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Restart:飯館村

この短くも充実した旅をしてから随分と時が経ってしまった...兼ねてから訪れたいと思っていた福島県 飯館村に念願叶って行く機会に恵まれました。2018年3月24日の話になります。

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東北新幹線は普段あまり乗る機会がないのですが(だいたい東海道新幹線圏内での行動範囲になってしまっているところがあるので)やまびこ号のアナウンス放送がやまびこをイメージしているのか、

『あしもと~あしもと~あしもとに~ご注意ください』

と、繰り返しているところなんだかおもしろいなぁ・・・なんて思いながら仙台行きの新幹線に飛び約1時間半。私は静岡が地元なので乗り継ぎの乗り継ぎにはなるものの東京⇄福島って意外と近いんだなと驚いたりもしました。静岡からだと2時間半とちょっとくらいで行けるので、こだまで静岡⇄新大阪に数分加算した位の時間と考えると日帰りでも範囲内な距離かもしれない...(あくまで私の中ではですが)

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福島駅に到着。ちょっと早く着いてしまったので集合場所を探そうと思ったらすでに係の方が改札で待機されておりました。普段旅をするときは完全な個人旅行なのですが、今回はバスツアーでの参加でした。

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国宝ハンター 橋本麻里さんと行く、飯館村・山津見神社の オオカミ絵に会いに行くバスツアーです。ええっ?飯館村のバスツアー?しかも、山津見神社の狼絵の天井画を橋本さんの解説付きで見に行けるの?と思ったら申し込まずにはいられませんでした。Twitterで募集告知を見るなりその日にすぐ申し込みしたのは言うまでもありません。集合場所に行くとすでに橋本麻里さんも待機されていたのですが・・・・

このつぶやき通りで風邪を引かれていて本当にお辛そうでした・・・・。

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今回のバスツアー前日まで問い合わせがあったほど人気があったようで募集開始直後にすぐ連絡して本当に良かった・・・・定員も40名バス1台の予定だったそうなんですが、60名に増員してバスも2台に。

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1号車に案内されてツアー参加者のみなさんとともに乗車して、ここからさらに1時間ほどかけてバスで飯館村に向かいます。

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車窓から飯館村の風景を眺める。2011年3月11日の震災から7年(訪問当時)まだひっそりとしています。飯館村には私はこの時が初めての地でしたので昔と今を知りませんが、道を歩く人やすれ違う車がまだあまり見受けられませんでした。

ひっそりとしている。この時は、そう感じました。

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飯館村の景色は、田んぼ→畑→山が連なっています。逆側の車窓からは住宅がポツリポツリと建っていたのですが比較的新しい新築の家が多い印象でした。

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2018年3月時点で避難区域が一区域を除き解除され徐々に村民は戻り始めており、6000人ほどいた村民の約1割が現在飯館村に戻り生活されています。村への出入り(仕事等で)含めると2〜3割程なんだとか。

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臼石小学校
この校舎は、飯館村が避難区域になって以来は子供たちが通う事は無くなった。川俣町飯坂に作られた草野・飯樋・臼石の3つの小学校の合同仮設校舎で子供達はそれから6年間通学する事になる。長いな...仮設校舎で何人の子供達が卒業したんでしょう...。

2018年3月に新校舎が完成して4月1日に開校式が行われたそうである。当時、この話を聞いた時は率直にとてもいいニュースだと晴れ晴れとした気持ちになったものですが、あれから随分と時が経ち一旦落ち着いた状態で思い返してみると考えさせられたりもしました。

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外を眺めているとあちこちに緑色のシートで覆われたものに目が行きます。これらは、除染廃棄物であり貯池の放射線セシウム(極めて濃度は低く農作物には影響が無いものです)をどうするかが今後の課題だそうです。2019年もこのツアーがあったのですが残念ながら募集に気づくのが遅れてしまい定員オーバーで参加できなかったので自分の目と耳で実際に確認できていない(2020年の今年も開催予定しれていたのですが新型コロナウイルスの影響で残念ながら中止になってしまいました)のですが少しでも進展していればいいのですが、非常に複雑でそれぞれ管轄が違うようで役場の方々のなんとも言えないもどかしさが心に届いて来ました。

私の住む静岡にも浜岡原発がありますし、子供の頃から東海地震はいつか必ず起こる地震だと教えられて育って来ているので必ずいつか同じ状況になると思っているので他人事とは思えないところがあります。

