない……と思ったら。

「はじめまして、記者さん」

 突然、中年男の声がしたかと思うと、扉が強引に内側に持っていかれた。うわ、と思わず身を引いたときには、すでに扉はすっかり開かれていた。その先の温かいオレンジに満ちた空間に、タキシードの似合う生真面目そうな男がいた。笑顔や真顔ではなく、穏やかな表情を浮かべていた。

「ようやく、ロックが解除されましたね。おめでとうございます」

あいつだ。瀬田は、瞬時に、思い当たる。書店の中にあった『若きオジサンの悩み』の表紙になっていた、あの男だ。左頬に並んでいるホクロのおかげで一目瞭然だった。

瀬田の胸の中には、驚きや怖さという類の感情はなく、やっと会えた、という達成感があった。

あんたは誰なんだ、と問うのが正しい流れかもしれない。その質問が無駄に終わるだろうと思ったのは、単なる瀬田の直観だった。最初に口から出てきたのは、「ちひろさんって、ご存じですよね? ホクロ男さん?」という、いかにもマスコミかぶれの挑発的な事実確認の問いだった。


   *


 仕事一筋でやってきたから、森山は、あまり映画を知らない。ホラーとヒューマンドラマをちょっとずつ、かじったことがあるくらいだ。それもずいぶんと昔のこと、社内での地位が上がりはじめたころだ。

 四〇代になると、責任が重くなってきて、ストレスが強くなった。わずかな憂さ晴らしのために、当時の森山は、DVDレンタルショップに通うようになった。よく借りていたのは、スプラッターホラーだ。意味もなく血を噴出させる演出は、デスメタルみたいでスカッとする。ホラー映画にいろいろ手を出しているうちに、ストーリー性が高いうえに怖い、スーティーヴン・キング原作の映画のファンにもなった。

 その中で、意外な肩書を持つ作品があることを知った。ホラーの名手であるスティーヴン・キングの原作でありながらアカデミー賞を受賞した作品があるという。ホラーでもアカデミー賞を獲れるもんなのか。どこか違和感を覚えつつ、それをレンタルしたところ、その作品はホラーではなかった。

 タイトルは、『ショーシャンクの空に』。冤罪で刑務所に収監され、その冤罪を晴らそうとする物語だ。

なるほど、ヒューマンドラマも悪くない。

森山は、今度は、アカデミー賞の作品を漁るようになった。意外と大衆向けの作品もあったが、アカデミー賞の作品の多くは人間ドラマに重きを置いていた。

以上のような経緯により、森山は、ホラーやヒューマンドラマの名作なら、有名どころはおさえている。映画に対する教養はそれくらいだ。有名どころと言っても最近の映画は知らない。

五十路を過ぎて、だんだんと地位の高さに馴染んでいくと、映画に逃げる必要もなくなった。いちばん最後に観た映画は憶えていない。仕事上どうしても必要な勉強をするようになってからは、勉強そのものが趣味みたいになっている。

だから、映画を観たくなったのは、とんでもなく、ひさしぶりのことだ。いままでの習慣を変更したせいかもしれない。

九月の頭から、森山は、妻と別居するようになった。それは離婚を前提にした別居ではない。先生――九月になってから急に夢を見なくなったが――の提案にもあったように、考える時間を確保するための別居だ。妻も賛成した。別居先については深く検討しなかったが、とりあえず逆の方面にしようと思い、荒川区内のマンションを選んだ。

いつも港区方面に向かうバスに乗車していたが、別居が始まって以来は、荒川方面に向かうバスに替えた。だいたい、帰りは、東京駅のバスターミナルから出る八時十三分発の『荒川土手行き』に乗ることが多い。

そのバス車内の小型モニターでは、森山の心を揺らしてくる、とある映画の宣伝CMが頻繁に流れていた。タイトルは、『あの時』だ。祖父が通り魔を起こして世間からバッシングされ、バラバラになった加害者家族の再生を描いた映画だという。過去に海外の映画祭などで成果を挙げている監督の最新作らしい。

ちょうど、いままでの生活を見直していたところだったから、いままでとは違うことをしてみるのも悪くない。

森山は、休日の読書時間を削り、ひさしぶりに映画館へと行った。大衆向けのエンターテインメントではないせいか、客層はわりと落ち着いていた。キャピキャピしたやつとか、チャラチャラしたやつは、べつのシアタールームに消えていった。森山は、真ん中あたりの座席で、『あの時』を観賞した。

およそ二時間後、そのシアタールームを出てきたとき、森山の胸に残っていたのは静かなる感動だった。

純文学に出てきそうな性格の悪い主人公には、はじめのうちは共感できなかった。そこにメッセージあるいは思想を感じてからは、その設定が府に落ちて、感動の対流に巻き込まれた。

一言で言えば、やられた、ということになる。

主人公は、高校生だ。いろいろな人に支えられて生きていたが、どうやら、恩を仇で返すことに尋常ならざる興奮を覚えるらしい。善意で近づいてくる人たちの心を深く抉り、圧倒的に見下す。そんなことをむやみやたらに続けていた。

 その中、大きな転機があった。映画の宣伝CMでも語られていたとおり、ある日突然、祖父が通り魔となった。

通りすがりの五人を出刃包丁で刺殺し、ほか三人に重傷を負わせ、その後、自らの頸動脈を切り、息絶えた。それは全国ニュースになり、すぐのうちにネット上で家族の実名が出回った。社会的制裁を受けることになった主人公には、もう寄ってくる人はいなかった。家族との関係も壊れた。高校も中退した。

 人間として堕落していく中で、家族が結束するためには共通の目的が必要だった。ならば、祖父の凶行の原因を探ろう、という話になる。

 犯行直前まで、家族との関係も良好で、とても穏やかな性格だった。なにかトラブルを抱えているようでもなかった。

 では、どうして。その答えは結局のところ断定はできなかったが、主人公ら家族はひとつの考えに辿りついた。

それは、祖父は家族をメチャクチャにしたかったのではないか、という仮説であった。犯行の目的は、つまり、家族に加害者家族としての苦痛な人生を押し付けたかったから、ではないか。

 それは恩を仇で返しているわけではない。そもそも、祖父にとって、家族からの恩など存在しなかったのではないか。どんなに恩を押し付けたつもりでいても、それが本人にとって不必要、あるいは的が外れていれば、なんの役にも立たない。

 主人公は、ひとつの真理を確信する。この世の中に、恩を仇で返す人などいない。もし裏切られたと感じたなら、それは自分が与えたものが相手のためになっていると勝手に勘違いしていただけなのである。

 どうして恩を仇で返すことに快感を覚えるか、主人公は、それにも気がついた。その『恩を仇で返す』という表現が、そもそも解釈を狭めていた。実際のところ、心の奥では、他人から与えられたものがひどく的外れだと感じていた。自分の得にならないこと、あるいは迷惑なことをされて、その相手に仕返しをしようと思うのは、至極、筋の通った感情の動きであった。

 妻もきっと、そうなのだ。森山は、その映画に込められたメッセージに、自分の状況を重ねた。もしかしたら、妻に対して恩を与えていると思っていたのは一方的な勘違いだったのかもしれない、と。


   *


『昼と夜が混在した場所で、まともな話し合いなんて、できるわけないだろ』

 ドキッとするくらい、攻撃的な投稿だ。バスの座席に揺られている杉田は、スマホのディスプレイに浮かんでいるそのメッセージにクギ付けになっていた。それは、浦上直斗の公式SNSアカウントに数分前に投稿されていた。

 浦上自身が公式アカウントを運営していることは周知のとおりだ。イベントやドラマの出演情報だけでなく、日常で感じたことや考えたことを赤裸々に打ち明けている。普段はファンを気遣ってか、前向きな言葉を選んでくれるだけに、今回の過激な言葉選びには強い違和感を覚える。

 もしかして演技のせいかな、と杉田は想像する。もう九月になっているから、『蛙の戯曲』の撮影はスタートしているはずだ。

 浦上はルックスだけでも神レベルだが、作品づくりに対して並々ならぬ情熱を持っていることでも知られている。かなりの読者家としても有名で、演技に生かすためにノンフィクションや伝記、小説などを多読している。

長々しい原作の『蛙の戯曲』にも目を通しただろう。浦上のことだから、殺人鬼に関しても独自に調べたかもしれない。

 ネックとなるのは、そうやって与えられた人物になりきろうとするあまりに、精神的に自分を追い詰めてしまうところだ。日本アカデミー賞を受賞した引きこもりの役でも、何人もの当事者に取材するなど真摯に取り組んでいた。映画公開ののち、ラジオ番組にゲストとして出演した際に、「あのときは、メンタル的にしんどかった」と本音を吐露したことは、ファンの間では知れ渡っている。

 そのようなことをもろもろ考慮してみると――。

 もしかして、殺人鬼になりきりすぎているんじゃないか。杉田としては、その点がとても心配だった。役に没入するタイプだから、ありえない話ではない。

 もやもやを抱えつつも、スマホのディスプレイを見つめているうちに、だけど、なんだこれ……と杉田は思った。

このメッセージ、どういう意味なのだろう。『昼と夜が混在した場所で、まともな話し合いなんて、できるわけないだろ』とは。

 昼と夜という対比は、天使と悪魔とか、善と悪とか、光と闇とかの対比と同じで、真逆のふたつという漠然とした意味で用いているように感じる。とすれば。まったく異なるものが同じ場所に混ざっている中で、コミュニケーションは成立しない。そのように解釈すればいいのだろうか。

 でも、よくわかんない。杉田は、投げやりに考えるのを諦めて、スマホから顔を上げた。

 夜の八時十三分発の『荒川土手行き』の車内には、杉田自身を除いて、数えると五人の乗客がいる。そのうちの二人はレギュラーメンバーだ。

 ひとりは、ショートヘアの小顔の女性。いつもジャージ姿だから、おそらく会社勤めではない。東京駅でバイトでもしているのだろう。八月の中旬くらいから、よく見かけるようになった。スマホでなんらかの動画を視聴していることが多い。

 もうひとりは、太っちょの男だ。たぶん、五十は過ぎている。いつもバッチリの黒スーツを着ている。こっちは九月になってから見かけるようになった。人生に疲れたような顔で、ぼーっとしていることが多い。

 ふたりとも、名前も、肩書きも、人生観も、性格すらも知らない。簡単な言葉を交わしたこともない。ただいつも、東京駅のバスターミナルで八時十三分発の『荒川土手行き』に乗車するから、顔だけ、憶えている。

 そんな車内をぼんやりと見つめながら、いまいちど、浦上が投稿したメッセージについて頭を回していく。

 昼と夜が混在した場所―—この表現。ちょっと見方を変えると、地球そのものを示しているようにも思える。日本が夜に沈んでいるとき、逆に、ブラジルは太陽に恵まれていたりする。まったく同じ時間の中を生きているのに、違う。

 その線でいくと……。杉田は対象のスケールを小さくする。たとえば、このバスの中にも昼と夜は混在していると言えなくもない。

 あの太っちょのサラリーマンは夜に沈んでいるように見えるが、動画ばかり視聴しているショートヘアの小顔の女性は人生を謳歌しているかもしれない。

 この、埋めようのない落差。同じ時間に違う質の人生が流れている。

自分の物語と同時に世界も直進しているかのように錯覚しやすいが、ちょっと冷静になれば、そんなわけがない、と気づくことができる。

遠く昔に杉田が乗り越えている問題に、いま現在ぶつかっている人だっている。いま現在、杉田がぶつかっている問題を、ものの見事に、数時間のうちに解決した人もいるかもしれない。

 さまざまなバリエーションもありながら、時空は無差別に、同じようなことが違う人たちの身にふりかかっている。

 そんな世界を奏でる音楽は、一直線というよりループ再生の複雑な融合体だ。同じメロディーを飽きることなく繰りかえしている。同じ過ちと、同じ喜びを。きっとまたバブルは起こり、同じように弾ける。それはまるで、後追いをするように声を重ねる童謡、『カエルの歌』、あるいは、誰もが知るクラシックの名曲、『カノン』のようだ。

 その比喩に問題があるとすれば、現実にはハーモニーにはならないことか。『カノン』は美しい調和だが、昼と夜が混在する現実世界では調和は難しい。

 一〇〇台のテレビを並べて、一〇〇分の映画を一分ずつずらしながらループ再生していったとき、そこに調和など起きるはずがない。

浦上は、この不調和に敏感に反応したのかもしれない。殺人鬼を演じる中で深すぎる夜に沈み込んだ浦上は、昼を生きる人たちの気楽さに激情を禁じえなかった。ただ素直な思いとして、こんな世界でやっていけるかよ、と怒りに震えた――のでは。

 それ、わかる。杉田は、いまいちどスマホに目を落とした。浦上の公式アカウントを閉じると、今度は、西島とのトークルームに入る。

情事に及んだあと、西島は薄情になった気がする。ふたりの関係を証明したくて何度もメッセージを送るのに、『おう』、『だな』、『ちーす』とか、短文しか返ってこない。昨日の夜に送ったメッセージは、未読無視されている。

ぐーっと締め付けられるように胸に痛みが走る。

 そんな些細なやり取りを気にするなんて、ちゃんとした信頼関係できてないんじゃない? そんなことを言うやつがいたら、ぶん殴ってやる。その人は昼を生きている。わたしはまだ、夜を生きている。

自分が平気だからって、他人の痛みを否定するようなこと、言うなよ、クソヤロウ。杉田は、気が付いたら、形の見えないクソヤロウを問い詰めていた。


   *


 血だらけの衣装をスタッフさんに返却してから、半そでのTシャツを着る。夥しく返り血の付着した顔を特殊メイクのスタッフさんに元に戻してもらってから、肌の潤いを保つために化粧水を塗った。

 楽屋から外部のスタッフさんが出ていくと、やっと気が抜ける。監督には殺人シーンにビジュアル的なこだわりがあるみたいで、今日は、ずいぶんと派手なセットと過激なパフォーマンスでの撮影だった。

 いまなら、死に物狂いで生きているサラリーマンを前にしてさえ、俺も疲れてる、と宣言できそうだ。浦上は、思いきり、リクライニングチェアの背もたれに身を預けた。その姿勢のまま、溜息を吐こうと、すうっと鼻から息を吸い込んだ――そのとき。コンコンコン、と扉がノックされた。

タイミングが悪すぎだけど……。背もたれから背中を剥がし、ついでに背筋も伸ばしてから、「はい、どうぞ」と振りかえる。

 ガチャリ、と開いたドアから顔を出したのは、やはりと言うべきか、『蛙の戯曲』のヒロイン役の女性だった。本名は知らないが、芸名は本町渚だ。役名はミコだから、現在の浦上の頭の中ではミコさんになっている。

ほっそりとした顎をはじめ、顔立ちが見事に整っている。アイドル上がりで俳優活動を始めた人だが、傍らから見る限り、演技に対する姿勢は真面目だ。

向こうから楽屋に来るときは、きまって、撮影に関する相談か、ディスカッションの要求である。

案の定、ミコさんの口は、明日の撮影におけるふたりのシーンについてお互いの考えを共有しておきたい、と動いた。浦上は、あっさりと断った。

「ごめんなさい。俺としては、明日のシーンについては、共有してないほうがいいと思うんですよ。完全に意思疎通できたらまずいんで」

 年下だと、指摘しやすい。浦上の本音を知ると、そうですね、失礼しました、とミコさんは笑顔を保持したまま一礼して出て行った。その違和感のない自然な笑顔が、仄かな残像として部屋に置き去りにされる。

 ちょっと悪いことをしたかもしれない。

浦上としては、主人公とヒロインの距離はもっと離しておきたかった。『蛙の戯曲』は、青春映画ではないのだから。

他人を見下すことで自分を保ってきた――言い換えれば、他人に恐怖して虚勢を張ることでしか心を維持できなかった――そんな殺人鬼が、どうしても穢すことができない美しさに出会ったのだ。

それがヒロインのミコ。その美しさはきっと不可解だからこそ美しいのである。そこには一定の、いや、果てしないほどに遠い距離がある。

 そこをどうにか理解してほしい。実際に伝えてもいるが、あまり嚙み砕いてくれない。浦上は、ミコさんのセンスはちょっとズレているな、と感じていた。

 もっとミステリアスな美しさを演技の中で出してもらわないと、この映画は失敗する。今度は、監督経由で伝えてみようか。そう対応策を用意することで、もやもやとした気持ちにいちおうの決着をつけた。

 静かになった楽屋を見回すと、マネージャーとふたりだけになっていた。浦上はまた肩の力を抜く。もういちど鼻から息を吸い込み、溜息を出そうとした直前で、思いとどまる。口を閉じたまま、空気の塊を鼻の穴から排出した。

 大きな鏡の前で、浦上は、仕事用のスマホを手に取った。そこに思い立ったままの文章を打ち込み、投稿する。

『昼と夜が混在した場所で、まともな話し合いなんて、できるわけないだろ』

 なにに対する言葉なのか。自分でもはっきりしないが、その言葉は現在の自分の精神状態に適していた。少しばかり過激ではある。ファンだろうか、『大丈夫ですか?』、『どうしました?』などの反応もすぐに来た。

 イメージダウンになるかと不安にもなったが、浦上は、その投稿を削除する気にはなれなかった。

 スマホを光らせたまま、ぐっと目を閉じる。瞼の裏に浮かんでくるのは、ジョン・ウェイン・ゲイシーとか、アンドレイ・チカチーロとか、エドワード・ゲインとか。日本に限定すれば、宮崎勤だ。

 彼ら連続殺人鬼に共通しているのは、まずなによりも、ありえないほどの性欲の強さだった。そのポイントに、強盗殺人や保険金殺人などの、ある種、合理的な殺人との明確な違いを感じる。

 たとえば、公園を散歩していたら、前方から綺麗な女性が歩いてきたとする。そんなとき多くの男性は無視に徹するだろう。中には、ちょっとくらい性的な想像をする人もいるかもしれない。どちらにせよ、連続殺人鬼たちはそういう次元にはいない。女性が目に入る――その瞬間、心の中はパニックになっている。沸騰するように込み上げてくる、殺したい、という抑えがたい衝動。悲鳴を聞きたい、命乞いを聞きたい、動かなくなった死体の口にペニスを挿入したい。

 心が壊れているという言い方はしたくない。動いているかどうかという判断で言えば、正常な男性のほうが心は動いていない。壊れているというより、生々しく、活発に、休む暇もなく、興奮しつづけている。思春期の男子よりずっと強く。

 彼らは、人生の中で一度も、休んだことがない。恐ろしいほど深い夜にぎらぎらと目を光らせたまま、眠ることができない。彼らには母がいない。愛がない。平穏がない。仲間がいない。

 そこまで想像を拡げてからのこと、浦上は、一部の世間の反応に激しい違和感を覚えるようになった。なにか悲しくて怖いニュースが流れるたびに、ただ言いたいことをぶちまけていくだけの人々が多すぎる。

それが悪いとも言えない。論理的にも感情的にも正しい言葉はたくさんある。浦上はただ、そこに違和感がある。

そう――違和感が。浦上は、ゆっくりと目を開いて、鏡の中の自分の顔を見つめた。見慣れすぎていて、感情はなにもない。浦上はあっさりとした顔が好みだが、この顔は濃くて深い。この顔目当てに近づいてくる女性もいる。この顔のおかげで、自らの願望が実現できる可能性も高い。

あらゆる候補の中から、いつも、ひとりだけを選んでいる。一途にならないと倫理に反するから。

そんなキレイゴトに満足している自分は、きっと、なにもわかっていない。冷めすぎている。恵まれすぎている。もうほとんど、心が動いていない。

 浦上は、ちょっと暗くなったスマホのディスプレイを人差し指で叩き、いまいちど発光させてから、さらに言葉を打ち込む。

『誰もが同じわけがない。確実に存在している違いを、認識することから始まる』

それを公式アカウントに投稿する前に、浦上は、文面を読みかえした。自分で打ち込んだ言葉に、浦上は、ハッとする。

なるほど。明らかに違うものを同じものとして片付けようとする暴論が嫌だったのかもしれない。悲しい事件が起こるたびに、世間は犯人を見下し、ちょうどいいオモチャみたいに面白がる。そこはどう見ても夜なのに、そこは昼だ、わたしたちと同じ場所だ、と強引に展開していく理想論がやまない。

 きっと、あのヒロイン役のミコさんも、そんな世間のひとりだ。殺人鬼がいかに違うかというポイントを把握できていない。同じものにしないと見下せないから、違うものだと認めるのを怖がっている。

 そういうことである。浦上は、曖昧だった自分の感情を少し理解できた。ミコさんにセンスのずれを感じるのは、そのような世界観の違いのせいだろう。彼女はまだ、入りこめていない。それどころか、おそらく、殺人鬼を下に見ている。だから、今作、『蛙の戯曲』の本質を掴めないままでいる。

わかってしまえば、もうちょっと穏やかになれる。

 ディスプレイに浮かんでいる『誰もが同じわけがない――』というメッセージを、浦上は投稿しないままで削除した。ついでに、『昼と夜が混在した場所で――』という数分前のメッセージも一緒にデリートした。

 ふっと、浦上は今度こそ、本当に溜息を吐いた。危ないところだった。このような衝動的な投稿には気を付けないと。

 代わりに、なにか、ほかの言葉を投稿したくなった。ちょうど、投稿しようと思っていた話題があった気がするが……。

「あの、西川さん。俺、公式アカウントで投稿しようと思ってたことがある気がするんですけど、ド忘れしちゃったみたいで」

 スマホから顔を上げた西川マネージャーは、ああ、と納得した様子で、迷う間もなく答えた。

「夢のことじゃないですか? ほら、言ってたでしょ、同じ夢を何度も見てるって」

「ああ、それです。まさに。ありがとうございます」

 思い出した浦上は、さっそく、スマホに文字を打ち込んでいった。

『最近、同じ夢を見る。家の風呂場みたいなところで湯船に浸かってると、浴室内の操作パネルにリビングから、誰かが通話してくる。【申し訳ありません。突然ですが、はじめまして】って、延々とボイスチェンジャーの声。それだけ。これ、すごく不思議だけど、ちょっとおもしろい』


   *


 プライバシーの観点から答えられない、というのがホクロ男の言い分だ。来る日も来る日も、瀬田はさまざまな切り口から質問を繰りかえしている。ホクロ男の口は想像以上に堅かった。

 なんだ、プライバシーって。いまどきの検察かよ。

 俳優を目指しているという二〇代の女性、『ちひろ』が、夢の中でこの空間を共有し、少なくとも今年の六月にホクロ男と対面していることは間違いない。その件について直接にホクロ男の口から説明してもらいたかった。それがなかなか叶わず、もうすでに、瀬田は半ば諦めモードになっている。

 九月も終わりが近づいてきたこのごろ、夢の中でホクロ男と対面しても、進展が期待できない。

現在わかっているのは、瀬田と『ちひろ』を含めて誰かしら五人が夢の中で不可解なイベントに巻き込まれていることくらいだ。そのほかの三人については、まだひとりも把握できていない。ホクロ男いわく、そのほかの三人についても『ちひろ』と同様に、プライバシーの問題があるのだという。

赤い扉の先に進めるようになってからも、依然に八月のときと同じまま、無知の霧が晴れていない。

 大きなホクロが左頬に並んでいるその顔は、もう見飽きていた。いつもきまって、「どうですか?」と漠然と訊いてくる。あっちとしては、瀬田から個人的な悩み事を聞き出したいようだ。

 瀬田としては、どう考えても信用できない人間――そもそも彼は人間ではないかもしれないが――に、腹の内を明かす気はない。優しいフリをして個人的な情報を聞き出し、それを悪用する人間を、瀬田は人生の中で何人も見てきた。さまざまな策略が渦巻く社会においては、誰かを信用するのは基本的にタブーだ。

「漠然とした問いかけによって自由に話をさせることで、徐々に距離を詰め、親しくなっていくという計算ですか?」

 その追及も、すでに何度目だろう。瀬田がそんな追及をしたときのホクロ男の対応は、機械みたいに精密にズレることがない。

いつものように今日も、ちらりと余裕の笑みを見せてから、「なかなか、信用してくれませんねぇ」と安っぽく嘆くような言葉をこぼした。

「実名すら教えてくれない不審者を、信用するわけがありませんよ」

 瀬田は、かなり強気の言葉選びをする。プライドの高いタイプは、一見落ち着き払ったように見えても、上から目線を食らうと感情的になりやすい。

それをダメ元で試した瀬田であったが、ダメ元が成功するだろうと期待するのは希望的観測すぎた。ホクロ男は一笑に付すように鼻を鳴らす。それから、瀬田の視線を促すかのように、こじんまりとした室内を見回した。

「見てくださいよ、ここを」

 促されるままに、瀬田は、ぐるりと室内に目を向けた。目の前の黒いローテーブルに置かれたアンティーク風の暖色ライトが、影絵のような静寂を形づくっている。背後にある棚の上には、なにやら高尚な花瓶がある。ひっくり返せば、花瓶の底には、誰かしら有名な陶芸家のサインがありそうだ。その小さな深淵から顔を出しているのは、謙虚でありながらも強い生命力を感じさせる白い花だった。

 その棚の下段には、いくつかの文庫本と写真集と絵本、上段には電車やスポーツカーや骸骨などの模型がある。どこかノスタルジックな気持ちにさせる。

背後を見れば、部屋の奥にはブラウンの扉もあった。その先にどんな部屋があるかは知らないが、過激なものがありそうな雰囲気ではない。

気を抜けばうっかり幼児期に退行してしまいそうな、そんな甘く優しい成分が空気に混じっている。

「こんなに準備万端で歓迎しているわけですから、少しくらいは信用していただけると救われるのですがね」

 皮肉まで使いこなしているこの男、いったい、誰なのだ。ますます瀬田の警戒心は強まるばかりだ。

「この空間はどういう仕組みで成立しているんです?」

 ほとんど投げやりに放った問いに、ホクロ男は、わりと真面目な視線を返した。

「ここは、まあ、つくろうと思えば簡単につくれるわけですが、現代の科学で再現するのは難しいでしょうね」

「科学を超えているとでも言いたいんですか」

「まあ、そうです。科学というのは、そもそも頭の構造がまったく違う人たちがどうにか打開するために厳密で明快な言語を用いて世界を説明する活動です。誰もが理解できる範囲しか扱えないわけですから、科学が対象とする範囲は、実のところ、世界全体のほんの一部でしかありません。そのような文脈で言いますと、この空間は、誰もが理解できねばならないという制約の外側にあります」

 宗教っぽいな、と瀬田は感じた。まったくと言っていいほど具体性のない曖昧な言葉を羅列することで真理を切り開こうとすると、ロマンチックな人々は簡単に落とされる。幸いにも、瀬田は、ロマンチックな考え方が嫌いだ。

 惑わされないように気を付けながら、いつものように質問を繰りかえしたが、今日も具体的な成果は得られそうにない。この男――本人は指揮者を自称し、『先生』と呼ばれたがっているようだが――は、かなり言語能力が高い。いかに質問を受け流すことができるか、熟知している。

 こうなったら、もう、ホクロ男本人から情報を得るのは諦めるしかないか。この際、ちょっと嫌ではあるが、ホクロ男に関する記事を書いていた『ちひろ』とネット上でコンタクトを取ることも考えるべきかもしれない。

 そんな思いをもてあそびながら瀬田が黙り込んでいると、ホクロ男は、ひとつ小さく咳払いをした。それから間を置かずして、神妙に語りだした。

「この空間は、わたし自身が意気揚々と自己紹介をするために用意されたものではないんです。日常の騒がしさの息抜きをするように、ぞんぶんに気を抜いて、瀬田さんに自分のことを話してもらおう、と。そんな意図のもとで用意されたわけなんです」

「俺だけ、じゃないでしょう?」

 瀬田が鋭く口を挟んでも、ホクロ男は少しも怯まない。

「話したくないのなら、それでいいんですがね。しかし、もうそろそろスケジュール的な問題が生じてきています。このまま平行線を辿るわけにはいきませんから、少し例外的ではありますが、わたしのほうから話させていただきます」

 首も振らず、顎も引かず、瀬田は頑なに無反応に徹したが、そんなことは気にしないようだ。ホクロ男がそれから語りだしたのは、瀬田本人しか知りえないような瀬田に関する個人的な情報だった。

 瀬田が周囲との違いに気が付いたのは、小学三年生のときだ。きっかけとなったのは、昼下がりの体育の授業で、ひとりの男子生徒が怪我をした事件だった。

そのときは、バスケをしていた。仲間からのパスを受け取ろうと高くジャンプしたその男子生徒は、空中でバランスを崩し、体育館の固い床に右腕から激突した。かなりの衝撃だったらしく、ひじの関節のところから白い骨が飛び出し、激しく出血していた。そんな悲惨な状態で顔をぐしゃぐしゃにして泣いている彼の姿が、瀬田にとっては面白くて堪らなかった。思わず声を上げて笑った。

