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ポルノグラフィとしての反日プロパガンダ③~戦争カオス幻想とクヒオ効果

現実では不可能なヨシダ狩り

 ブラジリアン柔術では、関節技の「腕がらみ」をキムラロック(Kimura-lock)あるいは、単にキムラ(Kimura)といいますが、これはこの技を得意としていた"鬼の木村"こと木村政彦七段への敬意を表してのネーミングです。本書ではこれに倣い、「公権力と暴力で朝鮮女性を脅しトラックにつめて連行する」形式のスーパー慰安婦狩りを、「吉田式人間狩り」、略して「ヨシダ狩り」と命名し、以後のお話を進めていきたいと思います。
 果たしてヨシダ狩りの事例がどれだけあって、どれほどの犠牲者がいたのでしょう。有名元慰安婦の方々の証言から探ってみることにします。ただし、元慰安婦さんたちは、証言の内容がコロコロ変わるので、基本的にマスコミ・デビュー時の証言によりました。
 まずは元慰安婦カミングアウト第一号の金学順(キム・ハクスン)さん。彼女はキーセン小屋経営者の養女で、17歳のときその養父に華北にある慰安所に40円で売られたといいますから、これは該当しません。
 金さんと並ぶ日本軍性奴隷界のスター・文玉珠(ムン・オクジュ)さんは、17~18歳のころ、知り合いの朝鮮人から「遠い場所にある食堂で働けばお金になる」と持ちかけられ、船で到着した先がラングーン(ビルマ)にある慰安所だった、ということで、このケースも違います。
 李容洙(イ・ヨンス)さんは、満16歳の秋のある明け方、友人のプンスンが窓をたたくので外に出てみると、国民服に戦闘帽をかぶったおじさんがいて、新しいワンピースと革靴をくれたのでうれしくなってついていったそうです。やはり彼女もまた、卑劣なヨシダ狩りによって散らされた「花のような娘」ではなかったようです。
 他に、金君子(キム・クンジャ)さん、黄錦周(ファン・クムジュ)さん、鄭書伝さんなど主だった元慰安婦の方々の証言を再確認しましたが、そのどれも、近親者に売られて、あるいは、怪しげな人物に騙されて、といったパターンで、悪辣非道なヨシダ狩りの被害証言は皆無でした。
 先の大戦で出征した学徒兵の総数は13万人だといわれています。7万人が参加した神宮外苑での雨の壮行式の光景はあまりにも有名です。20万人もの性奴隷を連行するには、朝鮮全土で大規模なヨシダ狩りが、しかもかなりの頻度で行われていなければ、とうてい計算にあわないとは思うのですが。
 結論からいえば、ヨシダ狩りもまた、真空斬りや七年殺しと同じく講談本や劇画の中にだけ存在する必殺技、作者の想像力の産物ということです。

レイシスト吉田清治のサディズム傾向

 たとえばです。私が、複数の人員からなる武装集団を組織し、朝鮮高校を襲撃、チマチョゴリの女生徒に対してヨシダ狩りを敢行、陵辱を加えたのちトラックで奴隷市場に連行したなどという妄想小説を「事実」として発表し、そこそこの売れ行きをみせたとしたらどうなっていたでしょう。ふざけるなといきり立った朝鮮高校の生徒に、それこそパッチギを1万発ぐらいくらっているかもしれません。総連からの抗議は必至でしょうし、このときばかりは、同胞が侮辱されたとして韓国のマスコミや識者も南北の垣根を越え「日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物」に対する怒りの声を上げることでしょう。国内では有田芳生議員あたりが国会でこれを取り上げ問題にするかもしれません。
 要するに、吉田という職業的詐話師が仕出かしたことはそれとまったく同じことなのです。彼ばかりではありません、出版元はむろん、この本をさんざ持ち上げ「慰安婦強制連行」の喧伝につとめてきた朝日新聞や毎日新聞、しんぶん赤旗などもいわば共同正犯といえます。

ヨシダの前にヨシダなくヨシダの後にヨシダなし。必殺のヨシダ狩り。吉田清治御尊顔。三遊亭円丈師匠ではない。

 岩波書店では、家永三郎著『戦争責任』をはじめ、鈴木裕子著『朝鮮人従軍慰安婦』、石川逸子著『「従軍慰安婦」にされた少女たち』と、確認できただけで3冊の出版物に、吉田本からの引用が「真実の証言」として紹介されているのです。特に石川逸子氏の著作は秦教授の現地調査の翌年(93年)の出版で、しかも、同書は岩波ジュニア新書という、中高生向けの新書の一冊というのですから、声を失ってしまいます。
 そもそも「従軍慰安婦」という呼称自体が、ホラ作家・千田夏光による造語です。「従軍」がつくならば、従軍看護婦や従軍記者と同じく、軍属であるはずで、階級がなければいけません。軍の中では、軍の命令系統に従ってもらわないと困るからです。たとえば、従軍看護婦でも婦長さんになれば軍曹で、中には生意気な初年兵にビンタをくらわせた剛の人もいたといいます。「私は日本軍の従軍慰安婦だった」というおばあさんがいたとしたら、最終の階級と除隊した部隊名を訊ねたらいい。いやしくも軍属なら、そのふたつは死んでも忘れないはずです。ちなみに歌手の渡辺はま子さんが満洲の部隊に慰問にいったときは尉官待遇だったと自伝に記しています。
 慰安婦はいても、従軍慰安婦はひとりもいなかったということです。