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公共の施設が建設され、警察と消防が戻って来ました。そう役場の方が嬉しそうに言っているのが印象的でした。

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少しずつ、少しずつ前へ。
毎年あの時を忘れない。と、TVで繰り返し震災の映像が流れますが忘れない事は確かに大事ではあるけれど教訓と対策と今後のあり方を考えないのであれば、只の後戻りでしか無いと思えて来てしまうのは私だけだろうか。大事なのはこれからであり、ただ、それは急がず慎重にやるべきものなのだとも。

飯館村交流センター ふれ愛館

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飯舘村交流センターふれ愛館に到着。

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今回のツアーの主な募集媒体はSNSだと思っていた(お話しした方の殆どが私含めてTwitterを見て....だった為)ので参加者の年齢層の幅広さに驚きました。チラシやポスターなどでの募集もあったんだろうな。30〜50代くらいの方の参加が多くそこに20代の方が少々という印象。

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まずは、今回のツアーでナビゲーターを務めている国宝ハンター橋本麻里さんのご挨拶。風邪で喉を痛めていることから、これからメインの講演があるためちょこっと短縮。

橋本さんのTwitterをフォローさせていただいているのですが、幅広いジャンルの情報を常に発信されているのですがいつもあちこち講演に飛び回っていていつ情報のアップデートをしているんだろうとか情報量の蓄積する術を学びたいです・・・・。

昼食会

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お昼ご飯は、村の方々が作ってくださった郷土料理をいただきました。いただいている時、それぞれのお料理を担当された方達がひとりずつ説明をされていたんですけど恥ずかしそうに照れ臭そいうに話していてとても可愛くってなんだか自然とにこにこしてしまった。

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どれもとっても美味しかったんですけど、特に美味しかったのが左下の写真の白菜の粕漬け。これとっても美味しかった・・・・家でも作れるかな?とあの時の味を思い出しながら何回か作ってみたのですが何かが足りなくて再現できていないのですがまた食べたい味。左上の草餅のようなものは飯舘村の郷土食の凍み餅というお料理なのですがそれにかかっているふきのとうの味噌だれと砂糖醤油でいただいたんですがふきのとうの味噌だれは初めてでしたけど美味しかった。

凍み餅の隣の肉だんごのようなものは、“いいたてベイク”という飯舘村で開発された新品種のジャガイモで作られたみそいびりという郷土料理。素揚げしたジャガイモを甘辛い味噌で絡めてあるのですがこれも美味しい〜!!おやつとしても食べれちゃいそうでした。

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飯館村蕎麦打ち愛好者の会 愚真会の方々が腕を振るって蕎麦打ちしてくれた十割そば。コシのあるお蕎麦でおつゆとの相性も抜群に美味しかったです。

お昼ご飯も無料で提供してくださったのですが、仕出のお弁当を用意と言うわけではなく村民の方が手作りで振る舞ってくれるというのがとても良かった。それぞれのテーブルに村民の方が必ず1人〜2人座り飯舘村での暮らしやお料理のことなどお話ししてくれたり、どこからいらしたんですか?などと話しかけてくれたりして自然と参加者の方々とも会話しあう流れを作ってくださったりして暖かみのある昼食会でした。

昼食会が終わったら今回のメインである山津見神社へ再びバスに乗って移動です。

山津見神社

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虎捕山津見神社に到着。

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山津見神社の眷属は狼。狛犬同様に阿吽の対になっています。

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狼だけあって鋭い爪。狛犬も尖った爪になっているものもありますが比較的大人しめの印象があります。

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こちらが狛犬/獅子の爪。狼の眷属と違って架空化した風貌の分野生味は少なめなのかな?という印象です。狛犬にも種類分けがされているのですが、狼眷属は、山犬型に分類されています。

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境内に鉄球が置いてあってこれはなんなんだろう?とみんなで興味津々に。持ち上げようとする人も 笑 これは力石というらしいんですけど、元々は大砲の玉なんですって。こんなものが飛んできたらひとたまりもないですよね・・・

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境内の散策もそこそこに拝殿に向かいます。

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山津見神社の拝殿前にも狼の眷属が一対あります。阿形の狼はまるで唸っているみたい。参道から階段を上り切ってすぐにいた狼のほうが野性味が強く、拝殿前の狼はやや犬よりの狼(オオカミ犬のような)のように見えますね。

