母に対する愛憎が解決した話。海外でのセルフセラピーの記録。
やあみんな、かずまだよ。
俺は四月一日からヨーロッパに、四十七日間の旅に出ていて、つい最近日本に戻って来たから、そのまとめのような記事を書こうと思って、久しぶりに筆を執ったよ。
このヨーロッパの旅では、観光の旅と、心の旅と、その両方を味わうことが出来た。
観光の方は旅チャンネルで紹介するとして(どれくらい先になるのか🤣)、今日は心の旅の方を紹介しようと思う。
この記事を読むと、セルフセラピーのコツのようなものが理解できると思う。
また、自分との付き合い方のヒントにもなれば幸いだ。
子供に読ませるにはちょっときつい内容もあるけど、大人になったら読んでほしいとも思う。
さて、振り返ると、この一年間の旅で三つの大きな転機があった。
①欠けていた母性
②母親への感情
③人生の前半の認識
転機というほどではないが、おまけで④旅の仲間も書いておきたい。
それでは、これらをひとつひとつ書いていく。
①欠けていた母性
これは前日譚で、タイでの出来事。二月後半に十日間くらい行っていたときのこと。
俺はタイのホテルでハッピーになった状態で、女と寝た。(タイでは合法)
そもそもの前提を書いておかなければいけないが、俺は母親に対して複雑な気持ちを抱えていた。
それは世間一般に言うようなマザコンという意味ではなく、愛憎の葛藤ということである。
少年時代に、思うように甘えられなかったこと。
十七歳で俺が人妻と不倫して勘当されて絶縁されたこと。
三十四歳のときに二度目の離婚をして、そのときにもう一度絶縁されたこと。
人間だから、母親に愛されたいと思うのは、すべての子供にとって当然のことだと思うが、俺はその気持ちが満たされないまま大人になっていた。
いいとか悪いとかではなく、事実を書いている。
母の愛に満たされている人は、背中に一本芯が入っているようなもので、「私は愛されて育ちました!」的な天然のかわいげ・自信がある。
それがない人は、あとで後天的にじぶんでそれを作り上げる必要がある。
俺などもそのクチだが、自分で自分を愛したり、他人から愛されることで、その芯を作ることができる。
ただし、やはり母の愛への飢えはどこかにある。
いつもその飢えがあるわけではないものの、恋愛のときにはそれが重要になることもある。
ここまでが前提の話。
さて、このときのタイで一緒に寝た相手の人は、とても愛が深く、同世代の人なのだが、俺を子供のように可愛がってくれる人だった。
なんでもかわいいと受け止めてくれて、優しくしてくれる。
俺は母性への憧れを強く持っている人間だから、その部分に惹かれていた。
草でハッピーになっているまさにそのとき。俺の意識レベルは非常に深いところまで達していて、身体を容易に動かせないほどキマっていた。
音の聞こえ方が変わり、脳のある部分がつめたく冷えて活性化しているのが自覚できるほどの状態だ。
時間間隔も変わり、一秒がどんどん伸びていく。
その状態で、その人は俺を抱いてくれた。
そして限りない愛を惜しみなく注いでくれた。
それは、通常感じられる量の、何百倍もの愛だった。
俺の受容感覚が鋭敏になっていたからだろう。
脳細胞のひとつひとつで愛を感じ、受け取った。
俺は降り注いでくる無限の愛のなかでのたうちまわり、歓喜にあえいだ。
それは無条件の愛だった。
取り引きのない、純粋な愛だった。
無償の愛で、全肯定の愛だった。
そして、それはメタファーとしての母だった。
母性は実の母親からでなくとも浴びることが出来る。
その愛を受け取ることができる。
母の愛を、俺はその人から受け取った。
鳥の声が天上から聴こえてくる。
そのさえずりがリフレインし、無限に展開していく。
俺の意識は膨張し、そして爆ぜた。
花火のように自我が打ち上がり、そして霧散していった。
からだではなく脳の絶頂だ。
極度の快感で全身がビクビクと痙攣する。
それは母の愛と性的快楽との融合である。
