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ハイ、こちら中ピ連です!! 榎美沙子とピンクヘル盛衰記

中ピ連とは

 ♀のマークの入ったピンクのヘルメットを被りプラカードを掲げた若い女性たちが企業の玄関前に押しかけて気炎を吐く。
「営業部長の〇〇は、別れた夫人に慰謝料と養育費を払え!」
「〇〇は海外研修という名目で愛人を連れてヨーロッパに行っただろ!」
 この徹底的な恥かかせ戦法が中ピ連のトレードマークといえた。
 中ピ連、正式名称は「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」。結成は1972年。リーダーは当時27才の榎美沙子。京都大学薬理学部出身の才女で、本業は薬剤師である。
 日本の女性解放運動の歴史を振り返ると3つの大きなウェーブを確認することができる、明治、大正期の平塚らいてうの青鞜社運動、60~70年代にアメリカから上陸したウーマンリブ運動、それに、80年代以降のジェンダー論を基軸としたフェミニズム運動である、中ピ連はウーマンリブ運動の変種と考えられていた。
 当初は、その名称通り、優生保護法の改正(人工中絶の合法化)と経口避妊薬(ピル)の解禁を訴える運動としてスタートしている。「生む・生まないは女性の選択権」がその主張である。今となってはどうということのない運動に見えるが、当時は若い女性の口から「中絶」や「ピル」という言葉が出るだけでも充分刺激的だった。

ピル(経口避妊薬)について講義中の榎美沙子。ベルボトムのジーンズがなつかしい。

 榎は豊富な薬学の知識を駆使してピルについての講習会を開き、集会では実際にピルを配って、参加者にモニターを募った。これなど、今思えば、薬事法スレスレの行為だろう。
 会員の相談を受けているうちに、夫の浮気に悩む声や突如離婚を言い渡され生活のメドもたたないという主婦の声、家庭内暴力の実態を、多く耳にすることになる。これらの女性を救済し、理不尽な男どもを糾弾するべしと思った榎は、74年8月、「女を泣き寝入りさせない会」を結成する。男の弱点は社会的体面だ。ならば、その体面を徹底攻撃すれば、こちらの言うことを聞かざるをえないだろう、その発想から生まれたのが、冒頭紹介したピンクヘルメット闘争である。したがって、闘争自体は、正確にいえば、中ピ連でなく「女を泣き寝入りさせない会」の活動であるけれども、世間的には、「泣き寝入りさせない会」=ピンクヘル=中ピ連という認識で、マスコミもほぼ「中ピ連」で統一していたし、榎もそれに特別異論はなかったようだ。というより、73年あたりになると、ピル解禁の啓蒙活動よりもピンクヘル闘争に運動の主軸がシフトしていた。
 僕は当時中学生だったが、クラスの男が女子に暴言など吐くと「あんまり女の子をなめていると、ピンクのヘルメット被ってアンタのうちに押し寄せるからね」と言い返される始末で、それだけ世間的には中ピ連のイメージが浸透していたのである。
 なお、日本限定でシングル発売されたプラスティック・オノバンドの楽曲『女性上位万歳』は、中ピ連の依頼を受けて応援ソングとしてオノ・ヨーコが作詞作曲したもの。同曲は1993年、小泉今日子がアルバム『Travel Rock』の中でカヴァーしている。

 ♪男性社会二千年 煤煙うずまく日本国 歴史が示す無能の徒(やから)
男性総辞任の時が来た おんなの本性みせる時
女魂女力で 女魂女力で開こう新時代 女性上位万歳 女性上位万歳 ...

