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併合時代、朝鮮名で歌った日本人歌手~それとオーケーレコードのことなど

DICKと呼ばれた男

日帝が朝鮮の言葉や文化を奪ったというのは戦後つくられた大嘘である。
 1936年(昭和11年)、テイチクのスターだったディック・ミネが朝鮮のオーケーレコードから三又悅(サム・ウ・ヨル)名義で自身のヒット曲『ダイナ』の朝鮮語版をリリースし大ヒットさせているのだ。
 ディック・ミネは本名・三根徳一。生粋の日本人である。朝鮮語をある程度話せたのと、細かいイントネーションは楽譜にして覚えたという。

 ディック・ミネといえば、巨根として知られ、屹立したイチモツにひよこが8羽並んだという逸話もある。ある日、アメリカ人のバンドマンと連れションしたら、ミネの宝物(ほうもつ)を見たそのバンドマンが思わず「オー、ディック(男性器のスラング)!」と叫び、それが芸名となったという。ミネはこの芸名がいたく気にいっていたようで、テイチクの重役だった古賀政男に再三改名を促されたが、頑として受け入れなかった(後年、戦争激化にともなう敵性用語廃止で、泣く泣く三根耕一に改名)。三又悅という朝鮮名も彼のイチモツにどこか由来するのかもしれない。

オーケーレコードとは

 古賀は少年期を朝鮮で過ごし、トロット(朝鮮演歌)の旋律に影響を受けて古賀メロディを作り上げた。そのせいか、テイチクと朝鮮の縁も深かった。
 オーケーレコードは1933年(昭和8年)になり、テイチクが現地資本との合弁で設立したレコード会社である。社長には作詞作曲家でトランペット奏者であった李哲(り・てつ/イ・チョル)がついた。同社はテイチク傘下ではあるが、朝鮮人社長による最初のレコード会社として朝鮮音楽史に1ページを刻んでいる。オーケーレコードには多くの才能ある音楽家が集まった。作曲家では、孫牧人(ソン・モギン)、金海松(キム・ヘソン)、李鳳龍(イ・ボンヨン)。歌手では『哀愁の小夜曲(セレナーデ)』のヒットで知られる南仁樹、それに『異郷』の髙福壽(コ・ボクス)、『涙に濡れた豆満江』の金貞九(キム・ジョング)、『連絡船は出て行く』の張世貞(チャン・セジョン)、李花子(イ・ファジャ)、朴響林(パク・ヒャンリム)、金貞淑(キム・ジョンスク)、そして『木浦の涙』の李蘭影(イ・ランヨン)。ちなみに、金海松は李蘭影の夫、李鳳龍は実兄という間柄。文字通りのファミリーであった。
 孫牧人は戦後、しばらく韓国と日本を股にかけて活躍、久我山明(当時、杉並の久我山に住んでいた)の名義で発表したのが『カスバの女』(作詞・大高ひさを)である。これは、フランスの植民地アルジェリアのカスバの地で外人部隊兵士相手に春をひさぐ、いわゆる慰安婦の歌というも今となっては興味深い。

この楽器屋の店からオーケーレコードは船出した。오케ー레코ー드(オケレコド)と日本風の音引き()が使われているのも面白い。

 朝鮮楽劇団の成功

 オーケーの社長・李哲はまた名プロデューサーでもあった。オーケー所属の総勢50人の歌手、バンドを引き連れ、1939年(昭和14年)、「朝鮮楽劇団」の名称で内地を巡業、大成功を収めている。

「朝鮮楽劇団」公演ポスター。当時よくあった映画と実演(ライブ)の抱き合わせ興行のようである。映画の『戦ひの街』というタイトルが風雲迫る時局を思わせるが、楽劇団のほうはいたって自由でのびのびしている。「朝鮮舞台芸術の最高峰を築く待望の実演」。

都新聞の文芸記者・定本政治のレビューを紹介しておく。
《半島で、代表的な音楽舞踊団と言はれている 「朝鮮楽劇団」 のメンバーはオーケーレコード (テイチク朝鮮語盤) の専属歌手達を中心に、これにC・M・C (朝鮮ミュジカルクラブバンド) を加へた三十余名である。先づ李蘭影・張世貞等の声の美しさに惹かれるが、この揃っている女性陣の中では妓生だと言ふ李花子の 『金剛山牧童』 が地方調を豊かに出して実にいいものである。男性の方でも金貞九、南仁樹等達者連が堪能させるが、このうち金貞九の 『私、夜店のワンタン屋』 は殊に軽妙なもので素晴らしいヴォドビリアンたるを思はせる。この外舞踊はその何れもが半島調を示している。》(「東洋グランドショウ」プログラム収録。1940年)
 さてさて、どこが「文化を奪った」のだろうか。

「朝鮮楽劇団」レビューの様子。

李蘭影とチョゴリ・シスターズ

「朝鮮楽劇団」の中でもひときわ人気を博したのは、李蘭影を中心としたオーケーレコード選抜女子ユニット、その名もチョゴリシスターズである。

チョゴリ・シスターズ。朝鮮舞踊からジャズナンバーまでこなす一座の花形だった。
皇居見物に訪れるチョゴリ・シスターズ。左から洪清子、王淑南、朴響林、李蘭影、マネージャー?、金綾子、張世貞、李花子。夫・金海松と金綾子の不倫に李蘭影は大いに悩まされたようである。金海松は朝鮮戦争時に拉北され、その後の消息は不明。

 いわば、チョゴリ・シスターズは元祖女性K-POPアイドルといえるかもしれない。長女格の李蘭影は「岡蘭子」名義でテイチクからレコードを出した経験があり、洪清子は吉本興業で子役として育ち、李秀子はOSK(大阪松竹歌劇団)出身、ということで日本での芸能活動に不自由はなかったようだ。

▲李蘭影と金海松の夫婦デュエット『オルパンガルパン』
 
 チョゴリ・シスターズはレビュー限定のユニットで残念ながら音源は残っていないが、1939年(昭和14年)公開の東宝映画『思いつき夫人』(監督・斎藤寅次郎/主演・竹久千恵子)のキャストに、セルゲイ・シュワイコフスキー率いるハルビン交響楽団と並んでC・M・Cと朝鮮楽劇団(李蘭影、高福壽、南仁樹、金貞九、李花子、金貞淑)のクレジットが見える。もし、フィルムが現存していれば、動くチョゴリ・シスターズが見られる貴重な資料となろう。
 李蘭影は戦後、娘の淑子(スクジャ)と愛子(エジャ)、それに実兄・李鳳龍の娘・民子(ミンジャ)にユニットを組ませ、キム・シスターズとしてアメリカで成功させている。そちらに関しては、またいずれかの機会に。

キム・シスターズ。『エド・サリバンショー』の常連でもあった。彼女らもまたオーケーレコードの遺伝子を引き継いでいる。


▲オーケーレコードとチョゴリ・シスターズ、それにキム・シスターズについては同書で深く触れています。


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