この人は俺のすべてを受け入れてくれている、と全身で感じ、理解した。
眼差しや、髪を撫でる手付きや、頬に触れる唇などの肉体言語がそれを雄弁に物語っている。
その懐の深さに涙が流れた。
彼女のなかに母の愛を見た。
欠けていたもの、損なわれていたものが、満たされていった。
それは紛れもなくセラピーだった。
この出来事のあとから、俺は少し変わったように思う。
より満たされた人間になった。
元々精神的に安定している人間だったが、さらにそれが強固になったようなイメージだ。
また、この件はセラピーやセラピストの力を思い知る出来事となった。
他人の力を借りることは、弱いことでも情けないことでもない、と改めて認識した。
ヒトはお互いに関わり合う生き物だからね。
②母親への感情
その後日、俺は一人で深く深く内面に潜っていった。
夜、電気を消して真っ暗になった部屋で、心の内側に入っていった。
その日は自分の内側の声がとてもクリアに聞こえてきていた。
誰かが何かを言っている。
そう、子供の時の俺だ。六歳くらいだろうね。
「お母さんは嫌いになれない。
お母さんが好きだ。
捨てられて悲しかった、傷付いた。
でもあの人はそういう人なんだ」
子供の俺がそう言っていた。
俺はそれを肯定した。
お前がそう思うのも無理はないよ、よくわかるよ。
まだ子供だったし、人間だからね。
そして目を向けたくない事実も浮かび上がってくる。
「人間ってそうなんだ」って、そう思いたくて、俺も同じ事を女にしてきたなあ、と。
何されても好きでいていいって思いたかったのかもしれない。
それを肯定するように、俺がどんなにひどい人間でも、「結局何されても好きだ」って言って欲しかったのか、と。
母親を許したかったし、母親に愛されたかった少年時代の自分を許したかった。
そして、少年時代の俺は納得したかった。
ずっと傷がジュクジュクしていた。
痛んでいた、恨んでいた、呪っていた。
話をもとに戻して、俺は少年時代の自分の苦悩の声に耳を傾けた。
話を聞いていくうちに、だんだんと論調が変わってきた。
これが潮目である。
六歳の俺が言う。
でも○○から物凄くたくさんの母性を貰えた。
○○がたくさんの母性を注いでくれた。
受け容れてくれた。
それが本当に嬉しかった。
言葉に出来ないほど。
あのときの一件で、俺の母に対する気持ちがどこか氷解していった。
それが効いている。
少年時代の俺の独白は続く。
母親を求めることを肯定してくれた。
母親に甘えることを体験させてくれた。
それで俺は傷を癒やすことができた。
母親を肯定することができた。
ここで少年時代の俺が光り輝いた。
この視点が今回の心の旅には必要だったようだ。
そして、俺を妊娠したときの母親が出てきた。
まだ高校三年生の若い母親で、子供のようだった。
実際、十八歳なんて子供だ。
でも、そんな若い母から、『俺を守ろう』という気持ちが伝わってきた。
その気持ちがありがたくて、嬉しかった。
俺を十ヶ月間、お腹の中で守ってくれていた。
その期間がよみがえってきて、愛を受け取ることができた。
俺は守られていた。
俺は愛されていた。
それを受け取りに行った。
お礼を言った。
「守ってくれて、産んでくれて、ありがとう」
そして我が身体を慈しむ。
俺の頭脳は父親よりも母親譲りだろう。
知性、IQ、ヒトの本能タイプ(外交的、社交的、好奇心旺盛、リスク軽視)、行動パターン、価値観、それらは母親から受け継いだ。
父親からは楽観的な性格と人から好かれる性質を受け継いだ。これも絶対的に必要なピース。これは余談。
この心の旅の始まりで、俺は最初は天涯孤独だと思っていた。
しかし、俺の中には母親の血がれっきと流れている。
切っても切れない縁がある。
血肉をわけてもらい、育んでもらった。
この肉体こそが母の叡智であり、力であり、誇りである。
ナチュラルにその言葉が心の底から浮かび上がって来た。
俺は孤独ではなかった。
