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吃音(きつおん)のことを久しぶりに考えた【ままならない身体】

朝日新聞(デジタル)「吃音芸人 炎上騒動と"話す"ということ」のおかげで、勤務先が休みなのに消耗してしまった。あまり当事者だからという話はしたくないが、記事の内容や反応に目に余るものがあるので、考えを整理してみた。※ちょっと長いです。

「吃音芸人」て何だろう

連載のタイトルで「吃音芸人」と立たせておきながら、「話芸」と日常の「会話」を混同させている。場を掌握する技術を含む「話芸」と、普通に「話す」ことでは次元が異なるのに。

そもそも笑いは露悪的なものを孕んでいて、誰かが不快になることもある。笑いのひとつの側面だ。第7世代が台頭した際も、彼らは傷つかないことを目的にしたわけではない。あのタイミングで多くの人に届く笑いが、あのパフォーマンスだったに過ぎない。

せめて、テロップに吃音の症状である連発を大写しして、スタジオで第三者(先輩芸人)が笑っていじる……笑いの生まれた構造分析ぐらいは、記事になっていてほしかった。もしくは、コミュニケーション論とかメディア論など、「話す」について掘り下げるとか。

噺家の界隈には数十年前から吃音の人がいて、芸として昇華している人もいる。ただそれを観客が笑うのは、ただ面白いからだ。一時から定番になった感のある「高学歴芸人」も、当然なら高学歴が理由ではなく、結果的に面白いから舞台に立ち続けている。

無関心とミスリードのコンボ

タイトルもひどい。【広まってきた「吃音=個性」当事者が望む、そのまま参加できる社会】という記事は、吃音をよく知らない人は(あぁ最近は個性って認められてるんだ~当事者も思ってるならそれでいいんじゃない?)と思うだろう。

動画を最後まで観たらわかるが、少なくともインタビューに応じた当事者(家族)は、番組での扱いに対して否定的な感想を持っている。記事は有料だがYouTubeで観れるからいいだろうということなのだろうか?

そもそも、吃音が障害と認められにくい状況は取材済だろうか? 確固たる治療法が確立されておらず、民間療法や個人の経験則で行われるアドバイス・セラピーが有象無象と並んでいる。それらの多くは言語聴覚士・社会福祉士の介入もなく、個人の見解が幅を利かせている。

他の障害に比べて当事者間で「個性であって障害じゃない」「障害とすべき」と意見の隔たりが大きいのは、当事者が制度の外に置かれることが多いのも一因。個性だと受け入れなければ、社会生活を送れない状態で生きている。それを受け入れろと第三者に言われるのは酷な話で、吃音を個性だと言う人は、「パラリンピックは必要ない」とパラアスリートにも言えるのだろうか? 

理想は「健常者」「障害者」という分け隔てがなくなることかもしれない。ただし、吃音をふくめ定型的な人との対比でスペクトラム的な障害になると、現実的なプロセスを外して「個性だから!」という話に持っていこうとする傾向には警戒しておきたい。

(小さい時なってたけど、治ったよ!)とか(緊張するとなるよね、わかる!)、(もっとリラックスしたら?)(腹式呼吸がいいらしいよ!)(人間だから、そういうときあるよね!)等々、善意のかたまりは厄介だ。

無関心がミスリードを導き、ミスリードが無関心を生む。反響の大きさに関係なく、こういう記事に限って学校や職場で濫用されるものだ。連休明けに、頼んでもいないのに「ほら個性だから!気にしないで!」って言ってくる同級生や先生、上司が全国で増えるのが目に見えている。

もし「吃音系批評家」がいたら

ことあるごとにクローズアップされるものの、「吃音(きつおん)」は、なかなか理解されない。

お気づきの方もいると思うが、わたしには発達性の吃音がある。固有名詞は置き換えられないので即死するが、ふだんは言い換えや言わないことで、変なリズムで取り繕いながら発話している。もちろん普通に発話できるときもある。吃音の頻度や出る出ないの波は、1時間の間にも起こるし、数年・十年単位で発生する。その度にいろんなところで信頼を失い、社会生活に支障をきたしている。

剝がれるメッキなら、最初から見せておこうと思って自分のプロフィールに「どもりながら」と書くようにしているが、メタ表現だと勘違いされているかもしれない。しかし、「吃音批評家」「吃音系批評家」などと名乗ったら、吃音を軸に活動をする人みたいだ。わたしは、たまたま吃音を持っているだけで、自分の一部に過ぎない。だからプロフィールには書かない。

「吃音なのに●●」は珍しくない

批評家と名乗るの人も珍しいが、そもそもインタレスティングたけし氏が「芸人」という特殊な生き方を選んだことを頭に入れて読んだ方がいい。その際、以下の記事も参考になるのでは。「炎上」と言われる前までの空気が読み取れる(無料記事です)。

連載の中で「吃音なのになぜ芸人を目指したのか」という問いに「好きだから」と答えているけれど、当たり前の話だよね、という感想しかない。

この質問は、何も芸人に限ったことではない。「吃音なのに?」という問いは、バイト先、部活動、就職時で、婚活で……多くの場所で常に吃音者が尋ねられている。吃音リーマン、吃音キャプテン、吃音ママ、吃音プロデューサー、吃音店員、吃音観光客、吃音クランケ……みんなどこかで、粛々と何かを思いながら生きている。「吃音なのになんで●●やってるんですか?」って、なんで聞いてくるんだろう。まぁ聞いてもいいけど、そんなに大した答えは出てこないと思う。

とにかく関心が薄い

はてさてこの記事は、露出に比べて言及が少ない様子。吃音に対する世の中の関心の薄さは相変わらずなのかもしれない。

SNSで「炎上」したということで取材が始まっているが、実際はそこまで燃えていなかったのではないか。協会への抗議を非難してRTした人も、非営利団体がお笑い番組に抗議するという態度が許せないというだけではないか。

間違っても、吃音で自己紹介が嫌だと言う人に「ほら、こんな人もいる」と善意を押し付けないでほしい。多くの人は偉人・有名人の「実は吃音だった」という話は聞き飽きている。マリリン=モンローも吃音で悩んだことがあったかもしれないが、吃音だから俳優として人気があったわけではない。

むしろ、下記のような記事や、東京都立高校のスピーキングテストを取材する方が、吃音を持つ人にとっては圧倒的に現実の問題だ。本当に吃音を知ってもらうなら、そういうところから始めてほしい……と思ったけど、この連載でやりたかったことって何だろう。


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