仲村俊子さんに訊く 沖縄戦・祖国復帰・反基地運動
昭和20年6月23日、牛島満司令官が自決され、沖縄戦における日本軍は完全に機能を喪失した。この日をもって実質的な沖縄戦終結とする識者も多い。今年(令和6年)はそれから79年目となる。
沖縄の祖国復帰運動の民間における最大の功労者である仲村俊子さんと生前一度だけお会いし、ご自宅でインタビューさせていただいたことがある。扉写真はそのときのもので、既に90歳を超えるご高齢でありベッドに腰かけてのインタビューとなったが、まるで物差しを飲み込んだかのようなまっすぐな背筋に、こちらも思わず襟を正さずにはいられなかった。
今回、俊子さんの御子息で日本沖縄政策研究フォーラム理事長である仲村覚さんの御厚意で、ここに転載させていただく。なお、インタビューの監修、文章化も覚さんによる。
兵隊さんと黒砂糖
但馬 沖縄と言えば仲村俊子さん、俊子さんといえば沖縄県祖国復帰の立役者として有名ですが、今日は主に祖国復帰運動、そして人生を語っていただきたいと思います。
仲村 私は今年数えでいうと96歳になるんですよ。同級生や当時、復帰運動で苦労を共にした方も、殆どいなくなってしまって寂しいですよ。8人兄弟の末っ子で、一番上の兄はニューヨークで牧師になりましたから会ったこともないの。42歳で亡くなりましたが、尊敬すべき兄でした。
生まれたのは与勝半島(沖縄県うるま市)で、戦時中は学校は兵舎になってましたね。だから兵隊さんがうちにもよく遊びに来ました。サツマイモを炊いてお茶と一緒に出したりしたけど、帰った後でお盆の下などにお金がおいてあったりしました。
ある日、兵隊さんが来た時に私は寝たきりの母のことで頭がいっぱい、自分のことだけを考えて、兵隊さんの話も聞かず、何も出さずに帰したんですよ。その後兄から「俊子、学校の兵隊さんは食糧輸送が無いらしい」と聞き、黒砂糖を持って走って学校へ行ったけど、もう誰もいない、シーンとして物音ひとつ聞こえない。食料が無いという事は軍事秘密ですからね。沖縄は海からしか物資補給が出来ないから。きっと、戦闘の激しい南部に行ったんでしょうね。
70年たっても忘れられない記憶です。おそらく戦死なさったと思うんですけど。私ね、靖国神社へ行くと、そこに祀られているかどうかわかりませんが、いつもいつも「ごめんなさい」って謝るんです。みんな自分が守る、この地を守るために戦ってくれたんですよ。それをみなさんに知っておいてもらいたいと思っています。
書き換えられた歴史と敗戦後 復帰後
但馬 戦後沖縄の歴史が書き換えられましたよね。戦時中は鬼のような兵隊が、とかいう話ばかり。軍官民が一体となって戦った沖縄戦の歴史を勉強しなければと思いました。終戦になって、まさかアメリカに占領されるとは思ってなかったですか?
仲村 負けるとは思いもよりませんでした。鬼畜米兵って(笑)教えられて。何かあれば神風が吹くはずだとね。日本が負けたと聞かされたときは信じられんたですね。空襲時は防空壕に隠れてましたが、山に逃げなさいという指示がきたんですよ。
うちの近くにあった富士山のように綺麗な形をした山があって、神聖な場所といわれてたんですが、調理用に木を切っていって最後ははげ山になってしまった。仕方がないんですよね、生きる方が優先するから。那覇に住んで60年になり故郷にいた時間のほうが短くなって、それでも故郷が恋しくてたまりません。生まれたところは魂の底に感情として残るものなんですよ。
但馬 そのとおりですね。ところで祖国復帰前、占領下のお話を伺えますか。戦後になってアメリカの占領の統治下に入りますよね。その頃のお話を……。
実際に沖縄の人たちは早く復帰したいと望んでたわけですよね?