山津見神社拝殿

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参拝後、拝殿内の復元された狼絵の天井画を拝見しました。2011年3月に起きた東日本大震災の時点ではこの天井画は無事でした。2年後の2013年4月に火災により拝殿共々全焼してしまったそうです。

その時、宮司の方の奥様が亡くなられています。
火災が起こった時SNSでとある東北のライターの方の呟きをRTで見かけていたのですがまとめられたものを後日拝見してからずっと山津見神社のことが気になっていたんです。

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以下、山津見神社の事、狼絵の事、狼信仰の事など橋本麻里さんによる解説を交えて記載します。

火災の2ヶ月前、2013年2月、オオカミ研究をしている方々(和歌山大学観光学部の加藤教授とサイモン・ワーン助教)が当時現存した天井画237枚を全て写真に収め記録していたのだそうです。その時は、まさかその2ヶ月後に全てが焼失してしまうなんて思いもよらなかったでしょう。

しかし、それが決め手となり復元プロジェクトが実現されました。

これは、ツアー終了後に帰りの新幹線内でプロジェクト関連の記事を読んだ際知った事なのですが、

"宮司の方が天井画の保存状態が良くない。と、その時言われていたのだそうです。それを聞きお二人がデジタル保存をしようと全ての天井画の撮影をした"

のだとか。

解説を聞いていた時点では、すべての天井画の撮影をしていたなんて...こんな奇跡ってあるんだな。と、思っていたのですが、この補足部分を知った時、虫の知らせだったのではないか...と。

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復元は、東京藝術大学保存修復日本画研究室の荒井准教授を中心に生徒さん達が担う事となります。復元にあたり写真を実寸大まで拡大して敷き写し(トレース)するのが正確な復元画になるが、なぞる事で線が死ぬ。例えると、筆のかすれや線の勢いが出せないというデメリットがある。そこで、"臨摸"という手法でプロジェクトは進められていきます。

臨摸とは、徹底的に何枚も何枚も描き込み体に叩き込んでから本番は一発描きで描いていくというもの。まさに"復元に臨む"。この手法を聞いた時心が震えました。

橋本さん曰く、

『敷き写しで有名なのは、風神雷神(俵屋宗達 筆)で、尾形光琳がやっていますね。酒井抱一も風神雷神を描いていますが彼は臨摸。この3人の風神雷神が一堂に会する展示があった時、其々の風神雷神の線画を写し重ねるといういやらしい展示がありまして(笑)光琳は完全一致して抱一はあ〜残念でしたという結果に。』

しかし

『宗達の雷神は、背中に背負っている太鼓が屏風からはみ出しているんですよ。そこが壮大というか、迫力があって動きが感じられる。そこがいいところなのに、光琳は屏風の中に全部描いちゃったんですよね。そこが光琳のダメなところなんですけど。』

この話直接オオカミ絵に関しては関係はないですが、面白かったです 笑

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天井画の絵師は誰だったのか?これは、伏見東洲ではないかと言われているのだとか。東洲は根元愚洲が師であり、愚洲の師は谷文晁で遡っていくとあぁ〜!!となる。

ニホンオオカミが、最後に捕獲されたのは明治38年であり山津見神社拝殿の造営が明治37年なのでその頃にはオオカミを身近で観察して描く事など出来ない(絶滅寸前であった)状況になっていただろうと推測できるので恐らく想像で描いているのだろうと。

お寺やお城に行った際、障壁画等で虎図を見る機会があると思いますが、日本には虎がいないので、中国の絵や毛皮なんかを取り寄せて描いていたという話は、案内付きの見学会などでよく聞く話で、稀に虎と豹が一緒に描かれているものなどあります。

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これは、以前私が拝観参拝した京都府花園にある妙心寺 塔頭 天球院にある襖絵で狩野山楽と山雪による『竹虎図』なのですが、よく見ると中央の子虎といる虎の尻尾は豹柄であり、右手側にいるのは豹なのが確認できるかと思います。

昔の日本では、先程述べたように虎がいない国であることから輸入して毛皮(猫に毛皮をかぶせて描いていたなんてこともよく聞きます)や絵なんかを参考にして絵師達が描いていたわけですが、うっかり豹の毛皮が紛れ込んでいた事があり、大きさの違いから小ぶりな豹が雌だと勘違いして描いていたんじゃないかと言われています。

