朝鮮戦争休戦70周年~拉北者とは何か(後編)
(リード)
くしくも今年(2020年)は朝鮮戦争70周年にあたる。1950年6月25日、北朝鮮軍が突如、38度線を突破し韓国に侵攻、わずか3日間で首都ソウルを陥落せしめた。その後、釜山に落ちのびた大韓民国大統領・李承晩の要請を受けたアメリカを中心とする国連軍と北朝鮮に肩入れした中共軍が朝鮮半島を舞台に激突、軍事境界線の固定化をもって1953年に休戦にいたるわけである。
このソウル陥落の際に、北朝鮮軍によって韓国から知識人層を中心に多くの人材が拉致され北に送られている。これを戦争拉北、あるいは単に拉北といった。当初は、収監中の政治犯がメインターゲットだったが、やがて文化人や技術者へと拉北リストが拡大された。さらに戦局の変化にともない、労働力と兵力の補給として未成年を含む若い男女が、ほぼ無差別、大量に送還されている。その数、一説によると10万人に及ぶという。まさに、拉致は朝鮮のお家芸ともいえるのである。
戦争拉北者の中には、併合時代を通して日本ともゆかりの深い人物も少なくない。その横顔を含めていく人か紹介してみたい。
飛ぶことを許されなかった女流飛行士
拉北者には女性もいた。李貞喜(イ・ジョンヒ)は、映画『青燕』のモデルになった朴敬元(パク・ギョンウォン)と並ぶ、併合時代の朝鮮人女性パイロットのパイオニア的存在である。貞喜は敬元より9歳年少、立川飛行学校でも二人は先輩後輩の間柄になる。1933年、敬元は日満親善の記念飛行の途中、不慮の事故死を遂げるが、貞喜は翌34年、敬愛する彼女の追悼飛行の大任を果たし大空へのデビューを飾っている。
戦後、貞喜は大韓民国成立とともにパイロットとしてのキャリアを買われ、1949年に発足したばかりの韓国空軍に大尉として迎えられる。「空軍女子航空隊」と称する女子パイロットの育成部隊が作られ、貞喜はそこの教官として後進の指導を行うことになった。しかし、ソウル陥落に際して取り残された李貞喜大尉は、捕えられ北に送還されてしまうのである。
彼女の実践パイロットおよび教官としてのスキルが黎明期の朝鮮人民軍空軍の発展に寄与したという記録は残っていない。おそらくは処刑されたものと思われる。
悲劇は拉北者の家族にも
エンタメ界からも多くの人材が北に拉致されている。その代表格は、戦前、流行歌『黄色いシャツの男』を作詞作曲し自演して大ヒットを飛ばした金海松(キム・ヘソン)である。妻は『木浦の涙』で日本でも人気のあった、やはり歌手の李蘭影(イ・ラニョン)。二人はテイチク傘下の朝鮮レーベル、オーケイレコードの花形スターだった。
北朝鮮の南侵の際、妻子は幸運にもソウルを離れていたが、金海松だけは逃げ遅れてしまった。北に送られた彼のその後を伝えるものは一切ない。
拉北の悲劇は当事者ばかりではなく、残された家族にも及んだ。当時の韓国では、38度線を越えた者とその家族は、たとえ誘拐であったとしても共産主義のスパイと見なされる空気が根強かった。7人の子を抱え生活の糧を米軍キャンプ巡りの歌手に求めた蘭影だったが、やがてその職場も追われることになる。“赤色スパイ”が米軍に出入りできるわけがなかったのである。彼女に代わって、キャンプでの歌手仕事をこなしたのは、まだ10代だった二人の娘、淑子(スクジャ)と愛子(エイジャ)だった。
この姉妹に、蘭影の兄で作曲家の李鳳龍(イ・ボンヨン)の娘・民子(ミンジャ)を加えたユニット、その名もキムシスターズは、アメリカ人プロモーターの目にとまって海を渡り、『エド・サリバン・ショー』に出演すること22回、ビルボードにもチャートインした。キムシスターズは、アメリカで最初に成功した韓国人ガールズ・グループとして、アメリカ・ポピュラー・ミュージック史に名を刻んでいる。
北に消えた映画監督
崔寅奎(チェ・インギュ)は映画監督。妻で女優の金信哉(キム・シンジェ)との公私にわたるタッグで、『授業料』(1940)、『家なき天使』(1941)というアジア映画史上に残る名作を残している。朝満国境警備隊の活躍を描いた今井正の国策映画『望楼の決死隊』(1943)での崔のクレジットは「監督補佐」であるが、朝鮮人俳優側の演出を含め、実質的な共同監督といってよかろう。
戦後、反民族委からの摘発を恐れてか、日本の国策映画への協力の過去を懺悔し、『自由万歳』(1946年)などの光復映画(祖国解放を賛美するナショナリズム映画)に活路を見出すが、それもつかの間、北朝鮮軍南進の1年後の1951年、北朝鮮兵士によって、妻の金信哉の目の前で連行されてしまうのである。
北の地にわたった崔寅奎が映画制作にかかわっていたかは例によって定かではない。70年ごろ、収容所で寂しく息を引き取ったという風のたよりがあるばかりである。
先も触れたように、拉北者の家族に対する当時の世間の風は冷たく、夫を失った金信哉も否応なくそれを身に浴びた。さらにいえば、日帝の国策映画に主演した親日派女優のレッテルはなかなか剥がれるものではなく、一時は身を隠すように釜山で喫茶店業を営んでいたが、ほどなく女優に復帰、貴重な女性バイプレーヤーとして200本近くの映画に出演している。1998年、娘夫婦のいる米バージニア州で79歳の天寿を全うした。