仲村 占領下にあっても、自分たちは別に食生活に不自由を感じた思いはないです。しかし、戦後は公務員が一番貧しく商売人が一番儲かる時代でした。その頃は、勝連で中学生を教えていましたが、子育てが大変でした。村でバイトを探して子守をお願いするのですが、母乳の時代ですのでいっしょに学校まで連れていって、授業中遊ばせてもらうのです。紙おむつもない時代ですから、石炭アイロンでおむつを乾燥させたり大変でした。
復帰に関しては2点ありますよね。
まず本土よりも豊かな沖縄という雰囲気ね。ステーキは安いし、アメリカ製品が頻繁に買える。当時1ドル360円だから、復帰したら今の給与はどれくらいの対価があるかわからない。要するに復帰するとまた裸足と芋の生活(昭和43年の行政主席選挙で保守陣営・西銘順治候補が打ち上げたキャッチフレーズ。米軍基地撤去、即時無条件返還を掲げた革新統一候補の屋良朝苗が勝利すると、昔のようにイモを食い、はだしの生活に戻ると強調した持論)に戻るんじゃないかと、自民党の先生たちは考えていたみたいですね。
同時に県の予算より建築会社の予算のほうが大きく、県が建設会社からお金を借りてたくらい。沖縄経済の保護措置を整えないまま、急に復帰すると米軍からの仕事がなくなると思って、自民党の政治家は急いで本土復帰したくないわけですよ。
皮肉なことに、日教組が祖国復帰推進の主体になって祖国復帰協議会を立ち上げ、マスコミと一体化し県民世論を盛り上げてしまいました。その結果、基地を残したまま復帰の実現が見え始めると、祖国復帰が反日運動になってしまいました。米軍基地を撤去しなければ復帰は認めないと。初期の段階では、日の丸掲揚運動もあったけど、実は祖国復帰協議会の日の丸揚げさせろというのは反米運動だったのです。復帰運動と反米運動が混然一体となる構造だったわけです。
沖縄復帰運動の複雑性
但馬 複雑な構造だなあ。復帰しようと言いながら裏には反日運動、反米運動があったと。心底復帰したい、という人もいたわけですか?
仲村 米軍がいたほうが物資が豊かという現実的な考えと、感情的な日本復帰を望む人もいる。同時にその動きを利用する人もいて、三重、四重の複雑な構造がありました。昭和39年の東京オリンピックの時、沖縄はまだ米軍統治下でしたが、聖火リレーが行われました。沿道が日の丸だらけになり、ものすごく感動的でしたが、実はその裏には反米運動という側面もありました。祖国復帰運動の日の丸掲揚運動というのは裏を返せば反米、反基地運動なんです。
沖縄返還協定の批准が国会で審議されている頃、沖縄中が批准反対の大規模でもが繰り返されていました。東京の菊地藤吉先生から、「このままでは復帰出来なくなるけどいいのか?」という電話が2度かかってきて、私は民間の声として、復帰嘆願書を持って国会の議員会館を回り始めたんです。反対運動に60人あまり行ってると聞き、それはありとあらゆる手段を使いました(笑)
このタスキ(写真参照)をかけながら、国際通りで街頭演説をやったり、東京の上野公園でやったり、署名集めたり。
その結果沖縄返還協定は1週間後に強行採決されました。沖縄の神社の神々様も応援してくださったと信じています。あらゆる神社に、復帰できますように、自分はどういう行動をすればいいか、どうか導いてくださいと涙で朝早く毎日祈ってましたよ。だから自分たちだけの力じゃなくて、神々の応援もあったものと信じています。
但馬 めでたく復帰を迎えた昭和47年。いかがでしたか?
仲村 それがね、復帰した後どういうことが起きたかというと、つるし上げです。復帰が決まって教員仲間から吊し上げ。その人たちから、あんたたちが復帰運動にやったから沖縄返還協定が批准されてしまったんだ!バカ野郎!って、机叩いて言ってきた。だけど私はとっくに首を覚悟で何もこわくない。私の首ひとつなら安上がりだと心底思ってたし。
結局復帰したあと政治がどのように動いたかというと、教員、公務員の給料も上がり沖縄は豊かになったんですよ。収入も全国一と言われ豊かさを享受している。道なども沖縄でははきちんと舗装されてる。あれは海洋博覧会のおかげで綺麗になったそうだけど、インフラなどは本土より沖縄のほうが豊かな感じはあったね。
但馬 周りの人たち復帰運動をされていたとことは正しかったと思ったでしょうね。
仲村 何も言わなくなった。左翼はずっと運動していて、毎年5月15日前後には全国から組合員を動員して、日米両政府に米軍基地を押し付けられた屈辱の日として平和行進を行ってきています。
