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朝鮮戦争休戦70周年~拉北者とは何か(前編)

(リード)
 くしくも今年(2020年)は朝鮮戦争70周年にあたる。1950年6月25日、北朝鮮軍が突如、38度線を突破し韓国に侵攻、わずか3日間で首都ソウルを陥落せしめた。その後、釜山に落ちのびた大韓民国大統領・李承晩の要請を受けたアメリカを中心とする国連軍と北朝鮮に肩入れした中共軍が朝鮮半島を舞台に激突、軍事境界線の固定化をもって1953年に休戦にいたるわけである。
 このソウル陥落の際に、北朝鮮軍によって韓国から知識人層を中心に多くの人材が拉致され北に送られている。これを戦争拉北、あるいは単に拉北といった。当初は、収監中の政治犯がメインターゲットだったが、やがて文化人や技術者へと拉北リストが拡大された。さらに戦局の変化にともない、労働力と兵力の補給として未成年を含む若い男女が、ほぼ無差別、大量に送還されている。その数、一説によると10万人に及ぶという。まさに、拉致は朝鮮のお家芸ともいえるのである。
 戦争拉北者の中には、併合時代を通して日本ともゆかりの深い人物も少なくない。その横顔を含めていく人か紹介してみたい。

朝鮮近代文学の父の悲劇

 まず、思い浮かぶのは、朝鮮近代文学の父と呼ばれた李光洙(イ・グァンス)である。李は三・一独立運動に先立つ「二・八独立宣言」の起草に加わったのち、上海臨時政府設立に参加するなど、当初は熱心な独立運動家だった。
 その後、対日協調路線に転向。祖国喪失の原因は儒教道徳や因習にとらわれていた朝鮮民族自身の内面にあるとして、これらを強く批判する啓蒙的な小説を多く残し、「朝鮮の魯迅」とも評された。創氏改名の際には率先して「香山光郎」と改名、同胞にも広く改名を勧めている。また、愛弟子でもある金一葉(キム・イルヨプ)らの女性解放運動のよき理解者でもあった。ちなみに、金一葉(本名は金元周)というペンネームは、樋口一葉からとって李光洙が名付けたという。

李光洙は「われわれの漢字三文字の名前はもともと支那のものだ。支那風の名前を名乗るなら日本風を名乗ったほうが合理的ではないか」と語っている。

 以上のような併合時代の親日的姿勢から、李承晩政権下、反民族行為者処罰法によって検挙、投獄を経験する。法廷では堂々とした態度で「私の親日行為はあくまで祖国再建のためであった」と主張したという。
 不起訴となるが半年を待たずして朝鮮戦争が勃発、拉北されてしまうのである。当時、持病の結核が悪化、自宅で床に臥せっていたが、それをかまわず銃器をもった北の兵士が引っ立てていったといわれる。
北にわたってからは、栄養事情もあってか、強制労働中に喀血、そのまま帰らぬ人となった。後年、に米国在住だった長男が北朝鮮を訪問し父の墓を確認したところ、1950年没とあったという。
現在の韓国での李光洙は、教科書で読む偉大な国民作家と、民族の裏切り者=親日派という、相反するふたつの評価で宙ぶらりんとなっている。

女性運動家・金一葉。自由恋愛の実践者で、このご面相でありながら(失礼)、多くの男性と浮名を流した。恩師の李光洙とも一時男女の仲だったという。日本人男性太田清蔵の間に一子あり。晩年は仏門に入った。

友軍の空爆で死んだ新聞王

 李光洙にはもうひとつ、朝鮮日報副社長という肩書があったことが知られている。朝鮮日報といえば、現在も続く韓国保守系新聞の雄。李が副社長であった時期、オーナー社長として辣腕を振っていたのが、方應謨(パン・ウンモ)である。
 方は東亜日報の支局長時代、平安北道の朔州の鉱業所を買い取り、ここで大金脈を掘り当て一夜にして金鉱成金となった。1933年、その金の一部で、傾きかけていた朝鮮日報の経営権を収得、社長に収まるのである。結果、方應謨=李光洙ライン時代に同紙は黄金期を迎えている。
 方社長は、古巣でライバル紙だった東亜日報が独立運動シンパ(ベルリン五輪マラソン優勝の孫基禎の日の丸塗り潰し事件で知られる)だったこともあり、差別化を図るためか、どちらかといえば、親日的な紙面で購読者数を争った。方はまた、朝鮮の新聞社でいち早く航空報道写真の自社用飛行機を導入するなど先進的な経営者であったようだ。

方應謨。実業家、ジャーナリスト、慈善家。昭和のはじめ、朝鮮北部ではゴールド・ラッシュに沸き、彼のような金鉱成金を多く生んだ。

 彼も北朝鮮軍によって拉致されるのだが、その際、彼を乗せた護送用トラックがアメリカ軍の空爆を受け、どうやら死亡してしまったらしい。「らしい」と書いたのは、直撃弾を受け、遺体どころか肉片も骨の欠片すらも現場には残らなかったからである。