俺は母親に産んでもらえた。
俺は俺を愛する。
俺の力を愛する、俺の才能を愛する。
そして俺の愛するそれらは、母親から貰ったものだった。
感謝した。
そして、似た美点を持つ母親を嫌いになれようはずがない。
俺はいつまでも母親が恋しかった。
どうしても寂しかった。
甘えられない幼年期。
厳しかった少年期。
離婚したのちは、母親は夜間も仕事で生活リズムが異なり、一緒に過ごす時間も稀だった。
十七歳で俺が人妻と不倫して勘当された。
そのときはこの世の終わりだと思った。
天涯孤独だと、誰にも愛されてないと、そう感じた。
自分さえも自分を嫌っていた。
孤独だった。
「可哀想な」被害者意識の俺だった。
大人になって、俺が二度目の離婚をする際に、親とも二回目の絶縁をした。
したというか話し合いもなくブロックされていた。
俺は驚いた。
何の前触れもなく、一方的に断ち切られるほどの関係でしかなかったのかとショックを受けた。
それから、実の家族から攻撃されて驚いた。
信じられないほどのショックを受けた。
いい大人が、泣いた。
そのときはいきなりすぎて、裏切られた気持ちだった。
いっときは呪った。
それは馬鹿馬鹿しいことだとわかりつつも、呪わずにはいられなかった。
俺はそんな自分を認めた。
弱い人間だから、そうしてしまった。
それでも前向きになる方法を知っていたから、それを実践した。
すぐに元気にとはいかなかったが、数週間かけて元気を取り戻した。
でもそのときのダメージはまだ残っていた。
今回の核心はここなのだ。
それでも母が好きだ。
母が恋しい。
その気持ちを受け入れることが、辛く、苦しかった。
これほどのショックを受けたのにまだ懲りないのかと。
しかし、結局それはあの人ではなく、あの人のイデア、本質に向けた慕情だ、と気づくことができた。
母その人ではなく、母そのものに対する慕情ということだ。
現実の母親は俺の知っているあの人だ。
あの人の性質は理解している。
好ましい性質も、好ましくない性質も、俺に似ている。
だから嫌いになれないのかもしれない。
距離を持って敬意を払い、密かに応援していればいい。
母を嫌いにならなくていい。
しかし母に愛されなくてもいい。
母の愛は、別の誰かからもらえばいい。
それが適した距離感ということだろう。
そしてそれが俺の選んだ親だ。
そのとき俺の心に言葉が降りてきた。
この血にすべてが宿っている。
この血から偉大なものを譲り受けた。
先祖から脈々と伝えられ、
また子孫に譲り渡す。
俺の血に宿る知恵と力とを、子どもたちに伝えていく。
――母親からもらったものを。
そしてその言葉が浮かんだつぎの瞬間、光でいっぱいになった。
そしておれは産まれた。
ずるずると子宮から這い出て、取り出された。
オギャアと俺は泣いた。
それは再生の産声だった。
俺は新しく生まれた。
そして生まれてきた俺をまた癒した。
削れて荒廃した魂の埃を払い、突き刺さった棘を抜いていった。
それが抜けると、ぶるぶると身体が震えた。
魂をどんどん補修した。
まあるくつるつるにしてあげた。
俺はまたぶるぶると震えた。
そして俺は驚く。
この目の前にいる赤ん坊には、無限の可能性があることを知って。
あらゆる分岐と、あらゆる未来がこの子には詰まっている。
どんな人生でも選べるぞ、と。
俺は自分を祝福した。
――このようにして、俺は母親への気持ちに決着をつけることができた。
二度目の絶縁から一年以上の月日を要して。
もちろん表面的な部分や、ある程度深い部分までは事件当日から癒してきたが、ここまでの根っこを癒すには、段階を踏む必要があった。
人間の感情とはじつに度し難いものだ。
赤裸々すぎて恥ずかしいが、誰かにとって何かしらのヒントになればと思い、恥を忍んで公開する。
③人生の前半の認識
そして今回の旅でアムステルダムに辿り着いた。
俺はアムスのお土産屋さんできのこのクッキーを買い、それを食べた。