『「従軍慰安婦」にされた少女たち』。著者の石川逸子は元中学校教諭の詩人。悪名高い「群馬の森」の謝罪碑の前で自作の詩を読むなど、活動家としてのほうが有名。

『私の戦争犯罪』は吉田個人のサディズム的妄想の産物であるばかりか、彼の朝鮮人女性に対する野卑極まる蔑視の具現でもありました。だからこそ、済州新聞や金奉玉氏がこの本の内容に激昂したのです。わが同胞を、島民の女性を侮辱するのか、という当然の怒りです。しかし、ヨシダ狩りが半ば「事実化」されて以来、韓国からこの本と著者を糾弾する声は上がらなくなってしまったことは、不思議かつ残念でなりません。

「権力志向型」サドと「階級闘争型」サド

 男性のサディズム妄想は、大きくわけて二つの傾向に分類できると思います。
 ひとつは、力のベクトルが上から下へ向かう「順行型」、別名「権力志向型」です。この場合、サディストは、権力や腕力、財力など、異性に対する何かしらの力の優位性を保持しています。『番町皿屋敷』の殿様と下女お菊の関係が典型的といえましょう。菊池寛の『忠直卿行状記』もこれにあたります。サディズムのシチュエーションとしては、むしろポピュラーな形です。
 今ひとつは、力のベクトルが下から上へ向かう「逆行型」で、またの名を「階級闘争型」といいます。こちらの場合は、サディスト男性よりも女性が上位にあります。女主人であったり、ハイスクールのクイーンであったり、高嶺の花の有名タレントであったり、鼻持ちならぬインテリ女だったり、とケースはさまざまですが、その上位の女性が、何かの拍子に下位にあるはずの男性の支配を受けるというパターンです。このタイプのサディズムの典型的な作家に梶原一騎がいます。高慢な女が男の逆鱗に触れ、逆さ吊りなどの責め苦を受けるというのが、梶原作品のひとつの定型になっています。
『私の戦争犯罪』には明らかな「権力志向型」サディズムの傾向が読み取れるのです。
 吉田はまず、「軍隊」という権力の威を借り、「武装した兵隊と憲兵」の力を借りて、当時日本の統治下にあった済州島に乗り込み、無力な朝鮮人少女を「家畜の牝の成熟を確かめるような目つき」で品定めしたのちトラックに詰め込んで連行したと書いています。明らかに上位者の目で朝鮮人少女を見下ろしており、支配者として彼女らの生殺与奪を握る立場であることを誇示しているのです。文中、何度も「泣きじゃくった」「泣き出した」「悲鳴をあげ」という描写が出てきます。ポルノ作品に繰り返し出てくるフレーズや単語は、作者自身の性的嗜好を色濃く投影したものです。むろん、人間狩り自体が、彼がもっとも好む設定のひとつと思われます。
 サディズムの語源にもなったサド公爵の妄想世界はまさしく「順行型サディズム」のユートピアでした。彼の『ソドム百二十日』は4人の絶対的権力者が、42人の生贄とともに古城に篭り、120日間にわたって背徳の限りをつくす物語です。生贄の多くは誘拐された少年少女たち(サド公は男色・鶏姦の嗜好もありました)ですが、面白いのは吉田清治だったら死ぬほどこだわる(興奮する)であろう人間狩りの描写がサド公の作品にはほとんどなく、犠牲者は、最初から生贄として用意されているのです。さすが公爵だけあって、人間狩りなど召使の仕事と思っているのでしょうし、あまり興味がないのかもしれません。このように、パーソナルな性癖、性傾向というのは作品に表れるものなのです。
 民族差別的な視点で書かれた変態小説も、「日本軍の蛮行を暴く」「戦争犯罪者の懺悔」という建前がつけば、日本の左系メディアは「勇気ある告白者」ともてはやし、韓国の新聞は「良心的日本人」ともち上げるのですから、不思議なものです。「日本軍の蛮行を暴」いてもなく、「戦争犯罪者の懺悔」でもないことが明らかになった今、本来の変態小説として正当に評価してあげることが、泉下のポルノ作家・吉田清治氏へのたむけになるのではないかと思うのですが。