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明治はかなり最近の時代で写真も江戸後期には導入されていますがまだまだ舶来品であったんでしょう。きっと犬を狼に見立てて描いていたのだろうなとうかがえるのが、こちらの復元画。ブチ柄のなんとも珍しい狼です。

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解説の中で橋本さんがいっていましたが、狼信仰は古くから信仰されていると思われがちではあるが、現在私達が確認できるものに関しては江戸時代中期以降の比較的新しい形態のものであるという話を敢えて言ってくれていて、信憑性を感じました。こう言ったものは時折独自の解釈で述べられるものなどもあるため、人によって違うことを言われて混乱する事が稀にあるんですけど、ありがたかった。

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これらは、ほんの一部の天井画であり時間の都合上全て見ることもできなかったのが悔やまれますが狐のようだったり鼬鼠のようだったりと個性的な狼絵が沢山あってとても面白かったです。

寺社仏閣などにある天井画は花鳥図が多くそのほとんどは装飾で、涅槃図など動物が存在するものも稀にありますが、ここまで狼だけというのは極めて珍しくあまり例がないのだとか。

山津見神社には、拝殿の先の虎捕山の山頂に奥宮があり、そちらが本殿になるのですがツアーにはこちらの参拝は含まれておらずとはいえ山登りになり紐 をつたって登るところもあるようで骨の折れる参拝にはなりそうなんですが行ってみたいです。山中には墨虎が潜んでいた岩窟もあるのだとか。虎捕山からは海(太平洋)も見えることから海が見える山の神としても崇められ親しまれているそう。豊漁と海上の安全を祈願する方々も多いそう。

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橋本さんのお話の中で、オオカミの護符という記録映画の話題があり気になったので取り寄せてみたのですがとても興味深い話でした。全国の狼信仰について細かく記載されています。記録映画の方も購入して拝聴したのですがこちらはより一層詳細で映像で見るとまた興味が引き立てられました。

天皇の代替わりで時代が平成から令和になりましたが先日大嘗祭が行われ極めて宗教的ではありますが、大嘗祭関連の本がよく読まれているそうでなかなか知る機会が少ないこうした宗教的な行事に興味を持ち始める人々が増えてきたのでしょう。ただ、悪い方に進まないで欲しいなとは思っています。(最近の御朱印ブームには眉を潜めているところがあったりするので...)

日本は諸外国に比べ宗教的信仰心が薄く、それでいて身近で自然に神仏と触れ合う(受験だから天神さんに行こうとか、初詣に神社に行こう、お盆だから故人に挨拶にいこうなど)不思議な国で不思議な私たち。信仰の種類が膨大なのですがそれぞれのルーツを辿るととても面白く、興味が深まるこの頃です。

山津見神社御由緒リーフレットより抜粋

御祭神  大山津見神(大山祇神)
御由緒  後一條帝の御代(約900年前)真野の里に生まれ育ったと言われる橘 墨虎という凶賊がおりました。

墨虎は容貌魁偉、神通に長けた豪の者で常に部下を卒き連れて村落を横行し民家を襲って財物を強奪し

『墨虎の通る時は駅民皆縮みあがり遁げ惑う』状態となり良民は大いに難渋しておりました。 墨虎は霊山にもの物見台を設けて遠近を一望するなど、勢力益々強大となり、当時の豪族たち皆墨虎に服従して朝命に従わず、まさに猛虎の如き勢いとなりました。

後冷泉帝の御代永承六年、源頼義公奥境鎮守のため下向し掛け田に陣した時、駅民達窮状を訴えて墨虎を退治して難を除き給えと哀願しましたので頼義公は部下に命じ墨虎を討たせる事になりました。

墨虎は、霊山の嶮に拠りよく戦いましたが遂に敗れ、単身亘理(宮城県)まで逃れましたが、又立ち戻って隠現出没捕らえる事が出来ず、さすがの頼義公も大いに悩んでおりましたところ、或る夜夢の中に山の神が現れ

『墨虎を獲んと欲せば白狼のあしあとをふみ追うべし』

とお告げになられました。

頼義公は直ちに臣藤原景道に追跡を命じました。景道は郷人菅野蔵人、今神助右エ門を嚮導者として山中に入り、嶮しい山嶺、荊棘の中を踏み分けて探ね歩いてゆくと、果して獣跡が点々と一きわ高く突き立った巌石に向かって続いており、これを辿って遂に岩窟(籠石)に潜んでいた墨虎を見つけました。