よく効くように半日間なにも食べずに空腹状態を作っておいたが、それでもあまり目立った効き目はなかった。俺は草を追加した。それでエフェクトが始まった。
品種によってエフェクトが違うと思うが、俺の場合は次から次へと自分の前世や前半生が浮かんできた。
それは幻覚と言うよりも「思い出す」感じだった。
よく光や模様や幻覚が見えるというが、俺はそれはほぼなかった。
それよりもふたをしていた内面が暴露されていくタイプの効き方だった。
そうして俺は、ベッドで横になりながら、自分の人生が浮かび上がってくるままに体験した。
ゼロ歳児から始まり、八歳までの自分の人生を追体験した。
そして唐突に気づく。
俺は幸せに育ったのだと。
ご飯も食べさせて貰った。
雨風を凌ぐ家もあった。
両親の喧嘩は多かったし、母親はキレると何をしでかすか分からないヒステリックな狂気があったものの、そんなものは通常の家庭の範疇だ。
後年の一家心中未遂に比べればおままごとみたいなものだ。
私立の幼稚園に通い、おもちゃやゲーム機を買ってもらい、家族で旅行に出かけた。
渋滞にハマるとすぐ罵りあい、大喧嘩が始まるのはご愛嬌だ。
俺は幸せに育った。
俺は幸せに育てて貰った。
その事実が、不意に理解できた。
それはタイでの経験や、セルフヒプノの癒しが作用したのだろう。
いままで見えなかったドアが不意に開いていた、そんな気分だった。
八歳で両親が離婚してからも、母は身を粉にして働き、育ててくれた。
飯を食わせてくれた。
貧乏だったけど、精一杯やってくれた。
夜勤だったから、昼間はいつも寝ていて、兄弟で騒いでいると「寝かせろ!!」とぶん殴られたけれども、これもいい思い出だ。
母親がヒプノセラピストとして開業してからも、幸せだった。
一年か二年くらいは。
雲行きが怪しくなったのは十六歳頃からだろうか。
当時、仕事が行き詰まり、借金の返済が覚束なくなっていた。
ガスが止まり、水のシャワーを浴びていた。
まともな飯を買う金がなく、五袋二百円程度の袋麺を分けて食べていた。
母は借金苦によって自殺願望の虜になっていた。
口を開けば「死にたい」「消えたい」「生まれ変わりたくない」「永遠に消滅したい」と言っていた。
俺は毎日そのような呪いの言葉を聞かされ、十六歳頃にはもうかなりきついうつ病になっていた。
そして消耗した母親は包丁を振り回して俺たちを殺すと喚いた。
兄弟でそれを止めようとした。
母親はとめどもない狂気に囚われ、奇声をあげて裸足で外に飛び出していった。
取り残された俺たちは母親がどこかで死んでしまうかもしれないと恐れおののき、手分けして外まで母を探しに行った。
そんなことが二度あった。
俺は、そのときの一家心中未遂のあまりの恐怖によって、自身の人生の認識が歪んでいた。
以前は母親の写真すら怖くて見ることが出来なかった。
その一件によって、母親と過ごしてきた十七年間のすべてが暗く不幸だったというフィルターがかかってしまっていたのだ。
その後、俺は人妻と不倫したことにより、家から追い出されて絶縁された。
すでにかなりのうつ病であり、勤労などとてもじゃないが務まる状態ではなかった。
その状態で一人で生きていくことになり、まさに万事休すだった。
色んな仕事をするが、何も続かなかった。
そのうち家賃が払えなくなって住み込みの仕事をするようになった。
ホストなどもそのうちのひとつであった。
そのホストもうつ病で辞めた。
最終的にはホームレスになった。
キャスターの壊れたスーツケースで、地面を引き摺って歩いていたらケースまで破損して中身がこぼれるようになったので、ガムテープで補修していた。
俺は家も仕事も金も保険証もない男だった。
ひとりで泣いた夜は何度もあった。
飢えと寒さに苦しみ、嘆いた。
自殺を何度も真剣に考えた。
太宰治に倣って玉川上水まで行ったこともある。もう整備されていて死ねるような川には見えなかったけど。