但馬 何がなんでも反対だとか、屈辱だとか、沖縄は犠牲を強いられているという観点にもっていくわけですね。
仲村 そう。復帰前はサンフランシスコ条約が発効された4月28日も屈辱の日でした。沖縄が日本から離れてもくっついても屈辱なんですよ。
一番大切なのは教育正常化でしょ。日本国民の幸せの為に真っ当にやらないといけない。ウイグルとかチベットのようにならないように、言論の自由も宗教の自由もあるという美しい日本を守りたいですよ。天皇陛下のおられる日本を守りたいためにやって、反対派の人達も日本国民だから、誰かを憎んだら私の負け。左翼の人を憎めば私の負け。左翼も日本人ということを自分の糧にしてたんですよ。
反基地運動・教育とは
但馬 基地に関してはどう思われますか?特に反基地のヒステリックな人たち。
仲村 基地は必要ですよ、絶対必要だと思います。無いとやられる。国は鍵をかけないと。だから国防は絶対必要と。それは戦うためではなくて、国民の命を守るためです
習近平は沖縄を自分のものだと言ってる。沖縄には国頭村があります。北方四島に国後島がある。日本は沖縄が頭で尾が北海道ですよ。私はそう信じています。
教公二法というのがあるんだけど、教員は政治活動してはいけないという法律。日教組はその阻止をはじめましたよ。運動をしたくない人はしないでいいと書かれていて内容は厳しいものじゃなかった。それまで教員組合からは特定の人を支持しなさい、という指令がきてたわけですよ。
今の反対派の人たち、慣れてるでしょ、高江でも普天間でも。運動家というか運動していた教員が多いの。警察の幹部がきても、自分の教え子たちの年齢だから舐めていますよ。おめぇは名前はなんだ!って。どこ出身だ!とすぐわかるよ。だからかえって若い人達が来た方が、向こうはびびりますよ。そういう一面もあるのよ。食ってかかるけど向こうが手を出せば訴えられるから。
但馬 それ聞いたことがあります。活動家がかっての担任で、警官が教え子だったと(笑)。それもまた、沖縄の複雑なところですね。
仲村 もうひとつね、お爺もお婆も天皇陛下のために亡くなったのに、なんで陛下は沖縄に来なかったかという、それがもう愛情が恨みになってるんです。 本土の人はわからないけど、沖縄の左翼には愛国者はいるのね。昭和天皇には何が何でも来てほしかったと。そうすれば皆浮かばれたのにという気持ちがものすごい強いですよ。沖縄の左翼は左翼と一筋縄では収められるものではないの。沖縄県民はそれほど信仰心も厚いですよ。オスプレイ反対の教員たちも正月には普天間宮行ってパンパンと手をたたくんですから。
要は教育だと思いました。真実を知らせる。真実を学ぶこと。
私ね、授業でアメリカ、中国、スイス、日本の国家を歌わせたんですけど、日本を除く3か国は「進め前へ進め!戦え!」という歌詞でしょ。最初は君が代が嫌いな子供たちも授業の後では「日本が一番好き」というんですよ。これは楽しかったですよ。真実を知らせるかというのがいかに大事かというのがわかりました。
但馬 素晴らしい授業ですね。今の沖縄独立論みたいなのを言ってる人達についてはどう思いますか?どういう人たちですか?
沖縄独立論の正体
仲村 部落解放同盟が入っているようです。他にも石垣出身の松島泰勝教授、彼が思想的リーダーとなっている。元来沖縄は日本でありたいという思いで始まったのが祖国復帰運動なんですよ。やっていく中でやはり日本でありたいという教員なんかも出てくるでしょう。調べてみると龍谷大学の教授なんかは左翼的な発言しないと飯が食えないなど徐々にわかってくる。今のところ新聞記者と話しても、沖縄独立という人はまだ1~2%くらいいしかいないというのが今の論調なんです。
新聞と一部の政治家が中国のトラップとかに引っかかって、弱みを握られた人たちが中国にどうやって機嫌を取るかという運動なのかもしれないという感じはします。沖縄が日本じゃなくなって喜ぶのは中国共産党しかないから。どうやって沖縄をとれるか、と四苦八苦していると思います。
気の長い話だけど、学校教育までこれが真実なんだという政治家を増やして、学校教育に関して政治介入をしていかないと日本の歴史というのは取り戻せないなと。そういう教育を見直す採択を国会でも、市町村議会でもやらないと正しい教育というのは始まらないと思います。日本の弱体化政策で。知恵を出して共産党が教育界に入ったと。これが日教組の始まり。これから長い時間かけてやるしかないという気がしますよ。