墓石なき独立の志士

 崔麟(チェ・リン)は、天道教(カトリック)代表として三・一独立運動に参加、運動の主導者の一人として活躍した人物だ。その後、投獄を経て親日派に転じている。
 朝鮮総督府中枢院参議に選ばれ、パリに駐在中、外交官の夫(金時英)の研修旅行に同伴し同地を訪れていた画家で女性解放運動家の羅蕙錫(ナ・ヘソク)との人目もはばからぬ不倫は、在仏朝鮮人界を巻き込む大スキャンダルとなった。のちに総督府の事実上の機関紙・毎日申報の社長に就任、内鮮一体を説いている。
 戦後は、反民族行為処罰法によって逮捕されるが、李光洙とは対照的に、終始、自分の親日行為を懺悔する陳述をしており、病身であったこともあって、すぐに釈放されている。もし、そのまま牢の中にいたとしたら、ひょっとして北に連行されることもなかったと考えると運命の皮肉というほかに言葉はない。

反民族行為処罰法によって連行される崔麟(右)。

 拉北後は対南宣撫のための統一宣伝機関への入所を求められたが、拒み続けたという。その後の彼の消息についてはまったく不明だが、北朝鮮の記録によると、1958年12月に81歳で病没したことになっている。北朝鮮での崔の評価はなぜか低く、李光洙は墓を造成してもらえたが、彼は埋葬地さえ明らかにされていない。

夫から離縁され困窮した羅蕙錫は「貞操蹂躙」の罪で崔麟に慰謝料請求している。ここいらへん、女性運動家として金一葉に比べ思い切りの悪さを感じる。晩年は本業の画も精彩を欠いた。

朝鮮のヴェルレーヌも農場行き

 李光洙が朝鮮近代小説の父であるならば、金億(キム・オグ)はさしずめ朝鮮近代詩の開拓者であろう。
慶應義塾大学在学中、朝鮮人留学生による文芸同人誌「学之光」に詩『別れ』を発表し注目される。創作の傍ら、ヴェルレーヌをはじめフランス象徴詩の翻訳紹介につとめた。また、エスペンティストであり、朝鮮でのエスペラント普及にも尽力。彼の主催した文芸同人誌「廃墟」創刊号の表紙にはエスペラントが躍っていた。

金億。『クラゲの歌』は朝鮮で最初の近代詩集といわれている。
『廃墟』創刊号。題名どおり、三一運動の挫折感から漂うデカダンな香りが漂う。表紙にはエスペラント。惜しくも2号で廃刊。

 山本五十六の戦死に際して哀悼詩『ああ、山本元帥』を発表。これが仇となって、現在、親日派人名リストに名を連ねている。
1950年9月10日に拉北され、56年には拉北者知識人で組織する在北平和統一促進協議会のメンバーに選ばれるが、その後の消息は不明で、一説によれば、58年、平安北道鐵山郡の共同農場に下放されたという。

思想転向を繰り返した男のゆくえ

 近年、韓国で伝記映画が作られ、日本でもその名が一般にも知られるようになった、元アナーキストの朴烈(パク・ヨク)もまた戦争拉北者の一人である。
 日本で無政府主義運動を展開。関東大震災時、愛人の金子文子とともに治安維持法で逮捕され、大逆事件を計画したとの“自供”により死刑判決を受ける(のちに無期懲役に減刑)。ただし、大逆事件計画自体は裏付けが乏しく、朴のハッタリであった可能性もぬぐいきれない。もともと朴は、自身の発行していた機関誌に『太い鮮人』(不逞鮮人のもじり)と名付けたり、どこか人を食ったところがあった。予審中、大胆にも文子と抱擁して見せ、その様子を伝える写真が出回るなど、スキャンダラスな話題で衆目を浴びた。エログロナンセンスの時代を象徴する一種のトリックスター的存在であったようだ。

朴烈と金子文子は、大杉栄と伊藤野枝と並んで大正を代表するスキャンダラスなカップルだった。

 獄中で、反共主義者に転向。日本の敗戦を機に釈放され、在日本大韓民国民団(民団)の初代団長となるが、2期目を狙った1949年の団長選挙では落選、失意を抱えたまま祖国韓国に渡るものの、彼を待っていたのは朝鮮動乱の戦火だった。
 北朝鮮に連行後は、思想改造され、共産主義者に再転向。在北平和統一促進協議会の幹部を務めるが、1974年にスパイ容疑で粛清されている。

朴烈。長渕剛……ではない。まさに、ジェットコースターのような生涯だった。

(後編へ)

初出 「WiLL」2020年9月号



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