 それがダメだったらしい。その出来事を境にして、なんとなく薄くつながっていた友達が一斉にいなくなった。

サイコやろう、と侮辱されるようにもなった。

 なにが原因でこうなったのか、はじめは把握できなかった。人の苦しみを笑うのはダメだ、と担任から指摘されたあとは、なるほど、とは思ったものの、どうもピンと来なかった。テレビでは、日常的に人の苦しみをバカにして笑いを取る手法が取り入れられていた。あれがオーケーで、なぜ、こっちがダメなのか。明確な境界線がない。ひどく矛盾しているように思えてならない。

 そんな自分の感覚が、まさかズレているとは思っていなかった。みんなが明確に理解していることを、なかなか理解できない。

誰も理解者のいない境遇は不安だったし、怖かったし、寂しかった。孤独になった瀬田はひとり、学校の図書館に通った。いろいろな本を読んで、一般的な人間の感じ方や考え方を学んだ。そのうち、瀬田の頭の中には法律のような善悪の体系が築かれていった。さまざまな実体験を通して具体的な判例も溜まっていった。

 そのおかげか、遠くの高校に進学してからは周りに合わせることができた。現在にいたるまで、共感性の欠如した自分の特性をなんとか隠し通せている、と瀬田は思っている。

「でも、時代の流れの中でタブーが増えていく現実についていけるのか、そこに不安を感じているんですね」

 ホクロ男がゆったりと語るストーリーにはミスがない。細かなニュアンスまで含めて瀬田が把握している自分のストーリーと同じだ。驚きを通り越して茫然としている瀬田にむかって、ホクロ男の口はなめらかに動く。

「その解決方法は、瀬田さんご自身でもわかっておられるとおりです。感覚的にわからないことは、理論的に把握するか、あるいは英単語のように逐一暗記するしかない。お忙しいでしょうが、通勤時間なら勉強にうってつけです。車での通勤をやめて、たとえばバス通勤にでも変更すれば、きまぐれな人間たちの都合のいい感覚と価値観を勉強する時間が確保できると思いますよ」

 どうやら、そのアドバイスをしたかっただけのようだった。


   *


 優しい人、優しくない人。それって、どうなのよ。千尋は思う。

 現代の日本社会で育ったなら、誰もが教育機関を通して人間としての理想像を、ある程度は共有している。なにが正しいか、正しくないか、みんなの心にある基準は言うほど多様性を持たない。

 きっと誰もが、優しい人になろうとしている。

 であるなら、優しくない人、という分類の仕方は的が外れているのではないか。実は、ただちょっと体力がないだけなのでは。理想像に自分を近づけるためのエネルギーがあるのか、そのエネルギーがないのか。

 つまり、それはもっと肉体と結びつけて考えるべきではないのか。かりにどんなに他者に配慮ができる人がいたとしても、それはその人の人格の素晴らしさを語っているわけではなく、単純にエネルギッシュな人だと理解すべきではないか。千尋は、最近、そんな考えに到達した。

「まだ曖昧なんだけどさ。言ってみれば、同種目内における能力差みたいな。この世界って、実は、サッカーをやっている人、野球をやっている人、テニスをやっている人……みたいに細かいジャンルがあるわけじゃなくて、本当は、みんな一緒にサッカーをやってんだよ。同じことを。その中に、サッカーが上手な人と、サッカーが苦手な人がいるだけ。すごく下手なひともいるけど、その人もちゃんとサッカーをやってる」

 うまく言葉に落とし込むことができなくて、もどかしい。公平な観察者でありたいという承認欲求も邪魔しているせいか、キレイにまとまらない。千尋が言いたいのは、本当はもっと単純で、もっと自己中心的なことだ。

 つまり――。

 わたしは優しくないけど、ちゃんと優しくなろうとしてるのよ。わかんない? ばあちゃんにはもっと優しくしてあげればよかったけど、それはわたしの人格的な問題じゃないのよ……と、そう言いたいのだ。

 自分の本音が見えてしまうと、千尋は、口を動かすモチベーションを失った。いくら相手が町井だったとしても、こんなエゴは見せられない。

千尋は、噛んで歪んだストローの口をくわえて、冷たいコーヒーを啜った。それから一言、「まあ、根っから優しくない人もいるけどね」と反例を提示することで、ゆっくり築いてきた自分の理論を一撃で崩壊させた。

 よく似合う茶髪の下で、町井の両目はちょっと困ったように伏せられている。昼下がりの休日のカフェに流れているのは、ときどき出てくる『アイラービュー』だけ聴きとれる、英詩のポップソングだ。

もともとカフェで友達と会う習慣のなかった千尋は、ぐいぐい誘ってくれる町井のおかげでカフェの愉しさに目覚めていた。

「いや、ごめん。自分で話し出しといて、自分で片付けちゃって」

「違うよ。片付いたわけじゃないでしょ?」

 思い切ったように上げられた町井の両目には、嘘偽りという評価を意に返さない力強さがこもっていた。

その目に込められた思いを千尋が解読しようとしているうちに、恥じらいを隠すかのような、さばさばとした言い方で、町井は語りだした。

「なんとなく、わかったりする。世間の人々って、すんごい適当だからね。世間知らずという言葉がネガティブにしか使われていないのは、正直、世間が正しいという心理的な錯覚に陥ってようにしか思えないし。わたしは、『優しくない』っていう評価で苦しんだことはないけど、『みんな同じ』って言われるのはすごく傷ついてる」

 みんな、同じ……。たしかに、軍隊みたいな嫌な言葉だ。

「当事者だったら、絶対、そんな言葉、選ばないよね、って思うもん。わたしが巨大な水槽の中で溺れてて、いまにも窒息しそうで苦しんでいるときに、水槽の外側にいる人が同情したような、もしくは達観したような顔を浮かべてね、『わたしも、同じ。だから、頑張ってね。みんな、苦しんでるから』って言ってくるの。言っちゃ悪いけど、あれはホントに、殺意、湧くよ」

 町井の言葉から伝染したやりきれない気持ちが、千尋の胸の中にも膨らむ。

「それ、めっちゃ、わかる。道徳が大好きな人ほど、そう言うよね」

他者に敬意を持ちすぎたあまりに、他者を一列に等しく並べてしまう思考。あの人とあの人はどっちがより深刻か、そういう現実的なトリアージを放棄している。このやりきれない気持ちを、町井は、驚くほど的確に代弁した。

「みんな違うからこそ、救いがあるのに。自分はこんなに苦しんでいるけど、そんなに苦しんでいない人もいる。いつかは水槽の外側に行きたいな、って希望があるの。それをさ、水槽の外側にいる人をわざわざ持ち上げて、あの人も窒息しそうなんだぞ、なんて言ったら、せっかくの希望が消えてなくなる。その先にあるのって、もう……」

 絶望。それを本当に味わいたければ、唯一の希望が目の前で燃やされて消失しなければならない。もっと楽になれる、もっと幸せになれる、もっと痛みが緩和される。そんな一縷の望みを、ハイハイ、残念ながらもう鎮痛剤はないんです、ごめんなさいね、とぶち壊してしまう暴力だ。

「サイテーだね、そんな暴力的な人」

「わかんないまま生きてるだけ、幸せだけどね」

 皮肉っぽいことを言いながらも、町井の両目には依然に力がこもっている。

「他者に理解されない――とくに自分の抱えている大きな苦しみを少しも理解してもらえない――っていうのは、ショッキングな事件を目撃するのと同じくらい、すごいトラウマになるらしいよ。だから、ホントはさ、殺人鬼とか、変質者とか以上に、わかんないまま生きている、まあ、この、わたしみたいな? こういうフツウの人がフツウの感覚で生活を続けるだけで、この社会の誰かがすごい傷を負って、抱えきれなくなっちゃって、誰にも知られないうちに死んでいく。そういうもんだと思う。いま現在だって、あんな人は無理解だよねって話している自分自身も、誰かにとっての無理解なわけで。それに気づいてからは、わたし、自分も加害者のひとりとして、無理解の被害者になったときも、なにも言わないであげようと思ったりしたんだ」

 そんな極めて個人的な考えを述べるだけで、それを千尋に押し付けようとはしない。千尋は素直に思った。この人、思っていたよりずっと強い。現在の千尋には、そんなに器の大きな人にはなれないな、と確信すらあった。

 そりゃそうだ、と千尋は自嘲的に思う。自分が必死に考えていることを、そのまま表現することに怯えているくらいだから。

自分の考えを尊重できないなんて、それはもう、自分自身に対する侮辱だ。そんな思考にハマると、より気分が沈む。

「でも、よかったじゃん。無事に二次選考も通過できて」と、町井が、思い出したように付言した。

そういう気遣いは、心の底から、ありがたい。千尋は、ぎりぎり苦笑いに分類されないくらいに絶妙な、はにかんだ笑顔を返した。情けないことに、その顔を維持できない。千尋はただちに顔を伏せて、ストローの口を噛んで、もうほとんど残っていないアイスコーヒーをズルズルと啜る。

 八月にあった演技審査の末、千尋は、二次選考を通過した。この明確な結果によって、千尋を説得しようとしていた母はついに折れて、実家に帰った。三次選考は面接である。だから現在は、バイト終わりのカラオケでは面接の練習をしている。きっと昔の自分だったら飛んで喜ぶくらい、恵まれた境遇だ。

 それなのに、現在の千尋の気持ちが晴れないのは、祖母の死を契機とした生活の変化によって孤立を深めているせいかもしれない。孤独はすべての元凶だ。自責感も、迫害感も、なんでもかんでも嫌なものが増幅し、自分に対する信頼感も揺らぐ。

 もっと、ちゃんとしないとダメなのに。千尋は、もうなにも出てこない空っぽのグラスに見切りをつけて、自分のタイミングで口を開いた。

「心の中はもやもやしてるけど、頑張ってみるよ」

 それは町井に対する宣言というより、むしろ自分自身に対する宣戦布告だった。容赦はしない。徹底的にやり抜く。

 また今度、皇居を走ろうね、と全国チェーンのそのカフェを出ると、町井と別れた。熱された鉄板の上で焦げはじめたコーンのように、激しい暑さに焼かれている都会人の秩序なき群れが歩行者天国を埋めている。そこにひとり残された千尋は、ポッケからスマホを取り出した。

 ロック画面の時間表示によれば、午後三時過ぎだ。一日の中でも、いちばん強火の時間帯である。

 そのままポッケに戻そうとしたが、スマホのロック画面に思わず目が留まった。カフェにいる間は、スマホを見なかったので気づかなかった。そのロック画面に、日記のような気分で書いているブログに誰かからコメントが寄せられたことを知らせる通知が、表示されていた。

 これは珍しい。千尋は、通知をスライドさせ、パスワードを打ち込む。

そのコメントは、もうずっと前、今年の五月の頭に書いたブログ記事に対して寄せられていた。

いまになってみれば懐かしいくらい昔のこと。もうずっと会っていない先生――ホクロ男――がはじめて夢に出てくるようになったころの記事に、いまさらである。

『はじめまして。都内で生活している三〇代、男です。新聞記者を生業にしております。今回、機会があり、ちひろさんのブログを拝見させていただきまして、驚きました。実は、私も夢の中で先生――またの名をホクロ男――と対面したのです。私は現在、この不可解な現象につきまして、個人的に真相を探りたいと考えております。その夢やホクロ男につきまして、なにかご存じでしたら、ぜひ情報をご提供ください。また、五月にはじめての接触があったのち、どのような展開があり、現在どのようになっているのか、可能な範囲でお知らせいただけると幸いです』

 蒸し暑い空気のせいか、一度読んだだけでは頭に入ってこない。千尋はもういちどコメントの冒頭に戻り、全文を読みかえした。

どこまで信用していいか、定かではない。コメントを寄せた新聞記者の男は、どうやら、千尋と同じ体験をしたらしい。

あの、ホクロ男。千尋は、三つのホクロの並んだあの中年男の顔を思い出すだけで、ぞくりと背筋に冷たいものが走るのを感じる。

五月の当初は、気味が悪いと感じていた。カウンセリングルームのような穏やかな空間で対話するようになってからは、ギャップもあり、好印象になった。その後、夢を見なくなってからは、また印象が悪化している。祖母の死による影響もあるだろう。町井と皇居周りを走ったときに、ホクロ男が幻覚の中で出てきたこともある。

残念ながら、千尋としても、ホクロ男に関する情報をつかんでいるわけではない。帰宅したあとで、頭を整理しながら返答のコメントを書いてみようかな、と思った。

千尋は、スマホをポッケに戻し、顔を上げる。視界の隅にある太陽は眩しすぎて、その輪郭が見えない。

休日の歩行者天国には、もう、町井の後ろ姿は見えなかった。急にアウェイに感じて、千尋は、カフェの出入り口前で佇んだ。いろいろな顔をした人たちが行きかっている。いろいろな服を身に着けている。いろいろなテーマやコンセプトを掲げている。いろいろな人生の途中を歩いている。

そんなことは理解しているのに、千尋の目には、一色に塗られているようにも見える。深く濃いブルー。さっき耳にしたばかりの町井の言葉が蘇る。みんな違うからこそ、救いがあるのに。

――たしかに、そうだけど、本当に違うの?

千尋の心は、びっくりするくらい、簡単に揺らいでしまう。一色で塗り固めるなんて、あまりに短絡的で、ひどいのに。そんな反論が頭に浮かんでいる時点で、すでに、千尋は世間と対峙している。

世間を背負っている父とか、母とか、彼らと同じような言葉選びが大好きなインフルエンサーとか、芸能人とか、コメンテーターとか、映画監督とか、敵が多すぎる。彼らはひとつにまとまって、絶対的な正義を確信した顔で、諭すように、ときに苛立ちを込めて、ときに軽蔑を込めて、現実を突きつけようとしてくる。

あらゆる言葉の包囲網をつくり、ただひとつだけの真理を教えようとする。

いいかい、そこの君。戦時下の子供が抱える恐怖を知っているかい? なにもかも犠牲にするアスリートの苦しみがわかるかい? ようこそ、ここは苦しみの楽園。どこまで行っても幸せなんてやってこないよ。

だって、みんな……。そこにいる人も、あそこにいる人も、そこで悶えている君自身も、同じように苦しんでいるのだから。たとえば、親のスネをかじりつづけていた男が投資家として成功したり、何十年もひきこもっていた人が社会復帰したあとにインフルエンサーになって活躍したり、ぐちぐちとネット上で誹謗中傷していた主婦が非営利団体を立ちあげて世の中に貢献したり、そんなことがあったら不快? 受け入れがたい? こっそりと見下していた人のもとにも気軽な楽園なんてなかったなんて――同じ地獄の中を生きていたなんて――認めたくない?

怠けた誰かの背中や優れた誰かの目の奥に小さな幸福を想定するなんてね。生きつづけることに希望なんか持つなんて失礼にもほどがある。わかるかい、君。こんなところに、そもそも、幸せなど、ない。

君のばあちゃんだって、苦しんでたんだ。君は、なにもしてあげなかった。自分のことばっかりで、自分のばあちゃんを楽しませることもできなかった。最悪だね。どんな気持ちで、ばあちゃんは死んだのか、考えたほうがいい。寡黙だから、なんて理由付けして。もっと、いろんな話がしたかっただろうに。

わたしは……。千尋は、弁解しようとしたが、すぐに口を噤んだ。怒涛の勢いで押し寄せてくる絶望の気配に、歯を食いしばる。

わたしは……やっぱり、サイテーなのか。そうなのか。どうなのだ。世の中にありもしないものを求めていたのか。どこまでも自己中心的だったのか。ならば、償わないと許してもらえない。自分の裸の写真でもバラまけばいいのか。

急激な自責感に、これはまずい、と千尋は焦る。メンタルが不安定すぎて、自分の考えに対する信頼が維持できない。自分の抱えているものが、世間の基準で測定し直され、不当に低く評価されていく。

 睡魔より強い力で瞼にのしかかってくる重力に抗いながら、人ごみを見つめる。雑然とした群れの中に、見覚えのあるものを見つけた。よく注意を向けて、千尋は、ぞっとする。黒いタキシードを着こなしているのは、左頬に三つのホクロが並んでいる男だ。もはや先生などとは呼べない、ホクロ男本人だ。

その静かな目が、どんな言葉よりも雄弁に語る。惨めすぎて、見ていられませんよ。子供みたいで恥ずかしくてね。

不快すぎる流暢な目を、それ以上見つめるわけにはいかなかった。千尋は、目を伏せてから、人ごみに身を隠した。さっさと通りを進みながら、ちらちらと振りかえる。同じ目のままで、ホクロ男はついてくる。

どろりとしたマグマのような汗が、頬や、背筋や、腕や、太腿を流れていく。

すぐ真横を通りすぎていく人間の顔はどれも、ムンクの『不安』のような、呪われた仮面に見える。

進むたびに現れてくるカフェやブランドショップやコンビニなどのドアは、どれも千尋を歓迎していない。その原因は定かではないが、どの店にも出入り禁止になったような気がする。

赤信号で止まり、また振りかえる。千尋の心の奥まで見抜いたようなホクロ男の目は、まだついてきている。不快を通り越して、恐ろしい。その目の奥に、数えきれないほど大勢の人々の後ろ盾があるように見える。

なんで、あんな人に幼い悩みを打ち明けたのか。いまごろ、後悔しても遅い。

 なかなか青に変わらない信号機に苛立ちつつ、横断歩道のむこうに目を向ける。その先にある熱線反射ガラスに、ぎゅっと肩を狭めている自分自身の全体像が映っていた。あまりにも惨めで、言葉が見つからない。おしゃぶりをくわえているような滑稽な無様さに、少しも笑えない。

 近くにいたスーツ姿の男たちの集団が、大きく笑い声を上げる。それだけで全身に身震いが走る。信号が青に変わると、千尋は逃げるように小走りで進んだ。世間のお荷物として見世物になっているような、そんな気がすると、俳優という目標さえも自分の醜態を展示するために存在しているように感じられた。

 誰もいないところへ逃げていく千尋を、どこまでもずっとホクロ男はついてくる。


   *


 プシュッ、という爽快な音。

 なんで、と思ったら、右手がプルタブを倒していた。ああ、しまった、と落ちた嘘くさい溜息は三秒で消えた。まあ、いいや、となる。杉田は、冷えたその缶を右手でつかむと、開いたばかりの飲み口を唇に持っていった。

 冷たい舌触りのあとに、口内にひろがる苦味。

これが抜群なんだよな。ゆっくりと堪能しながら喉の奥へ流していく。じんじんと脳が痛んで、また麻痺していく。

 ここは、ひとり暮らしをしている自宅マンションの寝室。仕事を休んだまま夜になり、いまだ杉田は玄関ドアから一歩も出ていない。ベッドに左腕を預け、フローリングの床に尻をついている。その床には、空いた缶ビールがあちこちに転がっている。右手には、もう何本目かもわからない缶ビールだ。視線の先には、浦上直斗のグッズやポスターが展示されている大きな棚がある。
 一回だけでいいから、浦上に会いたい。この嘘みたいに辛い現実がコロリとひっくりかえるように、ドッキリの看板を持ってきてほしい。こんなのは嘘でしたって、ニコッとした浦上の笑顔があれば救われるのに。

 どうしようもないタラレバばかり。

杉田は、ごくりとビールを喉に流す。もう肝臓なんか壊れてしまえばいい。親にもらった大切な身体を粗末にするな、とか、冗談みたいなことをぬかすヤツがいたら、死刑宣告してやる。

主文を後回しにする裁判官、人生で一回くらい、やってみたい。それが無理なら、死刑のボタンを押すのでもいい。三つのボタン、全部、ひとりで押してやる。そんな過激な想像が膨らんでいくことは、杉田自身にとっても不快だ。

もしも、これが自暴自棄であったとしても、これは間違いなく、やむを得ない事情による自暴自棄だ。杉田には、たしかに自分の身体を大切にしてきた自負がある。高校生のときの若気の至りをなしにすれば、それ以来ずっと処女だ。アセクシャルだという田嶋と付き合っていたときは、ホントに一度も、浮気してない。人肌恋しいときも、田嶋を裏切らないように抑え込んできた。

 なんで、わたしが?

 単純に考えて、理屈に合わない。調子に乗ってるヤツが泥沼にハマるのだったら、まだわかる。でも、わたしは違う、と杉田は確信している。ちゃんと頑張ってるし、人見知りしないで積極的に誘ってるし、恋に溺れないように真面目に働いてきたし。いったい、なにがダメだったの?

 ひとりきりの夜に深まるのは、報われない現実への怒りと、振り払いようのない苦々しい寂しさだけ。

ビールの苦みが、いつのまにか、ざらざらとした西島の舌を想起させていた。タバコを吸ってるせいで、西島の舌はせんぶり茶に近いくらい苦かった。お互いの舌を求めあっていたあのときから、もう、一か月か。

 誰かに相談したい気持ちはあるが、相談できる相手がいない。

大学時代の友達はほとんど結婚してる。他人事みたいに扱われて、マウンティングなんてされたら、やっていられない。それだけならまだしも、遊ばれちゃったのね、なんて達観されたら、殺意が湧く自信しかない。

 この気持ちを、誰かにぶつけたい。絶好の相手がいるとすれば、西島だ。

杉田は、右手の缶を握りつぶして、床に投げつけた。甲高い音にかすかな発散を感じてから、床に転がっていたスマホを手に取ると、西島に電話をかける。

どうせシカトすんだろ、と思っていたら、四度目のコール音のあとに出た。

『どした? 急に電話なんて、なんの用?』

 すっとぼけた西島の声だった。こいつ、どんな神経してんだよ。杉田の脳内は洪水になっているが、それをできる限り声に出さないように抑える。

「もしもの話だけどさ、もしも、人生のパートナーに決めた相手がいてさ、その人のこと心の底から愛しててさ、もちろん、ときどきは猜疑心が湧いたりして、不安になったりはするけど、ちゃんと信じて、信じて、まっすぐ生きてきた女がいたとしてさ、その人がそのパートナーにするつもりだった相手に呆気なく裏切られてさ、すごく傷ついてさ、ボロボロになってるときにさ、ちゃっかりカラダだけもらって逃げ去るような男がいたとしたら、すげえサイテーじゃない?」

 一息に言いきってから、すうっと大きく息を吸う。言い足りなくて口はいまにも動き出しそうだったが、杉田は我慢する。

待ちに待った西島の第一声は、『え?』だった。

『それ、俺のこと言ってんだとしたら、マジで誤解なんだけど。ってかさ、ナオちゃん、べつにそれほど落ち込んでないだろ?』

「わたしのどこが?」

『だってほら、ナオちゃんは、悲劇のヒロインなんてガラじゃないし』

 火に油を注ぐためだけに配列されたような言葉の群れだった。なんだ、こいつの残酷なほどの無神経さは。杉田は、思いきり息を吸い込んだ。今度はもう、激情を抑える気すらなかった。

「表面しか見えないんだね、その腐った目は。わたしだって、苦しくても、明るく振る舞ってんだよ。え、なに? 悲劇のヒロインみたいに額に縦の線、何本も入ってないと、わかんない感じ? バカじゃない? 一回でもヤッたらゴールとか、そういう思想、マジで引くから。サイテーだから。もう電話なんかしない。あんたみたいなキモ男と、今後いっさい関わる気ないから。バイバイ。死刑、確定だわ」

 あっちに切られる前に、ブチ、と切ってやる。スマホを投げると、ゴッ、と床にぶつかって鈍い音がした。

 プライドが許さないままに、目の奥が熱くなる。

 呼吸が乱れたままで、息苦しい。込み上げてくる涙を、どうにか押しとどめるように歯を食いしばる。余計に息ができなくて、苦しくなる。

もう終わった、と杉田は思った。こんなに言ったら、絶縁に決まってる。あんなサイテーな男と絶縁になるのは正解なのに、なんでこうなるのか。胸が締め付けられるくらいに寂しいのは変わらない。

知らない誰かには無傷の自分を見せつけたいのに、身近な人には傷だらけの中身を見てほしかった。もっと内側まで知ってほしかった。

それもやっぱり、タラレバだった。

どいつも、こいつも、腐ったやつばっかり。この社会に矛盾があふれていることに激しく納得してしまう。こんな人ばかりいたら、社会なんて正常に回るわけがない。

杉田は、気が付いたら、また新しい缶を握っている。躊躇う必要など、ない。そのプルタブを倒して、その飲み口にディープキスをする。

アルコールの魔力のせいか、ついに抑えきれなくなった。ぶわっ、と両目から涙があふれてくる。限界まで我慢した末の放尿みたいな、言い表しようのない爽快感が駆け巡る。臓器の内側にメントールを塗りたくったみたいだ。全身が凍っているような、あるいは燃えているような。もう泣いてしまえばいい。

眼球が溺れて、暗い部屋の輪郭が崩れる。

流動的なモザイクガラスのむこうに、黒い人影が立っているのが見えた。いつから、なのか。浦上のための棚を背にする形で、それは佇んでいる。怖いとは感じなかった。かすかな期待を込めて、「タッちゃん?」と呼びかける。

反応はない。杉田には、それが田嶋に見えてならなかった。

「タッちゃん、だよね? また、やり直せるよ。なにか、事情があったんだよね? もういちど、信じるから、わたしを愛して……」

 と、その瞬間、もうひとつの人影が現れる。田嶋の隣に、誰か――たぶん、女。ふたつの影はぼんやりと白くなり、重なり合う。ボリュームが徐々に上がっていって、やっと聞こえてきたのは、ふたりぶんの喘ぎ声だった。

 タッちゃんが、わたしじゃない誰かと、エッチしてる。

 杉田は、両耳を塞いで、目を瞑って、口を丸く開けて叫んだ。すぐ喉が枯れるくらいの声量で。それでも叫び足りなくて、さらに潰れた声を上げる。本能の悲鳴のように、上げつづける。湿った下半身には温もりがない。

 まだ、生きたいですか?

 急に、脳内に直接、入り込んでくるような声がした。杉田は、パッと目を開けて室内を見回す。さっきまでふたりの人影が抱き合っていたところに、黒くて背の低い人影がひとつだけある。さっきとは違う。

 まだ、生きたいですか?

 その言葉は、どうやら、その人影が発しているようだ。どこかで聞いたことがあるような声だ。もしかして、先生――スマイルおじさん――だろうか。

 何度も同じ問いを繰りかえしてくるその影に、杉田は、明確な返答ができなかった。かろうじて絞り出せたのは、「わかんない」だった。


   *


 先日に観たばかりの『あの時』を、森山は、九月のうちに、もういちど観に行った。その作品世界には、ありがちな美談などなかった。むやみやたらにカタルシスを与えようとする作者のエゴイズムが、徹底的に抑制されているように見えた。そこには現実を見つめる静かな視線があった。

 その視線こそ自分に欠けていたのだ、と森山は気がついていた。

妻が仕事を辞めて育児に専念することになったのは、ふたりの合意の結果だ。そのように正論を吐きつづけることは実のところ、冷静ではない。一方的な被害者意識に溺れていただけである。

 自分は悪くない、悪いのは全面的に相手のほうだ。そう吠えたところで、そこにはなんの前進もない。それは大胆なエゴイズムでさえある。いつのまに被害者になり、いつのまに慈愛に満ちた神になったつもりでいたのか。妻の幸せを自分の稼ぎによって完璧に叶えているとでも思っていたのか。

 ――ただの愚かな人間が、いったい、なにを与えたつもりでいたというのか。

森山は、『あの時』を観て以来、いままでの自分を気持ちよく否定することができた。未来に対する可能性さえあれば、過去を否定することにエネルギーは使わない。

 別居によって生まれたひとりきりの時間を、森山は、家族を理解するために活用することに決めた。

インターネットや書籍、あるいは論文など、さまざまな資料に目を通した。そうすることで、見えていなかった絶壁のむこうを見抜く力を磨いていった。

 ちょいとばかし、わかったことがある。もちろん、すべてのケースにあてはまる事情などないのだから、森山の妻もそうだと断言できるわけではない。

ただ、それはアンケート調査や、研究者による聞き込み調査などで、はっきりとしたデータとして存在していた。森山は、はじめて知った。自ら子供を望んではいたが子供をつくったことを後悔している女性がかなり存在する、という現実を。

 心の奥の奥で、絶対に口にはできない思いを抱えている人だっている。こんなことになるなら、子供なんてつくらなければよかった、と。社会参加を阻まれてしまい、思いどおりの人生にならなかった。

 それはひどく道徳に反する発言だから、誰も積極的には口にしない。社会は道徳の内側だけで議論を続け、その外側の生々しい現実には触れないままでいる。なにもなかったかのように振る舞い、今日もミュージシャンは母親の愛を歌う。

そんな社会のワンシーン――現実という名の物語―-を見つめなおした現在なら、もっと落ち着いて妻と話ができるのでは、と森山は考えていた。

 時の流れは思うより早く、残暑の九月も果てようとしている。森山はついに、別居して以来はじめて妻と会う約束をとりつけた。場所は、ずっと住んでいた家族の居場所、港区にあるタワーマンションだ。

 手ぶらで行くのも、違うだろう。

 台風が過ぎ去ったあとの薄暗い休日、森山は、タクシーでフランス菓子店に行った。その店のシュークリームは妻の大好物である。せっかくだから、ときどき帰ってくる娘ふたりのぶんも含めて、合計四つのシュークリームを買った。ブランドデザインが印刷された紙袋を持ち、タクシーに戻る。

 昼下がりの曇り空の下、東京を南下していくタクシーの後部座席で、森山の頭に浮かんできたのは、またもや『あの時』だった。あんな説教じみた独自の思想が色濃く出ている作品に、まさか自分が救われるとは。

 その映画にくわえて、ひとりの時間が確保できたこともプラスに働いた。結果的に、別居を決断したことは正解だった。自ら指揮者だと名乗っていた先生がまた夢に出てきたら、先生がいなくなったあとのストーリーを細かく話したい。別居を勧めてくれたことに対する感謝も添えて。

 ひざの上の紙袋を両手で抱えている森山の気分は、いつになく上々だ。

もしかしたら実は、『あの時』の監督は夢に出てきた先生なのではないか。そんな無責任な妄想も起こる。有名な監督で、顔写真も出しているから、ありえないが。そんな思考の寄り道を挟みながらも、終わる気配もなく、『あの時』に出てくるシーンが森山の脳内を駆け巡っている。

 あのシーンもよかった。あの展開も面白かった。あれも、これも、それも……しかし、あのラストはどうなんだ?

