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追悼・鮎川誠。記憶の下北沢 

 僕が20代30代を過ごしたのが下北沢である。僕にとって下北沢は、住んでいる街という以上の意味があったと思う。
 下北に引っ越して間もないころ、夕暮れの商店街を黒いレザーのタイトなミニスカートに網タイツ、9センチはありそうなピンヒールを履いて乳母車を押して僕の前を歩いている女性がいた。思わず、前に回って顔を見たら、シーナ姐御だった。目と目が合った。ちょっとバツも悪くて僕は照れ隠しに、ただぴょこんと頭を下げた。姐御はあの白い歯をニュっと出して笑ってくれた。
 あれから30年以上経つのか。
 そのシーナ姐御の訃報に驚いたばかりであるのに、今度は鮎川誠さんの訃報である。正直、腰が抜けた。決してシーナ&ロケットの熱心なファンではなかったけれど、なんだがとっても悲しくてモニターの中の鮎川氏が涙で曇って見えた。それはたぶん、鮎川夫妻が常に下北沢という街の風景の中にあったからだと思う。
 夫妻(ときにお子たちもつれていた)とは、なんども近所ですれ違った。何せあの長身、脚長である、目立たないほうがおかしい。オーラもハンパではなかった。煎餅屋のおばさんと気さくに立ち話なんかしているのを見かけても、それがまた違和感がなかった。いや、それが下北沢なのだ。髪の毛をピンピンに立てたパンクスと買い物のおばちゃんがすれ違う街。僕のようなハンパものやさしく受け入れてくれる街。
 僕がいた時代でも、有名無名問わずいろんなミュージシャンや役者の卵が下北沢には住んでいた。売れると下北から離れる人もいたが、夫妻は下北を第二の故郷としてずっと腰をすえていた。日本武道館をフルハウスにする日本屈指のバンドでありながら、あくまで主戦場をライブハウスに求めていた姿勢も実にかっこよかった。
 むろん、何度かシナロケのライブは観ている。あの長身に、レスポールが小さく見えた。眼鏡がサマになるミュージシャンというのもそういない。エルヴィス・コステロというよりバディ・ホリーを思わせた。
 口を開けば、出てくるのは朴訥な博多弁。ロッカーにありがちな、ヤンチャを気取るような悪びれたポーズとは無縁の人だったと思う。ロックンロールとよき家庭人が両立するという、モデルケースとなる夫妻だったのでないか。


 思えば、僕は下北沢の一番いい時代にここに住んでいたようだ。今はもう街の景色も変わり、行きつけだった店もだいぶ姿を消した。むろん、それは寂しいことだけど、街も生き物である以上、移りゆくのはさだめなのかもしれない。
 今度の休日はゆっくり令和の下北沢の街を散策してみたいと思う。それから、noteでも、僕の記憶の下北沢を少しずつ語っていこうかな。


 

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