戦争カオス幻想

 冷静に考えれば荒唐無稽でしかないヨシダ狩りや南京大虐殺30万人が、なぜ事実であるかのように喧伝され、半ば無批判に受け入れられてきたのでしょう。もちろん、それを巧みに吹聴する左系学者や左系メディアが幅を利かせてきたことが大きいのですが、むしろ、「もしかしたらそういうこともありだったのかな」と思わせる心理的下地が、戦後教育によって人々の意識に出来上がっているということの方に問題があります。その下地をなすものが、「戦争カオス幻想」です。
「戦争というカオス状態においては、どんな不条理なことが起こっても不思議ではない」「戦争は狂気であるから、あらゆる犯罪が許されていたはずだ」といった思い込みです。「戦争」という語は時に「日本軍」という語に置き換えられることもあります。
 確かに、戦場という極限状態においては、人間としての理性や情感といったものが後方へ押しやられる瞬間がないとはいいきれません。ベトナム参戦時の韓国兵が、その顕著な例です。しかし、兵士の誰もが野獣に先祖返りするわけではない、これも確かなことなのです。戦闘の最前線にいながら必死に理性をとどめ、あるいは理性に助けられた兵士の数の方が圧倒的に多いのです。それは数多く残された将兵たちの手記、戦場日誌が証明しています。
 下手なSF作家ほど、核戦争後のカオスな未来世界を物語の舞台にしたがります。どのような設定でも作りようがあるからです。われわれは知らずうちに三流SFの読者にさせられているのです。

クヒオ効果

 では、どのような人が、そういったイメージ工作を受け入れやすいのでしょうか。
 まずは先にも触れた、思想的にまだ固まっていない10代の純真な少年少女です。破瓜期の不安定な精神状態に、ビジュアルで刷り込まれる反日(自虐)情報は、深い精神的外傷(トラウマ)となって、彼らを長く支配します。これが、日教組教師の好む平和学習なるものの正体です。生徒たちに扇情的なポルノを見せて感想文を書かせているようなもの、とでもいえば、その異常性がわかるかと思います。
 もうひとつのタイプを挙げるならば、いわゆる"半端なインテリ"です。より正確にいえば、自分がインテリでリベラルだと思い込んでいる人、他人にそう見られたい人、インテリってエライと勘違いしている人、ということになります。朝日新聞の主な購読層がこれにあたります。
『クヒオ大佐』(09年)という映画がありました。これは実在の有名な結婚詐欺師をモデルにした漫画を映画化したものです。モデルとなった詐欺師は、自称プリンス・ジョナ・クヒオ――本名は鈴木某で、むろん日本人です。
「エリザベス女王の双子の妹の息子でハワイのカメハメハ大王の血を引くアメリカ空軍特殊部隊パイロット」という触れ込みで女性に近づき、関係を結んでは、結婚資金を騙す手口で複数の女性から現金約1億円を騙し取っていました。その際には「私と結婚すれば英国王室からお祝い金5億円が贈られる」などと持ちかけていたといいます。この男、自分の外見を外人ぽく見せるため、整形手術で鼻を高くし、髪はむろん恥毛までも金色に染め、普段から英語まじりの片言の日本語で通していたというから徹底しています。
 それにしても、エリザベス女王の甥だの、カメハメハ大王だの、誰が聞いても嘘臭い話で、これに騙されるのは一体どんな女性なのかと興味もわきますが、被害女性のほとんどが、高学歴のキャリアウーマンや叩き上げの女起業家といった、男も一目置く切れ者、周囲からはしっかり者といわれていた女性たちであると聞いて驚きよりも、なるほどという感想を新たにしました。
 そういうやり手の女性たちですから、日ごろから周りの男性たちが頼りなくも見えていたでしょうし、プライドが高いぶん、自分を安売りもしたくない、いつか自分のキャリアに見合う男性との出会いをと願いつつ、仕事一筋で気がつけば婚期が過ぎて、というパターンに陥りやすいのかもしれません。そんな彼女たちの前に突然現れた白馬に乗った軍服の王子さまが、クヒオ大佐だったといもいえます。彼女たちの自信や知性が逆に、通常の尺度に収まらない超スケールの嘘を受け入れてしまう心の隙、いや、余裕といってもいいかもしれません――を作ってしまったのです。先ほどいった、半端なインテリほど、ヨシダ狩りや南京大虐殺といった荒唐無稽な話を信じ込むという不思議な現象と構造は同じです。私はこれを「クヒオ効果」と呼んでいます。

「私、エリザベス女王の甥っ子でカメハメハ王の血を引くアメリカ空軍大佐ノクヒオいいマース」。日刊ゲンダイによれば、鈴木は80を超えた今も現役の結婚詐欺師で、最近はアーサーと名乗っているそうである。