景道は憤然として 『墨虎天罰免れるべからず朝命の刃に伏せ』 と叫びざま、逃れようとする墨虎めがけて短刀を擲って背より腹に刺し貫きました。 遠近始めて安堵、頼義公大いに山神の威徳と感じ、山頂に祠を建て虎捕山神と御名を称えて報賽致しました。

後、国司北畠顕家郷城を霊山に築かれた時、頼義公の遺積を敬重し且つ大神の威徳により屢々戦捷したので篤く崇敬したと云われます。

墨虎を捕らえたことから虎捕山と呼び、刺(さす)は佐須と云う地名になったと云われます。

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山津見神社のオイヌサマのお札と御守り。

ここ数年、博物館や美術館に今まで以上に通う事が多くなってきたのですが、古事記や日本書紀の展示を見る事が多く自分でも読む機会が増えていたりします。山津見神社の御祭神である大山津見神は、古事記と日本書紀とでは生まれが違ったりするんです。

古事記・・・・伊邪那岐と伊邪那美との間に生まれた御子神
日本書紀・・・伊邪那岐命が火之迦具土神を斬った際生まれる。

どういった経緯で生まれが違ったのかは、調べ方が分からなくてまだ知らないのですが、神話関係(歴史上の人物などもですが)時々こういった何種類かの誕生のお話があって興味をそそりますね。

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山津見神社には、縁のある人は2匹の白狼が見えるという伝説があるらしいんですが、墨虎退治に一役かった白狼の姿なのかな?お守りにもその2匹の白狼がいます。お札は火難盗難除けのお札。

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山津見神社御朱印&リーフレット

こちらのリーフレットは伝説や民俗学的要素が読んでいてたのしかったです。書籍があれば購入したかったですが時間の都合でじっくり見ることは出来ずでしたのでいずれまた参拝したいですね。

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話が脱線しましたが、山津見神社から再びふれ愛館に戻り交流会がありました。hanasaka girlの最後のポストカードが家にあったので記念にパチリと。この作品を含めグッズ化したものや作品の売り上げは活動期間中福島県に寄付を続けていました。現在の作品スタイルは東日本震災がきっかけであったことが大きかったので、あれから随分年月が経ってしまい自分の中でもいろいろなことがあって喝を入れるために福島県飯舘村にやってきたのが目的でしたがなかなか踏ん切りがつかづに進んでいません・・・わたしも早くあの時の勢いを取り戻したい。

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コーヒーとお菓子をいただきました。このコーヒーは以前飯館村にあった亜久里珈琲という喫茶店(現在は福島市内で営業)の珈琲!!私、珈琲好きなんですけどこの珈琲がとっても美味しかったんですよね・・・・。福島に旅行に行った時はお店に行こうと思います。

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テーブル毎、違ったお花が飾られていてちょっとした気配りが嬉しい。

道の駅までい館​​​​​​

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交流会の後は道の駅までい館へ。
今回のバスツアーは国からの助成金で開催されているので参加者は参加費無料でこのツアーに参加出来ているのでここではじめてお金を使うという・・・・。

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真新しく綺麗な道の駅です。

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館内はたくさんの花が吊り下げられていて、大きな鯉のぼりが。
天井がガラス張りで陽の光で明るいところがいいですね。軽食やお土産などがずらりと並ぶ。当時はまだ飯舘村での品はなかったけれど、郷土料理関連のものが並べばいいなと思った。

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菅野千代子さんの写真集を購入しました。
おばあちゃんカメラマン。千代子さんの人柄がうかがえますね・・・写真に写っている人の表情が活きいきしていてとても良かった・・・。こんな写真多分わたしは、撮れないだろうな。

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福島桃グミとチョコレートなどなど。他にもお土産用にいろいろと。

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参加した身としては言うべきではないのかもしれないが、違和感を感じていた。この時はうっすらとでしかなかったのだけど、時間が経ってからその違和感がなんだったのかはっきりとしてきた。