 ふいに、森山は、『あの時』のラストシーンに疑問を感じた。それまで深く考察したことはなかったが、立ち止まって考えると、よくわからない。

それはショッキングなラストだったから、心温かい評論家などからは、ひどく非難を浴びていた。

森山としては、べつにショックを受けたりはしていない。作りものっぽさが出ていたせいか、少しも揺られなかった。リアリティーを追求した作品としては、派手なラストの演出によって『エンタメへ逃げた』と評価されてもおかしくはない。あの映画の中で唯一のほころびと呼んでもいい、と森山は考えている。

 そのラストは次のようなものだ。通り魔となった祖父の真実にようやく辿りついた主人公たち家族は、新たな生活へむけて結束を取り戻す。廃人と化していた主人公も前向きな気持ちを手にして、妹と母に頼まれて、コンビニへお弁当を買いに行った。

それから自宅に帰ってくる――そこが物語のラストシーンだ。お弁当を待っていたはずの妹や母は、予想だにしない悲惨な状態になっていた。妹も、母も、それにくわえて父も、祖母も、主人公以外の家族がみな、首を吊って死んでいたのである。その理由については明かされないまま、主人公が雄叫びを上げたところで映画は終わる。

 あれはいくらなんでもやりすぎじゃないか。批判するつもりもないが、森山としても、賛同する気にはなれない。

 なんなのだろう、あの、観客に苦痛を与えることに喜びを感じているようなサディスティックなラストシーンは。監督の真意を考えているうちに、タクシーは目的のタワーマンションの真下に到着した。

 タクシーを降りてから、人工的につくられた島に浮かんでいるその背の高い人工物の塊を見上げる。ほんの数週間だけ別居したに過ぎないのに、地元の小学校と同じくらい、懐かしい。森山は、心地よく佇んだ。この建物でいつも起床し、会社へ出発し、帰宅する。それだけの生活を続けてきた。

 何年も、何年も……何十年も。

 物思いはそれくらいにして、両拳を握った。森山は、右手の紙袋を揺らさないように注意しながら、エントランスホールに向かう。カードキーをかざして通過し、またカードキーを認証してエレベーターを起動させる。

 ほとんど息を殺しているエレベーターの中は、冷房設備のために涼しい。気合を入れるように、ふ、と森山は息を吐いた。

 どんな言葉をかければいいのか、そんな些細なことには迷っていなかった。その場で必要だと思った言葉を、その場でかければいい。いま大事なのは、自分の言葉を押し売りすることではなかった。妻の考えと気持ちを、ちゃんと――こんな曖昧な言葉しか出せないヤツはうちの入社面接では落ちるが――それでも、ちゃんと、受け止めることだ。

 そのことを忘れていない自分を誇らしく思いながら、森山は、二十三階でエレベーターを降り、妻の待つドアの前まで進んだ。

 一秒とて躊躇することはない。森山は、ドアホンを鳴らした。返事を待つ気もなく、手持ちのカードキーでドアを解錠する。

「入るぞ。いいな?」

 足元に目を落としたまま、ドアを手前に引いた。身体に染み込んだルーティンにしたがって、その隙間から身体をすべりこませて顔を上げる。

 ずどん、と。

刹那、そんな擬音語しか浮かんでこないような、明らかな衝撃が身体を貫いた。それは脳天から足先までを最短距離で駆け抜け、一斉に全身の力を奪う。シュークリームが四つ入っている紙袋は森山の手をすり抜け、どさり、と三和土に落ちた。

 目の前にひろがっているのは、ありえるはずがない光景だ。

 なにがなんだか、わからなかった。ぶるぶると足は震え、手の感覚は消えている。腰からも力が抜けてしまい、すぐのうちに体勢を崩した。三和土に尻をついたときには、太腿の裏で紙袋を潰している。無意識のうちに口は動いている。

 なにやってんだよ、お前、なんで、こんな……。

 ぶつぶつと掠れた声をこぼしていく自分を、森山は許さなかった。いまは無意味に口を動かしている場合じゃない。事態の掌握にむけて、なによりも先に口を閉じた。無理にでも身体に鞭を打って、なんとか立ち上がる。

台風のように轟々と押し寄せてくる感情に流されそうになる脳内で、かろうじて会議を始めた。救急か? いや、もう、ダメだ。どう見ようとも、終わってる。だったら、連絡すべきは……警察か。

森山は、震えが収まらない手でスマホを操り、どうにか、『1』、『1』、『0』と押す。すぐに出た女性の声に『事件ですか、事故ですか』と問われた。三秒くらい迷った末に、「事件です」と応える。

いま目の前で起こっていることを正確に伝えるために、森山は、現実を直視する。天井に打たれた杭と、そこに巻かれたコード、待ちくたびれた首と、苦しみに歪んだ顔、床から浮いた足と、ズボンの裾から流れている汚物。

自分でも信じられないくらいに冷静に、ありえない現実を伝えることができた。『救急にも連絡してください』と指示されたので、森山はすぐに、『1』、『1』、『9』と押す。コール音を聞きながら、いまいちど天井から床まで目を落としていった。

ああ、なんて、惨い。言葉にならない思いが胸を苦しくする中、ふと気が付く。視界の下端に、不自然なものがある。

どくん、と心臓が跳ねた。その三和土には、どういうわけか、娘ふたりぶんの靴が置かれている。それぞれ、ひとり暮らしを始めたときに、この玄関に置かれていた靴は持ち去っているはずだ。ということは、娘ふたりもここに……。

「嘘だろ」

 自分の低い声が、不穏に耳の奥に残る。『火事ですか、救急ですか』と問うてくるスマホを耳に当てたまま、靴も脱がずに、部屋に上がる。その先で待っていたものをはっきりと見てしまったとき、森山はついに理性を失った。


第六章 重月


 小さいとき――まだ自分がサイコパスだとは知りもしなかったころ――に、地元の科学館に、有名な科学者が来たことがあった。若くして物理学の分野で成果を挙げた人で、テレビにもわりと露出していた。その名前は憶えていない。

その名無しの科学者は、そのときの子供向けの講演で、いまもずっと忘れることができないユニークな話を展開した。

歴史上の偉人なんて大したことはありません、と。

尊敬すべき存在であることは間違いありませんが、なにか、とんでもなく難しいことをやり遂げたわけではないのです。やろうと思えば誰にでもできることを、はじめてやっただけです。たとえば、いまここにあるペンを空中で手放すと、こう、落下しますね。これを何回やっても、同じように落下します。じゃあ、これを、ペン落下の法則と呼ぼう。そうやって現実の反復現象に、法則として名前を与えただけなのです――と。

きっと、その、科学者にしては無責任なほどの大袈裟な言い方には、これといって深い意味はなかった。せいぜい、子供たちの科学への抵抗感がちょっとは減ればいいな、という微かな期待があったくらいではないか。

しかしな、と瀬田は思う。いまになって考えると、あながち、それは本質を突いているようにも感じる。

結局のところ、この世界の理由や意味はわからない。少なくとも、深く深く掘り下げていったときに最後に辿りつくものの理由や意味はわからない。最後の段階では絶対に、物が落ちるから重力がある、重力があるから物が落ちる、というようなトートロジーでしか説明できない領域がある。

そのような性質は、おそらく、いたるところに存在している。肝心な理由や意味を知りたいのに、ただ現象として反復しているだけで、その意味がさっぱり読み取れないというような不気味なものが。

まさに、現在の瀬田に降りかかっている事態も、そういう種類の、ひとつの不可解な現象だ。意味や理由を探るなど、もはや無謀。ただそこに何食わぬ顔で存在し、法則的に反復を続けている。

十月に入る前のこと、瀬田は、『ちひろ』を名乗るブログアカウントにメッセージを送信した。プロフィール画像にも顔を出していないため、どんな顔かは知らない。そんな『ちひろ』は、即日のうちに長文の返信をよこした。

『はじめまして、ちひろです。ホクロ男については、わたしもずっと不可解に感じておりました。なにか参考になればと思い、ホクロ男に関する事象を時系列にまとめましたので、以下をご覧ください』

その以下の内容に目を通したとき、瀬田は、激しく気分が昂揚するのを感じた。その返信によって明らかになったのは、他人同士の間で同じ展開が時差を伴ってループしている、という現実であった。

しかも、その展開速度は一定であり、一か月をひとつの区切りにしている。

俳優を目指しているフリーターだという『ちひろ』によれば、夢の中でホクロ男とのはじめての接触があったのは、今年の五月だ。一か月間は夢の中で顔を合わせるだけで、六月に入ってから急に、ホクロ男との対話が始まった。その後、七月になると、ホクロ男の出てくる夢は途絶した。ホクロ男のことを忘れかけていたとき、八月になって、またもやホクロ男が幻覚の中で登場する。九月に入ってからも、幻覚かどうかは定かではないが、ホクロ男に街中で追われるという体験をしたようだ。

この流れ――もしかしたら、『ちひろ』も把握できていないところで、ほかになんらかの展開があったかもしれないが――をひとつの時系列に並べるなら、それは瀬田に起こっている一連の出来事と同じ流れだ。

瀬田の場合、八月に入ってから、ホクロ男の顔写真が出てくる書店の夢を見るようになった。その後、九月になった途端、夢の中のあの赤い扉が開き、ホクロ男と対面した。そこではカウンセリングのような雰囲気でホクロ男と対話することを強制された。なぜか、バス通勤に変更するといい、という怪しげな提案を残したまま、十月に入ると、ホクロ男の夢は途絶した。

そう、やはり、『ちひろ』が体験したのとまったく同じ流れだ。

 あの夢の中の空間に五つの扉があったことから、このイベントに参加しているのは誰かしら五人だと確定している。一か月をひとつの単位として展開しているのだとすれば、『ちひろ』と瀬田の間に空いた不自然な二か月間の隔たりについても、説得的に説明することができる。

 つまり、この二か月間にも、誰かが同じことを体験しているのだ、と。

それで合計四人。残りのひとりは、『ちひろ』の前か、もしくは瀬田の後か、どちらかで参加しているのだろう。

これは面識のない五人が同じ順序で同じことを体験する、という、ひとつの現象。ネーミングセンスはどうあれ、ひとまず、これをホクロ男現象と名付けてもいい。

いちはやく、この現象について解明を目指さなければならない。そのメカニズムを完全に理解できれば、あらゆる科学と同じように、今後の展開の予測ができる。うまくいけば、この現象の終着地点を把握できるかもしれない。

そういう大きな視点もありつつ、短期的な認識も欠かせない。

瀬田に次に降りかかるであろう出来事は、さらに一か月後、ホクロ男が幻覚の中に登場してくることだ。まだ、次の展開まで遠い。それまで、ぐうたらと待つ気もない。

 頭に引っかかっているのは、バス通勤に変更するといい、というホクロ男の助言だ。この件については、試してみる価値がある、と瀬田は考えていた。


   *


 いつもと同じ時間にオフィスビルに出社し、十七階でエレベーターを降り、まっすぐと自分のブースへ進んでいく。すれ違った顔見知りの社員たちは、森山の顔を見るや、河童でも発見したように目を見張って固まる。

仕方がないので、森山のほうから、「おはよう」と明るく声をかける。すると、「おはようございます」と返事はしてくれるが、なにか言いたげな顔をキープする。みんな、そんな調子だ。

 すでに情報は伝わっているのだろう。別居中だった妻と、それぞれにひとり暮らしをしていた娘ふたり――森山の家族全員――が自宅にて首を吊ったことを。

 こんな劇的な事件など、下手な小説くらいでしか見たことがない。九月に二度ひとりで観に行った『あの時』のラストシーンと同じだ。

 同じ場所で三人が同時に首を吊る、という珍しい事件であったせいか、警察としても本格的にあらゆる可能性を検証していた。警察から三人の遺体が戻ってきてからは、親戚だけで三人まとめて葬儀をおこなった。三人ぶんの骨は、現在、森山が別居するために契約した荒川区内のマンションの一室に置かれている。

 三人が首を吊ったタワーマンションには、あれ以来、近づいていない。というより、港区方面に発進するバスに乗車する勇気がない。東京湾など、二度と、見たくない。

 だって――。

 森山の脳裏には、映像記憶のように、ありありと録画されている。東京湾を背にして宙に浮いていたふたりの姿が。待ちくたびれて、無残に首を長くしていた光景が。

 ちっ、と森山は舌打ちをする。

 ……んなこと、思い出したって、意味がねえんだよ。

森山は、特別に仕切られた自分のブースに到着すると、革張りの椅子に腰を下ろす。数秒間、目を閉じ、意味もなく身体を支配しようとする感情を心の奥のセキュリティー万全の金庫に押し込んだ。

 目を開けたときには、すでに切り替わっている。今日やっておきたいことを頭の中で箇条書きしてから、それらに優先順位をつけていく。

なによりも先に取り組まねばならないのは、企画段階からの大きな反響からしてヒットが予想されている映画、『蛙の戯曲』とのタイアップCMのプロジェクトだ。浦上のマネージャーとの会話の中で出てきた些細なアイディアに過ぎなかったが、社内で会議にかけたところ、思いのほか賛同が得られた。

株主たちからも『蛙の戯曲』を問題視する声は少ない。無事にこのプロジェクトが進行しそうな空気が流れている。

映画製作のほうも予定どおり進行しているようだ。十月に入る前に、『蛙の戯曲』の撮影は無事に終了したらしい。現在は、編集作業の真っただ中だ。

特報やテレビ宣伝CMの企画も進んでおり、平等製菓としては、そこに加えてもらおうと考えている。

 すでに伝手を有効活用して、『蛙の戯曲』の関係者には話を通している。その関係者を媒介として、『蛙の戯曲』制作委員会の重鎮や、総合プロデューサーにも話が伝わっているはずだ。

そのように話を通す準備としては、撮影現場への平等製菓商品の差し入れや、映画小道具としての商品提供、経済面でのサポートなど、いろいろな形で協賛している。そのような取り組みを着実に実施した――こういう言い方は好きではないが、いわゆる『根回し』に尽力した――うえでの提案なので、断られることはまずない。

長い付き合いの広告代理店の方とも雑談程度に話を進めている。浦上の所属プロダクションの関係者にも、インフォーマルな形ではあるが、今回の企みを伝えてある。平等製菓の社内での議論も大方まとまってきているので、全体としては十分に準備が整っていると言えるだろう。

……それで、なんだ?

森山の頭に、急にクエスチョンマークが浮かんだ。白いパーテーションに仕切られたひとりしかいない空間で、自分でも滑稽に思えるくらい首を傾げてしまう。このプロジェクトに関係して、今日のうちにやっておきたいことがあったはずだが。

クソ、と若いころに正したはずの俗語が、森山の脳内で放たれる。ここ最近、記憶力が顕著に衰えてきている。それに、集中力もだ。

気を抜いた隙を逃すことなく、ちらりと瞬きの間に、この世のものとは思えない光景が蘇ってくる。長く、長く、長く、伸びた首。般若のように歪んだ顔。

ああ、クソ。俺にはいま、そんなことに構っている暇など、ないんだ。森山は、ぶるぶると大袈裟なくらいに首を振り、仕事用のスマホを手に取る。幸いにも、その瞬間に、思い出した。

森山は、スマホを操作し、通話履歴の画面をスクロールしていく。『蛙の戯曲』の出版元である超断社の知り合いに電話するためだ。

今回の『蛙の戯曲』の映画化にあたっては、あらゆるメディアミックスも含めて『蛙の戯曲』に関する権利は映画製作者に譲渡されている。だから、取引上、出版社には一報を入れる必要もない。

ただ、原作者の何故いきるは、少しも表舞台に露出しない変人である。おそらく性格も歪んでいるだろうから、念には念を、というわけである。

森山は、ひさしぶりに話す知り合いに事情を伝えながら、ふと思った。

一度も会ったことはないが、何故いきるは、どんな人物なのだろう。性別も年齢も公開されていない。暴力的な作風からして、たぶん男で、ストイックにスポーツなどに打ち込んでいるようなイメージはあるが……。

まあ、べつに、そんなの、どうでもいいか。森山は、仕事だけに集中する。


   *


 無機質な表情をした休日がベルトコンベアーに運ばれて無感動にやってきた。気晴らしにでもなればいい。ひとりきりで渋谷に出かけた。お気に入りのブランドショップで、自由気ままに、好きな服やアイテムを探索する。

 誰か、友達が一緒なら、もっと楽しいだろうに。

不幸なことに、杉田には、これといって親しい友達がいなかった。誤解されやすいところでもある。たしかに学生時代は知り合いが多かったが、どの知り合いとも薄くつながっていただけだった。

そういう浅い関係は、社会の海に出た途端に、膨大な海水に溶けて消える。

この明るい見た目に反して孤独に怯えている自分のことを、杉田は理解している。人とのつながりに満足しているわけではないからこそ、田嶋との失恋にもぐらぐら揺らぐ。もう一年以上も前のことなのに、いまだに頭の中に田嶋が住んでいる。

派手な物欲を抱えているだろうと思われるのも、よくある偏見だ。

実のところ、杉田はファッションに膨大なお金をかけたくないし、値段が高いからこそ価値があるような空虚な高級品にも手を出したくない。

嫌いなのだ。杉田の両親が、そういう輩だから。優等生的な考えを放棄するなら、両親にはなんの尊敬もない。

とくに、父には。杉田は、明るくライトアップされたブランドショップを歩いているうちに、父への嫌悪感が込み上げてくるのを感じた。

父は、もともとは真面目にサラリーマンをやっていたらしい。その単調な仕事を面白いとは思えず、このまま平凡に人生を終えたくなかった。そんな父は、杉田が生まれる前に、都内の大学の社会人コースで証券分析の勉強を始めた。さまざまな理論や考えを学ぶうちに、株なんか簡単じゃないか、と思ったらしい。

そこで痛い目に遭えばよかったのかもしれないが、杉田の父は、残念なことに、やすやすと成功した。

杉田が小さいころからずっと、父は、いつもパソコンに齧りついていた。財務情報などの量的データと、企画、戦略、方針などの質的データから、その企業を査定し、また業界の将来性や、経済全体の動向、国際情勢なども踏まえたうえで、今後の予測を立てる。柔軟性に欠けるような科学的な株価計算をやっている時間はない。四六時中、ぐらぐらと動く線を見つめ、最新の政治経済とイノベーションのニュースを注視し、少々の知識と研ぎ澄まされた感覚を頼りに、何度も判断する。

ただそれだけのことで、一般のサラリーマンが一年かけて地道に稼ぐような金額を、たったの一時間で確保できたりする。

そうやって不必要に稼いだお金を使い、杉田の両親は、ヴェブレンが唱えた誇示的消費のまさにお手本のようなことをしている。無駄な高級車、機能性のないアイテム、場所を取るだけのほとんど未使用の家具家財。両親のその心臓まで冷え切ったような――人間として終わっている――激しい欲望が、杉田は大嫌いだった。

もっと温かくて、血が通っていて、ちょっとは惨めだったとしても美しいものに情熱を注ぐことができる。そんな人生を思い描いていた。

 でも――。

 杉田は、自分に似合いそうなTシャツを見つけ、その値札を確認する。それは二万円を超えていた。

 ――そう、結局、自分も同じだった。

 杉田は、その値札を見つめたまま、深い思考に沈んでいく。贅沢をしている金持ちを批判したって、自分の首を絞めるだけだった。この社会は、お金があればより安全に、より快適に、より楽しく生活できるようになっている。それを理解しているから、両親からの巨額の仕送りを断れない。

 本当は仕事なんか辞めたって、生活できる。

杉田が意地にでも働きつづけるのは、自分は違う、あんな人たちと一緒にしないで、と主張したいからだ。ぞんぶんに学校に守られながら、これでもかと学校を目の敵にする、わがままな子供と同じ。

 両親から遠ざかるために見つけた温かい愛の物語は、もう、終わった。というより、最初から、なかった。田嶋だって、どうせ、現実の家畜だ。

 この世界で生きている人はみんな、なによりもまず、自分のために生きている。誰かの笑顔は疑うために存在する。常に騙されていると思ったほうがいい。

そんなことは頭の中ではわかっているはずなのに、うまくいかない。それはきっと、本音では、わかりたくないからだ。

つい最近も、西島なんていう見るからに軽っぽい男に、都合よく、理想を押し付けた。美しい理想を貶すためには、自分の身を削らなければいけない。その勇気が、身も心もボロボロになっている杉田には残っていない。

できれば、打開しようのない難しい利害関係に囚われているこの現実に、平和ボケだろうとなんだろうと目を瞑ったままでいたい。お伽噺を夜遅くまでずっと囁いてくれる優しいパートナーが欲しい。切なる願いの幼稚さに、杉田は、さすがに気が付いている。自覚があればどうにかなる、という問題でもない。

Tシャツを見つめたまま悩んだ末に、杉田は、それをもとの場所に戻した。結局、なにも買わなかった。ブランドショップに来るまではかろうじて維持できていた心が、店を出るときにはまた崩れていた。

薄い雲の狭間から、重たい光が落ちてくる。キレイなビルの群れはその光に絞られてじゅくじゅくと体液を零す。それはスクランブル交差点に定期的にあふれていく。汚物のように黒い頭をした人間という害虫だ。

杉田は、それを観察者として見つめているのではなく、当事者のひとりとして激しい自己嫌悪を抱えながら見つめている。いつだろうか、以前にも、こんな嫌な気持ちになったことがある。

あれは、たぶん……大学生のときだった。ダンスサークルの同級生に、すごく愛嬌のある女子がいた。同性ながら抱きしめたいと思うくらいだった。ある朝のこと、その女子の右の鼻の入り口にハナクソがくっついているのを見つけた。杉田がそれを指摘すると、周りの人たちは笑いながら絡んできて、その女子も「ヤダ。恥ずかしい」と空気を読んで同調していた。そのとき杉田は笑顔の裏で、なんとも言えない嫌な気持ちになった。

あのとき感じたのと似たような、いや、それを何倍にも濃縮したような、人類に対する絶望感みたいなものがある。ゴキブリやムカデが楽しく会話したり、愛を語ったりしても、気持ち悪いだけだ。

 そこら中を歩いている害虫が醜く持ち運んでいる欲望の数々に、吐き気がする。いっそのこと、爆弾でも持ち運んで、いくらか害虫を巻き添えにして盛大に死んでやりたい。わたしという害虫の駆除のついでに。

 そんなふうに込み上げてくる攻撃欲動も、いまとなっては何度目のことか。これだけ堕落しているのに、いまのところ、なにも事件を起こさずに済んでいる。わたしは素晴らしいほうだ。ニュースとかで流れている顔色の悪い犯罪者たちは、わたしよりずっと堕落していった先の末路なのか、それとも、ただ弱いだけなのか。

 あんなやつらと一緒にされたくない。杉田は決然と思う。

この際、誰にも文句は言わせない。誰にも迷惑をかけずに死んでやる。電車も止めないし、路上の歩行者も巻き添えにしない。事故物件を増やすことにも貢献しない。どこか、そのへんの公園で、真夜中にでも……。

 ちょっと待って、と杉田は目を瞠る。

 毒々しい思考に溺れている中、睡眠の途中で目が覚めるように意識が現実に戻った。スクランブル交差点の中央を歩いている男に、焦点が合っている。黒いタキシードを身に着けた男の横顔には、大きなホクロが三つ縦に並んでいる。

「あれって……」

 どう見ても、スマイルおじさんじゃないか。迫りくる渋谷の爆音の中で、誰にも聞こえない声をぼそりと落とした。いまにも自浄作用を失いかけていた杉田の心が、べつの感情で上塗りされる。

 それは好奇心。例の夢の中で、赤い扉を見つけたときに唐突に込み上げてきた、あれと同じだ。

いつだって、気分を明るくするのは、未知に対する期待だ。なんで生きているのかも理解できない人生で、田嶋という壮大なミステリーこそ、杉田の生きがいだった。要は、それと同じこと。過去という温泉にのんびりと浸かっているとき、その露天風呂から腰を上げるには、猿を目撃しなければならない。

 杉田から見て左へ、黄昏時の堤防を散歩するような場違いに遅い速度で、タキシードの男は歩いていく。

 追うしかないわけだ、と杉田は即断した。一定の距離は保ったままで、タキシードの男のほっそりとした後ろ姿を見失わないように進む。

そのわりと細身の黒い背中には、どういうわけか、ネガティブな感情を持たなかった。ゴキブリのような黒さとは明らかに違う。漆塗の壺のような黒さと言えばいいだろうか。忌々しい黒ではない。

 杉田が横断歩道を渡りきったときには、役割を思い出した大きな雲が居留守を詫びて戻ってきていた。それまでスクランブル交差点に落ちていた眩い光を遮ってくれる。微かな熱が緩まり、光の霧が晴れ、視界の解像度が上がる。表皮の汗がさらりと乾く。もうそろそろ残暑も抜けきり、厚めの長袖のTシャツも心地がいい。

 交差点のその先へ、人が少なくなっていく大通りの歩道を進んでいくタキシードの背中に、杉田は頭の中で声をかけていた。

 新しい出会いをつくればいい、と背中を押してくれたことには感謝している。結果としては失敗に終わったが、スマイルおじさんが悪いわけでもない。いまとなっては、問い詰める気も、崇める気もない。ただひとつだけ、問いたい。

 あなたは誰なのか、と。

よく知りもしないで先生などと呼んでいたが、考えてみると、スマイルおじさんの個人情報を杉田はなにも知らない。年齢も、出身地も、職業も、年収も、電話番号も、メールアドレスも。

そもそも、スマイルおじさんが実在していたという事実も、たったいま、判明したところだ。夢の中だけに出てくる妖精みたいなものではないらしい。

 しばらく歩道を直進した末に、タキシードの男は、コンビニの手前の角で折れた。どこか別世界につながっているかのような細い裏路地に入っていく。

このままだと見逃してしまう。杉田は、小走りになった。無名の人の間を縫い、裏路地の入口まで進む。

その路地の先を覗いた途端、ぞくりとして、杉田は固まった。

思わず鼻から息を吸ったまま、その空気の塊が喉の奥で凝固する。その数秒間、息を止めたままでお互いの目を近距離から覗きあっていた。

そこには、大人の男性が片腕を拡げられるくらいの幅しかなかった。息苦しくなりそうな壁の狭間で、スマイルおじさん、もとい、指揮者だと自称していた先生が、こちらに身体の表面を向けて立っている。

オシャレな写真のように、その黒々とした姿だけが浮かび上がり、ダークトーンの背景はぼやけていた。相変わらずインパクトの強い先生の顔には、無意味にホクロが並んでいるだけだ。その脳内でなにが起こっているのか、暗示するための情報はない。真顔とは、これのこと。