 クヒオ事件で興味深いのは、被害女性の中に、クヒオこと鈴木が逮捕されたあとも、「自分が騙されていた」と認めたがらない女性が少なからずいたということでした。よほど、クヒオの囁くファンタジーが魅惑的だったのでしょう。夢が甘美であればあるほど、その夢から覚めるのが怖くなり、現実に立ち戻ろうとすることを拒否してしまうのです。
 これは結婚詐欺全体にいえることなのかもしれませんが、実は女性の方も途中で男の話の嘘臭さに気づいていることも多いのです。たとえば、クヒオの場合、彼が見せてくれる「アメリカ合衆国発行の公文書」はすべて日本語で書かれていたといいます。当然、これはちょっとおかしいと思うところですが、ファンタジーを維持したい心理が小さなほころびを視界から消し、都合のいいように穴埋めしてしまうのです。女性からすれば、文字通り、身も心も財産もクヒオに捧げてきたわけです。今さら彼の嘘を認めてしまうことは、それまでの自分を全否定してしまうことになります。かくして、彼女はクヒオの語るファンタジーの世界に積極的にはまり込んで行くのです。これも「クヒオ効果」のもうひとつの特徴です。
 一度、ヨシダ狩りや南京大虐殺を信じてしまうと、第三者が論理的かつ科学的に、それらの虚構性について解説しても耳を貸そうとすらしません。むしろ、意固地になってファンタジーにしがみつこうとします。ヨシダ狩りや南京大虐殺を否定することは彼らにとって背信行為になってしまうからです。「クヒオ効果」による自己情報遮断が働いているのです。

放置されるエログロ平和主義

 70年代、女性を中心に世界的に大ヒットしたソフト・ポルノ・フィルムの傑作に『エマニエル夫人』がありました。監督はヴォーグ誌などで活躍したファッション・カメラマン出身のジュスト・ジャカン。『エマニエル』の成功は、ファッショナブルでソフィスティケートされたものであるなら、女性もまたポルノを楽しむということの証明でもあったと思います。その後、ハーレクイン・ロマンスやシルエット・ロマンスなど、女性向けの官能恋愛小説のブームもありました。近年では女性向けのアダルト・ビデオなども密かな人気のようです。
 誤解を恐れず言わせてもらえば、男でも女でもポルノが嫌いな人はいないのです。官能、愛欲、背徳といったファンタジーに浸る、それはまったくもって健全な大脳活動であると思います。不健全なのは、そういった、人々が自然にポルノを受け入れる感性を利用して、反日、侮日、自虐のエログロ・ポルノをそれとはわからぬ形で刷り込み洗脳しようという輩です。とりわけ、判断力のない少年少女に、反日ポルノ、エログロ平和教育は危険すぎます。
 これまで、反日ポルノの作り手といえば、中国、韓国、そしてその共犯者である日本のエログロ平和主義者たちでしたが、近年ではこれにアメリカが精力的にこれに加担していることに注視しなければなりません。特に映画産業。ハリウッドには確実に莫大なチャイナ・マネーが入り込んでいることでしょう。日本軍が米軍の捕虜を生きたまま食人したり、原爆投下後の広島の町並みを見た主人公に「せいせいした光景だ」といわせるシーンがあるという反日トンデモ映画『Unbroken』が女優アンジェリーナ・ジョリーの監督によって製作中だというニュースもあります。
 今後、このような反日ポルノが次々制作されることと思います。われわれは間違っていることは間違っている、嘘は嘘と、国外にむけてもっと発信する力と知恵をもたなかければなりません。

『アンブロークン』ポスター。血のように染め抜いたん本列島。鉄条網で編んだ五輪は東京オリンピックへのあてこすりか。同映画は興行的には大失敗だったようだ。ざまあみろ。

(おわり)

『韓国呪術と反日』。再版がまたれる。

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(追記)70年代から80年代にかけて、女収容所イルザ・シリーズをはじめとする、ナチを題材にしたポルノ映画が量産されました(なぜかイタリア製が多い)。これも戦争カオス幻想を利用した、軽薄な商業主義の産物です。ナチだったら、これくらいやっていただろう、ナチならどんな悪者に仕立てても許されるだろう、という製作者側の思惑が見えかくれします。観客側もナチの悪行を知る、という建前のもと、自分たちのサディズム欲求を満たすために映画館に足を運ぶのです。
私は、ナチを擁護する気は1ミリもありませんが、やってもいないことをやったかのように言われるドイツ軍OBの子孫が不憫にも思います。
吉田清治も石川逸子もこの手のナチポルノ製作者と同類です。
ノーモア、反日ポルノ! 反日ポルノを子供の目に触れさせてはいけません。それは大人の責任です。

よろしければご支援お願いいたします!今後の創作活動の励みになります。どうかよろしくお願い申し上げます。