榎美沙子VS吉田拓郎

 榎美沙子は、女性活動家には珍しくなかなかの美人(こんなことをいうと、当のフェミニズム運動家にお叱りを受けそうだが)で口達者。要するに、マスコミ映えのするキャラクターだった。ピンクヘル闘争の際は、テレビクルーがターゲットである男性が務める企業の前で待機していたこともあった。なんのことはない、中ピ連側が前もってリークしていたのである。
「会の発足以来1年4カ月、これまでに扱ったのは400件。いずれも全面勝利で失敗したのは1件もありません」(『ヤングレディ』75年1月13日号)と榎は豪語していた。勝利とは、依頼人のために、財産分与や慰謝料を勝ち取ったという意味である。これらの活動はすべて無償でやっているとも語っていた。
 テレビ出演も多くなった。僕が強く記憶に残っているのは奥様向けワイドショーの草分け『3時のあなた』でのそれである。スタジオ出演した榎美沙子は、立て板に水といった感じで、「日本をダメにしている男性社会の象徴たる歌手、俳優」を実名挙げて糾弾し始めたのだ。当時、若者のカリスマ的存在だったフォークシンガーだった吉田拓郎もバッサリ。浴衣姿の恋人にお酌をさせる『旅の宿』の歌詞を俎上に挙げ、男の幼稚な願望を歌ったマザコンソングだとコキ下したのだ。
 この少し後、ハプニングが起こった。番組を観ていた吉田拓郎が、反論があるといってフジテレビに電話をかけてきたのだ。電話は音声でスタジオに繋がり、しばし、榎美沙子VS吉田拓郎のバトルとあいなる。まあ、こういう論争ではまず女の多弁さが優位になるわけで、さすがの拓郎も途中でタジタジになることもあって、これはこれで面白かった。当時、拓郎はテレビには出演しないことをある種のウリにしていたから、声だけとはいえ、全国ネットの生放送に登場したということは、ファンにとっても思わぬサプライズだったのではないか。

ピンクヘルもよく似合った。囲む男ったち(マスコミ関係者?)の表情もいい。

 と思えば、榎は、スターが出ないことで知られる『オールスター家族対抗歌合戦』にも登場、中ピ連仲間と野坂昭如の『マリリン・モンロー・ノーリターン』の替え歌で、♪男社会はおしまいだ~と歌い、意気を上げていた。同番組の司会は萩本欽一である。
 それだけではない。なんとドラマにも進出しているのだ。世間のトレンドを抜け目なく取り入れることで有名な大映テレビ製作の刑事ドラマ『夜明けの刑事』の第45話「ハイ、こちら中ピ連です!!」(1975年10月22日放送)に榎美沙子本人の役で出演している。
 こういった“営業”活動は、中ピ連と榎の知名度を上げることにはつながったが、本来の女性解放運動からはだんだんと逸脱していき、色物視される結果もまねいたのは確かだろう。他の女性活動家から批判めいた声も挙がり始めていた。

「紅白歌合戦」襲撃の茶番

 そしてこの年の大晦日『紅白歌合戦』。
中ピ連は、これに先立つ11月、記者会見で「女を泣かせている男性歌手」数人をイニシャルで挙げ、該当歌手が紅白のステージで歌う際は舞台に発煙筒を投げ込むと襲撃宣言していた。イニシャルでまっさきに名前を取りざたされたのは中条きよし。当時、彼は愛人ホステスの存在が噂されていたのである。他に、にしきのあきら、クールファイブの前川清。それにゲスト審査員の三船敏郎。

三船夫人が中ピ連に極秘依頼?の仰天記事。その隣に菊容子殺害事件が。

 この話題に乗ってか、発煙筒投擲訓練の模様が、『独占!女の60分』で紹介されたりもした。数人の中ピ連メンバーが、紙袋に隠してあったピンクヘルを被り、奇声を上げながらスカートをめくりあげて太もものガーターに仕込んだ発煙筒を抜き取り、これを投げつけるのだという。日曜日の午後、トレパン姿で寝転がってテレビを見ているお父さんには、いい目の保養になったのではないか。
 こういったバカ騒ぎはかえって『紅白』の視聴率に貢献することにならないかという声もあった。当の僕も中ピ連の襲撃見たさに、『紅白』を見ていたクチである。出場確実と目されていた中条きよしは、同年は選に漏れ、審査員のメンバーに三船の名前はなく、標的はにしきのと前川に絞られた感があった。しかし、当日のNHKホールには何も起こる気配すらなく、少なからず拍子抜けしたものだ。クールファイブが無事歌いあげるのを見届けると、フィナーレの『蛍の光』も待たず僕はチャネルを切り替えた。すると、榎美沙子の姿を裏番組の『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!』に見つけたのである。萩本欽一に呼ばれて舞台に上がった榎は、ピンクヘル軍団での入場をNHKホール側に阻止されたのだといい(そりゃそうだ)、一人での観覧となったが、つまらないから途中で出て、コント55号の応援にかけつけたのだと説明していた。結局、ただの人騒がせに終わったようで、僕を二度も拍子抜けにさせてくれた。
 実際、中ピ連がマスコミの注目を集めたのはこのあたりがピークだったといえる。
 翌1976年6月、榎は自らが教祖となり「女性復光」なる宗教法人を立ち上げると発表している。なんでもオスが子育てをするタツノオトシゴをご神体にするのだという。しかし、ここまでくるとまともに取り上げるメディアもなかった。
 中ピ連の奇矯な活動は飽きられ始めていたし、なにより、前年暮れの『紅白』空騒ぎが祟ったようだ。「女性復光」が宗教法人の申請をした事実もなかった。一度、マスコミの脚光を浴びてしまった榎にとって、常に注目が必要だった。苦肉の話題作りだったのだろう。