このときのうつ病生活がキツ過ぎて、人生の前半生のそのすべてが暗雲の中にいたかのような錯覚に陥っていたのだ。
なにしろ三日間何も食べずに意識朦朧だったこともあったからね。
この十六歳からの数年間で、自分の人生に対する認識がガラリと変わっていった。
それは自分自身への刷り込みだった。
その「俺は暗く不幸な家庭に育ち、苦労して生きてきた」というストーリーは、長いあいだ強固に俺の中に存在し続けていた。
だが、きのこを用いた内面の旅のおかげで、その枷が外れていった。
本当にふつうの日常が再生されていった。
俺はそれを眺めて追体験した。
母親に甘えて叱られたことや、父親と公園へ出かけたことなどが思い出された。
不穏な空気の日々もあったけれど、俺は途中までは人並みに育ててもらった。
フラットに、幸せだった少年時代を味わうことができた。
俺は人生の前半部分の色が変わるのを自覚した。
漆黒の雰囲気から、日常の雰囲気にどんどんと変わっていくのだ。
それは人生の見方が変わった瞬間でもある。
ヒトはいつでも生きたい世界を生きている。
ヒトはいつでも見たい世界を見ている。
俺が不幸な生い立ち・逆境を跳ね除けて自由に暮らしていると思いたいがために、そのようなストーリーに照らし合わせて人生を見ていた。
しかし、この幻想がつぎつぎと立ち上がっては消えていく中で、十四歳くらいまでは貧乏だったがそれなりに幸せだったことを認めることができた。
俺にとってそんなストーリーは不要だと考え直すことが出来た。
そんなストーリーがなくとも俺は十分飛び抜けている。
一時のあまりの衝撃で、その期間のすべてが塗り替わるという体験は、俺だけのものではないはずだ。
幸せだった部分は再発見して再評価していかなければならない。
それがあなたの人生の色をどんどん変えていく。
ヒプノのお客さんの反応からもそう思うし、俺の実体験でもそう思う。
その後、俺は高校には行かずにアウトサイダーな作家を目指そうとするが、実家の金銭的事情と鬱病のせいで、深い泥沼にハマった。
でもこれも必要な試練であり、通過儀礼であったと心底から感じた。
先の見えない将来に不安を抱え、家での脅威を耐え忍び、そして家を出た。
そこからも「とにかく面白いことを経験したい」と、さまざまな仕事に手を出した。
出会い系のサクラ、風俗店の写真編集、AVのAD、ホスト、ヒモ、その他さまざまな「面白い」「一風変わった」と思われることをやってみた。
それがいまの俺を形成するのに非常に大きな役に立った。
でもその「アウトサイダーでいく」「面白い経験を自ら積みに行く」という価値観は、母親譲りのものだった。
結局、俺は欠けたり損なったりしていたと思っていたけど、受け取ったものもとんでもなく大きかったというわけだ。
人生は、価値観・考え方によって左右される。
「面白い経験を得る」という指針があったればこそ、ここまで成長することができた。
根本の土台がどこを向いているかで、のちの人生も決まっていく。
あなたも、あなたという車に目的地をセットしよう。
最初はざっくりとした目的地で構わない。
「なんとなく面白い方」くらいの方向でも、進んでいればたくさんの道が見えてくる。
そして、母親から受けた重要な影響は、不安や恐怖にもある。
後年、サラリーマンから独立するときも、自営業で食い詰めた母親の慟哭の影がよぎり、しり込みすることが多々あった。
しかし、そういった恐怖心を克服することも、俺の今回の人生には必要不可欠なことだった。
このとき、命とは何か、人生とは何か、恐怖とは何か、お金とは何か、自由とは何か、それぞれ死ぬほど考えた。
未来は誰にもわからない。
誰にとっても未知のもので、そこには死さえもある。
宇宙空間に飛び出すとき、宇宙服がないと死んでしまうが、俺にとって独立とはそういうものだった。
宇宙船の外に飛び出て宇宙旅行を楽しみたいのに、ヘルメットには穴が開いていて、宇宙服の素材は通気性抜群の綿麻素材だった、みたいな感じである。