気味が悪いというフェイズを通り越して、杉田の中で、すぐさま恐怖が沸騰する。

それを悟られるのが嫌で、「あの、えっと……」と小さな声を漏らしながら、杉田はあからさまに目を逸らした。自分でもわざとらしいと思いつつも、片足に体重をかけ、だらしなく開けた口から息を吐き、気のない様子を装って横目で空を見上げる。

それを維持するのも苦痛だ。

またゆっくりと、視線のレーザーで空間上に直線を引くかのように、目を戻す。ぎょろりとした先生の目と合う。なにを見抜いているのか、未知数だ。先生の目は魚眼のように生々しくて、少しも瞬きをしない。

その圧によって、杉田の上半身はスローモーションで仰け反っていく。

いまさら、ふたたび目を逸らすわけにもいかなかった。ここで白々しい言葉を放って余計に尊厳を失うくらいなら、かえって謙虚に儀礼的な言葉のほうがいい。ここは、子供のような生真面目さで、追いかけて、ごめんない、だ。そのように考えがまとまり、杉田が息を吸ったタイミングだった。

「杉田さん。あなたは、不思議な人です」

 ひさしぶりに耳にする、低くて重みのある声だ。それほど声量はないのに、強く威圧するようなエネルギーに満ちている。

それに動揺したせいで、ふたつの眼球が震える。いまにも目を逸らそうとしている臆病な眼球ふたつに対して、動くんじゃない、と強く指令を出さねばならなかった。それだけで杉田は精いっぱいだった。

なおさら、言葉を産み落とすエネルギーは涸れている。必然的に、杉田のターンはスキップされ、また先生のターンに戻る。

「本当に、不思議なんですよ。わかんないなら、死ねばいいのに。なんのために、生きているんですか」

表情のない顔が問いかけてくる。

「わたしは……」

 杉田は、自分でもわからない。いまさっきだって、死を美化していたばかりだ。無になることに魅了され、憧れと希望を抱き、手を伸ばしている。そのくせに生きつづけている。死ぬことが怖いわけでも、死ぬときの痛みが怖いわけでもない。そういう次元は、田嶋を失った直後に通過して、すっかり遠く後ろに追いやっていた。

「わたしは……もう、わかんないんです」

 小さな声でつぶやくと、杉田は、のろのろと振りかえり、先生に背を向ける。どうしても直面したくないものが、たしかな足音を立てて近づいてくるような不安がある。

 ブラックホールのような裏路地を、もう二度と覗きたくない。杉田は、振り向きもせずに足を踏み出し、スクランブル交差点へと向かう。

 大きな目ヤニのような雲が、太陽の黒目を隠している。なにかしら匿名性を獲得したような気持ちはない。知らぬうちにドバドバと個人情報が洩れているような気さえする。雲の向こうの見えざる目に露骨に覗かれているような。

 ちらりと振りかえると、今度は、先生のほうが、杉田のあとを追いかけてきていた。あらゆる解釈を許容しているようでもあり、逆に、なにかひとつの真理を突きつけているようでもある、いやらしい真顔のままで。

 かまをかけているのか、とも思える。

 杉田は、迫りくる裁きの気配に背を向け、歩行スピードを上げていった。どれだけ進もうと、振りかえれば、先生――黒いタキシードの男――は一〇メートルくらい後方にいる。

突き放すように、さらにスピードを上げていく。交差点を渡り、渋谷駅構内に入り、ホームに出て、やってきたばかりの電車に乗る。

さすがにマケただろうと思ったのに、車両の連結部分の透明ガラスのむこうに、あっちの車両からこちらを覗いている真顔がいた。都内のすべての高校から生活指導の先生を集めてきて融合させたみたいな、そんな顔。次の駅で降り、人の多い場所を歩く。黒いタキシードの男は、どこまでも、ついてくる。

――メ●ヘラみたいに死にたがっても、どうせ、生きたがってる。

歩きつづけているうちに、杉田の頭が、ひとりきりで語りだしていた。

――生きつづけていれば、いつか、どこかで、生きたままでよかった、と思える瞬間が訪れるかもしれない。そんな思いが残ってる。それにもかかわらず、どこまでも捻くれて、素直に『生きたい』と言えないのは、はっきりと宣言することで、その可能性の希少さと直面する恐怖を避けたいから。

……んなこと、わかってんのに。杉田は、自分に対して反論している。わざわざ一から掘り返してくれなくても、気が付いている。真正面から考えたら、すべてが台無しになる。なにもかも。

生きることの望みを考えたくないのは、それを考えた結果の答えが考えるまでもなく明らかだから、なのに。

死ぬまで、どうせ、シンデレラにはなれないよ……なんて、シンデレラになりたがってる人にとっては、死刑宣告とさして大差ない。

もしも、現実という化け物が、そんな死刑宣告をすることに酔いしれているのなら、しかるべく対処をしなければならない。こっちはこっちで、動く。このまま、黙っているわけにはいかない。数え切れぬほどのあらゆる罪状により、現実よ、お前を、いまここで死刑に処する……なんて叫んだりして。

杉田は強く思った。もしも自分が死ぬときがくるなら、それは世界からのわたしの排除ではなく、わたしの世界からの現実の排除なのだ、と。


   *


タクシーの後部座席でひとり、浦上は、ぼんやりと車窓を見つめていた。車道沿いに並んでいるのは、無味乾燥としたコンクリートの壁だ。東京タワーとか、新宿の都庁とかは、そういう無名の壁に遮られて、死角に沈んでいる。頼りなく闇に浮かんでいるのは、信号機や看板のネオン、ガラス張りのコンビニくらいだ。

総じて、黒い。

これといってテーマもなく物思いに耽っていると、なんの予兆もないままに、年配の男性の声が聞こえた。

「俳優の、浦上直斗さんですよね」

 バックミラーを見れば、そこには運転手の白髪の男性がいる。定年後にタクシー運転手を始めた人だろうか。フロントガラスに目を向けたままで口だけ動かしたところには、なにか大きなプロジェクトに関わったことがあるかのような責任感の強さが滲んでいるように思えた。

浦上の視線に気づいたのか、ピクリとその瞼が動いた。やはり視線だけは頑なにフロントガラスに向けたまま、「こんな夜遅くまで、ご苦労さまです」と、銀歯の隙間から労いの言葉をかけてくれる。

今日の浦上は、夜遅くまで事務所で、まだ情報が解禁されていない次の主演映画の打ち合わせをしていた。たしかに、ご苦労さまな状態である。浦上は、スタンダードに、「ありがとうございます」と応じた。

「僕の業界では、忙しくてなんぼ、ですから。こんな時間までお仕事できることは、本当に恵まれていますし、このうえなく嬉しいことなんです」

 マスクを顎までズラしたうえで、無限に近く練習してきた笑顔を見せた。運転手は振りかえりはしないが、視界の隅でバックミラーを見ているだろう。その笑顔が成功していることに、浦上は並々ならぬ自信を持っている。

声をかけられたときは、いつも、その顔だ。とはいえ、実は、街中で声をかけられることはあまりない。浦上は、いつも派手に変装しているので、擬態したカマキリのように群衆に紛れ込んでいる。今日は、うっかり変装しないままで自宅を出たために、一日中、いつになくバレている。

今回のように声をかけられたときは、せめてもの有名税として、丁寧な対応を心がけていた。浦上が次の言葉を探していると、邪魔が入った。

「ああ、そんな。マスクなんて、外さなくても……」

 バックミラーの中で、少しだけ充血している運転手の両目が、ちらっと鏡の中を覗いてきた。それだけで、相手の本音がわかった。その目の動きには、これは気遣いではなく、いま以上の会話をする気はないですよ、というニュアンスが含まれていた。浦上は、軽く一礼をして、またマスクを鼻まで戻す。いまいちど車窓の外に目を向けたときには、心の中で毒づいている。

 話すこともないなら、はなから黙ってろよ、ジジイ。浦上は、マスクの下で舌打ちを我慢した。

 気を紛らわせるのは、いつもスマホだ。

不必要に力が入って震える両手をどうにか動かして、ワイヤレスイヤホンを両耳に差し込んだ。ブルートゥースを起動させてイヤホンを接続し、スマホでお気に入りのヘビメタを流す。英語なので、歌詞に没入することはできない。細かく解釈できないからこそ、言葉になる前の叫び声のようなリアリティーがある。

その世界観に身を任せているうちに、若干は、落ち着きを取りもどしてきた。

とは言っても、完全に、心が平安になったわけではなかった。こんな些細な対人ストレスに振りまわされている自分がもどかしい。

脳内をシェイクするようなヘビメタに浸りつつ、浦上は、次作で演じるキャラクターについて考えを進めようとした。その内面に意識を集中させようとするのに、これもまた、うまくいかない。視界の端っこに、空気の読めない運転手がいるだけで、煩わしい。浦上は、またもや強まる苛立ちを鎮めようと、目を閉じた。

ここ最近――おそらく『蛙の戯曲』の撮影が始まったころ――から、どうもイライラしやすい。

それはもちろん、演技のために殺人鬼になりきっていたためであろう。撮影がおこなわれていた九月のうちはずっと重い精神状態だった。毎晩のように、解釈のしようがない意味不明な夢を繰りかえし見ていたくらいである。

十月になってからは、その夢が途絶えた。しかしながら、それで精神状態が好転することはなかった。

ヒロイン役の演技に納得できないまま『蛙の戯曲』の撮影が終わった現在としても、そんな心残りがあるせいか、やり切った感じがしない。次の作品へと気持ちを切り替えなければいけないのに、浦上の身体の中にはまだ、おそらく殺人鬼のものと思われる生々しくて鮮烈な血が流れている。

 無理解への激しい怒り、とでも言えばいいのだろうか。

普段は簡単に流せていたはずのちょっとしたすれ違いを、そのまま看過することができない。相手の間違いや浅はかさを鋭く批判し、誰よりも理路整然とした言葉とか、単に悪辣な言葉とかを用いて、次から次へと相手の主張を打ち破りたくなる。その強い衝動は、なぜか孤独感を深め、性欲と結びついて、女性への支配願望に発達する。

もしも、抵抗してくるなら、いっそ、この手で……。

いったい、なにを。浦上は、当たり前のように込み上げてくる過激な思いに動揺するしかなかった。


   *


 十月に入って少ししてから、瀬田は、バス通勤を開始した。まるでサイコパスのような――実際に、サイコパスなのだが――そのなににも動じない冷静沈着な態度が評価されて本社に栄転して以来、瀬田はずっとマイカーで通勤していた。休日も出かけるときは車を利用していたので、都営バスを利用するのは、はじめてのことだ。

 本社を出るのは、だいたい、いつも、夜の八時十五分くらいである。

 思いもよらず社内での地位が高くなったことで、瀬田は、ここ数年、取材現場にあまり足を運んでいない。マスコミでありながらも、一般的なサラリーマンのように定時の業務となっている。

 瀬田が仕事を終える時間帯にちょうど勤務先の近くにやってくる『荒川土手行き』に乗車するのが、お決まりのパターンだ。

 恵まれたことにも、ひとり暮らしをする荒川区内のマンションのすぐ近くにはバス停があった。徒歩の距離はほとんどない。車を運転するために集中力を消費することもなくなったため、すごく快適になった。欲を言えば、ガタガタと揺れるバスの車体はどうにかならないのか、とは思うが。

 当然のように、バス通勤に変更した理由は、ホクロ男から助言があったためである。

ホクロ男の言い分としては、人間について理解を深めるためにも通勤時間を利用するといい、バス通勤に変更すればその時間が確保できる、といったものだった。考えるまでもなく、これは不自然な助言である。

まるで、なにがなんでもバス通勤をさせたいがために、むりやり理由付けをしたようである。その真意を見抜くためにも、罠にハマるかもしれないリスクを冒しつつ、瀬田は、バス通勤への変更を決断した。

 いまのところ、なにか、新たに判明したことはない。発見としては、バス車内の小型モニターで予告編として流れていたスパイ映画が瀬田の好みに合いそうだ、と思ったことくらいだ。

 ホクロ男現象については、その現状に対する理解が少しずつ頭の中でまとまってきた。そこは進展と言えるかもしれない。

 この現象は、瀬田を含めた誰かしら五人がとあるパターンを一か月の差を維持したまま繰りかえすという現象だ。そのパターンには、これといって意味がないように思える。流れとしては、同じ夢を何度も見て、ホクロ男と対話して、それが途絶えて、幻覚の中でホクロ男が出てきて、現実でホクロ男に追いかけられる、というものである。

かりに『ちひろ』が最初のひとりだとすると、現在のところ、五人のプレイヤーのどの人物がどのフェイズにいるのか、予測できる。『ちひろ』をAとして、その後、B、Cと続いて、瀬田自身をDとし、最後のひとりをEとしよう。

俳優志望のフリーターである『ちひろ』――つまりA――は今月、まだ誰も体験していない次なるフェイズを体験するはずだ。

そのひとつ後ろの人物であるBは、今月中に、現実にホクロ男に追いかけられることになるだろう。一か月の内のどこで起こるかは定かではないので、すでに追いかけられたかもしれない。

さらに後ろの人物であるCは、今月、ホクロ男の幻覚を見ることになる。『ちひろ』によれば、嫌な気持ちになるような問いを投げかけられるらしい。

その次のDは、瀬田自身だ。『ちひろ』の体験から考えれば、今月になって瀬田に起こるのは、ホクロ男との対話が途切れる、というイベントだ。これは現に発生している。ホクロ男現象に対する瀬田の理論的把握の正しさを裏付ける、重要な証拠だ。

瀬田の次に参加しているEは、あの夢の中の空間で、九月のときは同じ夢を繰りかえし見ていたはずである。今月は、その空間から抜け出し、赤い扉の奥でホクロ男との対話を始めているはずだ。もうすでに、話し合いは進んでいるだろう。

以上のような予測はできるものの、それは『ちひろ』から知りえたパターンを個別に当てはめていっただけである。この現象全体が、どのように機能しており、どのように発展するのか。なにも判明していなかった。


   *


 一面のガラスカーテンウォールは、水族館の巨大水槽のようだ。そこにはホホジロザメやジュゴンやイワシの群れはない。人間という生き物が地球の資源を採掘し、加工し、加工し、加工して、原形をなくすまで加工しつづけた世界がある。

それはまるで、生態ピラミッドよりずっと単純な社会のピラミッドをユニバーサルデザインで表現したかのようだ。多くの人たちは背の低い建物で暮らし、一部の人だけは見事な建造物の中で働く。

東京に住んでいるのにあまり見かけることがなかった東京タワーや東京スカイツリーなどのランドマークも、はっきりと確認できた。どんよりとした大きな雲に怯えず、天高くそびえ立っている。

そこは浦上も所属している大手芸能事務所、『イーストマインド』の本社だ。

控室として通された広大な一室は、普段は、おそらく客間として利用されている。人工物の絶景とともに、その開放的な空間に擬態するように違和感なく、ホワイトのソファがいくつも置いてあった。

どのソファにも、座る気にはなれない。千尋は、窓ガラスに張り付いて嘘のような絶景を見つめたまま、息を殺すように佇んでいた。ついに最終面接の当日なのに、実感がない。どう受け止めればいいのか、わからない。

最初は数人しかいなかったが、そのうちにどんどん入ってくる。なんとなく窓から室内に目を戻すと、そのときにはすでに両手では数えられないくらいの人数の同世代の人たちがいた。どの人も、エネルギッシュでチャーミングなオーラを放っている。中には、演技審査のときに見かけた人もいた。ラフな格好でよいと指示されていたので、みんな、どこか余裕を感じさせるカジュアルな服装だ。

こんなに無様に緊張しているのは、わたしだけなのか。先走った思考で、自分勝手に敗北感に苦しむ。みんなも同じだろうけど。

ショッキングピンクの腕時計に目を落とすと、もう、集合時間は過ぎている。

やはり緊張感のせいか、誰も、ソファには座らない。最初のひとりが重大な決断をしたかのようにソファに座ってからようやく、周りの人たちも、続々とソファに向かいだすことができた。

千尋もソファに座ろうかと悩んだが、やめておいた。どきどきして胸が煩い。落ち着くわけもない。

心臓とか肺とか、大腸とか胃とか、使い古された器官がどれも、洗濯機に洗われるようにぐるぐると回っている。立ったままで足踏みをしていたほうが、よっぽど楽だ。

千尋は、何度目かの深呼吸をして、ジーンズのポッケからスマホを取り出した。ロック画面には、町井からのメッセージが届いている。そのメッセージをスライドさせ、パスワードを打ち込む。

『きっと、大丈夫。落ち着かないと思うけど、落ち着かないまま頑張ってくれ』

 どんな言葉であれ、応援されると、そりゃ嬉しい。でも、正直、そのメッセージに頼りきるほど町井に愛着はない。千尋はさっと指を動かし、『ありがと! 頑張るよ、わたし』と返信した。

顔を上げると、同じようにスマホをいじっている人もいた。彼らも、よくわからないままでここに辿りついたのだろうか。

ネットの噂では、最終面接に残っているのは毎年、三十人程度だという。いま控室にいる人たちを数えたら、千尋自身を含めて、二十一人だ。ネットの噂なんて、あまり当てにならない。

オーディションの公式サイトによれば、例年、一〇人程度を合格者としている。今年もそうだとすれば、ここにいるうちの半分は落選する。千尋には、ソファに腰かけている同年代の人たちが遠い存在に思えてくる。

最終面接の予定時間が近づいてくるにつれて、足踏みをする頻度が増していく自分に、千尋は気が付いていた。

ついに予定時間になったとき、ちょっと強引な印象で、ドアが開けられた。

「あ、ノック、忘れてました。ごめんなさい」

 ドアから顔を出したのは、清潔感のあるヒゲ面の、スリムな男性だった。白いポロシャツが爽やかで、ワックスで固められたツーブロックも涼しい。

控室内にいた受験者はみな、静かに口を閉ざしたまま、精密に整えられたヒゲ面の男性に目を向けている。それらの視線を一身に受けることにストレスを感じる様子もなく、にこにこしたまま、踏み込んできた。

その男性に続いて、さらに五人、中へと入ってくる。堅苦しさがなく、若々しくて、年齢不詳な人たちだ。受験者と同じように、砕けた服装をしている。どの人も、どこかのマスコットキャラクターみたいに、にこにこしている。どういうわけか、千尋の目には、彼らが社会のヒエラルキーのトップにいるように見えた。

最初に入ってきたヒゲ面の男性が、パ、と手を叩いた。

「それでは、みなさん、お集まりですね。じゃ、そろそろ予定時間なので、これから面接のほう、始めさせていただきます。どうぞ、ソファのどこにでも」

 ――ここでやるの? 

意外な展開に、誰もが心の中でつぶやいたはずだ。みんなの胸に、どばどばっと動揺が走ったのがわかる。千尋も、まったく想像していなかった事態に、思考が遅れる。

ヒゲ面の男性は、佇んだままの千尋を見つめ、「どうぞ、ここに」と近場のソファを右手で示した。どうやら、立ちっぱなしだったのは、千尋だけだったようだ。千尋は、促されるままに、ひとり掛けのソファに座った。

 チャイムみたいな開始の合図もなく、面接はいつのまにか始まった。六人の審査員はそれぞれ持参したパイプ椅子に座り、適度に室内にバラけている。いくつも置いてあるホワイトのソファは、いろいろな角度で、無秩序に置かれている。いくらなんでもラフにもほどがある面接だ。

ひとりずつ面接していくものとばかり思っていたので、その点も、千尋にとっては予想外だった。

そんな動揺にはお構いなく、何事もなく、面接は進んでいく。

ヒゲ面の男性の司会進行で、ひとりずつ受験者の名前が呼ばれていった。呼ばれた受験者たちはそれぞれに自己紹介をしていく。いつ自分の番になるのかと怯えていると、すぐに名前を呼ばれた。

どうにか気を引き締めて、「はい。神野千尋、二十五歳です」と、活発な声を上げる。頭がうまく回らない。自己紹介をしているうちに、何度か、噛んだ。カラオケで何度も練習していたおかげで、なにもできないという状態は回避できた。

「ああ、千尋さんね。おひさしぶりです」

 自己紹介を終えたとき、黒縁メガネの審査員の男性が軽やかに声を上げた。

「はっきり憶えていますよ。事務所の中でも、センスのあるやつがいるぞ、と話題になったくらいです」

 千尋は憶えていなかったが、どうやら、演技審査のときにもいた人のようだ。ほかの審査員たちも、うんうんとうなずいている。悪い気はしないが、いい気もしない。

「そんなことないです。恐縮です。ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げながら、心の中で、違うんですよ、と千尋は弁解している。演技審査のときにその場で提示されたお題のひとつは、「突然、目の前で大切な人が死んだとします。そのときを演じてください」だった。千尋は祖母の死を目撃したばかりだったため、そのときのことを思い出して、そのときの自分の動きを再現した。

 たぶん、これ、罪悪感。千尋の胸から、徐々に緊張が抜けていく代わりに、もっと不快な感情が膨らんでいった。

 コンクリの路上で燃えていた祖母の肉塊は、いまだ頭に残っている。

 ほとんど、ばあちゃんとは会話してなかったのに、なんで、うまくいっていると思い込んでいたんだろう。千尋の悩みは深くて切ない。

 小さいころは、もっと仲良くしていた。お盆や年末に会いに行くのは、毎年の楽しみのひとつだった。ファンタジーチックな絵本を読み聞かせてくれたことも、大切な思い出として残っている。

そういう絵本に出てくるような財宝の山に心が動いていた人並みに幼かったあのときから、千尋はいろいろ変わった。

気が付いたときには、俳優になりたいという夢しか見えなくなっていた。上京してから祖母と同居を始めたときも、都合のいい居場所を得たという安心感がやたらに大きく、祖母に対する感謝の気持ちは小さかった。

もういちどやり直す機会があるなら、なんでもいいから、ばあちゃんと会話がしたい。どうでもいい話をして、ちょっとだけでも笑いあいたい。亡き人となった祖母に対する気持ちが、日に日に増していく。

 その切なる願いは後悔する気持ちを帯びて、より強くなる。絶えることなく絶好の養分を与えられている罪悪感も、食欲のままにハンバーガーを食べつづける巨体のようにぶくぶくと膨らんでいく。

 ここ最近、千尋は、俳優になることについて不安を感じるようになった。もしも、このまま俳優として憧れの仕事ができるようになったとしても、そんな自分を誇りに思えるだろうか。いろいろな人に注目されて自己顕示欲が満たされたとしても、その欲望の充足を素直に愉しめるだろうか。

誰からも認められずに苦しんでいる人たちに、自信をもって自分の努力を掲げられるだろうか。わたしは頑張ってきた、なんて、わざわざ言わなくてもいいけど、心の中でこっそりと思えるくらいの生き生きとした自己肯定感くらいは欲しい。いまの自分に、それを得られるのか。

自分勝手な行動のせいで、身近にあった小さな幸福を、なにげなく踏みつぶしたりしていたのではないか。

考えるたびに神経細胞に刻まれ、生々しい思考が脳を侵食していく。答えが見つけらないままの迷いがあると、街中を堂々と歩くことすらできない。

復帰して以来、バイトは一度も欠勤しなかったし、面接練習のためにバイト終わりにカラオケに寄るのもやめていなかった。九月と同じリズムの生活が十月も続いていたが、わざわざ遊びに外出したいとは思えなくなっていた。町井からの誘いも、十月になってからは断るようになった。

ついに最終面接の日を迎えた今日も、依然として、外出することに億劫な気持ちを携えたままで、この会場までやってきた。激しい緊張のせいで一時的に忘れていたのに、頭の中には変わりなく残っている。

千尋の心の中はどす黒く沈んでいく一方だが、この人生最大のチャンスでそれを顔に出したら、まさに人生の終わりだった。

二十一人の自己紹介が終わってからは、それぞれの審査員の口から、いろいろな質問がランダムに飛び交うようになった。いつ自分に、どんな質問が来るか。集中しなければいけないのに、視界を埋めていくのは、鮮烈な炎と、ホクロ男の顔……。

え? 

思わず、千尋は、息を吞んだ。ちょうど目の前の窓ガラスのむこうに、いつのまにか、ゴンドラが降りてきている。そこには窓ガラス清掃のつなぎを着たスタッフがひとりいる。というか、あれはどう見ても、ホクロ男だ。

 ガラス細工のように動かない目が、射抜くように見つめてくる。まるで災いをもたらす神のような視線だ。

 勘弁して。千尋は、反射的に、目を伏せた。視界の上部で、つなぎを着たホクロ男の上半身がぼやけている。この視界から追い出したい。人生の中で一度きりのチャンスの場だというのに、千尋は、深く俯かずにはいられなかった。

 評価されることに怯えている。数による評価も、言葉による評価も、もっと曖昧な視線や態度による評価も、なにもかも恐ろしい。それはいつも、自分の中ではなく、外側からドライに決めつけてくる。

 血も涙もない体温計みたいだ。どんなに熱を抱えていても、体温計はいつも悟りを開いた表情で、あなたは三十六度です、と宣告する。

努力の度合いが数値化されたかのように、タイムを告げられ、成績が通知され、口座に入金される。もしも同じ痛みをそのまま与えることができるなら、体温計は自らの過ちを詫びずにはいられない。ストップウォッチは懺悔に明け暮れ、テスト用紙は自らを恥じ、通帳に刻まれる数字は我は幻想なりと非を認めるだろう。

――いらない!