民間こそ政治的な介入をして自分たちの利権を作っていかないといけないけど、利権も悪というレッテル貼られてるし、売名行為ともいわれる。経済人こそ政治的な発言をして自分たちの仕事を守っていかないといけないのに。それが、行政が決まったから指導が入ったからとか、それを撤回する運動は何一つしないわけです。自分たちが不利な条件を突き付けられたとしても。これがもう民主主義が崩壊でしょう。
中国共産党は、既に日本共産党や社民党を相手にしてなくて自民党を相手にしてます。学校で、左翼教育うけた人たちが左翼のようにはならなくてもいろんな影響を受けてるわけですよ。どこかの細胞に左翼が入り込んでるんです。
但馬 ええ、自分が左翼的なことをしているという自覚のない人が一番あぶないですね。空気を吸うように左翼的なものに染まっている。
仲村 だから問題は学校教育。復帰するときも、政治家は運動してなかった。あるいは時期尚早と言った。
昔、仲村先生頑張ってね~、と励ましてくれた人が今はもう左翼。中国の工作は半端じゃないですよ。琉球新報の人達も最初応援してくれたけど今はもうね……。マスコミがもっとしっかりすれば県民も話せばわかるんですから。情報源が問題です。
息子(仲村覚)が東京で講演やるたびに私も東京行ってたけど、ぐたーっと疲れが来て、もう東京行けないんです。東京オリンピックを無事に済ませたら日本は大丈夫じゃないかなぁ。って私思うんですよ。だからそのときまでは生きていたい。
但馬 本土の人も漠然とした沖縄のイメージしかない人が多いです。戦争で捨て石にされた、基地があって可哀相とか。左翼の作ったステレオタイプの沖縄に、同調することが善で、インテリの態度だと思っている。お話を伺って、沖縄というのはかなり複雑だと思いました。過去も今も。
沖縄こそ日本
仲村 沖縄守れば日本は大丈夫です。沖縄がダメになったら日本はダメです。これは間違いない。石油が入らなくなる。シーレーンが封鎖され中国のなすがままになる。
私が不思議でたまらないのは、復帰時の資料は私しか持ってないこと。教員の首をかけて必至な思いでやってきて、資料の一枚一枚資料が宝物なんですよ。この資料が私の人生。だからみんな置いてあり誰にもあげない。
議論したときに、「仲村先生は日清戦争も日露戦争も認めるのか」と男の教師に言われ「有史以来、戦争をしたことのない国があったら教えてください」と反論すると答えられない。これが現実なのね。
戦争したことのない国というのはあり得ないわけですから。防衛が無くても大丈夫だと思ってる、そう思い込まされている。こういった議論闘争をずっとやってきた人生ですよね。息子が主宰する沖縄対策本部も、どれだけ活動しても新聞にも載らない。県民が保守活動しているということを表に出したくないんだろうね。辺野古の活動でも、反感くらって理論武装してるひとは何人かこっち側にきている。教員クビになって復帰したいと裁判起こした人もいる。だけど理屈合わなくて日教組のほうが勝つの。
私は理論武装してるから怖がられると思うけどね。
私は自分は日本人だという誇りを持ってます。そして沖縄に生まれてよかったと。神武天皇も沖縄でお生まれになった。だから天皇陛下も尊敬してます。天皇陛下ほど国民の幸福をお祈りになってるひとはいない。お正月に天皇陛下がお祈りになるんだけどそのお祈りの言葉が、「国民に病気がきたらそれは私の身体を通してください。災いが国民にあったらこの災いは私を通してください」と。こういう天皇陛下を頂いてる日本国民は幸せに思わないといけないし、外国にこういう祈りをなさる国王は他にはがおられないですよ。
但馬 今日は長いお時間を本当にありがとうございました。これからもお元気で、まだまだ沖縄の為、日本の為に頑張って下さいね。
■仲村俊子(なかむら としこ) 大正11年(1922年)、沖縄県うるま市勝連生まれ。昭和13年、私立家政高等女学校卒。昭和27年に教師となり、沖縄教職員会で祖国復帰運動に取り組むが、左傾化に疑問を感じ、44年11月11日方向性の違い により同会脱会。以後、激しい反対勢力と闘いながら祖国復帰のた めに尽力。昭和46年「沖縄県返還協定批准貫徹県民集会」開催に携わり、上京、早期批准を訴える。55年退職。昭和58年、防衛協会の初代婦人部長を務める。平成23年、再び日本から引き離されようとする沖縄の危機を感じ取り、39年間の沈黙 を破り、沖縄祖国復帰の真実を語り始める。令和4年(2022年)100歳で没。
初出・ムック「ジャパンREALVOICE」VOL2