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映画「悪は存在しない」(濱口竜介監督)

面白い映画だった。以下の考察やインタビュー、解説を参照した上で感じたことを整理する。ネタバレを含むので、先に映画を見ることをお勧めする。

「寝ても覚めても」、「ドライブ・マイ・カー」の2作品で濱口竜介監督作品にハマり鑑賞。こちらの記事も読んでみてほしい。私は下の記事で「第四の壁を越えて私たちの現実と地続きである恐怖感がこの監督の持ち味なのではないか?」と書いたが、「悪は存在しない」もやはり同様に、ドキュメンタリーとフィクションの間のようなある種の恐怖感があった。

元々はドライブ・マイ・カーの音楽を手掛けた石橋英子の作品「GIFT」のライブ映像として本作を撮り始めたところ、物語や役者の演技が素晴らしく、もっと喋らせたい(当然、音楽の背景映像に喋りを載せることはできない)というモチベーションから本作が映画として撮られたとのこと。その音楽が素晴らしい。優美な弦楽のアンサンブルで常に音楽の快楽を与えられながら、長撮りの自然の映像から目を背けることを許されず、不安な脚本にずっと浸らされる不穏な感覚の映画だった。

人間の会話を重ねることによる立体感がやはりピカイチ。オンラインミーティング越しに傲慢さを振りまくコンサルの男(普段の私もこれである)、東京から山梨経由で長野に向かう中央道の車内の会話。クスリとくる人間臭さ。この時間をきちんと見せることで、観客にとってこの物語を他人事と思えなくしている。

水は高いところから低いところに流れる。劇中でも片田舎である水挽町にやってくるグランピング事業(都会の芸能事務所)の放った波紋が、少しずつモーメンタムを増していって最後の結末に行き着く。

冒頭、都会の事業者側は悪のように描かれる。グランピング事業に関する説明会も事業者側の説明が粒度が荒く感情的であるのに対し、地域住民側は賛成でも反対でもない。それよりも理知的に、冷静に事業計画の不完全性を指摘していく。これは本映画のロケ地である八ヶ岳でも同様のレジャー施設に関する説明会があり、似たような構図であったことからこの脚本が発想されているらしい。

自分語りを禁じ得ない。なぜなら、この映画の物語がシンプルであり、「これは、君の物語となる」というフレーズがポスターに記載されている通り、鑑賞者の生活と地続きの話だからだ。

我慢できないので自分語りをする。私は人口が1000人強の長野の片田舎で生まれた。この映画の舞台である諏訪地方(水挽町)はまさに私の生まれた村とのほぼ2倍くらいの規模の集落である。この田舎の手触りが本物で気持ち悪い。レビューを読むと田舎生まれの都市在住者達がグサグサ刺さっているようだが、私も全ての感触が凄く嫌だった。湧き水を汲むのも薪を割るのも家事の一つだったし、街から来た移住者に対する異物感、それでも外の事業を取り込んでいかないと衰退していく村落、このあたりの手触りが、嫌というほど「これは君の物語だ」という意識を植え付けられる感覚があり辛かった。

自然に悪は存在しない。私の生まれた村では定期的に自然が人間を襲った。映画に出てくるような鹿も出てくるが人は襲わない。ただし熊、猿、猪は定期的に人を襲うし、子供は熊鈴を鳴らした上で決して一人で登下校をしてはならなかった。川での水難事故、冬は屋根からの堆積した雪に押しつぶされて亡くなる人もいた。では自然は悪なのか?いや、決してそこに悪は存在していなかった。自然には優しさも暴力性もあり、それを当たり前として受け入れることが、私がその村落で生まれ暮らす上で当たり前のことであった。

水は高いところから低いところに流れる。水挽町の老いた区長は都会の事業者の社員二人に対し「上の汚れは小さくても、下に流れ着いて溜まっていく。下の者にとって上の者の振る舞いは死活問題である。上の者にはそれなりの振る舞いや思慮深さが求められる」という旨の発言をする。

登場人物に明確な悪人はいない。グランピング事業を企画した社長も、コロナ禍で低迷した芸能事業を補うための生き残りをかけてCovidの補助金が得られるグランピング事業を推し進める。グランピング事業のコンサルタントも分刻みのオンラインミーティングの中でいかにも功利主義、新自由主義的な合理性で正しい経済的利益を得ようとする。現場に何度も赴かされる社員の二人も、業務上必要なこととしてグランピング事業の説得を町民に行う。皆が個別最適の上で正しい行いをしているから、悪は存在しない。ただし、社長やコンサルなど上流の思慮の浅さが、下流つまり現場側の二人である高橋と薫へ皺寄せとして強いストレスになっている。これは上の区長の話に通じている。

水は高いところから低いところに流れる。高橋や黛の行いは、さらに下流にいる巧の生活へ流れてゆく。最後の巧の凶行は、都会の上流から流れつき堆積した汚れ、負の感情が許容できる閾値を超え、追い詰められた結果つまり唯一鹿が人を襲う状況である「手負いの鹿」なのではないか。ひろゆきが概念として説明した「無敵の人」は社会で明確な悪として扱われるが、それを産んだのはより上流の存在から流れ着いた汚れの堆積であり、明確な悪は存在しないのではないか。

悪は存在しない。巧に「ではその(グランピングサイトに通り道を奪われた鹿は)どこへいくのだろうか」と問われた高橋は「さあ、どこか別の場所に行くんじゃないだろうか」と答える。無自覚さや無関心さは私たちの物語だ。先週まで道端に住んでいたあのホームレスが行政の事業により退去させられたとして、翌週からどこで暮らしているのか、私は知らないし、きっとあなたも知らない。でも、私もあなたも悪ではない。個別最適の上で私たちは正しい行いをしようとしているし、悪になろうともしていない。

でも、水は高いところから低いところに流れる。皆が良かれと思ってしていることの裏では、見過ごされている何かがある。このグランピング事業のような杜撰な計画でも、携わる人々もそれぞれの個別最適の観点で進めざるを得ず、結果人を不幸にする計画がモーメンタムを増していく。計画とは民間の事業もそうだが行政もそうだろう。それが川が下流に流れるように下へ下へ堆積していき、「良かれと思って」の集合体がこの社会で悪のようなものを生んでいる。だから誰かを悪人と断定して裁いても何も解決されない。

では、どうすれば良い?もう私たちにはどうしようもないのかもしれない。社会に悪は存在しないのだから、私たちが個別最適の正解を選び続けて生きていく以上、私たちはどこか上流から来た汚れを浴びる被害者だし、どこかへ汚水を流していく加害者である。その下流のどこかで追い詰められた手負の鹿が私たちを殺すかもしれないが、その鹿が悪だというのであれば、それを生んだ私たちが悪なのかを問わなければいけなくなる。この絶望感と、映画最後の巧の焦った吐息と重なった。

水挽町という小さな村落は現代社会のメタファーであり、これはその中で起こっている問題を表現した寓話なのだろう。つまり私の物語であり、あなたの物語である。とんでもない映画だ。次はこの映画に影響を与えたとされる「ミツバチのささやき」を鑑賞する予定だ。

最後のラストの解釈があればぜひ教えてほしい。

以上

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