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三菱創業150周年と静嘉堂文庫

今年は三菱創業150周年で、その記念事業で小岩井農業の歴史的建造物の保護や、岩崎彌太郎の出生地である高知県安芸市の観光センターのリニューアルなどが行われているようですが、記念事業の一つに入っているのが、世田谷区岡本にある静嘉堂文庫美術館の展示ギャラリーの、丸の内の「明治生命館」への移転です。

静嘉堂文庫は三菱2代目岩崎彌之助と、4代目岩崎小弥太の親子が集めた、国宝7件・重要文化財84件を含む約20万冊の古典籍と約6500点の東洋古美術品を収蔵しています。

三菱は創業者の岩崎彌太郎が1代目、2代目は彌太郎の弟の岩崎弥之助、3代目は彌太郎の息子の岩崎久彌、4代目が弥之助の子の小彌太と、襷掛けのように総帥が入れ替わっています。その2代目、4代目親子の収集したものが集まっています。

三菱は1〜4代目は岩崎家が総帥を務めますが、4代目小弥太が亡くなった1945年、日本の敗戦で GHQによる財閥解体で岩崎家による財閥の継承が途絶えています。

1992年に静嘉堂文庫の創設100周年を記念して開館した静嘉堂文庫美術館は、2022年に開館30周年を迎えますが、その2022年に美術館が明治生命館に移転します。

静嘉堂文庫美術館は常設展を行っておらず、所有する国宝7件・重要文化財84件を常に展示しているわけではないので、今回の移転によって、貴重なものが公開されるようになるのだと思います。

静嘉堂の名前の由来と起源

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静嘉堂の名は中国最古の詩篇『詩経』大雅、既酔編にある「籩豆(へんとう)静嘉」という句から採られた三菱総帥2代目彌之助の堂号(書斎号)に由来するそうです。

彌之助は日本の歴史学研修の第一人者である重野安繹が開いた成達書院の門下生であった縁もあり、重野安繹の研究を援助する目的から古典籍の収集を始め、和漢の古書や古美術品の収集を熱心に行っています。

そして、1892年、彌之助は自邸内(神田駿河台)に文庫「静嘉堂」を創設します。

世田谷に静嘉堂文庫がある経緯

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1910年、三菱総帥4代目小彌太が父・彌之助の三回忌に合わせて岩崎家廟を世田谷区岡本に建設します。
現在も、静嘉堂文庫の庭園内に、鹿鳴館、三菱一号館などを手掛けたジョサイア・コンドルによって設計された岩崎家廟があります。

1911年、静嘉堂は岩崎家の高輪別邸(現・開東閣)に移転します。

1924年、世田谷区岡本の岩崎家廟の隣接地に、日本人初の英国の王立建築家協会建築士で、ジョサイア・コンドルの設計事務所でも働いた「桜井小太郎」の設計で静嘉堂文庫が建てられています。

岩崎彌之助の略歴

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1代目の彌太郎のことは歴史でも少し学んだりしますが、2代目の彌之助が何をした人物なのかを知りませんでしたので、総帥就任後からの簡単な略歴を作ってみました。

1885年に三菱初代総帥の彌太郎の死去により、三菱2代目総帥に就任。
弥太郎の死を契機に政府が仲介して、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して日本郵船が誕生。
1887年に東京倉庫(現在の三菱倉庫)を創業。
1890年、政府から丸の内陸軍省用地並びに神田三崎町練兵場土地を購入し、丸ノ内建築所を設置。
1891年、小岩井農場をスタート。共同創始者の日本鉄道会社副社長「小野義眞」、「岩崎彌之助」、鉄道庁長官「井上勝」の3名の姓の頭文字から命名。
1893年、三菱合資会社を設立。
「海から陸へ」の方針を掲げて、弥太郎時代に手に入れていた吉岡銅山(現、三菱マテリアル)、高島炭鉱(世界遺産)、長崎造船所(現、三菱重工業長崎造船所)、第百十九国立銀行(後の三菱銀行)に注力する。
1894年、丸の内に第一号館を竣工。
長男・小弥太は三菱の4代目総帥で、次男・俊弥は旭硝子の創業者。
ベンチャーキャピタルの分野で活動しているキャピタリスト・岩崎俊男とブラジル東山農事社長の岩崎透は弥之助の曾孫にあたる

岩崎小彌太の略歴

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1905年にケンブリッジ大学を卒業し、1906年に三菱合資会社の副社長となり、1908年の父 弥之助の死に伴い男爵を継承。
1912年、私立成蹊実務学校(現:成蹊学園)の創設に寄与
1916年に3代目総帥久弥の後をついで4代目総帥に。
1917年、三菱合資会社三菱造船所を株式会社(三菱造船株式会社長崎造船所)に変更
1919年、三菱合資会社神戸造船所から三菱合資会社神戸内燃機製作所として独立(後の三菱航空機)
1920年、三菱内燃機製造株式会社名古屋工場(現在の三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所)を開設。
1921年、神戸造船所の電機製作所が三菱電機として独立。
1934年、三菱造船と三菱航空機を合併して三菱重工業とする。重工業はHeavy Industryから小弥太が作った造語。
三菱鉱業株式会社(現:三菱マテリアル)と旭硝子(現:AGC)の折半出資により日本タール工業株式会社(現:三菱化学)設立
1945年にGHQによる財閥解体で岩崎家による財閥の継承が途絶え、1945年12月に死去。
1952年、小弥太の養子の岩崎忠雄が後に社長を務める三菱モンサント化成が創業。
1955年、小弥太の邸宅跡地(東京・麻布鳥居坂)に国際文化会館が竣工。

静嘉堂文庫の沿革

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1892年に岩崎弥之助が神田駿河台(東京都千代田区)の自邸内に文庫「静嘉堂」を創設
1908年の弥之助死後、その子岩崎小弥太は父の遺志を受け継ぎ文庫を拡充。
1910年に小弥太が弥之助の三回忌に合わせて岩崎家廟を世田谷区岡本に建設。設計は鹿鳴館、三菱一号館などを手掛けたジョサイア・コンドル。
1911年には岩崎家の高輪別邸(現・開東閣)に移転。
1924年には岩崎家廟(世田谷区岡本)の隣接地に、日本人初の英国の王立建築家協会建築士「桜井小太郎」の設計で静嘉堂文庫を建てる。
1940年に小弥太は財団法人静嘉堂を創立。
1953年に同じく三菱系の私立図書館である東洋文庫(創設者は三菱第3代総帥岩崎久弥)とともに、国立国会図書館の支部図書館になる。
1970年に三菱グループの援助を受けて国立国会図書館の傘下から離れ、再び三菱グループ経営の私立図書館となる。
1992年には創設100周年を記念して建設された新館に恒久的な美術館を開館。
2022年、美術館の開館30周年ならびに三菱創業150年(2020年)の記念事業の一環として、2022年に東京都千代田区丸の内の明治生命館に移転の予定。

参照

三菱グループ 創業150周年記念事業紹介
ウィキペディア「三菱財閥」
ウィキペディア「岩崎弥之助」
ウィキペディア「詩経」
ウィキペディア「日本郵船」
ウィキペディア「共同運輸会社」
三菱地所「沿革」
ウィキペディア「第百十九国立銀行」
ウィキペディア「ジョサイア・コンドル」
ウィキペディア「桜井 小太郎」
ウィキペディア「重野 安繹」
ウィキペディア「岩崎小弥太」
三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所
三菱電機「沿革」
ウィキペディア「三菱電機」
ウィキペディア「三菱重工業」
ウィキペディア「三菱航空機」
ウィキペディア「三菱化学」

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