千尋は、いままさに強く感じた。襲いかかってくる見えないものの数々を具現化したようなホクロ男の姿を前に、自分の本音が浮き彫りになる。

――やっぱり、いらない。そんなもの、いらない。ちっとも、求めてなんてない。祖母の死というゼロ点の答案用紙も、いらない。規定されたくない。

決然と、千尋は、頭を上げる。都市が沈んだ水槽の内側で、いまだ死んだような眼球がふたつ、こちらを覗いている。それを容赦なく睨みつける。

その睨みがきっかけとなったのか、つなぎを着た中年の男は、大きなホクロの横から、ずるっと生殖器のような舌を出した。その赤黒い舌を器用に動かし、窓の表面をベタッと舐める。それで終わらせるつもりもないらしい。ドクロのような無表情のまま、飼犬のようにベタベタと窓を舐めていく。ぺちゃ、くちゃ、と粘着的な音がする。全身にトリ肌が立つほど不愉快だ。

周りを見ても、ほかの人たちは少しも気付いていない。千尋にしか見えない幻覚なのだろうか。

「……あの、神野さん、聞いてます?」

 ふっと我に返り、千尋は、室内に目を戻した。いつのまにか、みんなの視線が自分に集まっている。審査員のひとりであるヒゲ面の男性は、前屈みになって、千尋の顔を覗き込んでいた。

 窓のむこうには、変わらずにホクロ男がいる。その存在には誰も触れない。ただ千尋の沈黙を見つめている眼球の数々が、知らず知らずのうちに千尋の心をレントゲンで撮るように見抜いている。

やってしまった。雪女の息のような冷たい風が、千尋の全身の肌に触れた。ホクロ男に気を取られたせいで、ヒゲ面の男性からの質問を聞き逃していた。面接において審査員の話を聞いていないなど、ポジティブに捉えられるわけもない。

挽回せねばという思いは、しかし、湧かなかった。全身を支配した冷たさも、波が引くように消えた。むしろ、吹っ切れた。

この際、怯えも、緊張も、いらない。いまさら慌てたフリをして詫びて、再度、質問を求めた。もしも自分が主演を務める連続ドラマの視聴率が落ちていったとしたら、あなたはどうしますか、という問いだ。

千尋は、その問いの自分なりの正解を知っている。狂犬と化したホクロ男を視界に残したまま、揺らぎもなく堂々と、はきはきと答えた。

「シビアな現実を無視するのは、キレイゴトだと思います。視聴率の大小や、監督や先輩からの指導は、素直に受け止める所存です。しかし、自分の落ち度は、自分で気づいて自分で直します。だから、わたしは……」

 体温計みたいな人々に叩かれて視界が灰色に染まっても、それに惑わされない。そう、気にしない。たとえ気にしたとしても、気にならなくなるまで、気にしないフリをする。世間や誰かに認めてもらうためだけに俳優を目指してきたわけじゃない。自分の外側にあるもので自分を評価するより先に、自分で自分を評価する。

「わたしは、わたしがやりたいと思ったから、いま、ここにいます。苦しいときも、楽しいときも、わたしなりに最善を尽くすだけだと、そう思います」


   *


 机上に置かれたデジタル時計が『08‥15』を示したのを確認すると、瀬田は、くるりと座ったままの椅子を回転させた。背伸びをして見つめた窓の外には、向かいのビルの明かりがあった。そこには影絵のように小さな人影がいくつか見えたが、さっきより少ない。ついに仕事を終える時間となった。

充実感や達成感よりも強い、それも夥しい量の、莫大な開放感を、瀬田は感じざるを得なかった。

 なんせ、朝に出社した瞬間から始まっていた孤独で静かな闘いがようやく終わったのだから。おそらく、今日も、周りからは、冷静で頼りがいのある男としてポジティブに捉えられただろう。それを維持するための瀬田の努力を知る者はいない。

 近年になって、瀬田に強いられる努力の量は、ここ最近の日本のGDPより速い成長率で膨らんでいた。

ちょっと言葉を間違えれば、部下からは、パワハラ扱いされかねない。なにか非人間的な言動をしたら、猫のように夜も目を輝かせている人事部の手が動く。共感性を持たない稀有な人間としては、そういう細かい人間関係はすこぶる難しい。仕事の最中は、常に、神経を尖らせなければならなかった。

それも、今日はもう、終わった。こうやって、また一日、正常な人間として業務を遂行することに成功した。

室内に残っているお馴染みのメンバーに労いの言葉をかけてから、瀬田は、エレベーターまで向かった。つい最近に買い替えたばかりの革靴で、コツコツとわざとらしく音を立てながら歩く。

他者の視線と本物の監視カメラがなくなったエレベーターホールでは、さっきよりずっと大袈裟に伸びをした。ついでにネクタイをちょっと、緩める。さらに欲を言えば溜息のひとつやふたつくらいは吐きたかったが、エレベーターの扉が開いたので、やめた。

そこには先客がいた。広々とした籠室の手前の左隅にいるのは、顔見知りの若い女性社員だ。モデルみたいな細見で、グレーのパンツスーツを着こなしている。もちろん、瀬田は紳士としての常識を学習済みである。「お疲れさん。失礼しちゃうよ」と断りを入れてから入室した。

それに対して女性は、不自然なタイミングで「ああ、はい、どうぞ」とぼそりと言い、こくりとうなずくような動作をしただけだ。思ったよりも反応が薄かった。

たしか足立とかいう、ここ数年で本社に飛んできた社員のはずだ。まん丸の顔を俯かせている。どこか不機嫌そうだ。

そんな反応をされると、瀬田としては不安になる。なにか、気づかぬうちにセクハラとかしてないだろうか。いくら学習によってカバーしているとはいえ、心の中はずっと他者に無関心なままのサイコパスなのだから。

答えなど見つかるはずもないのに、むやみに嫌な想像を膨らませていく。エレベーターの小刻みの振動が、悪夢の近づいてくる効果音のように思える。なにか、近づいてくる。なにか、悪いものが……。

突如、ガタン、と強い衝撃が走った。

瀬田は、揺れのままに、籠室内の左の壁にしたたかに肩をぶつけた。足立も、ひい、と息を漏らした。

まさか、地震か。ふわっと心臓が浮くような不快さの中で咄嗟に浮かんできた瀬田のその想定は、あまりに悲観的すぎたようだ。足立とふたりきりの籠室は、すぐのうちに平穏に戻った。どうやら、エレベーターの故障で、動きが止まったようだ。それもそれで面倒くさいが、生命の危機は免れた。

「大丈夫ですか、足立さん。どこかぶつけたりなんか?」

 いちおう気遣ってみるが、足立は失礼にも俯いたままだ。違う部署とはいえ、上司が目の前にいるのに背中を丸めている。

「あ、はい。ええ、大丈夫です」

 その裏がありそうな不思議な反応の意味が、よくわからない。気になりつつも、現状においては、エレベーターの問題のほうが優先されるべきか。

様子見のために待っても、エレベーターは少しも動き出す気配がない。

ここは上司の出番だろう、と瀬田は意気込んだ。どこか専門機関につながっているであろう、籠室内の緊急用のボタンを、強く押し込む。応答した誰かに、エレベーターが途中で止まったことを告げた。二〇分ほどで駆けつけるという。

「と、まあ、そういうわけです。すぐには動かないようで。ごめんなさいね。僕なんかと二〇分もこのままみたいで」

親しみを込めて語りかけたが、足立は、やはり反応が薄い。依然として棒立ちに俯いたままで、見ようによっては思春期の少女のようだ。よくわからないが、考えても思いつかないのだから、放っておくしかない。

さて。瀬田は、いまいちど閉じたままの扉を見つめ、その扉の先にいくつかの感情を順序よく置いて整理していく。

この二〇分間、籠室に閉じ込められたまま、どうしようか。せっかくの開放感と惜しみながら別れて、瀬田は漠然と頭を回した。

そういえば、バス車内で流れていた予告編に釣られて一週間前に観に行ったスパイ映画でも、こんなシーンがあった。そのラストだ。主人公はエレベーターの籠室内に閉じ込められ、次作を匂わせるような妖しいBGMとともに映画は終わった。

まさに、そのまんま。ホクロ男現象といい、籠室に閉じ込められる不幸といい、最近はろくなことがない。

我が身に降りかかる不幸の数々に対する憂いに浸りはじめて、一〇分ほど経過した。そのときになって急に、「ごめんなさい、瀬田さん」と呼びかけられた。

すっかり忘れていた足立の存在を思い出し、振りかえると、そこには眉根を寄せた足立の顔があった。

シリアスな失恋ドラマの最終回みたいな顔をしている。なにか違和感を覚えて見下ろすと、足立の足元には、薄く黄色い水溜りができている。

「ごめんなさい。ずっと限界だったんですけど、便器が故障してるのもあって上のお手洗いが埋まってたんで、ちょうど下にも用事あったから、下に降りてからしようと思ってたんです。でも、これ以上、我慢できませんでした。ホント、ごめんなさい」

 マジかよ、おい、と瀬田は心の中でつぶやいた。尿意を我慢していたせいで様子がおかしかったというわけか。

無害でありながらも有害にしか見えないその水溜まりはじわじわと広がり、瀬田の足元にも近づいてきている。

汚いぞ、このやろう、と一歩下がった。これ以上の悪化は阻止しなければいけない。でなければ、せっかくの新品の靴が汚れることになる。瀬田は、ポッケから厚手のハンカチを取り出した。源泉――尿が出てくるところ――は女性器の尿道だ。股の間からあふれてくるのなら、そこを止めないといけない。

「とりあえず、これに吸収させればいいですよ」と精いっぱいに、不快感を露わにしないように声をかけた。その流れで、瀬田は、くしゃくしゃにまるめたハンカチを足立の股に押し付けた。ナメクジのような感触。パンツスーツの上から足立の陰部にあるはずの割れ目を探り、見つけ、その女性器の中へ、ぐっと押し込む。

「これ、ちょっと、押さえててください」

 自分で押さえるように足立に指示してから、瀬田は手を離した。拡大する水溜まりから逃げるために、籠室内の奥へと後ずさる。

 最悪だな、とつぶやきそうになる。これまた嫌なことが起きた。いい大人のお漏らし現場に遭遇するなんて。瀬田の憂いはさらに膨らんでいた。

そんなブルーな気持ちを気にする素振りもなく、またもや俯いている足立だ。思わず嫌悪の視線を向けそうになったが、かろうじて、堪えた。「あと一〇分くらいですから、大丈夫ですよ」と優しく声をかける。

 嫌な気持ちは拭いがたい。でも、まあ、いつもどおり、頼りがいのある人を演じることができたのではないか。瀬田は、自らの迅速な対応にかすかな達成感も覚えていた。


   *


 職場と自宅を行ったり来たりしながら、ときどき見知らぬ場所にも出かける。主に安定的でありながらも多少の刺激も忘れられていない生活。それが、ずっと繰りかえされていたはずだったのに……。

 半生をかけて築いてきた家族を一瞬で失ってからのこと、森山の生活は激変した。職場と荒川区の部屋を行ったり来たりするだけではない。もうひとつ、新たな部屋に毎日のように出かけるようになった。

 その部屋は、日本のどこかにあるわけではない。そもそも、その部屋は物理的には存在しない。

 ある意味、どこにでも存在する部屋だと言える。バスに揺られているときも、職場で仕事をしているときも、帰りに花屋に足を伸ばすときも、ひとりきりでハンバーガーショップに出かけるときも、気が付けば、その部屋の中に迷い込んでいる。

 どういうわけか、その部屋の中にいるときには、自分がその部屋の中にいるぞ、という事実を把握していない。その部屋の中にいるな、と気が付いたときにはすでに、ほとんど現実世界に戻ってきている。

 そういう具合だから、その部屋の中になにが置いてあって、どれくらいの広さで、どんな室温で、どんな雰囲気なのか、あやふやだ。

 ひとつたしかなのは、その部屋が寂しさで満たされているということ。大波に乗って押し寄せてくる寂しさに潰れそうになったとき、運がよければ、その部屋の中にいるのだと気づける。それに気づくまでが、むしろ問題だ。

気づかないままのときは、そこから抜け出そうとしても、どんな手も効果がない。どんな言葉を耳にしても励まされないし、どんな曲を聴いても浸りきれない。身近にあふれている癒しは、どれもゴミみたいだ。ゴミをありがたそうに受け取り、わたしは救われました、と声高に語る人たちに激しい隔たりを感じる。

かすかに残っている救いは、やはり、不安定ではありながらも、その部屋の中に自分がいるという現実を把握できること。それが異常な部屋だと認識できたときに、現実に戻ってこれる。

もしも、その部屋が肥大し、侵略し、部屋の外までを汚染すれば、その部屋そのものが定常状態として固定されてしまう。それだけは避けたいのに、日々、悪化の一途を辿っているように思えてならない。

その部屋の輪郭は日が経つにつれて曖昧になり、その部屋を上から捉えることのできる空間認識能力は衰えていく。

――なぜ。

繰りかえされているのはシンプルな問いだから、その答えは無限の可能性を秘めているはずなのに。不幸なことに、森山の中には、無数の可能性の中から説得力を持って浮かんでくる答えがあった。振り切ろうとしても無駄。森山の悩みは、いつも同じところで同じまま、同じように佇んでいる。

なぜ、死なねばならなかったのか。

妻も、娘ふたりも、いずれも空中で死んでいた。地上からの解放を望むかのように天への希望に包まれて。安らかとは言えない悶えた顔で。

遺書と思われるものは、現場となった自宅リビングのテーブルの上に手書きで残されていた。それは三人の連名によるものだった。短く、『生きる理由がないので、死ぬことにしました』とだけ告げられていた。

その見慣れた妻の筆跡に、まだ見ぬ妻の片鱗がちらついているようにも見えた。死ぬまで森山にも打ち明けることのできなかった、とんでもない悩みを、ずっと抱えていたのではないか。たとえば、自ら浮気をしたせいで罪悪感に潰れたとか、実は難病を発症していて健康上の不安から自暴自棄になったとか。

いろいろな想像をひろげていくたびに、嘘つけ、と森山は自分で思う。

どうも、そりゃ、都合のいい考え方だ。森山の思考は、常に自己弁護的に組み立てられている。そのことを自覚しているからこそ、逃げようとする姑息な自分をいちいち捕まえて取り調べなければいけない。

 いいか、俺。森山は、自分に言い聞かせる。だいいち、妻だけでなく娘ふたりも首を吊っている。であれば、妻ひとりの自殺の動機を調べたって意味がない。その動機はおそらく、妻と娘ふたりによって共有されていたはずだ。

 動機はなんだ。そんなの、幼稚園児のオママゴトみたいな問いだ。考えるまでもなく明らかである。

 つまり――俺だろ。そう思うたびに、森山は、ぞくりと全身に寒気を感じた。鋭いナイフの切っ先を首に突き付けられたような、騒がしい気分になる。

 妻が死んだのも、娘ふたりが死んだのも、彼らの遺書に記されていたのも、それは全部、森山自身を示している。

 そうだろ。そうなんだろ。森山は、亡き人となった気配に尋ねる。返答はないのに、確信だけ強まっていく。

 彼ら三人が望んでいたのはきっと、現実の束縛からの解放だ。彼らが生きていたときはずっと、彼らの目の前には森山という現実が立ち塞がっていた。

この野郎は、仕事のことばかり考える堅物だ。家庭のことに聞く耳なんて少しも持ってなかった。常に社内の空気を読むことに尽力し、さまざまな策略を仕掛けることを愉しんでいた。それこそ、生きがいだった。平等製菓という巨大資本をより強力に膨らませるためならば、ありとあらゆる可能性を模索していた。それだけに心血を注いでいた。この野郎が取り組んでいた大きなプロジェクトに比べれば、妻が抱えている鬱憤とか、娘たちが胸に秘めていた小さな悩み事なんて、取るに足りなかった。

こんなの、クソヤロウだ。こんなにも大きくて重たいものに押さえつけられて、居心地がいいわけがない。なにが稼ぐ役割だ。あふれてくるお金を上から目線で分け与えても、余計に苦しくなるだけだろうが。

なぜ、死んだのか、じゃない。なぜ、俺は、彼らを死なせたのか。

さまざまな論理体系を用いて自分を責めたって、森山には、贖罪をする気は湧いてこなかった。もうすでに十分すぎるほどだった。彼らへの愚行に対する森山の罪は、すでに彼らの死によって罰せられたのだから。

いまさら、プライドを捨てるなんて、笑える。生きている妻の前ではずっと意地を張っていたのに、世界から妻が消えた途端に自分の非を認めたりするなど。これもこれで、ずいぶんと都合のいい話だ。

 こういう都合のいい話に気づかぬままで偉そうに生きているうちが、つまり、花ってわけだ。いちいち気づくようになったら、自分のことなんて信じられなくなる。自分が歩んできた道に隠された欺瞞や、現在進行形で続いている偽証の数々を自ら知りながら生きていたって、この身を滅ぼすだけ。

 どうやら、現在、絶賛、滅ぼされ中みたいだ。

森山は、泣けばいいのか、笑えばいいのか、もはや、わからない。笑えるくらいにバカげた現実であることに間違いはないが、笑えるくらいにバカげていること自体が笑えない。巨大な鉄の塊に押しつぶされて息ができなくなるみたいな、こんな息苦しい気持ちになったことはない。

 俺は、いったい、なにをしてきた。どんな罪に目を瞑り、どのように身勝手に生きてきたのか。

 どろどろとした問いを深めているうちに、ようやく、救済が降ってきた。もうすぐ還暦を迎えるオジサンがブルーに染まって、どうすんの。一言だけ、愛の薄笑いを自分にプレゼントして、立ち直るというより、抜け出す。

 ここは、荒川区内にあるマンションの一室。妻と別居するときに契約したまま、現在も、こちらが森山の生活拠点になっている。

不必要なほどに広々としたリビングの窓際には、三人ぶんの骨壺が置かれている。どれも豪勢で高価なものにした。それくらいしか、できなかった。それ以上には、なにもしてあげられない。

森山は、奥歯を噛みしめ、三つの骨壺から目を離した。室内を彷徨った視線は、最終的に大型テレビに向けられた。少しくらい寂しさを解消できるのではないかと購入したが、とくに好きな番組もない。

深い夜の孤独に吞まれないように、森山は、リモコンを手に取った。とりあえず、テレビをつけて、ザッピングし、気になる番組を見つけて、リモコンを手放す。

見たこともないタレントの家族紹介みたいなコーナーかと思ったら、それよりずっとバラエティー色は薄かった。なにか特筆すべき成果を挙げた人物に寄り添うドキュメンタリーみたいなものかもしれない。家族と触れ合うシーンが終わると、急に、どこか洋風のカフェ店内のシーンへと移った。

そこには、ドキュメンタリーの対象になっているだろう男の顔が、ドアップで映し出されている。

やけに面の整った三〇代くらいのその男は、自分に浸りすぎず、同時に乾きすぎない、バランスの取れた安定感で言葉を紡いでいく。

『どんなに忙しくても、家族との時間は大切にするようにしているんです。なにも話さなくなっちゃったら、悪ければ、それぞれの役割を貫徹することだけを目標にした機械みたいな家庭になっちゃうんじゃないか、とね』

ぐさっと鋭く刺さったまま、反論の余地もない。森山は、すぐさまテレビを消したが、激しい残響を消すことはできなかった。

 ――それぞれの役割を貫徹することだけを目標にした機械みたいな家庭になっちゃうんじゃないか、とね。

 その最後通牒のようなセリフは、有象無象の悪意よりずっと恐ろしい。まるで、合法的な死刑だ。ずるずると引きずりこまれていく。また嫌な部屋に戻っていく。どうやって入るのか、どうやって出るのか、自分でもわからないままに、あの部屋の中へ。注射を嫌がる子供みたいに、無様に叫びたい。それくらい嫌だ。なんでもしてやるから、あそこだけは勘弁してくれ。戻りたくない。 

 まだ、生きたいですか?

 吸い込まれていく部屋の中から、重たい鍵盤のような低い声が聞こえた。それは先生――指揮者だと自称していた謎の男――の声に似ていた。

まだ、生きたいですか?

 また同じ問いだった。現在の森山の思考は、激しく感情に左右されている。頭に浮かんでくる答えが本音なのかは定かではない。そのとき、森山の頭では、はっきりと、『俺の人生は間違っていた』という確信が時限爆弾のように膨らんでいた。


   *


 優しい人として分類される人間をさらに細かく分類するならば、ふたつのタイプに分けることが可能だ。すなわち、優しくて感情的な人と、優しくて冷静な人だ。浦上の経験で言えば、優しいと分類される人の多くは感情的なほうに属し、優しくて冷静な人は非常な希少種である。

 その分類は、ただし、絶対的なものではない。ある誰かが、あるときは前者としてカウントされ、またあるときは後者としてカウントされる。それは主に、その人が目の前にしている相手の属性によって決まる。その人がどんなに優しくても、感情的なつながりのある相手や、境遇が重なる相手に対しては、冷静になれない。

 浦上の持論は、こうだ。たいていの秀でた俳優は人格的にも優れているが、同族に対しては感情的になりやすい。たとえ悩み相談をしても、返ってくるのは感情を含んだ言葉の羅列になるだろう。厳密さに欠け、客観性を失い、現実的な効果は期待できない。悪ければ、逆効果になる。

 ただでさえ、ストレスの多い仕事だ。身近な統計データでも、俳優の精神的不調はそのほかの業界のサラリーマンに比べて割合が高い。

 もしも悩みを抱えているならば、親しい人であれ、俳優として生活をしている人には相談しないほうがいい。

 端的に言えば、優しくて冷静な人に相談するべきだということになる。この条件を現在の浦上の状況に合わせて具体的に解釈するなら、俳優として生活していない人で、かつ、冷静な頭脳に恵まれて一定の優しさを備えている人にこそ、悩みを相談するべきだということになる。

 浦上には、ひとり、絶好の相談相手として頭に浮かんでくる人がいた。その人は俳優として活動したことはないうえ、さまざまな人間に対する理解も深い。一度しか対面していないが、優しい人として分類されることも明らかである。

 それは、何故いきる、だ。

 長きに渡ってホラー作家として活動しているうえ、暴力的な作風のくせに思慮深い表現が多用されているため、なんとなく老成したイメージを抱いていた。『蛙の戯曲』の映画化に際して何故いきると対談することになったとき、浦上はついに、はじめて、何故いきるの実態を知った。

本物は、想像以上に若く、イメージよりずっとコミカルだった。

 なにも個人情報を明かしていないことから、人間嫌いな捻くれた人物ではないかと噂されることも多い。しかし、本物の何故いきるは、むしろ逆だった。気さくで、ユニークで、理知的で、親しみやすかった。たった一時間ほど対談しただけなのに、「気軽に電話でもくださいよ」と、別れ際に声をかけてくれたくらいだ。

 十月も足早に終わりに向かう夜の最中、寝付けないままベッドに横になっているとき、浦上はついに決断した。

墓地のように静かなベッドの上に半身を起こし、暗闇に沈んだ部屋の中、枕もとに置いてあったプライベート用のスマホを手に取る。社会人としてはあるまじき行為だが、アポイントもなしに真夜中に電話をかけた。

耳もとで鳴り響く呼び出し音が、鼓動を速める。

やはり、失礼にもほどがあるよな。簡単に迷いが生じるが、その迷いに対処するための準備も充分にあった。

第一、親しい友人はみな俳優であるから、役に立たない。第二に、所属タレントのためのカウンセリング制度が事務所にはあるが、そこで得られた情報は事務所の上層部に流れているという噂がある。第三に、そうでなくても、カウンセリングの専門家はそもそもアドバイスなどしないらしい。具体的な助言を求めている浦上にとっては、それに頼ることが必ずしも正しい選択とは言えなかった。第四に、イメージ悪化の可能性を考慮すると医療機関において投薬治療はしたくない。

明らかに悪化の一途を辿っている精神状態をどうすればいいのか、その適切な助言ができるのは、きっと何故いきるだけだ。浦上には、そんな強い思いがあった。

呼び出し音に耳を澄ませたまま、どれくらいの時間が経っただろうか。颯爽と呼び出し音が途切れると、うふん、と喉を鳴らす音が聞こえた。

『おひさしぶりです。突然ですが、どのようなご用件で?』

 それは念願の、低くて渋みのある、何故いきるの声だった。どこか懐かしい。待ち望んでいたクリスマスがついにやってきたときのように、気持ちが弾けそうになる。

「こんな夜遅くに、急にごめんなさい。失礼だし、非常識なのは、わかってるんです。それでも、どうか、聞いてほしいんです」

 口がからまりそうになるくらいに口早に、衝動のままに懇願した。強く握りしめたスマホから、肯定的な反応が返ってくることに膨大な期待を寄せている。

 スマホ越しの何故いきるは、適切な間を置いたのち、『構いませんよ。というか、待ってました』となめらかな発音で答えた。どうやら、浦上の期待は裏切られることなく、無駄にはならなかったようだ。

「ありがとうございます。少しだけ時間を頂戴し、ちょっとだけ相談させてください。切羽詰まってるんです。本当に、非常識なのはわかってます。本当に、本当に、ありがとうございます」

 精いっぱいに感謝を伝えたのち、浦上は、現在の自分に起こっていることについて、適切なエピソードを添えながら打ち明けていった。

事の発端は、つい二か月ほど前の九月の初頭に、『蛙の戯曲』の撮影が始まったことだった。スタジオ内で完結するシーンが多かったこともあり、撮影期間は短く、当初から一か月の予定だった。撮影が始まってからすぐ浦上の精神状態は悪化したが、一か月の辛抱だと言い聞かせてきた。

ところが、違った。この精神的不調は、予定通りに撮影を終えたあとにも、改善される兆しがなかった。それどころか、悪化している。ちょっとしたことで心はぐらりと揺れ、仕事に集中できない。このままでは、仕事の質に影響が出るのも、もはや時間の問題と言って過言ではなかった。

精神状態のジャンルとしては、鬱というより、止めどない興奮だ。『病んでいる』という表現では不適切だ。

あえて言うならば、心が豊かになりすぎているとも言える。

その証拠に、不自然なほどに性欲が強まり、めらめらと闘争心が芽生え、他人のひとつひとつの動作に悪意を読み取り、常に反撃の準備をしている。うっかり気を抜けば、誰かを殴り殺してしまうかもしれない。冗談ではなく、本気で、浦上は自分の行く末を心配しているのだった。

どうすればいいのか、なにも、わからない。

自分で思うに、この精神状態の悪化によって、思考能力が落ちているわけではない。以前と同じようなスペックの高さで物を考えることはできるが、思考可能領域は狭まっているように感じる。思考能力は維持されていても、思考の多様性が著しく制限を受けているような、そんな気がする。

そこでどうしても必要となるのが、やはり、何故いきるという圧倒的に冷静で優しい第三者の存在であった。スマホ越しに浦上の悩みを受け止めた何故いきるは、的確にひとつの提案をした。

『いまの話を聞いている限りですと、どうも、休んだほうがよさそうです』

「活動休止ってわけですか」

『ぶっちゃければ、そうです。人間っていうのは不思議なもので、なにも特別なことはしなくても、ゆっくりと休んだだけで、解決することも多い』

 それについては、具体的に考えたことはなかった。浦上は、常に、仕事をやりきることを前提にしていた。

たしかに、学校やバイトなら、そんな余裕に満ちた構え方でいいのかもしれない。だけれどもね、と浦上は思った。不幸にも、現在の浦上の置かれた状況では同じようにはいかない。浦上の身勝手な判断によって影響を受けるものが、多すぎて、大きすぎる。そのことを考えると、ふたつ返事で了解できるものではなかった。

「その決断は、なかなか俺には……」

『迷惑がかかるんじゃないか、とかじゃないようですね。自分の評価が下がることが怖いだけでしょ?』

 びくり、とした。少しの見誤りもなく心の内を見抜いたような言葉に、浦上は、自身の本音を突きつけられる。ソフトクリームのように柔らかい何故いきるの声には、なにも根拠がないくせに、なぜか説得力があった。

『どのような経緯で追い詰められたのだとしても、その背景には、俳優という仕事の特殊さが潜んでいる気がします。俳優でも、経営者でも、スポーツ選手でも、世間の注目を集める仕事はしんどいものです。少しくらいは休んだほうがいい。たとえば、ゆっくりと路線バスの旅でもしたりして』

「……路線バスの旅?」

 その具体的な提案はいささかジョーク染みていたが、考え方としては、あながち正論なのかもしれない。

言われてみれば当然のアドバイスでもあるな、と浦上は思った。眠たいときは寝ればいいし、空腹なときは食べればいい。ヤリたいときはヤレばいい。周りのために犠牲になったって、ほんのちょっと八方美人になれるだけ。自分の評価は上がったとしても、人生の質は下がっているかもしれない。

もっと言えば、これは幼稚園児でも理解できてしまう欲求と行動の整合的な関係についての問題だ。休みたいなら休めばいい。どこにも穴のない正論である。

そうやって死角に沈んでいた前提を浦上が掘り返しているうちに、何故いきるは、さらに言葉を続けた。

『それとまあ、これはある意味、繰りかえされるパターンとは関係のない質問で、このタイミングが適切だと思われるから質問するだけなのですが、ぶっちゃけたところ、まだ、生きたいですか?』

 あまりに唐突で、文脈から浮遊していた。

「なんですか。よくわかんないんですけど」

『とりあえず、答えてください』

 何故いきるの低い声に、かすかに力が入る。ちょっとした苛立ちを嚙みつぶしたかのようにも聞こえた。

『どうせ、あなたの人生は映画とともに終わるわけですから、こうやって訊ねる機会も残り僅かなんです。まだ、生きたいですか?』

 なにを言っているのか、ぜんぜん、わからない。せっかく対談のときに親しくなれたはずなのに、またもや、何故いきるという覆面作家の輪郭が崩れていく。浦上は、わからないままに、「死ぬ予定はないですけど」と答えていた。


   第七章 重市月


 十一月十二日の夜、東京駅丸の内北口のバスターミナルの隅に、千尋は並んでいる。八時十三分発の『荒川土手行き』を待っているところだ。

 夜の八時を過ぎた現在では、東京の空には暗幕が垂れている。十一月にもなれば、さすがに残暑も抜けきった。巨大な提灯のように東京駅が淡い光を放つのを横目に、長袖のジャージでバスを待つのも、どこか愉快だ。

千尋は、左腕を持ち上げ、百均で買ったショッキングピンクの腕時計に目を落とした。『20:03』と表示されている。まだ、バスが来るまで一〇分ほどある。現在の千尋は、これくらいの無駄があったほうがむしろ気楽だと感じていた。日々の生活にゆとりが出てきたことは間違いない。

書店バイトが終わったあとにまっすぐ帰宅していれば、いまごろ、自宅でゆっくりと過ごしていたところだっただろう。千尋は、そうはしなかった。

最終面接を終えて十一月を迎えたあとも、千尋は、それまでの慣例であったカラオケ通いをやめなかった。

定時で東京駅内の書店でのバイトを終えると、無意識のうちに、八重洲口方面の通い詰めたカラオケに足が向かう。そこで、ユーチューブやスポティファイで流行っている曲を歌ったり、友達と一緒のときは歌えるはずのない――町井にも引かれそうな――毒々しい曲を叫んだりして、ヒトカラを満喫する。それから、いつも同じ時間のバスで、祖母の住んでいたマンションまで帰る。

それはもちろん、八時十三分発の『荒川土手行き』だ。

まるで、長い道のりを走りきってゴールテープを切ったその瞬間が、延々と続いているような生活だった。すべてを終えた。あとは結果を待つだけの、清々しい休息期間に入っているとでも言えばいいのか。

