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2022年7月8日の備忘録

できる限り距離を置きたいと思いながら完全に逃れることもできない。その割には年末には忘れていそうなので書き留めておく。なお、文中に地名がいくつか出てくるが、わたし(=筆者)は東京の東部に住んでいる。たぶん地域差があると思うので、悪しからず。


2日後に参院選を控えた7月8日。2年前に退陣した首相が亡くなった。

多くの功績を残したとされる政策のうち、私の手元へ確実に届いたのは布マスク2枚だけで、個人的な思い入れもない。それでも、人が殺められた事実を前には無力感をおぼえる。暗殺という言葉には、ポストモダンの世の中が、近代の延長線上にしかないことを実感した。

元首相は、選挙応援演説をしていて背後から狙撃された。その場では現行犯1人が逮捕された。犯行声明が発表されない中、数時間後、その事件は「テロ」と呼ばれていた。一般人への無差別殺人は「テロ」と呼んでないのに。

金曜日だった。夜になって新宿と秋葉原を見た限り、街に変わった様子はなかった。飲み歩く人の群れは金曜の夜を満喫して楽しそうだ。混み合う帰りの電車も、いつもと同じように週末へ人々を運んでいた。

次の日になると、テレビでは生中継の番組で、喪に服すような格好や、ACジャパンの広告が増えていた。しかし、少なくともわたしの生活圏では、昨晩のようなムードだった。天気がぐずつく中、ポイント3倍デーのスーパーが賑わっていた。要は、いつもの週末だった。

もし「日本中が悲しみに包まれた」と書く人がいるのなら、おそらく感情がたかぶっているのだろう。錯覚を起こしているはずだ。幸か不幸か、この事件自体は、そこまでの影響力を持っていないように見える。投票率の低さを考えれば、当然のことだとは思うけれども。

ただ、民主主義から逸脱した行為を何かの象徴とするのは危うい。被害者/加害者いずれに対しても、同じ距離から見ていないとバランスを崩しそうになる。糾弾の応酬はしばらく続きそうだ。人の死をいっときの喧騒の材料にするのを見るにつけ、むしろ民主主義の限界を見ている気がしてならない。

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