金正日に愛された女優
以上、思いつく範囲で戦争拉北被害者の著名人を挙げてみた。
実をいえば、北朝鮮による韓国人拉致は朝鮮戦争時で終わったわけではない。日本人拉致が本格化した70年代に入り、韓国人拉致も頻発している。それも、夕暮れの海岸を歩いていてさらわれるといったケースが多く、これも日本人拉致と酷似している。これらのすべて金正日の指令で行われたのはいうまでもない。
変わったところでは、1978年、映画監督の申相玉(シン・サンオク)と夫人である女優の崔銀姫(チェ・ウニ)が滞在中の香港で北の工作員によって拉致されたケースである。
申監督は、メロドラマからアクションまでジャンルを超えた娯楽映画の巨匠で、プロデューサーとしても知られた人物だった。一方の崔銀姫はややアクの強い雰囲気の美人女優で、監督もこなす才女。便宜上、「夫妻」と呼ぶが、正確には拉致当時、二人は離婚していて、拉致後の1983年、北朝鮮で「再婚」している。ちなみに、朝鮮戦争時、崔は当時の夫であった撮影監督の金学成(キム・ハクソン)ともども北朝鮮兵に拉致されかかった経験があるからよほど北朝鮮に「愛されて」いたようである。
香港での拉致では、まず1月に銀姫が拉致され、次いで、7月、彼女の失踪を調査にきていた申監督がホテルから連れ去らわれている。申は当初から「妻」の失踪劇の背後に北朝鮮の影を感じていたという。
先に拉致された崔銀姫は招待所で金正日の直々の出迎えを受けた。このとき正日は銀姫にあなたの長年のファンだったといい、「ボクって(体型が)太くて短くてウンチのようでしょ」とおどけて見せたという。社会主義国の独裁者(金日成存命当時で、まだジュニアだったが)とも思えぬ、自虐的なギャグはむしろ不気味でもあるが、そうまでして韓国映画界の重鎮二人を誘拐してきたのは、一にも二にも、北朝鮮映画のクオリティを上げ、いずれは国際映画祭の出品できるほどの作品を作りたいという、映画オタクでもある金正日の願いからだった。北朝鮮当局は、二人の北入りを自発的亡命と発表した。
夫妻は北朝鮮時代に17本の映画を制作、そのうちの『塩』で、崔銀姫は1985年度モスクワ映画祭主演女優賞に輝き、金正日の期待にみごと応えている。日本では、東宝の特撮スタッフを招聘し申監督がメガホンを撮った怪獣映画『プルガサリ』がなんといっても有名である。
夫妻は1986年3月、滞在先のウィーンで米国大使館に駆け込み、亡命に成功。1987年に申相玉は北朝鮮での体験をもとにした『闇からの谺(こだま)』を上梓している。申相玉、崔銀姫とも、すでに故人である。
拉致という文化
先に筆者は、拉致は朝鮮のお家芸と書いた。あえて「北朝鮮」と書かなったのは、この点においては南北とも同じで、韓国も例外ではないからである。
韓国の起こした拉致事件といえば、まっさっきに浮かぶのは、1973年の金大中事件であろう。当時、民主化活動家でのちに大統領になる金大中が、滞在先の東京九段のホテルから拉致され、海上で殺害されそうになった事件である。これは、朴正煕大統領(当時)の直轄の情報機関KCIA(韓国中央情報局)が画策し、駐日韓国大使館による実行であったことが現在、明らかになっている。いわゆる在日の反社組織も本国の指令によりこれに加担していていた。KCIA=韓国大使館=在日ヤクザが、みごとにつながるのである。
わが国としては、他国に主権を侵害されるというゆゆしき事件であると同時に、日本がスパイ天国であることを改めて認識させるショッキングな事件だった。
敗戦直後の第三国人組織の横暴について語られることは多いが、その第三国人、つまり朝鮮人が民戦(現・民団)と朝連(現・総連)に分かれ、在日社会の主導権を巡って血で血を洗う抗争を繰り広げていたことはなぜか歴史の闇に置き去りにされているようである。この抗争の中でもたびたび相手幹部の拉致が行われていた。在日ヤクザもまた対抗勢力の幹部の拉致を得意としてきた。
併合時代の新聞を見ると、婦女子の誘拐事件のあまりの多さに驚く。おそらく、「拉致」は朝鮮の歴史の中で民族的文化として定着していたのかもしれない(現在はその限りではないと思いたいが)。
中央アジアでは、アラ・カチューと呼ばれる一種の誘拐婚・拉致婚の形態が現在も存在するという。つまり、これと思う女性を拉致して自分の妻にするのである。戦前、戦後、内地の女性が朝鮮人の男性と結婚する中に、この拉致婚まがいのケースが散見する。ひとつ例を挙げるとすれば、著名な在日ヤクザ・町井久之(鄭建永)の夫人は日本人で、拉致監禁されて妻となることを承諾したという。当時、彼女には別の婚約者がいた。
そのような形で朝鮮人男性と結ばれ、親族と義絶覚悟で戦前あるいは戦後、夫の母国・朝鮮にわたって、さまざまな辛苦を舐めた日本人妻の話は上坂冬子著『慶州ナザレ園~忘れられた日本人妻』等に詳しい。ご興味のある方はご一読をお勧めする。
初出 「WiLL」2020年9月号
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