選挙敗北と中ピ連解散

そして、1977年。榎美沙子は6月の参議院選に向け、「日本女性党」を旗揚げ、候補者を立てるという仰天プランをぶち上げた。榎は党首を名乗ったが、自らは出馬せず、そのため「なぜ党首自身が前線に出て政策を語らないんだ」という批判も浴びた。擁立した10人の候補者も政治経験のあるのは元民社党の城戸嘉世子ぐらいで、あとは中ピ連会員の無名の主婦やホステスといった、急遽かき集めたようなメンバー。しかも、各候補者に本名を名乗らせずに榎党首の名前を冠し、活動地域にあわせ「榎・東京」「榎・大阪」といった名称で立候補させるという。さすがにこれは全国の選挙管理委員会から却下されていることになるのだが。

さすがに彼女の掲げる公約をまじめに取り上げるメディアもなかった。

 選挙公約も「国家公務員を全員女性にする。男性はパートタイマーとして雇う」「企業の従業員の半数を女性にし、半数に満たない場合は、不足人数ひとりにつき10万円の罰金」「女性の幹部職が多くなるほど、法人税の税率を少なくする。社長取締役が女性が過半数の企業は法人税ゼロ」といった、およそ実現不可能なものばかりで、どこまで本気なのかもわからなかった。これではマスコミの泡沫あつかいもいたしかたあるまい。
 しかも、選挙期間中、選挙資金の運営を巡って候補者と榎の間がギクシャクしており、榎と製薬会社の癒着が週刊誌に報じられたことも女性党の出鼻をくじくことに繋がった。ピルが解禁されれば、誰が得をするのか考えれば、さもありなん、だろう。集会で榎が配っていたピルの出所も問題となった。
 選挙結果は全員落選。総額1700万円の供託金も没収されるのである。
 榎美沙子はそのわずか2日後に記者会見を開き、日本女性党および中ピ連の解散を宣言した。自身の去就に関しては、「主婦に戻る」ともいった。選挙資金はすべて夫からの借金で、もし落選したら、一切の活動から手を引くというのが当初からの約束だったという。借金は「月収70万円相当の家事労働で返済します」と相変わらずツッパってみせたが、ウーマンリブの闘士の口から出る「主婦」「家事」の言葉に、違和感というか失望を覚えた運動関係者やマスコミ関係者も多かった。

中ピ連解散を宣言する榎美沙子。

 もともと「榎美沙子」自体がペンネームであり、夫で医師の木内夏生氏の名前から「木」と「夏」を取って組み合わせて「榎」としたという。榎の結婚時の本名は木内公子である。夫とは高校時代の同級生で初恋の人だそうで、「可愛いお嫁さん」になることを夢見、大学卒業と同時に結婚したという榎は本来、古風で保守的な考えをもった女性だったのかもしれない。それがウーマンリブという世界的潮流に飲み込まれ、次第に言動が先鋭化し、マスメディアによってタレントに仕立て上げられ消費された、その意味でいえば、彼女もまた時代に翻弄された半生だったといえるのだろう。
 1983年、榎美沙子は夫への借金をすべて清算したあと離婚。その後、何度か写真誌などに近況がスクープされることもあったが、あの目立ちたがりが嘘のように、自ら表舞台に出ることは一切なかった。今では親族さえも彼女の消息はわからないという。
 1945年、つまり昭和20年生まれの彼女、存命なら今年(2024年)で79歳になるが。

初出・『昭和39年の俺たち』2024年7月号


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