金鉱王・崔昌学とアフター・ザ・ゴールド・ラッシュ~併合時代のスーパー成金の一代記
併合時代の朝鮮にゴールド・ラッシュがあって、数多くの成金が誕生したという事実を知っている日本人がどれだけいるだろうか。
ジャーナリストの大宅壮一は1935年(昭和10年)、約ひと月にわたる朝鮮、満州の取材旅行を実行、そのレポートを「満鮮スリル行」と題し『日本批評』(1935年11月号)誌上に寄稿している。
大宅によれば、「京城の市街は、内地とほとんど変わりがない。いや、内地の二流都市よりずっと綺麗で賑やか」。京城ではまず朝鮮日報社に立ち寄ると、編集局長以下幹部が総出で出迎えてくれ、その晩は一流の料亭につれていかれ、妓生(キーセン)10数人をはべらす大饗応を受けたという。
《後できいてみると、この新聞の社長は、有名な金成金で、一介の鉱山労働者からたちまち朝鮮で一二を争う鮮字新聞の社長となり、朝鮮のイトウ・ハンニと呼ばれている。》
ここに出てくる朝鮮日報社長なる人物は方應謨(パン・ウンモ)のことだろう。
東亜日報の支局長時代に平安北道朔州の校洞鉱業所を買収、ここで大金脈を当て成金になった。その後、傾きかけていた朝鮮日報社から経営権を買い取り1933年(昭和8年)社長に収まっている。それまでどちらかといえば、抗日独立的な論調の多かった朝鮮日報が、方の社長就任後、親日路線に転ずることになるが、それは方社長の指向であると同時に、抗日独立支持派の最右翼となったライバル紙である古巣の東亜日報(ベルリン五輪マラソン金メダリスト孫基禎の日の丸抹消事件で知られる)との差別化をもくろんでのことだった。方社長を補佐する副社長は"朝鮮近代文学の父""朝鮮の魯迅”と呼ばれる小説家の李光洙が務めた。
方應謨が、大宅のいうように鉱山労働者の出身だったかは不明だが、生家は貧しく苦学の人であったのは事実で、そのせいか大金持ちになって以後は、農村の啓蒙運動や女性の教育運動への助成、水害被害復興への支援など、福祉事業にも尽力している。
ちなみにイトウ・ハンミ(伊東ハンニ)は、戦前の作家で相場師、社会運動家、『国民新聞』のオーナーで、あの男装の麗人・川島芳子(愛新覺羅顯㺭)のパトロンとしても知られた怪人物で、大宅壮一とも親交が深かった。
大宅は続ける。
《先年来朝鮮では、ゴールド・ラッシュが湧きかへってゐる。農夫も樵夫も、教師も牧師も、シャベルとツルハシをもって狂奔するといういふ騒ぎだ。或るヴァイオリニストは愛妻を売った金で鉱区許可の出願をするし、或る牧師は祈禱によつて大金鉱を発見したといって信者から印紙代を集める。人相見や易者と相談の上金鉱を探して歩く熱心家があるかと思ふと、詐欺に引つかかつて元も子もなくしてしまひ、首をくくつたなどといふ悲劇がある。すべて投機性をおびてゐて、百円の金鉱がたちまと千円、一萬円、十萬円、百萬円と十進法で暴騰し、さて掘つてみるとちつとも出なかつたとか、逆に誰もがサジを堤げて(ママ)鉱区から続々出だしたとか、お伽話めいたゴシップが伝えられてゐる。》
まさに、黄金狂時代といった感がある。「愛妻を売った金」とあるが、一定期間妻を担保として金を借りる習慣は朝鮮や支那にはあったらしい。日本にも「女房を質に入れても」という言い回しがあるが、朝鮮ではそれを地で行っていたということになる。「或る牧師は祈禱によつて」という部分も奇異に感じられるかもしれないが、韓国のキリスト教は土着のシャーマニズムと融合した独特のスタイルをもち、牧師も加持祈祷を生業とするのである。
大宅によれば、朝鮮の全道の約6割が金鉱になる勘定だといわれ、それに合わせて次々と成金が誕生しているという。「日帝の過酷な搾取に泣く朝鮮良民」の姿は一体どこにあるのだろうか。中央日報2009年(平成21年)4月22日号によれば、1939年(昭和14年)の金生産量は31トン、現在の貨幤価値で計算すると10兆ウォン(約1兆円)に及ぶという。中央日報は例によって、「植民地朝鮮の治者として君臨し、お金になることなら目を吊り上げた朝鮮総督府の金採掘奨励政策と、当時の金の価値暴騰がきっかりあった結果だ」と、これらの金(キン)はすべて日帝によって搾取されたかの如き書きっぷりだが、冗談ではない。今、書いたように半島ゴールド・ラッシュは多くの朝鮮人新興富豪を生み、それらの一部は地元に還元され人々の暮らしを豊かにしているのだ。
「黄金鬼」の福祉事業
