リアリティという絶望についての仮説──劇場版『岸部露伴ルーヴルへ行く』時評

 NHKによるドラマシリーズ『岸辺露伴は動かない』は、しばしばその大胆なまでの改変要素によって人気を博してきた。「原作改変」という言葉は、少年漫画を原作とした実写映画の乱立期においてはネガティヴなニュアンスで使われることが多かったが、このドラマはそうした傾向に逆行するかたちで、原作改変が素晴らしい表現に結びつく可能性を示し続けてきた。
 無論、原作改変が非難されがちだったのは、それがしばしば原作と、それが持っていた魅力を損なう形で行われるためであった。僕自身も、代理店やその他諸勢力の意向によって作品が歪められてしまうことに対しては、青臭い憤りをおぼえずにはいられない。そしてそんな自分にとって、実写版『岸辺露伴』は何ものにも変えがたい、至純の「原作改変」を見せてくれる数少ない作品だった。
 とはいえ、エピソードの中で好きなものは初期に固まってしまうというのが正直なところではある。第二期、第三期と企画が進行するに従って、徐々に新奇性が薄れ、代わりに、映像が間延びしているように感じられることはしばしばあった、とここに告白しておく(おそらくエピソード自体が映像化困難なものが二期、三期に集中したためだろう)。原作を損なう、とまでは言わないが、そこには、原作に確かに存在したはずのテンポが、時間の流れが存在していないように感じられたのだ。
 そんな疑念を抱えたまま僕は、そのシリーズの最新作にあたる作品を観るために映画館に足を運び、そして気付いたときには、その完成度に呻いていた。
 そこにはドラマ・シリーズの総決算ともいうべき映画があった。それは映像で──複数の、確かな実力を持ったスタッフたちによって『岸辺露伴』を再構成することの意味を、全霊で示した作品だった。その作品の名は『岸辺露伴ルーヴルへ行く』。最もマイナーで、そして最も「価値」のある原作を用いた、創作と怨念についての物語である。

 先述してきたように、ドラマシリーズの『岸辺露伴』の最大の魅力とは「原作改変」である。だがそれは、ただの改変ではない。それは、原作解釈を表現するための改変なのだ。
 解釈。「拡張」ではなく、僕は敢えてその語を使いたい。ドラマシリーズの端正とも言うべき魅力は、実際のところ原作の魅力それ自体ではないからだ。荒木飛呂彦的なものは、この一連のシリーズの中ではむしろ後景化している。そこにあるのはコンテンツとしての「岸辺露伴」を最大限魅力的に演出しようという努力であり、俗な言い方をすれば「愛」である。原作のフレーバーを抽出し、整理し、構成して作品とすること。それこそがドラマシリーズにおける、メタレベルでの基本構造だった。
 特にそれが強く表れたのが第三話『D.N.A』であったように思う。視点を分かりやすくするために原作を拡張するかたちで登場回数を増やされた編集者:泉鏡花と、その恋人の関係から、原作内でもかなり特異な読み味のエピソードを再構成したこの話は、整然とした面白さがあった。そして今回の『ルーヴル』は、かなりこれに近い。
 劇場版『ルーヴル』には、とかくオリジナル・キャラクターが多かったように思う。フランス人画家モーリス・ルグランとその「仲間」たち。彼らは独立した、オリジナルのプロットで作品へと介入する。それは「補助線」として機能し、作品の隠れた魅力を浮かび上がらせることに貢献していた。そしてそれは、何も完全オリジナルのキャラクターだけに留まらない。そもそも登場していなかった泉編集と、何より原作では名前だけの登場だった山村仁左衛門の丹念な描写は、もはや「改変」ではなく「追加」の域であるが、それもやはり、原作解釈を作品へと昇華させるうえでの「補助線」たりえていたように思う。
 そうした複数の補助線によって見えてくる主題とは何か──僕はそれは、「リアリティへの欲動が、“喪失”と“怨念”に結びつくことへの戦慄」であったと考えている。

 どういうことか。それを説明するために、簡単に終盤の山村仁左衛門の描写と「黒い絵」の顛末について触れておきたい。
 山村仁左衛門は江戸期の絵師である。彼は妻であった奈々瀬にどうしようもなく惹かれていき、不幸な偶然が重なったこともあり次第に狂気へと堕ちていく。
 彼は描こうと試みる。どこまでもうつくしい、奈々瀬の深い黒髪を。その豊饒を。その不可能性を。描くことのできない美。決してそれ自体を再現することのかなわない美。究極のリアリティの現前を前にした、その美に対する無力こそが、山村仁左衛門を狂わせたものだった。だがその不可能性は、あるとき打ち破られてしまう。美を実現するための染料が発見されたのだ。かくして美は獲得され、現実が転倒する。現実の力を獲得した虚構が立ち現れる。「喪失」とともに。
 荒木作品においては案外そうでもないのだが、別の作家が手掛けたとき、岸辺露伴はとかく「リアリティ」を求めるキャラクターとして描かれがちである。現実の質感こそが創作を卓越した芸術へ高めるというイデオロギー。それこそが岸辺露伴が岸辺露伴たる所以なのだと。
 リアリティと現実とは、必ずしも一致しない。そもそも創作とは、現実にありながら究極的には現実ではない営みなのだ。それは決して現実それ自体にはなりえない。その中で現実を志向するということには限界があるが、しかし、その限界ゆえに表現は現実の力を獲得しうるのだ。そしてその点において、山村仁左衛門とはどこまでも「リアリティ」を求め続けた男だった。だがそれは、彼にとって幸福なものではなかったのかもしれない。結果として彼は妻を失い、自らもまた、その命を散らすことになる。そうして、後には絵の形をとった怨念だけが残り続ける。
 リアリティを求め続ける姿勢が、リアリティを実現する手段と結びついたとき、そこに立ち現れるのが「喪失」と「怨念」であるという絶望。あるいは断絶。それを前に、露伴は立ち尽くす。かつて奈々瀬の中に見た「リアリティ」──それが実現されていれば、自分もまた仁左衛門になっていたかもしれないという戦慄。だがつかの間感じたそれは、奈々瀬の「解放」とともに、青春の慕情とともに、消失する。かくして長いルーヴル旅行は終わり、彼は「動かない」日々へと回帰する。原稿用紙と向かい合う日々に。だがそこにはどうしようもなく予感が漂っている。喪失と怨念の予感が。
 無論、この評価が製作陣の原作解釈それ自体であると言いたいわけではない。だが原作解釈の結果として──原作:『ルーヴルへ行く』の再構成の結果として、そうした読み方のできる物語が現れたことは事実だ。原作にはこれまでに挙げたような仁左衛門の描写は一切存在せず、妄想することさえできないのである。
 リアリティへの欲動が、「喪失」と「怨念」へと帰着してしまうこと。
 その恐ろしさを、原作から抽出した傑作として、この映画は存在する。

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