千尋は、腕時計から顔を上げた。そのバス停には、千尋と同じように八時十三分発の『荒川土手行き』を待っている人が千尋の前に、ふたりいた。

どちらも、よく見かける顔である。

当然のように、彼らとは言葉を交わしたこともない。いろいろな条件が重なった結果としてバスに乗る時間がだいたい千尋と同じなのだろう。千尋は、バス停に佇んだまま、なにげなく、ふたつの背中を見つめる。

千尋のすぐ前に並んでいるのは、岩のように大きな背中をしたスーツ姿の男だ。堂々とした態度が、とても板についている。もしも千尋が刑事ドラマのキャスティングを任されたとしたら、この男を警視総監の役として採用してもいい。

この男と一緒になる頻度は、なかなか高い気がする。仕事終わりに東京駅の地下街でも散策してからバスで帰宅しているといったところだろうか。こんな東京のど真ん中で働いているのだから、きっと、偉い人だろう。死んだような顔をしていることが多いから、勤め先はブラック企業かもしれない。

もうひとりは、千尋より少し年上くらいの女性だ。化粧が濃いわけでもないのに、どこかケバケバしい印象だ。

一度だけ、バス車内で前方の席に座っていた彼女が肩を揺らしながら泣いているのを見たことがある。なにか、辛いことがあったのだろうか。公共の場で涙を流すなどということは相当な理由がなければ起こりえない。

千尋とて、彼らふたりを達観し、他人事にできるような立場にはいない。そのことを強く千尋は自覚している。地元で築いた人生計画を捨てて以来、いまだ千尋の人生は安定した場所に辿りついていなかった。

現在はちょうど、束の間の平穏の中にいる、とでも言えば正しいだろう。

もしも最終面接の結果が思わしくなければ、両親に土下座をして実家に戻る。もしも受かっていれば、あとは、がむしゃらに突き進むだけだ。

亡き祖母に対する複雑な思いも、どうしようもなく乱れやすいこの心も、わたしのすべてを引っさげて演技にぶつけてやる。最近のわたしは意気がいいな、と千尋自身も思えるくらいだった。

妖しく光る東京駅に対して目を伏せ、手元のスマホに目を落とす。千尋がニュースアプリで開いたのは、数日前に世間に衝撃を与えた自殺のニュース記事だ。千尋も信じがたいままで、気持ちはいまだに整理できていない。

 記事のタイトルは、『何故いきる、死去』だ。そう、千尋が敬愛してやまないホラー作家、何故いきるが自殺した。

どんな方法で死んだのか、明かされていない。死んでさえ、何故いきるがどんな人間だったのかについても、公開されなかった。彼の遺書には大きく、とてつもなく単純な五つの文字が並んでいたらしい。

一言の解説もなく、『何故いきる』と。

その彼のペンネームは、生きる意味はなんだ、というような大袈裟な問いではないのだろう、と千尋は感じている。生きる意味など、なくてもいい。ただ、生きつづけることに価値を見出したい。理屈で固められた人生の意味よりずっと、感情的に訴えてくる価値を。何故いきるの描く残酷な作品世界では、そのような悩みを抱えたキャラクターが頻繁に登場していた。

もしも、人生のどこかで生死の岐路に立たされたならば、自信を持って生きるという選択をしたい。

皮肉なことに、何故いきるには、それができなかった。

きっと、その美談の限界にも気が付いていたのだ。生きている人がみんな活き活きとしているわけではない。だからこそ、生きつづけることに執着し、死ぬことを恐れ、あわよくば永遠になりたいとさえ願うエゴは、いくら愛を注いでも、いくらお金をかけても、なかなか手に入らないほどに貴重だ。

子供のときに抱いていた幼い夢も現実の前に打ち砕かれて、いつからか、しんどい、しんどい、と漏らしながら生きている。この現実に妥協する諦念が――誰もが行き着くところへ進んでいく勇気――が、千尋にはなかった。おそらく、何故いきるにもなかった。人生に価値がないことを受け入れられずに死んだのだろう。

浦上の活躍に刺激されることなく、あのまま神奈川の工場で働きつづけていたら、千尋だって、いまごろ、生きることに価値など見出していなかった。夢を追うことで生きることの価値が確保できた。

これは不幸なことなのか、それとも幸せなことなのか。そんなの、わからないし、わかりたくもない。

でも、いまはすごく、楽しい。この楽しさは、一時的な気晴らしとかじゃない。なにか刺激的なことで気持ちを紛らわしているわけでもない。この時間を過ごすためならば、心の底から生きたいと思える。

たとえば、ぐるぐると同じことを繰りかえしている人類の演奏の中で、指揮者のタクトが自分に向けられるときがあるなら、そのときのためだけに生きたっていい。その瞬間に思いを馳せるだけで、それ以外の時間にさえ価値が生まれる。であるなら、もはや、その瞬間さえ訪れなくてもいい。その瞬間を望んでいるだけでいい。人間は現実だけを生きているわけじゃない。

人生の中のほとんどの時間を、現実じゃないところに使う人生があってもいいじゃないか。なにがダメだというのか。

闘志に燃えてくる千尋の、その右手に握られたスマホが、急に震えだした。そのディスプレイを見ると、どうやら、見知らぬ電話番号からの着信のようだ。呼吸を落ち着かせて、千尋は、電話に出た。

「はい、神野です」

『突然のお電話、失礼します。こちら、【イーストマインド】の次世代俳優発掘オーディション係でございます』

 どくん、と心臓が震えた。なにも言葉が見つからない。白昼夢のように不確かでありながら同時に鋼のように堅い確信が、唐突に芽生えていく。力強く老いている女性の声は、『神野千尋さんで間違いないですね』と続ける。

「……はい。そうです」

『先日は、最終面接にお越しいただき、誠にありがとうございました。その件について単刀直入に申し上げますが、今回、厳正な審査の結果――』

 神野千尋さんを、合格とさせていただきます。その言葉が耳から入り、脳に達し、全身を駆け巡った。千尋の胸は膨らんで弾けて、無数のパーティークラッカーが盛大な破裂音とともに飛び出した。


   *


 今日は少し早く仕事が終わった。オフィスビルから徒歩数分の東京駅前のバス停に辿りついたときには、珍しくも、まだ先客がいなかった。

杉田が並び始めて数分が経過した現在も、『荒川土手行き』のバスの到着時間まで余裕を残している。バス待ちの小さな列の先頭で杉田がスマホをいじっていると、ふいに、後方から若い女の声が聞こえてきた。

振りかえれば、ふたつ後ろに並んでいるその女の顔、知っている。帰りのバスでよく一緒になる女だ。見た目から判断すれば、杉田よりも年下だろう。誰かから電話がかかってきたのか、どこか緊張した面持ちで、スマホを耳にあてている。

いつも、杉田が田端駅前でバスを降車するまで、バス車内ではずっとスマホを片手に動画を見ていることが多い。知っていることは、それくらい。どんな種類の動画を視聴しているのかすら、詳しくは知らなかった。

はじめのうちは潜めるような声を出してマナーを守っていたその女だが、厄介なことに途中から、箍が外れたかのように声に熱を込めるようになった。細い両手でスマホを握りしめて、「本当ですか」とか、「ありがとうございます」とか、脳みそが融けたように同じ言葉を繰りかえしている。

 有頂天を隠しきれていない様子からすれば、おそらく、告白していた年上男性からOKの返事をもらったのだろう。

 応援する気にはなれない。楽しいのはいまだけだよ、と宣告したくなっている杉田だ。幸せに浸るのは構わないが、世の中には浸るための幸せさえ保有していない人もいるのだということを、しっかりと頭の中に入れておいてもらいたい。それを頭の中で嚙み砕いていれば、人前でむやみに調子に乗ったりすることはないだろうに。杉田は、一言くらい、毒のある言葉をかけてやりたかった。

 でも、そんなの、ムダ、ムダ。わかりあえないからこそ、いろいろなところで人間は争いあうのだから。煩い女の声から意識を逸らそうとして、杉田は、あっちへこっちへ適当に視線を動かした。

 この日本の中心から見えるのは、背の高いビルと、コンクリートが敷き詰められた地面だけ。かろうじて自然のままに残されていた空が暗くなった現在では、いっそう、まだ地球にいるのだという実感が薄い。

 ここは、いったい、どこなのか。

 もしかしたら、あっちのビルにも、こっちのビルにも、体毛のなくなった真っ白い肌の宇宙人がいるかもしれない。この分厚い地面の下には、パープルのモグラがいるかもしれないし、一メートル級のゴキブリが這っているかもしれない。本当にそうだったら、それはもう傑作だ。

 ……笑えない。そんな意味不明なユーモアで彩っても、どうも、面白がれる精神状態じゃないようだ。

なんというか、もっと破壊的で、論理的で、説得力のある恐ろしい理論を、世界のことはなにも知りません、みたいな顔をしている若者の眼前に突きつけてやりたい。

電話を終えたあとも目を輝かせているショートヘアの女を横目で睨んでから、杉田は目を瞑った。瞼の裏に焼きついているその女の顔に対して、人生の先輩として、適切な講義を展開していく。

まずなによりも、人間というものが善意や共感を備えていることを否定はできない。多くの人間は優しい。適度な助け合いによって社会が成立しているのも事実だ。実際、タッちゃんも、あの日、目の前で消えそうになった命の炎を消さないように全力で動いていた。そこに噓偽りを描くほど、杉田の心は腐っていない。

ただ見落としてはいけないのは、人間にはさまざまな優先順位を恣意的に決定していく癖があることだ。多くの場合、自分自身を最優先にして行動するためのプログラムが遺伝子に刻み込まれている。

善意や共感は言わば、オプションだ。個々人の行動原理の柱を形作っているのは、自分のためという大義名分である。

都合のいい女に告白されたからとりあえずOKしておこうと思うのも、その女が金を貢いでくれるなら是非もらっておこうと思うのも、性的な興味は湧いてこないからアセクシャルだということにしておこうと思うのも、それは全部、当たり前のこと。人間の道から外れたわけじゃない。たまたまそのとき、他者を大切に扱うというオプションに手を伸ばさなかっただけの、どこにでもいるフツウの人間。機会と気分さえ整っていれば、他者のために行動するというオプションに手を伸ばしていたかもしれない。実際、タッちゃんは、人並み以上に善人だった。

結局、悪魔なんて、いない。わたしを地獄まで突き落とした人も、わたしと同じ形をしている人間。

そんなこと、知らないままで生きていたほうが幸せだったのにね。杉田だって、もっと楽観的な思いを抱いていたかった。だからこそ、現在の杉田は、楽観的に生きているように見える人を見るだけで激しい殺意が湧く。

『お待たせいたしました。荒川土手行きでございます』

 急にノイズの混じった男性の声がした。目を開くと、すぐ目の前に都営バスの乗車口が口を開いている。


   *


 ようやくバスがやってきた。目の前に並んでいた背中の細い女が乗車口から飲み込まれていくのを虚ろに見つめ、森山も、あとに続いた。パッとしない制服の運転手が監視の目を光らせる中、百円玉を二枚、運賃箱に投入する。森山は、目を伏せたまま、運転手に頭を下げ、車両内の奥へと足を進める。

 ちょっとした人目が気になるほど、神経が細くなったりはしていない。そう心の中で言い訳をしながら、気が付くと、いちばん後部の座席まで進んでいた。もう後ろのない座席に尻を乗せて、車窓に目を動かす。

 どんよりと雲が垂れこめているせいで、余計に外は暗い。

とはいえ、そこにあるのは日本でいちばん巨大な駅だ。駅前にひろがっているコンクリの広場にはまだ人がいる。自撮りをしている若者とか、ウエディングドレスを身に着けた女性とか、ベンチに座ったままスマホを見つめているスーツの男とか、どれも嘘くさくて仕方がない。なにかのドラマに出てくるエキストラみたいだ。

 だけど、彼らはべつに問題じゃない。だって、この俺は、エキストラにも加えてもらえないディスプレイの外の人間なのだから。

森山は、車窓から目を逸らし、ふとももに置かれた自分の両手に目を落とした。不潔に毛深くて、不健康に太くて、致命的にシワの多い手だ。

この両手は、さまざまなジャンルの優れた人たちと数えきれないほど握手を交わしてきたのに、ふたりの娘に触れることはほとんどなかった。九月の末、ひさしぶりに触った娘ふたりの手はどちらも、死んだように冷たかった。

ありえないことに本当に死んでいたのだから、それはもはや嫌な想像などではなく、ありのままの現実だった。

――俺はもはや人殺しでしかない。

その考えが森山の心の中を一色に染めるなら、それはそれで絶望的な状況だろう。その状況と比較すれば少しは恵まれているのかもしれないが、森山は、いまだに自分は人殺しではないと信じたがっている。

どうにか裁いてほしいと訴える激情と、いまだに自分を擁護しようとする弱さがぶつかりあい、複雑に絡まりあって、頑丈なはずの精神が内側から崩れていく。日々、目につく快楽の数々にありつけないことに欲求不満が膨らんでいっても、重たい罪悪感に押しつぶされて、すべての原因を自分に帰属させる。自業自得の論理が生活のいたるところで応用され、森山を押さえつける正当な暴力が日に日に増していく。

ここ最近は、せめてもの神の慈悲によって残されていた逃げ道がどんどん閉ざされているように感じられる。

このままだと、どうなるんだろう。わからないが、この先には、絶対に楽しいものなど待っていない。

森山は、ふらりと頭を上げ、安っぽい宣伝ばかり流れている前方のディスプレイに目を向けた。少し眺めていると、あの例のCMが始まった。

黒い背景に唐突に浮かんできたのは、『わたし=あなた』という白抜きの文字だ。こちらに向かって立体的に流れてきて、画面を飛び越えて、後方に失せていく。続けて『わたし→苦しい』という文字が、さらに『わたし→飢えている』という文字、それだけでなく『わたし→死んだ』という文字まで、次々と浮かんでくる。『わたし=あなた ならば』という表現のあと、最後に浮かんできたのは、『あなた→苦しく、飢えていて、死ぬ』という文字だった。

特報CMなので、それだけで終わってもよいような気もしたが、もうちょっと情報を解禁しているようである。

壊れたテレビのようにディスプレイが不穏に歪んだかと思うと、今度は、無人の森の中で血まみれになった浦上の姿が映し出された。ナイフを握ったままの横顔で、ぽつりと、なにかをつぶやく。ディスプレイの下端には、太い黒枠に囲まれた白い文字の字幕で、『俺が死ぬなら、お前も死ね』と表示された。

その瞬間、パッとディスプレイが黒くなり、『来春、公開』という、またもや白抜きの文字が大きく中心に映し出された。ディスプレイの隅のほうに申し訳程度に小さく、『蛙の戯曲』とある。

それはもちろん、来春に公開が予定されている映画、『蛙の戯曲』の特報CMである。数日前から、いろいろなところで出回るようになった。

その特報CMの冒頭で表示される幼稚な文字の羅列は、単純すぎるあまり、かえって深そうにも見える。『蛙の戯曲』の原作にも登場しているらしい。森山は知らないが、作品のテーマと絡んでいるのかもしれない。

しかし、これじゃ、ただのサイコホラーだな、と森山はあらためて思った。原作を読んでいないので、詳しくは知らない。

浦上の所属事務所からの詳細な説明によれば、少し残酷な表現のあるラブストーリーだということだった。

内容としては、連続殺人鬼だった主人公がとある少女に純粋な恋心を寄せ、それまでの過ちを悔いて真っ当に更生しようとする物語だという。

当然、簡単には更生できないからこそ、物語になる。「人間の底が知れた」と豪語していた主人公にとっては、自分は汚いものだった。同じように他者さえも汚いものであるという思想まで持っていた。それゆえ、主人公の連続殺人は一種の、抽象的な自殺の一形態であるらしい。

 さきほどの特報にも出てきていた『わたし=あなた』や『あなた→苦しく、飢えていて、死ぬ』などの表現は、その思想と関連しているのであろう。それくらいの推論なら、あまり小説を読まない森山にとっても容易だ。

推し量るに、自分を殺害することによって達成できるのは、自分の遺伝子を途絶させることだけである。それだけでは十分ではなかった。より抽象的な自殺を達成するためには、必然的に、近代社会が生み出した個々人の生命の権利を剝奪するしかなかった。そこにはある意味、主人公なりの正義があったのである。

かといって、主人公が純粋な思想犯だったと言いきれないことも明らかである。

映画の主演を務めた浦上直斗へのインタビュー記事のいくつかに目を通してみると、あくまでも浦上本人は、殺人によって激しく性的な興奮を覚えるような人物像を想定しているようだった。情動犯とでも言えばいいのか――。

いろいろ考えていると、こんがらがってきた。もう、いい。ついに考えるのに飽きた森山は、正々堂々と、思考を放棄した。

作品のメッセージに合わせたキャラクター設定であれ、現実にも存在する殺人鬼というリアリティーを追求するためのキャラクター設定であれ、どっちでも構わない。本当に家族が三人も自殺している森山には、くだらないことによくもまあ無駄に時間を使えるものだな、と達観したくなる気持ちがあった。

クリエイターなんて、いつも嘘つきだ。なにも知らないくせに、自分が見てきた地獄がすべてだと思い込んでいる。

映画も、小説も、音楽だって、表現というのはどれも、それぞれの方法を駆使して、どれだけ自分が美化したいものを美化できるかという、果てしなく無意味な――あるいは、それこそが正義なのか――マウントの取り合いでしかない。

……こんなこと言ったら、ビジネスパートナーとして欠かせない浦上とも、喧嘩になるだろう。来月にも公開が予定されている平等製菓と『蛙の戯曲』とのタイアップCMも頓挫するに違いない。森山は、笑いそうになって、そのまま笑った。うまく笑えないままの気持ちの悪い笑顔が、夜の東京を走りだしたバスの車窓に映っていた。


   *


 忌々しい本社をあとにすると、まっすぐとバス停まで逃げた。薄暗い路地で数分ほど直立姿勢を維持したのち、ようやく到着した『荒川土手行き』に乗車する。車内をぐるりと見渡してみたところ、運転手を除いて、四人の乗客がいる。

 そのうち三人は、よく見かける人たちだった。どこか貧乏くさいショートヘアの若い女と、それよりちょっと年上くらいの容姿端麗な女。それにくわえ、いちばん後部の座席にどんと構えているのは、太り気味の老いた男。もうそろそろ定年ではないだろうか、と思えるくらいの印象だ。

 残りのひとりは、見たことがない。運転席のすぐ後ろの座席――ちょうどディスプレイの真下――に背筋を伸ばしたままで座っている。金髪アフロの男だ。ちらっと横顔を見た限りでは、マスクをしているせいで具体的な顔のつくりがわからない。若くて顔や目の形が整っているのは、はっきりと見えた。アフロのせいで評価は下がるものの、かなりの美男子であるようだ。

 バスの後方には若い女がふたりいて近づきがたいし、陰気な年寄りにはべつの意味で近づきたくないから、金髪アフロのふたつ後ろの座席を選んだ。

マイカーの座席よりは安物である。それほどフィット感もなく、腰には悪そうだ。そのような質の低さにおいて難点はあるが、運転しなくていいのは助かる。肉体以上に、頭が休まるのだった。

ようやく一息という気分で、一時的な快適さに浸ることはできた。残念なことに、その愉悦は長くは続かなかった。全身の力が抜けていくにつれて、思い出したかのように、瀬田の胸に浮かんでくる嫌な気持ちがあった。

 ――まったくもって、あれはセクハラではないのにな。

 いまだ、瀬田は納得できないままである。たしかに、十月末、ふたりきりで閉じ込められたエレベーターの籠室の中で年下の女性社員がお漏らしに及び、その被害が拡大するのを防ぐために彼女の陰部にハンカチ越しに触れたことは事実である。

 その事実そのものを否定するつもりはないし、現に否定などしていない。人事部による取り調べにおいても、それは事実だと瀬田は認めている。

そもそも、あの足立とかいう忌まわしい元凶が人事部にセクハラだと通報した段階で、エレベーター内で当時起動していた監視カメラの録画映像は確保された。その映像には、生々しいほど鮮明に、瀬田が足立の陰部に触るところが映っている。

問題となるのは、事実関係ではなく、むしろ、明らかにもほどがあるその事実を前提としたうえでの、解釈のすれ違いだった。

あのエレベーターの惨事の翌日から欠勤しているという足立は、全面的に、「あれはセクハラだ」と主張しているらしい。

一方で、瀬田は、「床にあふれてくる尿を止めるための対処であり、性的な感情による行為ではない」と、ありのままの主張をしている。

実際のところ、それが真実だ。瀬田は熟女好きであるから、年下の女性に性的な興味など湧くはずもない。あのときだって、触りたくて触ったわけではない。このような主張をするとそれこそセクハラになるかもしれないので我慢しているが、どちらかといえば、興味もない女性器に触れるのは不快だった。

現在のところ、暫定的な人事部の判断では、瀬田に対する具体的な処分はまだなにも決まっていない。

さすがは新聞社というわけだ。人事部のほうも、ひどく感情的で先入観に満ちた判断はしなかった。たしかに瀬田の主張にも一理あり、ただちにセクハラだとは判断できず、調査と審議のための時間を要する、と。

会社での立ち位置を気にしたのか、警察や支援団体などの会社外部の相談窓口に足立が通報しなかったのも、不幸中の幸いだったと言えるだろう。

しかし、である。だからといって、なにも気にせずに悠長にしていられるような立場でないのもまた明らかである。

人事部の対応によっては外部にも通報できるように、証拠映像は足立自身も確保しているというのだ。たとえ人事部が瀬田に都合のいい最終判断を下したとしても、依然に極めて危険な状況は維持される。

それだけでなく、すでに社内には瀬田に対する疑惑の目が増えてきている。社内での仕事がひどくストレスフルになったことは否定しようもない。一瞬にして失った信頼の数々を思い出すだけで、頭を掻きむしりたくなる。

ああ、マジかよ、と瀬田は息を漏らした。華やかであり下品でもある広告がいくつか貼られているバスの天井を見上げていると、ここが居酒屋の並んだ通りみたいに見えてくる。バスの揺れは激しい眩暈みたいだ。瀬田は、社会との接触を全面的に拒むような気持ちで、目を瞑る。

――やっぱり、ふつうの感覚を持っている人に生まれていればよかった。

このトラブルを契機にして、瀬田の胸の中に切なる願望が現れるようになった。それまではなんとか社会に紛れていたから、欠落したままの自分もどこかで受け入れていた。自分の欠落――相手の気持ちをあまり理解できないこと――のせいで、こんな事態に巻き込まれることになった。そんな悲惨な現状においては、そのまま自分を好きでいられるわけもなかった。

瀬田とて、誰かを傷つけたくはない。この現状が雄弁に物語っているように、誰かを傷つけたところで得られるものはない。なにも得られないどころか、反対に、大きなものを失うことになる。

足立とは直接に話し合いたいが、あちらが瀬田との接触を拒否している。もはや、一方的に悪の塊にされている。

ただちょっと、わからないだけなのに。瀬田には、弁解したい気持ちもあるし、謝罪したい気持ちもあった。

あのときの瀬田の行動に悪意がなかったことくらいは、理解してほしい。不用意に異性に触ることが厳禁であることも理解していた。おそらく一般人なら、そのようなルールとしての認識以上に、どのように相手を傷つけるのかについても理解できるのだろう。俺にはわからない、というのが瀬田の本音だ。年上の女上司に股間を触られたら歓びしか感じない。いったい、どのように不快で、どのように嫌なのか。どれくらい苦しい気持ちになるのか。わからないから、教えてほしい。そのうえで、その苦しみを感覚的には理解できない人も一定数いるのだという現実を教えたい。

俺たちにはきっと、対話が必要だ。できるかぎり理解したいし、できるかぎり理解してほしい。

ゆっくりとバス車内で目を開くと、瀬田は、カバンからプライベート用のスマホを取り出した。

ホクロ男の提案にもあったように、現代社会の利点はスマホさえ持っていれば膨大な情報にアクセスできることに尽きる。馴染みのあるSNSを開いて、性被害の経験について発信をしているアカウントをいくつか見ていった。

穢されたとか、自分が汚いものになってしまったように感じるとか、街中をろくに歩けなくなったとか、いつまでも涙が止まらないだとか、犯人が当たり前のように生活を続けていることを許せないだとか。

ダメだ。なんで、そんなに傷つくのか、やっぱり、わからない。

知らぬが仏とは言っても、わからないままでいることを現実的に肯定するのは難しい。わかってさえいれば、不用意に足立の股間にも手を伸ばさなかったはずだから。彼らがネットを介して発信したり、表現したりしている生身の声を、生々しいままで受け止めることができない。

そんな自分のことを人間として壊れているように感じる。他者との隔たりも強まり、理解者のいない孤独な世界に吸い込まれていく。

――もしかして、俺って、この世界から死んでいなくなったほうが、ずっと社会に貢献できるのか?