戦前、帝国議会で朝鮮人初の代議士となった朴春琴(ぼく・しゅんきん/パク・チュングム)も金鉱でひと山もふた山も当てた金鉱成金のひとりである。その朴が金鉱の道でライバル視し、ときにしのぎを削りながら、ついぞ勝つことのできなかった、文字通りのスーパー金鉱成金が、「黄金鬼」の異名をもつ崔昌学(さい・しょうがく/チェ・チャンハク)、その人だ。
崔は20代はじめに故郷の平北亀城(ピョンブク・クソン)で金鉱を見つけて以来、次々と金鉱を掘り当て、最盛期には数十の金鉱を所有し、一代で巨万の富を築いている。「京城日報」1935年10月9日付が「当ったり大鉱山! まさに花咲爺/持前の侠気で公共事業数々 崔昌学氏」と題した記事を掲載している。一部紹介しよう。
《大正十一年であったろうか平北亀城郡舘西区造岳洞に金鉱の発見されたことを聞いた崔昌学さんは、「こりゃ耳よりな話じゃわい、必ずその附近にまだ眠っている金色燦然たるうい奴があるにちがいない」というので、機を見るに敏な崔さんは調査をはじめた、そして大正十二年にその北方舘西、天摩両面に跨る大鉱区を発見してその年末九十九万坪の鉱区設定をうけ、三成鉱山の看板の香もゆかしく嘴を入れるとどうだ事業開始の第一年に産金八十六万円にのぼり爾来鉱区を拡大して昭和四年迄の総産額一千万円に達し、文字通り半島の鉱山王として、夢のように華かな王座を獲得して了った幸運児である、さあ斯う事業があたれば面白い、採掘に製錬に全身を打込んで刷新改善をはかったものだ、大体山の中だから、三成鉱山の辺りは人家稀(ま)れな文字通りの寒村に過ぎなかったが、事業の発展に従って従業員は一千戸を突破しこれに伴って転住するもの日に多きを加えたものだから、物資の集散は激増するし商業は盛んになるといった調子で遂に市場まで出来るようになった崔さんはこれを見て、道路改修、警察官駐在所の設置、公立普通学校の新設等に努力し寒村はモリモリ姿態を整えて郡の中心となるに至った。》
ゴールド・ラッシュは、ひとり金鉱王の蔵を満たすだけではなく、地域の振興、ひいては人々の生活の向上にひと役もふた役も買っているのである。儲けたお金のいくばくは世のため人のために使う―。内地でも半島でも、昔の事業家にはそういう篤志家は多かった。
当時、満鮮国境一体は昼夜なく匪賊が跋扈し、強奪、火付け、人さらいなど外道の限りをつくして人々の生活を脅かしていた。特に冬ともなれば鴨緑江は凍結して、陸つづきも同様となり匪賊の侵入を容易にする。崔昌学はこれら匪賊退治には整備車両が必要であると痛感し、国境第一線警察署に3台寄贈している。また、また国境警察官のための療養施設建設の計画を聞くと、これに多額の私財を投じている。他にも、産業開発のための産業奨励舘新設に寄付したり、初等学校の設立、京城工業学校に鉱山科設置、その他道路の改修、冷、水害の救済、国防飛行場設置等、社会事業に次々と寄付を申出で、京城日報の記事によると「その総額過去八年間に二十一万五千五百円」にのぼっているという。
また戦争が激化すると皇軍のために戦闘機計8機、高射砲計2門の献納したほか、多額の寄付を何度かにわたって行っている。現在の金額にすれば、10億や20億ではきかないだろう。
暗殺の舞台となった崔昌学邸
金鉱王・崔昌学のかつての栄華の片鱗をソウル中区平洞(チュング・ピョンドン)の江北三星病院に見ることができる。同病院の敷地内にある京橋荘という白亜の洋館は、崔が1938年(昭和13年)に建てた私邸(竹添荘)である。1584坪の地上2階地下1階建ての鉄筋コンクリートの建物には、ビリヤード室に理髪室、食堂、当時としては画期的な温水暖房施設まで完備されており、2階の部屋は崔の趣味か、なんとすべて畳敷きの日本間である。上海臨時政府主席を名乗っていた金九(キム・グ)が戦後帰国すると、崔は金九の自宅兼執務室として無償で提供している。併合時代の崔の数々の戦争協力が一切不問に付され、反民族行為者リストからも除外されたのは、ひとえに、この自宅寄贈の見返りといわれている。
金九はこの京橋荘で有名な『白凡日誌』を執筆している。そして彼が最期を迎えたのもこの家だった。暗殺者・安斗煕(アン・ドゥヒ)の凶弾によって、金九の書斎の畳が血の海と化したのは1949年(昭和24年)8月26日のこと。安は李承晩の手の者で、暗殺の背景には金九と李承晩の権力闘争があったというのが、今日の定説である。京橋荘の壁には、今もそのときの銃痕が生々しく残っている。
(初出)
※但し、単行本収録分は短縮版。本稿は完全版です。
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