そこで俺は、宇宙服のかわりになるような価値観・考え方を、とにかく作り出して刷り込んでいった。
それが俺の体を包み、守ってくれている。
本当の恐怖が、そこにあったからこそ、それを克服・対抗するための強力な思考ツールを開発した。
だからいまの俺がある。
あのときの恐怖のおかげだ。
いまでは何の保証もないフリーランスの生き方に対して、恐怖はわかない。
サラリーマンを辞めて一万人いった競馬チャンネルを捨ててセラピストになったり、
二回目の離婚をしてからセラピストの仕事を放り投げ、無収入のままタワマン最上階に引っ越したり、
競馬の記事を書きながら一年間海外に行ったり(昨年の六月から一年間で合計118泊126日を海外で過ごした。それに加えて国内でも29泊36日を旅行に費やす、月平均14泊)していたが、
どれも普通の神経の人には耐えられないような選択だろう。
それができるのも、恐怖と向き合ってきた結果だ。
あてのない道をひたすら歩くとき、この恐怖心のコントロールが重要となる。
余談だが、次の動画は、「インスピレーションに従って生きるには(孤独や不安や恐怖への対処)」みたいな動画を長尺で撮ろうと思っている。
十枚近い台本を書いたので、おそらくかなりの時間になるのではないか。
子供のためにもこれは絶対に撮っておきたい。
* * * * * * * * * * * * * * *
さて、話を本筋に戻すが、俺はある程度の年齢まで、きちんと育ててもらった。
それを、このきのこの旅で再発見・再確認できた。
そして、いまの俺を形作る価値観「面白いか・面白くないか」は、母親譲りのものだとはっきりわかった。
それを理解して、俺は体のひとつひとつが生まれ変わったような感覚を受けた。
俺はアムステルダムでまた生まれ変わった。
自分のストーリーを書き換えることに成功したのだ。
俺の中で、またひとつ大きな変化が起きた。
④旅の仲間
ある日、夜のロンドンでぶらぶらしていると、ホテルの前で坐っている三十代くらいの白人が俺に声を掛けてきた。
「煙草を一本くれないか?」
俺はシュア、もちろん、とマルボロを差し出した。
彼は礼を言って受け取ると、それをうまそうに吸った。
その瞬間、俺は思い出した。
彼は前世でシルクロードのどこかで、俺に一杯の粥を食わせてくれたことを。
俺はふとした再会に胸が熱くなった。
それで、煙草を吸い終わって部屋に戻る前に、唐突に彼に握手を求めた。
彼は見ず知らずの東洋人の突然の申し出に困惑していたが、煙草をもらった手前、仕方なく握手してくれた。
彼にはわからない。
でもそれでいい。
俺はわかっている。
それから、いろんな旅の出会いを思い出した。
タイでロシアの煙草をくれたふくよかなロシア人男性。
キプロスでハルミチーズをわざわざ買ってお土産に持たせてくれたキプロスのタクシードライバー。
パリで夜中に煙草屋の場所を聞いたら親切に煙草をくれようとしたパリジャン。
街のお土産屋さん、お釣りを誤魔化したバリ島の果物屋のおばちゃん、アテネで偶然再会したカナダ人の人妻。
これ以外にも、世界中でいろんな人と出会った。
ロンドンで道を歩いていると、その辺一帯の人と、かつて同じ街で生活していたことが確信として降りてきたこともある。
そして俺は気付いた。
この旅は、世界中にいる、この魂の旅路の同志たちと再会する旅でもあったのだと。
この人生でも、関わりたかった。
この人生でも、会いたかった。
そんな欲求が、俺を世界へと導いた。
そしてその目的は果たされた。
俺は世界の面白さに拍手喝采したい気分だった。
魂たちは、人生や身体をタイムマシンあるいは宇宙船として用いて、いろんな時代、いろんな文化、いろんな国、さらにはいろんな星を渡る旅人たちなのだ。
そして俺たちは、いつもどこかでつながっている。それは確信だ。
生まれて、関わり合い、経験や感情をともに作り上げ、死に、また生まれ変わって出会う。
この魂の旅はどこまでも面白い!!