非人道的な――あるいは人道的な――弱気な気持ちが込み上げてくるのもまあ無理はない、と瀬田は自分を理解している。小学生のとき、大怪我をした友達を笑ってしまったあのときから、うすうす気づいていた。

この社会には確実に、存在しているだけで邪魔になる人たちがいて、自分もその一員としてカウントされる。

たしかに、瀬田よりもずっと一般的な人であったとしても、生きるということは誰かを邪魔することではある。見えないところで誰かを搾取し、静かに殺戮し、その血を吸って生きている。だとしても、ふつう、それは見えない。だからこそ目を瞑らなくても済んでいるのに、瀬田の場合、見えるところで現に他人の血が流れている。その殺戮の現場を、一般人たちが睨むように監視している。

 正直、もう、疲れた。これほど神経を削りつづけた結果が、このザマだ。この際、最後の晩餐でもしたくなる。瀬田は、スマホのディスプレイに浮かんでいたSNSを閉じると、熟女系デリヘルの予約サイトを開いた。


   *


 ひさしぶりに都営バスを選んだことに、特筆すべき理由はなかった。ちょっと前にタクシーに乗ったときに嫌な体験をしたことも、何故いきるに電話で相談したときに路線バスの旅を勧められたことも、あまり関係ない。いつもどおりタクシーでもよかったし、電車でもべつに構わなかった。

あえて言えば、ほんのちょっとした気分とでも言える。

 気分のままの浦上は今日も、一般的な不織布マスクで顔を隠している。それだけでは心許なく、ボリュームのある金髪アフロを被って変装もしていた。念には念をというわけでもない。マスクだけでは確実にバレる。金髪アフロのような派手な変装であれば、目立ちはするものの、変人だなという先入観を与えられるため、若手実力派俳優の浦上直斗だとは気づかれにくい。

これまた理由なき気分によって、浦上はいま、バス車内のいちばん前部の座席――運転席のすぐ背後――に陣取っている。バスに乗車するときは真ん中あたりの座席を選ぶことが多かったが、今日はなにか変化を求めていたのかもしれない。

浦上がひとり暮らしをしている自宅へと、『荒川土手行き』は近づいていく。

その座席から見上げたところには、小型のディスプレイがあった。いくつかの宣伝CMとニュース速報がループしている。その中には、『蛙の戯曲』の特報CMもあった。

もちろん、そこには浦上自身の姿がなかなかサマになっている連続殺人鬼の顔をして登場していた。

我ながら、画になる顔だな、と感心している。このまま、うまく年老いてほしいが、今後どうなるかは定かではない。いまのうちにこの顔を利用し、いろいろな作品の中で適切に活用したい。そんな欲望が湧いてくるのは避けがたい。

だからこそ、現在の自分の状況はすごくもどかしいものだった。

 活動休止を発表してから、およそ二週間くらいだろうか。結果として言えば、この活動休止は逆効果をもたらしたようである。ひたすら怠惰に過ごしたところで劣等感と無力感が膨らんで、心の中は余計に騒がしくなった。無秩序な破壊衝動みたいなものも増大している気がする。

考えてみれば、浦上は、生まれたときからずっと、なにかしらの情熱によって常に動いていたいタイプだった。休んだだけで解決するような気持ちなんて、そんなの情熱と呼ぶのもおこがましい。要するに、情熱に燃えた浦上にとっては、活躍することこそがいちばんの休養だったわけだ。

この経験を通して自分に対する理解は深まったが、いまにも暴れそうな心を悪化させたことは否定できない。

このままでは本当に誰かを殴り殺してしまいそうだ。そろそろプライドを捨てて精神科に向かうべきかもしれない……などと浦上が次の手段を模索しているうちに、昨晩、事務所から電話がかかってきた。

ついに編集作業が終了し、ようやく完成した『蛙の戯曲』を、限られた関係者だけを招いて先行上映するので、そこに参加してはどうか、ということだった。喜んで行きます、と浦上は即断した。

そういうわけで今夕、都内某所の大型シアタールームをひとつ貸し切って秘密裏に実施された『蛙の戯曲』の上映会に、浦上も参加した。そこではじめて、『蛙の戯曲』の完成版を観た。

ぐんぐんと込み上げてくる歓びに、震えずにはいられなかった。ずっと懸念していたヒロインのキャスティングミスはそれほど気にならず、ミコさんの演技は思っていたよりも美しかった。彼女を前にして葛藤を強めていく主人公の心の揺らぎも、繊細に表現されているように感じる。公開を待たずして原作者の何故いきるが自死したことが深く深く悔やまれるほど、芸術的な仕上がりだった。

……だというのに、どうしたわけか。その満足感に浸っていたはずの帰りのバスの中、いつからか、浦上の心の重量が増している。

車窓を見ればやけに陰気な街で、すっかり夜も深まっていた。郊外へと進んでいくバスには、得体のしれない不気味な空気が充満している。

見上げたところにあるディスプレイでは、『蛙の戯曲』の特報CM以外にも、たとえばストッキングの宣伝CMなども繰りかえし流れている。それは性的な映像にはならないように画角や画質が工夫されていたが、大胆に太腿を露出した映像を前に、激しい胸の高鳴りを感じずにはいられない。

一言で本質を突こうと思えば容易だ。つまるところ、性欲が強すぎる。それが心を重くしている要因の大部分だ。

浦上の持論としては、男性――すなわち浦上直斗――における性欲の高まりは精神状態と身体状況の警告だ。浦上の経験上、性欲が強まっているときは、だいたい、いつも、肉体的にも精神的にも疲弊していた。

きっと『蛙の戯曲』の撮影時に溜まっていった疲労が抜けきっておらず、今回の活動休止期間を通して、逆にさらなる疲労が溜まっていく結果になっている。それは振り払いがたいほどの破壊衝動と連携しており、その不快感は計り知れない。

誰でもいいから、ベッドに押したおして抱きしめたい。それさえ叶えば、相手の気持ちなど、どうでもいい。

そんな身勝手な、思春期のときすら到達しなかった領域に、足を踏み入れている。わりと長く付き合っていた彼女に数か月前に浮気されて以来、そういえば浦上は、誰とも性的な接触に及んでいなかった。

当然、デリヘルやソープなどの性風俗店で欲を解消することは、常識人でありたいという他の欲によって全面的に却下されている。

かろうじて抑え込むことができるのは、浦上に高度な理性が存在するからだ。単純な損得計算は十分にできる。身体的に力の強い男性が一方的に女性に行為を強要することの卑劣さと傲慢さは理解しているし、性をもてあそばれることによって被害者がどれほど傷を負うのか、情緒的に想像もできる。

ただし、気を抜けば、どうなるものか――。正直、どこまで理性で対処できるか、わからない。一歩間違えれば過ちを犯しかねない、という危険な状況に追い詰められているのもまた事実だった。

以上のような自分の状況を丁寧に検討すれば、具体的な行動計画を立てることはそれほど難しくはない。

なによりもまず、休養になっていない活動休止をやめて、すぐにでも仕事に復帰する必要がある。目の前の任務に集中することで神経を鎮め、できるかぎり心を休養させる。

そのうえで医療機関にアクセスし、可能な範囲の投薬治療をおこなうべきだろう。苛立った神経を鎮めるための医薬品がいろいろ存在していることはネット上で調査済みだ。医師の判断には個人差があるだろうから、セカンドオピニオンと言わず、はなから三人くらいの精神科医に相談するつもりでいたほうがいい。

そこまで対処したにもかかわらず過剰な性欲が残った場合は、対症療法的ではあるものの、新しい彼女をつくらなければいけない。幸いにも、容姿に恵まれた浦上にとって、それは難易度が低かった。

ここにひとつ、問題がある。性欲を解消するためだけに彼女をつくるのは倫理に反している。そのような声が、浦上の心の中にはあった。

この問題については、それはちょっとメルヘンチックすぎる倫理観だ、と批判することもできる。子供のときは大いなる神がいたが、さすがに大人になってからは、自分を監視しているのは神ではなく自分だけだと気が付いた。かりに恋愛感情がなかったとしても、その真実を相手に見破られないままであれば、相手を傷つけることはない。

そもそも、男性への幻想を捨てられないならば勝手に信じていればいいわけだが、男性の八割は実のところ欲でしか動いていない。

そうやって言い訳のように理屈をこねているうちに、また、小型ディスプレイに真っ白い太腿が映った。

思わず陰茎が反応しそうになり、慌てて、浦上は、真っ黒の車窓へと視線を逸らした。

そのままでいれば陰茎の肥大は避けられたのに、激しい好奇心によって視線は自動的にディスプレイに戻る。

エロチックな太腿を食い入るように見つめれば、どくどくと鼓動に合わせて陰茎が膨らんでいった。

またべつの宣伝CMに移っていっても、浦上の胸の中では、変わる気配もなく欲動が継続している。一心に思っているのは、ただひとつだけ。いますぐ、ヤリたい。それだけの心を悲しんだりする余裕もない。

いまさっきまで丁寧に現状への対処を考えていたのに、それらすべてが一瞬にして吹っ飛んでいた。

ああ、そうだ、と浦上は思い出す。このバス車内には、若い女性がふたりいたはずだ。このバスに乗車した際、どこに座ろうかと車内を見回して、真ん中あたりの座席に若い女性がふたり座っていたのを確認している。

そのうちひとりはどこかで見たような顔をしていた。ひょっとすれば、知り合いかもしれない。どうあれ、あのショートヘアはタイプだった。

いまは、かなりチャンスじゃないか。世界をひっくり返す定理を思いついた数学者のように、浦上の気持ちは昂る。人生は終わるかもしれないが、そんなもん、どうせいつか終わるのだから、ここで終わらせればいい。

思いきって振りかえろうとしたときだった。

突如、全身をぞっとさせる、心臓に悪い警告音が、鳴りだした。

きゃ、うわ、と車内からも驚きの声がいくつか上がった。

浦上は、半分回っていた首をもとに戻して、じっと耳を澄ませる。緊急地震速報に似ているが、どうやら違う。もうちょっと聴きたかったのに、すぐのうちに途切れた。

なんの警報かと疑問に思ったまま、小型ディスプレイを見上げれば、『速報』という文字が掲げられている。

『死亡が確認されていた何故いきる、今日、復活を果たす』

 その文章が繰りかえし流れていく。浦上は、それを何度も丁寧に読みなおして、自分の解釈が間違っているわけではないことを確信した。この速報は、どう読んでも、死んだはずの何故いきるが生き返ったことを伝えている。

これには、わけがわからない、と言って笑われることはないだろう。現に、バス車内のほかの乗客が零したものか、「は?」という男の声が後ろから聞こえてきた。まさにそのとおり、は?――という速報である。

 半ば呆然とした気持ちで、同じ文章が流れつづけている小型ディスプレイを見つめていると、バスの後方から声が上がった。

「どこだ、ここは?」

 今度こそ振りかえると、バス車内の最後部にどかっと座っていた太り気味の黒スーツの男が、窓の外を見て、目を見開いている。

 バス車内には、その肥満ぎみの男を含めて男がふたり、ほかに女がふたり、さらに浦上も含めると、全員を合わせて五人の乗客がいた。最初のひとりに促され、乗客はみな、それぞれの直近の車窓へと目を向ける。

 車窓の外になにがあるというのか。浦上もくるりと首を回し、右隣の車窓を見た。

そこには変わらずに黒く陰気な街があるのかと思いきや、なかった。

なにがあるのか、と問われても、答えるのは難しい。ただそこには、膨大にも、あるいは無にも見える、ただ黒いだけの空間が存在していた。

その空間――本当に空間なのかどうかは定かではないが――は、バスの進行によって変化しない。バスとともに進んでいるようにも見える。

景色が変わらないと移動しているという感覚が乏しくなるが、荒々しいエンジンの振動は止んでいなかった。

どういうことだ。このバスは『荒川土手行き』のはずだ。どうして窓の外に未知の場所があるのか。現実に存在するのかどうかも怪しい。

バスの前方を見れば、フロントガラスの中央上部に次の行き先を知らせるモニターがあった。そこには、次のバス停について、『次は、死です』と表示されている。

理解が追い付かないまま、浦上は、一瞬の思いつきで停車ボタンを押し込んだ。ピンポーン、と音を立てて、近くにあるすべての停車ボタンが一斉に発光し、間髪入れず、運転手の声が響いた。

『ええ、みなさま、このたびは、死へと向かうバスにご乗車いただき、誠にありがとうございます』

 この声……。浦上の毛細血管の隅々まで、ぐらりと動揺した血液が身体のいたるところで凍結した。対談したときに耳にしたあの声だ。疑いではなく、はっきりと確信できる。それは何故いきるの声だった。

『このたびは、自死に及び、みなさまをびっくりさせたことを深くお詫び申し上げます。いまの速報にもありましたように、ようやく復活したので、ご心配なく』

低くありながら、それでいて威圧感やナルシシズムのない、聞き心地のよい声だ。マイクを用いているらしい。四方のスピーカーから拡声され、ノイズとともに耳に届く。

浦上は、白いパーテーションで仕切られて見えない運転席を、なにもできないまま、じっと機械的に見つめている。

『ここ数か月、みなさまの人生に少しだけ触れる機会をいただき、本当に楽しく過ごさせていただきました。たいへん勉強になった次第です。みなさまの苦しみを聞くにつけ、わたし自身もどうしようもなく苦しく、また、いたたまれない気持ちとなりました。そんな中、わたしはただひたすらに最適な選択を考え、考え、考え尽くし、当初の予定どおり、みなさまを死へと運ぶために協力させていただくことになりました。事前に確認したところでは神野千尋さんのみが生きたいという意思を言葉にしてくれましたが、その意思は尊重しております。この世界から死によって抜け出し、新たな世界で俳優としてご活躍ください。そういうわけで、次、停まります。次は、死です』

 車体の振動が止んで、シュー、と空気の抜ける音がした。次の瞬間には、生き物のように震えていた巨大な機械はただの無機物の塊と化している。

 死だと?

 浦上には、なにも、具体的なことはわからない。何故いきるの言葉の意味も、目の前で起きていることも、ここがどこなのかさえも……。

この状況がわからないせいで、自分がどう振舞うのがベストなのかについても、少しとして見当がつかない。何故いきるは自死したはずだし、このバスは荒川土手に向かっていたはずだ。

いざ取り組もうとした数学の問題文がすべてラテン語で書かれていたときに静かなパニックを起こしたような、そんな気分の中で、ひたすら不穏で、不健全で、不吉な、破滅の予感がしている。

 いちばん前部の座席で動けなくなっている浦上には、バス車内のほかの乗客の様子が見えなかった。言葉も、物音も、呼吸の音さえも、なにも聞こえない。

浦上と同じように、息を殺すしかできないでいるのか。頭上の小型モニターでは、乗客のみなの生命力の停滞を暗示するかのように無音のままで、何故いきるが復活したことを伝える速報がループしている。

ここで全員、足並みを揃えて、じわじわと純度が増していく静寂に抗う術もなく加担しているのならば、ここは誰かが先陣を切らねばならない。

ここがどこであれ、俺の出番か。日常的にイニシアチブを要求される仕事をしてきた浦上は、誰よりも先に動くことに慣れている。ひとまず運転手――何故いきる――に声をかけることにしよう。

座席から降りようと、浦上は、左足をバス真ん中の通路に伸ばす。

「お客さま、お待ちください」

 そのとき、すぐ目の前から、マイクを介さずに今度は威圧的な声が飛んできた。浦上がほんのちょっと躊躇した隙を逃すことなく、さっと運転席から降りてくる。

運転箱の手前に現れた無機物のようなその有機体と、目が合った。葬式の印象を与えているのは、シワのない純粋に黒いタキシードだ。小ぶりな頭部には、特徴のない人並みなパーツが並んでいる。なによりも強く印象に残るのは、その左頬に大きなホクロが三つ、等間隔で縦に並んでいるところだった。

一度だけ、対談したときに見た顔のままだ。公には姿を晒していない、何故いきる本人である。

数日前、自死によって他界したはずの――。

「先生……」

「ええ、どうも。ひさしぶりに対面したところであれですが、どうぞ、騒がしくお休みください」 

 胸ポケットに右手を突っ込んだ何故いきるは、バレリーナのように器用で繊細な動きでポケットの深さよりも明らかに長いタクトを引っ張りだした。

 三〇センチ以上はあるだろう、その黒いタクトの先端が3D映画のように伸びてきて、するりと自然に胸に入りこんでくる。リモコンの赤い電源ボタンを押したときのようにぶつりと、浦上の意識は途切れた。


   *


 きゃあ、と女の声が上がった。振りかえれば、バスの真ん中にある降車口から、その近くに座っていたグレースーツの女が走り出ていく。恐怖に身を任せきり、バス車内に留まっていられなかったらしい。

 もうひとりのショートヘアの女も続こうとして左足を通路に踏み出したものの、そこで思いとどまったようだ。

 たしかにね、と瀬田は納得した。

もしも、この空間が夢に出てきたものと同じであれば、降車口の外には、扇形をした黒い空間があるはずだ。そこには、ライブハウスにつながる鋼鉄の扉や、川岸の歩道につながる電話ボックスのガラス戸や、広々とした書店につながる自動ドアや、ちょっと豪華な家庭用の浴室につながる曇りガラスの折れ戸などがある。それにくわえて黒い空間の奥には、またべつに赤い扉もある。その先には、まるで子宮のように穏やかに沈黙したカウンセリングルームがある。

ちょっと考えれば、そのどこかに逃げ道があるとはとても思えないだろう。ここは我々が知っている世界ではない。あっちの世界で前提となっている物理法則がここで成り立つのかどうかさえ、不明だ。

はっきり言って、どこに行っても袋小路になっている可能性が高い。

逃げたところで、逃げられない、というわけである。それを瞬時に察して聡明な諦念を抱いたところからすると、あのショートヘアの女は意外に頭がいい。案外、あいつが、俳優を目指し中のフリーター、『ちひろ』だろうか。

彼女のその暗い顔を見つめた末に、いや、と瀬田は考え直した。ただ単に、頭が真っ白になっているだけかもしれない。

どうあれ、目の前の選択肢を諦めただけでは、聡明という評価も名ばかりである。ある方向への諦念とともに、べつの方向に対する期待を生み出さなければ、結局のところ、ここで無抵抗に最期を迎えるだけだ。

 瀬田は、またバスの前方に向き戻った。ふたつ前の座席に座っていた金髪アフロの男はいまさっき、黒くて長いタクトで心臓を一突きにされた。即死だろう。痛がったり、暴れたりすることもなかった。いま現在は、魂が抜けきった殻のように、その身体がバスの床に倒れこんでいる。

 マジかよ、としか言いようがない。

 運転席から降りてきたホクロ男は、いまだに、金髪アフロを気にしている。動かなくなった肉体を、何度も、何度も、タクトの先端でつついている。本当に死んだのかどうか、注意深く確認しているようだ。

そのサディスティックな光景を、手前の座席の背もたれをつかんだまま、瀬田は見つめることしかできない。間抜けにも固唾を飲むことで精いっぱいのようだ。

だが、これでも、いちばん恵まれているのは俺のはずだ。瀬田の胸には、そのような自負に満ちた気持ちもあった。

共感性のない瀬田にとって、他人の死には特別な意味がない。目の前で他人が殺されたところで、だから、なに、である。路上で子供に踏みつぶされたバッタとか、コンクリの鉄板で黒焦げになったミミズと同じ。瀬田の胸に浮かんでくるのは、殺人を目撃したことによる心の揺らぎではなく、単純な想像に対する危機感だ。

次は、自分が殺されるかもしれない。そのことに対して――そのことに対してだけ――危機感を抱き、恐怖を強めている。

果たして、どうすれば、殺されずに済むのか。

冷静に考え直そうとしたが、そこで瀬田は、ふと思った。なんで、殺されることがそんなに、嫌なのだろうか。

よくよく考えると、わからなくなる。人生を通しての目標もないし、ぜひやり遂げたいと思っている夢もない。生きていることに価値などない。それどころか最近は、エレベーター内での足立のお漏らし事件での失態もあり、生きつづけることに後ろ向きな思いを抱くようになっている。

心の現況をあらためて確認してから、瀬田は、はは、と息を漏らした。もしも、ここで死ぬことになるとしても、それを拒む理由などない。

たしかに痛い思いはしたくないが、金髪アフロが死んだところを見た限り、ホクロ男は痛みなく殺してくれそうである。死は常に恐ろしいものであると、誰かに洗脳されていたのかもしれない。

心残りがあるとすればひとつ、最期の夜に、美しい熟女ふたりとオールナイトできなかったことだろうか。

ついさきほど、デリヘルの予約サイトを介して、お気に入りの熟女ふたりを自宅に呼んだばかりだ。それが叶わないとすれば、ショックではあるが――。

しかし、まあ、熟女に抱きつくためだけに生きようとするのも、おかしな話だ。そのためだけに生きたいと思えるほど欲が強かっとしても、かえって不自由で苦しいし、そんな人生を送るくらいなら死んだほうがいい。

瀬田は、心の底から思った。死んだら動けなくなるなんて、誰が言った。生きているときのほうがずっと、自由に動けないじゃないか。瀬田は、両手からすっと力を抜いて、目の前の座席の背もたれから、両手を離した。だらんと左右の腕を垂らして、ぐーっと硬い座席に身を預ける。

ほかの人の痛みなんて知らない――と、凪に戻っていく心の中で、誰にも規制されないままに思考が始まった。

そもそも、瀬田は、他人に共感できないうえに興味もないから、心の底では知ろうとも思っていない。誰もがそれぞれに違うものを背負っているのかもしれないし、案外、ぜんぜん背負っていないのかもしれない。

どうあれ、瀬田の場合は、サイコパスという重たい属性を背負っていた。この属性を持ち合わせている瀬田は、現代社会が容認している多様性の範囲には入れず、自分の思うままに動くことなどできない。

 どこかの子供向けの乙女チックな映画みたいに、ありのままに振る舞ったとすれば、ちょっと抑えたとしても警察沙汰になるだろう。さらに悪ければ、死刑送りになる可能性すらゼロではない。

昆虫と人間を大差ないレベルで受け止めている瀬田にとって、殺人罪が存在すること自体がバカげているとしか思えないのだから。

 もちろん、現実的に考えて、殺人に手を染めるメリットなどない。アニメや映画の中で過度に印象操作されているサイコパス像のように、殺人鬼になるつもりもない。ちょっと考えれば、すぐにわかることだ。殺人鬼になるのは、一貫性がなくて、感情的で、トラウマによって理性がすぐに壊れてしまう、それでいて常に誰かに構ってほしがっているような人間だ。戦争や復讐をしたがるのがフツウの人間であるように、フツウの人間しか、サイコキラーにはなれない。

 その点では、瀬田は、心が豊かな人よりずっと優れており、悪意を持って誰かを傷つけることはありえない。

 もしも瀬田がうっかり誰かを殺すときがあれば、それは感情の高まりに対する発散とは関係なく、とても現実的で合理的な理由によって為されるはずだ。たとえば、自分の新品の靴を守るために尿の源泉を塞ぐことのように。

 あーあ、と瀬田は、いままで気を引き締めて歩んできた三十六年ぶんの疲労を吐き出すかのように溜息を吐いた。こうやって誰にも理解されないまま死んでいくんだな、と思うとちょっと悲しい。

 だらりとした姿勢のままで、瀬田は、また後ろへ振りかえった。

バスの中央付近にある座席には、さっきと同じまま、ショートヘアの若い女が放心状態で座っている。その間抜けな態度がどこかブログでの臆病な言葉選びと似ているから、やはり彼女がネット上で一度だけ言葉を交わした『ちひろ』なのだろう。俳優を目指していたらしいが、進展はあったのだろうか。

お前も、夢という束縛から逃れられずに、苦しかったのかもしれないな。そう思ってみるのは、瀬田が優しいからではなく、一般的な人間には同じような境遇の相手に同情する傾向があることを、いろいろな小説を通して学んだからに過ぎない。

 瀬田は、また、向き戻る。ゾクッとした。すぐ目の前――五〇センチも離れていない眼前――に、ホクロ男の顔が浮かんでいる。その左頬には、相変わらず、大きなホクロが三つ並んでいる。うっすらと笑っているようにも見えるが、能の仮面のように真意を把握しづらい表情だった。

なにか御利益がありそうなその顔の、平均的な形をした口が動いた。

「まだ、生きたいですか?」

 映画館の音響のように胸の底に入り込んでくる声だった。それはファイナルアンサーを求めているのだろうか。瀬田は、背筋を伸ばすこともないまま、かすれ気味の声で、「殺してください」と申し出ていた。

 どうやら、これが俺のフィナーレになるらしい。また生まれてくるときがあるなら、今度は、難しく考えなくても当たり前のことを当たり前に理解できるような脳みそを抱えたままで生まれてきたい。

微かな希望を乗せて、ホクロ男の右手に握られた黒いタクトが伸びてくる。それはすっと入り込んできた。胸の奥になにかを注入されたような感触がある。このホクロ男現象はいったいなんだったのか、ついにわからないままに終わる。


   *


 金髪アフロの長身の男に続いて、そのふたつ後ろの座席に座っていた細身の男もやられた。彼は、黒いタキシードをばっちりと着た先生の殺意を前にして、少しも抵抗しなかったようだ。

はなから、生に対する執着など微塵もなかったらしい。おめでたく人生を諦めて悟りの世界に入っている――というより、そういう役柄に溺れている――ようだった。いちばん最期の言葉は、「殺してください」だ。必死に生きたがっている人を嘲笑うかのような、やけにカッコつけた態度が気に入らない。

あのような自惚れた死に方はごめんだ、と森山は思った。

 かといって、じゃあ、どんな死に方がいいのかというと、具体的に考えがあるわけではない。このまま生きつづけるつもりがないことは自覚しているから、いずにれせよ、死ぬことにはなるだろう。

 ……ははん、と思わず自虐的な笑いが零れた。カッコつけているのは、自分も同じかもしれない。死へと向かっているというこのバスに乗車しているのも、もしかしたら、森山自身が望んでいたせいだろうか。

白黒写真のように、真っ白い照明がバス車内のいたるところにいろんな種類の黒い影を落としている。バスの最後部に座ったままの森山は、さて、どうするべきか、と自分でも驚くほど冷静に考えはじめていた。

この現状は、最悪だ。帰宅するために乗車していたバスがいつのまにか、意味不明な場所を走っている。そこには、八月に夢の中で対話していた先生がいた。意味もわからないまま、先生はすでにふたりの男をタクトで殺害した。ふたりの亡骸は沈黙するバスの床にうつ伏せで倒れている。ほとんど脅迫的なまでに、先生は、少しも動かない死体が本当に死体になっているのかについて確認していた。

ここは夢なのか、ここで死んだらどうなるのか。そもそも、どうして殺されなければいけないのか。わからないことだらけである。

その中でまず間違いなく言えることは、あとは順番の問題で、いずれ森山自身も先生のタクトで殺害されるだろうということだ。抱えきれないほどの罪を抱え、取り返せない幸せを羨ましがるしかない現在の森山には、もはや、生きることに執着はない。死ぬことを受け止めることはそこまで難しくはないが、なにもしないままに死んでいくことには抵抗感があった。

どうせ死ぬなら、なにかに取り組みながら死んでいきたい。生まれたときからずっと、俺はそういう人間だった。

そんな自分の気持ちを確認してからのこと、森山は、すぐに取り組みたいことを思いついた。

せめて、この意味不明な現象を暴いてやりたい、と。

それは知的好奇心とは、ちと違う。単に理解するだけでは物足りず、それ以上に、目の前の問題を解決する現実的な糸口を見つけたい。実践可能な知を得たうえで現実を変えたときこそ、大きな喜びに祝福される。

俺は人生を通して、理論家ではなく、実務家だった。

もっと嚙み砕いて言えば、森山は正直なところ、この問題の解決のために尽力し、己のスペックの高さを形のある成果によって示したいのである。先生に殺されることを前提としたうえで、この問題を解決したいと思うのは矛盾かもしれない。そうと呼ばれるなら、それでもいい。要するに、森山は、最後の最後まで己のスペックの高さに陶酔しながら死んでいきたかった。

どうせ死ぬという結果はわかっているのだから、ある種の出来レースとも言える。

それでも構わない、と森山は思った。「殺してください」などと間抜けな言葉を抜かすよりは、断然、そっちのほうがマシである。

バスの前方を見れば、依然として、タキシード姿の先生はタクトの先端で無呼吸の人体をつついている。

その様子からすれば、まだ、森山を殺害しようとする段階には至っていない。つまり、バス車内から逃げ出す好機は失われていないわけだ。

いざとなれば、森山の決断力は優れている。最後部の座席から走り、バスの中央の左に設けられた降車口へと向かった。その勢いのままに、すでに開け放たれている降車口から外へと一歩、右足を踏み出した。まさにそのとき、先生の丸い目がぎょろりとこちらに動くのを横目で確認した。

獲物を見つけたときのスナイパーの冷たい視線のようだ。その目は明らかに照準を合わせている。

追ってくるなら、捕まらないように逃げるだけだ。足を止めることなく、森山は、バスから外に出た。そこには想像どおり、奥に向かって窄んでいる扇形の黒い空間があった。いちばん奥には、血液よりもザラついていて、赤カビよりもサラサラとしている、大きくて赤い扉が待ち構えている。

そこだ。森山は、瞬時に判断した。この現象の真実を見抜こうと思ったとき、なによりも興味深いのは赤い扉の先である。森山の記憶によれば、赤い扉の奥にあるカウンセリングルームには、さらに奥に続くブラウンの扉があった。

その先に行きたい。

そう望む気持ちは、内側からこみ上げてくるというより、外側からの不可抗力として迫ってきている。まるで大きな掃除機。より派手に言えばブラックホールのように、森山の身体はまっすぐと吸い込まれていく。

弱まった意識は数秒前の記憶をすぐに忘れていくらしい。自分の行動が時系列のままに把握できない。ただ、不確かにも真っすぐと走っていることはわかる。肩で息をするほど全速で進んでいた。

気が付いたら、自分の手はひんやりとしたドアノブを握っていた。趣味の悪いくらい真っ赤に塗られた扉に対して、懇願するように額を押し付けている。

さあ行こう、とドアノブを捻ったが、押し開ける前に背後が気になった。力は緩めずにドアノブを握ったままで、ひとまず森山は、状況確認のために振りむいた。ずっと遠くではあるものの、やはり、先生もバスから降車している。

バスに残っていたもうひとりの若い女も殺したのだろうか、先生の右手には、べたりと血液が付着した黒いタクトが握られている。ダッシュしてきたはずの森山とは対照的に、こちらに向かってくる先生は余裕の表情で歩いてきていた。死への恐怖がないせいか、先生の姿にも恐怖を感じない。

なにが指揮者だ、と森山は心の中で毒づいた。それは殺戮の凶器ではなく、ハーモニーを先導するためのセンスと理性なのに。

先生の高圧的な顔を見ていると、その顔が言いたい放題の株主みたいに見えてきた。会社の内部事情などなにも知らないくせに、金を持っているというだけで偉そうにふんぞり返っている連中だ。

最期の瞬間くらい、墓場まで持っていくはずだった愚痴のひとつやふたつ、冥途の土産として吐き出したって、べつに悪くはないだろう。森山は、自分の肩越しに、「走れよ、ノロマやろう」と叫んだ。

「あんたみたいなやつに一度、言ってやりたかったんだ。この世界は俺の独裁でもないし、お前の独裁でもねえんだよ。自分の思うままに生きるってことは、つまり、誰かの自由を奪うってことだよな。実践してんのか?」

 姑息な手ではあるが、言い逃げするのがいちばんの快感である。森山は、先生の反応を確認せずに赤い扉を押し開けて、中へと入った。

しっかりと赤い扉を閉めて、森山は、室内の奥へと目を走らせる。そこには謙虚そうな表情をしたブラウンの扉が薄闇に溺れていた。

 小さな暖色のライトしかないその空間には、案外、懐かしさがあった。今年の八月はほとんど毎晩のようにこの部屋に通った。すっかり先生を信じきって、自分の苦悩について先生にたくさん話したものだ。

 かといって、いまさら後悔する気はなかった。なんというか、森山は現在、強い自由を感じている。死ぬとわかったせいなのか、自分のことはなんでも棚に上げる権力を手にできたらしい。いまなら、盛大なブーメランになりそうな毒の数々を、少しも気にしないままに吐き出せそうだった。

