僕が語っておきたい下北沢⑤銀紙楼
車の運転をしない僕は、通りの道には疎い。自分が住んでいたアパートの前を通る通りに「鎌倉通り」という洒落た名前がついているのも今さっき地図で知った。この道をずっと行けば、鎌倉に行くのか。それにしては鎌倉はちょっと遠いと思うけど。
僕のアパートは、ぶっくすオリーブのはす向かいの広島お好み焼き屋の路地を入った1階である。アパートといっても、店子は僕とお好み焼き屋だけで、2階は大家のおばあちゃんが一人で住んでいた。色黒だがバタ臭い顔立ちの、若いころは美人だったろうと思わせるおしゃれなばあちゃんの名前は駒子さんといった。
2畳ほどの台所に6畳間、4畳の板の間がついて、トイレ付風呂なしで、家賃は4万円。それまで住んでいた上馬の4畳半、トイレ流し共同の部屋が1万8千円だったから、2倍以上ということになる。それでも、下北沢でこの間取り、駅まで3分の立地を考えると格安といえた。
安いのには、それなりの理由もあって、日当たりは悪く昼間でも電灯は欠かせなかった。ある日、僕は、大量にアルミホイルを買ってきて、窓のある四畳間の壁といわず天井といわずクシャクシャにしたそれを貼りめぐらした。昼間のわずかに入る日の光を乱反射させて少しでも明るく見せようと考えたのである。その四畳は主に寝室としたが、朝目がさめて天井を見ると慣れぬうちは目がチカチカして痛かったし、蠅が止まるとキチキチといやな音を立てた。僕は、この部屋を戯れに「銀紙楼」と名付けた。僕は銀紙楼亭主である。
銀紙楼はすぐさま、悪友どものたまり場となった。もともと、僕が下北沢に住もうと決めたのは、友達が何人かいたからである。筆頭は甲斐くんという僕より2つ年上の専修大生、といってもほとんど学校にいっている気配はなく、彼の「本業」は劇団員といってよかった。今は解散してしまったが、80年代の小劇場ブームのとき人気を博した「ブリキの自発団」という劇団の役者兼雑用係である。
彼と知り合ったのは、薬理実験、つまり治験のバイトだった。もっと簡単にいえば、新薬などの実験に体を提供する有料ボランティア(というのも変な呼称だが)である。指定の病院に入院して、日に何度かの採血があり注射で痛い目にはあうが、あとは食事をして日ながベッドに寝てマンガでも読んでいればいい、実に気楽な”仕事”だった。それでいて、2泊3日を2クールで20万円とか、報酬もデカかった。そういうバイトだから、くるやつも結構個性派ぞろいで、甲斐のようなアングラ劇団員もいれば自称ミュージシャンに、早稲田の8年生、前科者といった塩梅で、10代の僕としては彼らと話しているだけで面白く、世の中が広がってくるような思いがしたものだ。
甲斐くんは銀紙楼と2分と離れていない、秀楽園という戦前に建てられたモダン住宅のアパートに住んでいたが、自分の部屋に帰らず、僕の部屋に長逗留することも多かった。それから彼はよく劇団仲間を連れて遊びにきた。スズナリ劇場でブリキの芝居がかかるときは、さながら僕の部屋は合宿所と化す。みんなで酒を飲み、夜通しバカ話をした。朝起きると、男女問わず見知らぬやつが隣で寝てたということも一度や二度ではない。まさに、銀紙とブリキのマリアージュだ。これに仕事仲間のデザイナーで、やはりシモキタ住まいの丸山や、小中高時代からの友達も加わって、銀紙楼はいつもにぎやかだった。あれだけ大騒ぎしても、不思議なことに、2階の駒子さんから苦情らしい苦情をいわれたことはない。それがなおさら僕らを増長させた感もあるが。
反対に、秀楽園の甲斐くんの部屋をみんなで襲撃することもあった。3畳の部屋の3方の壁は、劇団の大道具係に作らせたという本棚が高速道路のように張りめぐらされ文庫本が隙間なく並んでいた。この3畳の部屋で彼は、多いときは猫を3匹飼っていて、さすがに獣臭かった。
その秀楽園もいつの間にか取り壊され、今風のコーポが建っている。秀楽園に北沢ヒルトン、当時はそんな小粋な名前の古アパートも多かった。
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