圧倒的な感動だった。
そしてこの世界というゲームをともにプレイし、幾度となく巡り合う魂の仲間たちに、とてつもない親近感と愛を感じた。
それは常日頃感じているものだったが、それをさらに強力に感じることができた。
この世界の魂には、地球の人間や、それ以外の形のものがわんさかといる。
でもそれらのすべてと、関わりあって、輪廻の旅をしている。
先に抜け出したり、逆に待っててくれたり。
時間をさかのぼったり、同じ時代に何度も生まれたり。
ちがう旅をして、ときたま巡り合って旅の状況、魂の学びを共有しあったり。
そのときに必要な愛や傷をつけあったり。
お互いが役割を必要として、お互いを求めて生まれてくる。
どんな関係の人とも。
みんな必要な仲間たち。
みんな愛すべき旅の仲間たちなんだ。
そして俺は思った。
日本にいる、同じ人種の、同じ文化の、同じ言葉を持つ仲間たちと、また交流したい、と。
だから旅はいったんペースダウンすることになる。たぶん。わからんけど。気分屋だから。
それからもうひとつ。
旅の最中に知人にヒプノセラピーをしたんだけど、それもすごく面白かった。
そして自分自身へのセルフヒプノも、本当に味わい深い、人生を変えるような体験だった。
だからまたそれをやりたい、とわくわくするようになった。
そして、まだ知り合ってもいない仲間たちと新しく出会えるのが嬉しくてたまらない、と俺の魂が震えている。
もちろん、一年間も動画の更新をさぼっているのに、いまだに待ち続けてくれているみんなのことも、とっても感謝しているし、言葉では言い尽くせないほどの親近感を感じている。
本当にありがとう。
気分屋で本当にすまん笑🤣✨
おわりに
ライブ配信でも喋ったことがあるが、古代のシャーマンは草やきのこを用いて人々を治療した。
心の中にあるわだかまりを引き出し、解きほぐし、心身症を緩和していった。
それは紛れもなくセラピーである。
現在ドラッグとひとまとめにされているが、一部のものは、本来そういったポジディブな用途に使われるものだった。
古代のギリシャでは、麦角というLSDのような幻覚剤を使っていた。
「エレウシスの秘儀」で検索するとわかるが、その秘儀ではキュケオンという飲み物を飲んでいた。
これが幻覚剤である。
プラトンやソクラテスもこの幻覚剤を使っていた。
プラトン曰く、「本質的に神と一体になれる飲み物である」とのこと。
それは、心を開放し、固定観念から抜け出し、視点を変え、思考を深くする一助になっただろう。
偉大な哲学者の、壮大な思想は、幻覚剤の助けがあってこそだと俺は思う。
(現代社会ではヒプノセラピーによる日常生活からの解脱と、魂への接近がその役割を担うだろう)
そもそも麻薬というイメージは、アメリカが作り上げたものだ。
キリスト教を布教する際に現地のシャーマンを排斥するために。
LSDブームで若者たちが反戦運動を始めたため、それを取り締まるために。
しかし現代ではアメリカや欧州、タイやオーストラリアなど世界中で草が解禁されていっている。
ヨーロッパなどほぼどこでも非犯罪化されていて、ショップで堂々と販売している。
アメリカではLSDがようやくFDAの承認を受け、薬として合法になった。
草や幻覚剤が一概に悪とは言えないだろう。
善悪はヒトの中にしかないわけだしね。
どんなものでも用法や容量を守れば薬になるし、守らねば毒にもなる。
俺は好奇心旺盛だから、なんでも試してみないと気が済まない。
子供に煙草を吸ってはいけないかどうか、自分が吸ってみないと言えないじゃないか、と思って煙草を吸ったことさえある。
誰かの受け売りで、いいとか悪いとか言いたくないし、言えない。
だから俺は自分の基準でいつも判断する。
判断するためにトライする。
自分の肌で感じ、
自分の頭で考え、
自分のハートで決断する。
それが俺の信じる大人の姿だからだ。
そのうえで言うが、こういった依存性のないもの(草やきのこ、幻覚剤)は、自分の内面と付き合う上で、これらは非常に大きな助けとなる。
自分自身、深く実感した。
正しく使うことで、人生を変える力にもなるだろう。
(すすめているわけではない)
今回の旅の裏テーマ、ヨーロッパで草やきのこを嗜むという目的は、こうして果たされた。
精神の進化という副産物を伴って。
ほかにも面白い経験をしたが、それはまたの機会に話そうと思う。
今日はこの辺で。
みんなが素晴らしい人生を送れるよう、ささやかながらここに祈っておく。
みんな愛してるぜ。
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私、ヒト、世界を理解するヒントを発信中。
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