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そのノンフィクション、誰のため?/『女帝 小池百合子』

これまで緻密な取材を積み上げて対象に肉薄してきた筆者だが、本書はあまりにも掴みどころがなく、茫洋とした読後感が残る。それはSNSのタイムラインを長時間見ていた時に似ている。小池氏の虚無性を理由にあげる声を聞いたこともあるが、そうではない。対象への「違和感」を具体的に言語化せず、「虚無」の正体を掘り下げていないのだ。筆者も気づかぬところで、社会の歪みを曝け出す作品なのだ。

ノンフィクションは、時に推理小説にも似た読み味があるが、エンターテイメント小説ではない。事実をつなぎ合わせることで真実をもぎ取り、新しい地平を読者に示すのである。しかし本作には、これがない。まるでSNSのタイムラインのように事実と感情が垂れ流されている。実際のTwitterでも、彼女の本への言及を頻繁に見かけたし、肯定的なものも多かった。その意味で「SNS映え」向きの本なのかもしれない。しかしそれは、作中でも使われた「時代の徒花」のようである。

例を挙げよう。本書の中で、実際に小池氏から裏切られた複数の証言がある。彼女たちは「同じ女性だからわかってくれたと思っていた」と発言しており、筆者はこれに同情的である。

この「女性だからわかる」という言葉の胡散臭さは、筆者も実社会で十分に知っているはずだ。もちろん、証言者が受けた行為は重過ぎる。とはいえ、この事案特有の出来事ではない。そもそも「女性なら行う/行わない」などというのは、単なるステレオタイプで、日常に潜む罠である。筆者はそのまま、女性である自分はわかるはずなのだと思っている。だからこそ「違和感」の次が出てこない。ただ事実を並べて感想を言うことに終始している。

読み進める限り、小池氏の行動には日本社会の歪みが反映されている。しかし筆者は、それらすべてを無に帰す結論に至る。個人の資質の問題にすり替えているのだ。女性の視点で政治史を追った一連の取材は何のためだったのだろう?

社会が歪んでいる例をあげよう(一般論として聞いていただきたい)。 男性と同じことをしても、女というだけで不当に評価される。男性よりも見た目で判断される。男性なら勲章になることも、女性であればマイナスの印。媚びる女性がもてはやされる。男性は年を重ねると信頼を得るのに、女性は蔑まれる。さらに近頃は特に性差なく「古い」とラベルを貼ると排除する風潮が強まっている。つまり日本は、フェミニズムとルッキズム、エイジズムの巣窟なのだ。

もちろん、筆者もその状況に言及する。しかし、小池氏の判断を「違和感」としか表現せず、個人の問題に持ち込んでしまう。

厄介なことに、この作品自体が罠に囚われているのである。

まず、小池氏と同居していた証言者への肩入れが激しい。他にもいろいろな取材源に当たっているが、特定の人への思い入れが強すぎる。この書き味では、客観性を疑われても仕方ない。

次に、あらゆる事象を小池氏本人の素質のみに帰納していく凡庸さ。緻密な情報量の積み重ねの末の短絡的な結論には、個人的な執心すら感じさせる。

さらに、それらを(意識的/無意識的 )に行なってしまった。週刊誌の連載とは違い、書籍なら別視点での構成も可能だったはずだ。極端なことをいえば、新たな読み手に賭けることもできた。しかし、そうならなかった。とどのつまり「男性社会」を向いている。

筆者の意志とは離れたところで「女性あるある」を体現しているのだ。ーー感情が先行し、客観性を失うこと。女の連帯感と「名誉男性」。全体を顧みない、近視眼的な行動。ーーこれらは、女性について回る侮辱的な評価だ(ちなみに、男性が同じことをしても長所と言われるのだが)。それにもかかわらず、自らが隙を見せることで、その手本になっている。本当の問題は、書名が『帝王 小池百合子』ではなく『女帝 小池百合子』と付けられるところにあるのに。(1590文字)

*Photo by Evie S. on Unsplash

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