これはまでい館を出てすぐの光景である。先に見える学校は憶測だがこの時点では学校としては使われることはなかっただろうと思う。地図で検索をかけてみたがGoogle mapやApple mapsではまでい館の周辺の詳細が表示されなかったので学校名などはわからなかったので断言はしないですが、この場所からみた外観はとても綺麗なのでこういった建物は数年人が入らないだけでかなり傷む物なので定期的にメンテナンスはされていると思いますが、仮の物置だったり・・・常に人がいるという建物ではないように感じられます。憶測だけでモノを言うのは良くないことですがあくまで感じた事として、です。

写真の通り閑散としている・・・・この時点では先に述べた通りまだ1割の方が村に戻られているという状況だったので仕方のないことなのかもしれないけれど以前の人口の4割(村民及び移住者等)程度になった状態でなければ観光客を呼び込むのは難しいのではないだろうか・・・・・と。そう感じるのである。

2018年に新設された学校に関してもそうである。

復興の象徴=子供たち

うん・・・・そうなのだと思うのですよ・・・・確かに、ただ段階が早い。もしもわたしがブログを書くスピードが速い人間で行ったその日に思ったままを更新する人間だったらやっと念願叶って訪れることのできた飯舘村・・・そして山津見神社を参拝できた喜びで浮かれた気分で記事を更新したのかもしれないが、数年後やっと更新を進める人間であるが故に、いろいろな事を考えるという時間が発生してしまうのである。

例えば、”緑色のシートに覆われた除染廃棄物と極めて濃度は低いものの貯め池にある放射線セシウムをどうするか・・・これが今後の課題”  これを聞いていたので思い返すとこの最大の課題がクリアできない状態で復興の象徴として最初に投入するのが子供達というのはもしもわたしに子供がいたのなら少しでも心配事がクリアされた状態で・・・と思うだろう。

焦る気持ちもとてもわかるんです。このまま進まなければ何も変わらないと。課題もクリアするにも管轄が決まらなければなにも始まらないしきっとお金の問題もあるだろう。どこが負担するのか・・・これは大きいと思います。ただこればっかりは慎重に進めなくてはならないし、全ての人が手放しで喜んだことでは無いかもしれないな・・・ネットの情報もニュースもTVのドキュメンタリーや個人ブログに関しても主観が人それぞれ違うので感じ方も千差万別であり鵜呑みにしていいのか・・・と考えることがとても多い。もちろんわたしが抱いた感情に賛同してくださいとは言わないし違った意見があって当然だと思う。

確かに道の駅は助成金が出るものでもあるので、そう言ったものから着手していくのが進みが早いのかもしれないが、人の出入りがこう言った企画以外まとまった人数がやってくるのは少ないだろうし経営として成り立つのだろうか・・・とは思ったのだが、道の駅自体が全国的にも黒字は一部で、赤字がほとんどなんだとか・・・

今の段階だと国からの助成金で定期的に観光客を呼び込みそこから後々移住者が少しずつ増えはじめ人口をふやすというのもありなのかもしれない。実際このオオカミ絵バスツアーはあっという間に定員が埋まる人気のバスツアーですし。ただ年に1回の企画なので他の企画を把握していないので年間どのくらいの観光客がやって来ているのかは定かでは無いですが・・・。

少々否定的な事を書いてしまいましたが、今後の進展に関しては心から良い方向に発展していく事を本当に祈っています。個人的に必ずまた訪れたい村です。なにより、ここは外国人観光客がごった返していたり、店に外国人の店員しかいないなんてことがないのが本当に良い。ここは日本だ・・・と実感できる。自然が豊かで美しいところだ。時間はかかるかもしれないが少しずつ少しずつ良い方向に向かっていって欲しい。

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までい館でのお土産購入タイムを終えてバスで福島駅へ向かっている時ふと目に入ってきた不思議な雲と遭遇しました。生きているような雲。よく見ると・・・・

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彩雲です。時々ネット上で写真を(もっと派手なものを)見たことがあるけど実際みたのは初めてかもしれない。日中仕事をしていると空を眺めることもなかなか無いですしこれは感動しました。目にしたら幸福が訪れる〜なんて言われている彩雲、飯舘村の復興を願っています。

時間が経つと考えさせられることもありましたが、ツアーの企画はとても素晴らしかったし村民の方の暖かさや優しさに触れることができて、なおかつ普段交流することがないかもしれない参加者の方々といろいろなお話ができたのもとても良い体験でした。




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