森山は、部屋を横切り、最短距離でブラウンの扉に進んだ。辿りつくと一秒たりとも躊躇することなく、扉を押し開けた。

光が飛散することはなかった。その奥の部屋にも、盛大な照明はないようだ。なんだか誰かの体内を覗くような気分で中を見れば、そこはカウンセリングルームと同じようにこじんまりとした部屋だ。

剥き出しの鉄筋コンクリートの壁に囲まれている。真ん中には、少し光沢のある革張りの黒い椅子が置かれている。

扉から見て左のほうには、五つのパソコンの大型ディスプレイが並んでいる。それらのディスプレイのひとつずつに、監視カメラのライブ映像のように、目を閉じて寝ている五人の顔が映し出されていた。

……なんだ、これは。

森山は、一瞬のうちに、その部屋に入ろうとする気力を失った。

よく見れば、五つ並んでいるディスプレイのうちのひとつには、森山自身の寝顔を映しているものもあった。

映り込んでいるのは、港区にある自宅の寝室だ。映像の中の枕もとにあるデジタル時計には、時間にくわえて、月日の表示もある。それを信じるならば、その映像が撮られたのは今年の五月一日の午前二時ごろだ。

驚くべきことは、それだけではない。そのほかのディスプレイに映っているのは、いまさっきまで同じバスに搭乗していた人たちだ。

二番目に殺された男の顔に、バスから外へ逃げていった女の顔、バスの中で放心状態になっていたショートヘアの女の顔に、浦上直斗の顔だ。バスの中では気づかなかったが、はじめに殺された金髪アフロの長身の男は、おそらく変装した浦上だったのだろう。ということは、彼ら四人こそ、森山と同じように先生と対面し、夢の空間を共有していた人たちだったというわけか。

ならば、これは、つまり……。考えを進めた森山の頭に、突如、とんでもないストーリーが浮かんだ。

「これは、現実……ではない」

 ぽつりと言葉を零したとき、「そのとおりです」と背中のほうから、森山の独り言を賞賛する声が飛んできた。

振りかえると、赤い扉を背にして先生が立っている。いつのまにか、部屋の中まで入ってきていたらしい。律儀にホクロが三つ並んだその顔は、うっすらと微笑んでいる。森山の絶句を愉しむかのように、動く様子もなく、先生は一方的に語りだした。

「いつのことだったか、このわたしは現実に存在する人物なのか、それとも夢の住人なのか、現時点では答えられない、と誰かに申し上げたことがあります。しかし、いまなら答えられます。わたしは、まったくもって現実には存在しない、架空の人物です。何故いきるなどという作家は存在しません」

 何故いきる? 森山にはその点はよくわからなかったが、先生がなにを言おうとしているのかは理解していた。

「これは全部、夢だと?」

「そうです」

 先生は、あっけらかんとしている。

「わたしはまあ、架空の身ではありますが、常々、違う者同士がお互いを理解することはとても大切だと感じているのです。そうは思いませんか? 人生に絶望している人のすぐ隣の部屋に、人生を謳歌している人がいたりして。充実感に溺れている人の陰で、無力感につぶされている人がいたりして。そういうのって、交換してみないとわからなかったりするじゃないですか」

「交換……というと、まさか?」

 森山は、とてつもない衝撃を感じた。受け止める間もなく、先生の次の言葉は、その衝撃をさらに強めた。

「あなたは、森山吾郎さんではありません。杉田奈央さんです」

 俺は、俺じゃない。こうやって考えているのは俺だが、しかし、こうやって考えている俺自体が……わたしじゃない。

「あなたには、森山さんの人生をちょっと体験してもらったのです。本物の森山さんには瀬田政之さんの人生を体験してもらったし、本物の瀬田政之さんには浦上直斗さんの人生を体験してもらいました。本物の浦上直斗さんには神野千尋さんの人生を、本物の神野千尋さんには杉田奈央さん――つまり、本物のあなた――の人生を、それぞれ体験してもらいました」

 つまり、わたしは本当は杉田奈央で、ずっと杉田として生きてきた。しかし、この長い夢の中では、森山として生きている。すぐ飲み込むなんて、とてもできないが、あまり違和感を覚えない。

「もちろん、夢の中で起きた事件についてはすべて、夢らしく、現実とは関係のない体験です。現実は、まだ五月一日のまま、止まっているのですから。しかしながら、これが夢だからといって、すべてを作りものだと断言するわけにもいきません。いまのあなたが森山だと自覚しているように、森山さんの記憶や、考え方や思考の癖、感覚や、感情の動き、人生に対する希望と、絶望を、そのまま、森山さんとして体験してもらったのです。なにを言いたいかというと――」

 先生は、右手を上げた。その手に握られたタクトを数秒間見つめたあとに、また微笑みの顔を浮かべた。

「この世で起こっている果てしなく複雑なループ現象に対して、思いを馳せていただきたいのです。ある人は苦しみ、ある人は楽しみ、かと思えば、誰もが悲しみ、と思った途端、さっきとは違う人が苦しみ、さっきまで苦しんでいた人が今度は楽しんでいる。こんな言い方でわかるでしょうか」

 なんとなく、わかる。でも、よくわからない。わたしは、そう、タッちゃんがずっと好きだった。いまでも忘れられなくて、もがいていた。子供をつくって平穏に生活している人たちのことが羨ましくて溜まらなかった。そういう何気ない生活を、タッちゃんと築く予定だったから。

でも……俺は、もともと子供なんて、望んでなかった。生まれてくること自体を子供が望んでいるかどうか、生まれてくる前に判断できないから。子供なんかよりずっと、社会の場で活躍することのほうが大事だった。

――おかしい。

違うものが頭の中に同居している。気持ちが悪い。変な価値観が入り込んできている。ダメだ。頭の中がぐちゃぐちゃとしてきている。

逃れられない思考の沼にハマっているうちに、先生は、活発にタクトをふりながら熱弁を始めた。

「ときどき、わたしだったら、こんなことはしない、と豪語される方がいる。それがとてつもなく気に入らないんですよ。なぜなら、それは、わたしのまま他人になる、という前提でしか考えていない。ズルすぎませんか? もしも、本当に相手と同じになったら、確実に相手と同じことをするわけです。それが相手になるということです」

 先生の主張はたしかに的確に聞こえたが、森山吾郎という夢から覚めていく感覚の中では、どんな教育よりもスパルタの教訓に聞こえてきた。

「だから、俳優を目指すことに熱中していた結果、恋愛を軽く見下していた神野千尋さんには、地獄のような愛の苦しみを抱えている杉田奈央さんを体験してもらいました。愛の苦しみに染まりすぎた結果、家族というものを美化しすぎた杉田奈央さん――あなた――には、うまく機能しなくなった家族とともに生きている森山吾郎さんを体験してもらいました。家族を犠牲にしてまで自分のやりたいことを追求してきた森山吾郎さんには、世間との感覚のズレによって、ありのままに生きることができない瀬田政之さんを体験してもらいました。自分をサイコパスだとしたうえで自分を正当化し、感情豊かに生きる人を殺人鬼呼ばわりしていた瀬田政之さんには、あまりにも感情の豊かな俳優である浦上直斗さんを体験してもらいました。そして、ほとんど誰も到達できない俳優としての地位を確立したうえで、有名税を理由に被害者面をしていた浦上直斗さんには、俳優になりたくて仕方がない神野千尋さんを体験してもらいました。みなさんは、たしかに本人になり、偉そうな言葉をつぶやく余裕さえ与えられずに、もがき苦しみ、生きました。わたしは感動しました」

 先生の目はちょっとだけ、潤んでいた。

「あれほど恋愛を軽視していた千尋さんが失恋のせいで赤ん坊のように酔っぱらって泣き喚き、あれほど家族というものに憧れていた杉田さんが家族の幸せを踏みにじり、あんなに自分の思い通りに生きてきた森山さんが自分の本音を隠すことに尽力しながらびくびくとして、あそこまで感情豊かな人間をバカにしていた瀬田さんが抑えられない性衝動と破壊衝動にあたふたとして、あれほど俳優としての成功を軽く見ていた浦上さんが俳優になりたくてなりたくて仕方がなくなっていた。五人とも、わたしだったら、こんなことはしない、とはもう言えなくなった。だって、みなさん、わたしだったら、こんなことはしない、と豪語していたことをやっちゃってるんですから」

ふふふ、と先生は笑った。それで言いたいことを言い終えたのか、ついにこちらに歩きだした。

もう逃げる気になれないし、逃げる必要すら感じない。血塗られたタクトを掲げた先生は、森山の目前で、最後に言った。

「ここで死ぬということは、現実世界に生きかえり、杉田さんに戻るということです。幸せそうな家族に殺意が沸いたら、ぜひ思い出してください。その相手はあなたの理想像じゃないということを」


   *


 バスを飛び出したときには、頭の中はパニックだった。なにが起きているのか、適切に把握できない。それも無理はないわけよ、と杉田は自分を慰めた。またスマイルおじさんに会う羽目になったかと思ったら、急に、そのおじさんがタクトを取り出して見知らぬ金髪アフロの男を殺害したのだから。

 とにかく逃げないとヤバい、と本能が警告してきた。

誰よりも先にバスから脱出はできたが、それで、どうするのか。どこに行けばいいか、ぜんぜん、わからない。なにも考えずに逃げ出したのだから、当たり前だ。

杉田は、周りを見回しながら、荒い息のままに、しばし佇んだ。ライブハウスにつながる鋼鉄の扉に行くか、それとも、見ず知らずの空間につながるべつの扉の先へ行くか、あるいは、例の赤い扉へと走るか。

夢の中で何回も訪れていた黒い空間に立ち止まったままの杉田は、一瞬の判断で、すぐ近くにあった電話ボックスらしき透明のガラス戸に手をかけていた。そこを選んだことに明確な理由はない。

ひとつずつ検討するほどの時間はなかった。杉田は、そのガラス戸を押し開けて中に入ると、ぴったりとガラス戸を閉めた。

ガラス越しに見える黒い空間に誰もいないことを確認して、ようやく振りむいた。そこには、夜が待っている。

かすかに冷たくて不確かな夜の感触がする。

レンガで敷き詰められた歩道にはいくつかのベンチがあり、等間隔で並んでいるそれらのベンチに合わせて街灯が光を落としている。その歩道に沿うような形で、星空にシルエットを浮かべる街路樹が並んでいる。歩道のもう一方の脇には、なかなかの幅の、大きな川が流れていた。

総じてロマンチックだが、大きな川は黒々としていて気味が悪い。巨大な蛇の死体が倒れているようにも見えた。

ここはパニックを鎮められるような場所ではないようだ。むしろ不安は増したような気もするが、その光景の禍々しさに文句を言っている場合ではない。乱れた呼吸が整うのを待つ時間的な余裕すらないくらいだ。杉田は、ごちゃごちゃ考える前に、その歩道を駆けていった。とにかく遠くに行くことだけを考えて。

涼しさは快適なのに、噴き出すように汗が出てくる。

喉を通る空気はヤスリのように、喉の内側を無慈悲に削っていく。

体力維持のために週に二、三度は筋トレをしているが、これほどまでに身体に負荷をかけることはなかった。

近づいてくる限界をはね返して、杉田は、モザイクのような夜闇の霧を睨みつける。この歩道の先には、なにがあるのか。こんな川岸は知らない。果たして、この先に救いはあるのか。思ったよりも長く続く歩道を走っているうちに、脳にびりびりとした痛みが走るようになった。意識がふわっと浮いたような感覚もある。オカルトなど信じていないが、幽体離脱してしまいそうな予感もする。

 ――え?

 酸素の不足によって燃えるように頭が熱くなる中で、杉田は、ふいに、どうしても看過できない強い違和感にぶつかった。ちょっと、タンマ、と自分に告げる。

いまさっきの自分の思考――というか、頭の中でしゃべっていた事実――が、どうも不自然だ。

問題として挙げられたのは、体力維持のために週に二、三度は筋トレをしている、との発言である。明らかに事実の誤認がある。

そんなわけがないのだ。たしかに杉田は、社会人になってからの致命的な運動不足を気にしていた。ちょっとしたジョギングくらいはやったほうがいいのではないかと常々思っていたが、ついに行動には移さなかった。より優先すべき問題があったからだ。肉体の健康より先に、心の健康を確保せねば、と。

そういう事情により、杉田は現在、筋トレどころか、運動と名のつくものはなにもしていない。だとすれば、いまさっき頭の中でするりと出てきた間違った事実は、いったい、なんだったというのか。

それにくわえて、この幽体離脱してしまいそうな感覚はなんだろう。深海から水面にむかって浮上していくような、深くて長い夢が醒めていくような、いままで感じたことのない離人感がある。

頭の中には、強烈なイメージを与える映画のワンシーンが浮かんでくる。それは『緑色の眼球をひとつ』のラストシーンだが、そんな映画を観た憶えはない。

全速で進んでいく身体をそのままに、杉田は、自分の心のいろいろな部分を調査するためにスポットライトをあてていった。

すぐに気が付いた。どうやら、心の中に、自分のものではないものが紛れ込んでいる。しかも、その量は猛スピードで増加している。無意識に沈んでいたものが次々と噴出していくかのように。

気が付けば、ずっと保有していたはずの感情や思想の所有権を手放そうとしている。これはわたしのものではないという確信が築かれていく。新たに近づいてくるわたしこそが本物のわたしなのだと思える。

まだ、あやふやだ。鮮明にはなっていない。わたしは、なにか大切なものを思い出していた。絶対に、手放したり、諦めたりできないもの。それを手にするまでは死ねない、と強く思えるほどに情熱を注いできたもののことを。

恋とか愛とか、性欲だとか、そんなもの、どうでもいい。真っ当に生きていればどこかで出会えるような代物とは違う。わたしは――。

俳優になりたい!

心の中で叫んだのとほぼ同時に、顔面を強打した。その場でくずおれてしまう。額と鼻に走った衝撃が徐々に現実の輪郭を伝えて、少し遅れて痛覚が叫び散らす。なにか、飛んで行った。大切なものがまた、どこかに。

右手で顔を押さえながら、左手を前方に伸ばした。目で見た限り、その先にはまだ歩道が続いているのに、そこには透明な壁があるようだ。左手には、はっきりと、固くて微動だにしない壁の感触がある。

ここで行き止まりのようだ。うっすらと危惧していたとおり、この空間には無限のひろがりがない。巨大なセットのようなものだ。この空間にいる限り、スマイルおじさんの魔の手から逃れる術はない。

だったら、どうすればいいわけ?

なにか妙案を捻りだそうとしても、頭が回らない。身体もかなり消耗している。普段はまったく身体を動かさない人が急に全速で駆けたのだから、押し寄せてくる疲労感は尋常ではなかった。腕も脚も、腹筋も、肺も、どれも重たい。酸素も足りない。川岸に尻もちをついているだけなのに、空気中で溺れそうになっている。

仕方がない。もっと簡単に考えよう。

どうすればいいのか、なんていう壮大で難しい問題は置いておいて、森ではなく木を見るのだ。あえて視野を狭めたほうがいい。

考えるべきことはひとつ、現在の状況が適切なのか、不適切なのか。この単純な二分法であれば、現在の杉田でも、瞬時に答えを弾き出せた。激しく呼吸をしたままで、杉田は、力を振りしぼって立ち上がる。

ここが適切とは思えないから、戻るべきだ。

透明な壁に背を向けて、可能な限りの早足でやってきた方向へ戻っていく。体力的にもういちど駆けるのは困難だった。

すぐ脇を流れている黒い川とは進んでいる方向が真逆である。

どこに行くかについての考えはない。袋小路に留まりつづけるのを回避することだけを考えている。

熱を帯びた杉田の頭に浮かんでくるのは、意外なことに、バスに乗車していたレギュラーメンバーの存在だった。

今年の七月までずっと電車通勤していた杉田は、八月になってからバス通勤に切り替えた。最初のうちは、ほかの乗客など気にしていなかった。八月の半ばからか、帰りのバスでジャージ姿の若い女をよく見かけるようになった。それ以来、なんとなく、いつもの顔だなあ、と確認するようになった。九月になると、今度は、太っちょの男を見かけるようになった。十月には、ちょっと年上くらいの細い男を見るようになった。彼ら三人は、杉田にとって無関係であり、同時に身近な存在だった。

彼らはもう、スマイルおじさんに殺されたのだろうか。

一度も話したことはないのに、なぜか、ちょっと心配している。たぶん、趣味も、性格も、価値観も違う。同じ職場にいても、仲良くなれるかどうか、わからない。たまたま同じ時間帯に帰りのバスに乗っていただけなのだから。

彼らに対する想像をひろげているうちに、かなりの距離を進んでいた。

ふと顔を上げれば、三〇メートルくらい先に、電話ボックスのガラス戸が見えた。最後は少しだけスピードを上げた。

杉田はガラス戸に辿りつくと、そのグリップを握りしめた。ようやく戻ってきた。無事に到着できてなによりであるが、戻ってきたところで、やはり、なにか考えがあるわけでもない。杉田は肩を揺らして呼吸をしながら、とりあえずという気持ちでガラス戸の内側に目を凝らした。

ゾクリとした。

心臓の動きが一瞬、止まる。

慌てて逃げそうになったが、瞬時に堪えた。この川岸の奥には逃げ場がない。杉田は、汗に濡れた両手でグリップを強く握ったままで、そいつを睨みつけた。ガラス戸の先に、闇に沈んだ背景に隠れるようにして黒いタキシードを着ている先生――またの名を、スマイルおじさん――がいる。三メートルも離れていない。

もう、全員、殺したっていうの?

杉田の頭は、ふたたびパニックを起こした。

どうすんの、このままじゃ死ぬ。まともな思考など、もはや、組み立てられない。かろうじて機能している直観みたいなもので、このガラス戸を死守せねばならないという思いは維持されていた。

スマイルおじさんは、バカみたいにゆっくりと近づいてくる。しかも、気持ちの悪い、ぐしゃっとした満面の笑みだ。

その場違いな顔と動きを睨んだまま、杉田は、より強くグリップをつかんだ。押し開けられないように、全体重をかけてガラス戸を強く押す。

先生の顔は着実に近づいてきた。

政治家のようなファンタスティックな笑顔は、ついにガラス戸の目前まで迫ってきた。視界の下端にかすかな反射光を見つけた。下を見ると、先生の右手には嫌な光沢のあるタクトが握られている。それで刺殺するつもりのようだ。

そんなので刺されたら、痛そうだ。杉田は、しわくちゃの顔を伏せて、懇願するように「どっか、行って」と叫んでいた。

――わたし、ここで死ぬ?

それならそれでいいのかもしれない。あっさりと諦めてしまう気持ちがある一方で、激しく拒否している部分もあった。なにか、忘れている気がする。まだ死ねない理由があったはずだ。やりたかったことが、なにも、できていない。

でも、なにをやりたかったのか、肝心のところが思い出せない。

ぼんやりとしたままだが、それを成し遂げるまでは、諦められない。肩も腕も、胸も、太腿も、身体全体をガラス戸に押し付けて、祈りを込めてただ強く押した。

ガラス戸を挟んだむこう――目と鼻の先――にはスマイルおじさんがいるのに、ガラス戸を押しかえしてくる力はなかった。

その代わりに、べちゃくちゃ、と粘着的な音が始まった。

盛大に咀嚼音を立てながら食事をするときのような音だ。もっと言えば、性的な連想がひろがりそうな卑猥な音である。

この変な音は、なんだ。なにゆえ、このタイミングで、その音なのだ。顔を上げると、そこには腐った梅干しのようなホクロが三つ並んでいる顔があった。太いベロを出し、ガラス戸を執拗に舐めている。

見たくないものを見た。杉田は、ほとんど反射的に顔を伏せた。

ゾクリとするでは言い足りない。見た目が人間であるだけに、その人間らしからぬ動きが、よりいっそう非人間さを際立たせている。

ムカデとか、スズメバチとか、ヘビとか、オオグソクムシとか、そのへんのグループに属していても不思議ではない。文化や建前を気にするそぶりもない生々しく不愉快な音は続いている。気が済むまで、防虫スプレーをかけてやりたかった。

全身をムカデが這っているような不快感と闘いながら、なおも杉田は、変わりなくガラス戸を押しつづける。

何度も舐められたガラスの一部が氷のようにどろりと融け出していることに気が付いたときには、時すでに遅しであった。


   *


 いつも、そうだ。幸せなことがあるたびに、それがずっと続くものだと思い込む。目指していた工業高校に受かったときも、大手の航空機メーカーに就職が決まったときも、魂が震える映画に出会ったときも、いずれも、そうだった。

ほんの一時間ほど前のこと、憧れのオーディションでの合格を知ったときも、例外ではなかった。

またべつの未来へと進んだのだ、と錯覚していた。実際には、華やかな未来もいずれ現在を通過して、廃棄物となって過去に沈んでいく。

その現実を受け止めることができない。心の奥の冷蔵庫に入れておけば、いつまでも原形のままで保存しておけると妄信している。いまある幸せがすぐに急降下するだろうとは考えない。

そうなってしまう原因を、千尋は、なんとなく理解している。それはきっと、ちょっとしたわがままなのだ。

拡大とか、進歩とか、成長とか、そういうものに固執している。すでに解決した問題とは向き合わなくていい――というか、もう懲り懲りだから、向き合いたくない――という後ろ向きな気持ちによって、まだ起きていないことをいいことに、未来へ逃避する。未来にはあらゆる可能性が残されているから、過去を切り離してもいい。無事に成長して、いままでにない自分になった、と妄想しても問題はない。向上心だと言い聞かせながら、逃走願望に縛られている。

 暗闇の中を思いきり走りながら、千尋は、そんな自堕落なことを考えている。この最悪な世界の輪郭を正しく描けたら、すっきりしそうだから。

 ちらっと振りかえると、白く発光するバスは点のように小さくなり、遠く後方へ下がっていた。

ホクロ男がバスを出ていってからのこと、我に返った千尋は、肘をぶつけてバスの車窓を割り、外へ出てきていた。車窓の外には空間があった。そこを真っすぐに走りつづけ、どんどんバスから離れているところである。

 まだだ。もっと遠くへ行きたい。千尋は、さらに筋肉を躍動させ、思考の続きを紡いでいった。

たしかに、拡大したり、進歩したり、成長したりすることもあるだろう。千尋も、冷静である。それについては認めねばならないが、それ以上に変わらないことのほうが多いのもまた事実だ。

何度も降下するジェットコースターのように、制御できない景気循環のように、同じ過ちを繰りかえす人類の歴史のように、ぐるぐる回っている。千尋もまた拡大しては縮小し、進歩しては退化し、成長しては堕落する。

ここからは抜け出せない。この真理からは。

この悲惨な現状さえも、ありえない出来事ではない。人生の中で最大級の興奮を覚えたとしても、その一時間後に同じ興奮が残っているとは断言できない。なんで、わたしが、と考えているのは、わたしは次のフェイズに進んでいる、と思い込んだからだ。それは自分勝手な妄想でしかない。

……なんて言ったりしてるくせに。千尋は、自分を嘲った。頭の中ではずいぶん偉そうに開き直っているわりに、まったくもって行動が開き直っていない。この挑発的な思考は、逃げるのを諦めるための口実として、なおも膨らんでいく。

なにが起こるか、わからない。どん底にいるなら、そのうち這い上がるだろうし、頂点に立っているなら、そのうち落ちるだろう。ずっと同じサウンドで同じシーンが垂れ流される映画なんてない。

言い得て妙だな、と千尋は自分で納得する。物語は常に進展する。まったく同じ状況が継続する物語なんて、たとえあったとしても破綻している。

それは既視感がある考え方だ。それと同じような教訓を、どこかで耳にしたような気がした。どこでだろう、と千尋は考える。

直近の記憶を調査していくと、案外、すぐに見つかった。今年の五月に読んだ分厚い単行本だ。ホラー作家、何故いきるの最新作である『蛙の戯曲』である。

お気に入りの小説は何度も読むのが千尋の慣例だが、『蛙の戯曲』は、まだ再読していなかった。読了してから半年ほど経過している。

作品の印象が強いせいか、激動の半年を超えて、いまでもストーリーのアウトラインが頭に残っている。

周知のとおり、主人公は人間が大嫌いな連続殺人鬼だ。特報にもあったように、実写映画版では浦上直斗が演じている。この主人公は、無差別に人間の頭をハンマーで割ることをやめられずにいた。

転機となったのは、美しい少女との出会いだった。主人公はその少女を殺すターゲットに決めたのに、いざやろうとすると殺せなかった。人間を一括りにして蔑んでいた主人公にとって、殺せなかったという事実は恥ずべき事態だ。それは心の崩壊をも危惧せねばならないほどの衝撃だった。

最悪なことに、少女に一目惚れをして恋をしていた。

主人公は、その恋心を抹消しようともがくが、消えることはない。こちらから相手を誘うということは、自分が下になることを意味している。相手を殺すことで常に上に留まっていた主人公は、自分が下にならねばならないことに屈辱を感じ、余計に殺意が深め、それでいて、やはり殺すことができなかった。

そこらへんの心理描写はとても巧みで、ひりひりと胸に痛みを感じるくらいに切羽詰まった気持ちになったことを憶えている。おそらく、何故いきるは、その心理描写で読者を引き込めるだろうと計算したうえで、主人公を連続殺人鬼にするという困難な作品設定に挑んだのだろう。

そこから先も繊細な情景描写を挟みつつ、物語は展開していった。主人公は忌まわしい過去から足を洗い、少女との愛を深めていく。

心の距離が近くなっていくにつれて、主人公は、自分の過去について打ち明けるかどうか、悩みはじめた。数えきれないほどの人々を殺したことは明らかに黒歴史だ。隠したほうがいいに決まっている。打ち明けるなんてバカげていると思いながらも、伝えたいという気持ちが大きくなっていった。

ついに打ち明けることを決断した主人公は、はじめての夜に、「俺は連続殺人鬼だ」と告げた。縁が切れ、通報され、獄中に入れられるのを覚悟したうえでの決断だったが、意外にも、少女は怖がりもせず、キスを返してくれた。

それからというもの、大きすぎる秘密によって強く結ばれたふたりの絆はより頑丈になった。小説の中では、そのままハッピーエンドになりそうな雰囲気を演出していた。読者の多くも、そう感じただろう。

実際には、ラストに待っていたのは死だった。

ふたりで旅行に出かけ、ふたり並んで路線バスに揺られていたときだ。なぜか急にバス停でもないところでバスが停まったかと思うと、運転手が運転席から降りてきた。三〇代ほどの、冴えない顔の男だ。その手には長い刃物が握られている。

運転手は奇声を発すると、次々と乗客を襲いだした。バタバタと倒れ、血が飛ぶ。主人公は、少女を守るために盾となり、ぐさぐさと刺されて死んだ。

汗のように血を垂らしている運転手が次に目をつけたのは、ヒロインの少女だ。無抵抗のうちに少女は刺された。激しい痛みの中で、少女はただ運転手を抱きしめ、深い夢の底に沈んでいくのだった。

このラストの展開に込められた教訓として、千尋は感じた。ずっと展開を続け、ループしている。愛に満ちた人がいるように、殺意に飢えた人がいる。いまこの瞬間も、誰かは誰かを殺そうとし、誰かは誰かを守ろうとする。しかも、それはたびたび登場人物や細かい設定を変更しながら、何十年も前からずっとループしている。

暗闇の中を走りつづけている千尋は、当然、現在の状況が『蛙の戯曲』のラストと似通っていることに気づいていた。

この先、どうなるのだろう。疑問を浮かべつつも、なんとなく察している。

振りむけば、もう、なにも見えなかった。バスから遠ざかりすぎて、四方が闇になっている。

少し息を整えようと思い、千尋は、立ち止まった。空気を吸いたいという気持ちと、空気を吐きたいという気持ちがぶつかりあった喉で、できるだけ適切に呼吸をする。開き直ろうと努力したおかげか、いまなら、ちゃんと開き直れそうな気がする。わざわざ、意味もなく逃げたりしないで――。

ぜいぜいとしたままで顔を上げると、そこに先生がいた。驚きはない。慈しみの心があふれてくるくらいだ。

瞬間、腹部に痛みが走る。刺されたらしい。

なにこれ、めっちゃ、痛いじゃん。もしかして……。

この痛みよりずっと強い痛みが何十年も続いていたのか。そう思うと、千尋は、叫びたいほど苦しい気持ちになり、ぎゅっと先生を抱きしめた。先生の温もりの中に懐かしいものを見つけ、なにか大切なものを思い出した気がする。たとえばそれは、心の奥のほうで眠っていたわたしの――俺の――報われない気持ちとか、誰からも理解されないし、理解されてはいけない衝動とか。