見出し画像

松田聖子は千昌夫である ~アイドルと悪運の関係

可愛い子ちゃん歌手からアイドルへ

山口百恵が伝説のラストコンサート(10月15日)でマイクを置いたこの年、入れ替わるようにデビューしたのが松田聖子、河合奈保子、柏原よしえ(現・芳恵)のいわゆる80年組である。9月には、子供たちに超絶的な人気を誇ったピンクレディーも解散宣言をしており、女性アイドルも新旧交代の節目を迎えていた感があった。
 実は、アイドルという言葉が一般に定着し出したのもこの時期で、70年代は量産される女性タレントを、多少の揶揄の意味を込めて「可愛い子ちゃん歌手」と呼ぶ風潮があった。当時はまだ、アイドル=「歌手」が鉄則だったのである。だから、浅田美代子とか風吹ジュンとかおよそ歌唱力に疑問符が3つぐらいつくタレントでも取りあえずレコードを吹き込み(この言い回しも今ではなつかしい)、無理やり「歌手」としてデビューさせられた。そもそも風吹ジュンは安西マリアと同じく銀座の高級クラブ「豪徳寺」の出身、つまり元ホステスで、アイドルと呼ぶにはいささかトウも立っていたし、天地真理などもデビュー年齢が19歳で、それだと半端だということで、公式プロフィールでは20歳にさせられた、つまりは逆サバというのだから、今のアイドル常識から考えるとちょっと驚く。ちなみに、この逆サバのおかげで、彼女のバイオグラフィーに空白の1年間ができてしまい、それがのちに「天地真理トルコ嬢」説が流布されるきっかけとなったという(本人談)。

その名は「聖子」

 とりあえず、山出しのダイコン娘をゴシゴシ洗ってヒラヒラ付きのドレスを着せ振り付けの先生にあずけて歌でも歌わせとけばどうにかカッコがついた可愛い子ちゃん歌手の時代にくらべ、80年代の少女アイドルは容姿も歌唱力も一定水準を超える子が多かった。聖子、奈保子、よしえの3人がやはりその先兵であり、この中では聖子が頭ひとつ抜きんでた存在だったというのは誰しもが認めるところだろう。
 なんといっても「せいこ」という名前の響きがよかった。これは、彼女がプレデビューで出演したドラマの役名をそのままもらったものだそうだが、谷崎潤一郎のファム・ファタールの一人、『痴人の愛』のナオミのモデル、和嶋せいこ(旧姓・石川、女優名・葉山三千子)をどこか偲ばせ、今思えば彼女のその後を暗示するかのようだった。というわけで、僕など、聖子という名前の字面、響きに特別なものを感じていたから、橋本聖子や野田聖子を初めて見たときは実にがっかりしたのも事実だ。おっと、田辺聖子という先達もいたな。

谷崎純一郎のファムファタール、和嶋せい子。大正という時代を奔放に生きた。谷崎は千代夫人の妹であるせい子に執心。それがのちの佐藤春夫との間の夫人譲渡事件の原因のひとつともなる。

ヒールとしての松田聖子

 それはさておき、松田聖子が、それまでの「可愛い子ちゃん歌手」を一気に過去のものにしてしまった強烈な存在感のひとつに、強運(悪運?)と打たれ強さがある。
 ヒットを重ねながらもデビュー1~2年目の彼女の大衆的評価は必ずしもポジティブなものばかりではなかった。新人賞受賞のとき故郷の母親と電話で話すという演出で、「お母さーん」と泣き声を上げながら涙が見えなかったことから、「うそ泣き聖子」と二つ名で呼ばれ、彼女の一連の挙動は「(可愛い子)ブリッコ」といわれた。要するに、「年上や男性、大衆に媚びるのが上手いしたたかな女」ということで、今も昔もおそらくは同性からもっとも嫌われるタイプであろう。春やすこ・けいこなど、松田聖子のブリッコぶりを小姑のようにちくちくあげつらう芸で喝采をあびていたぐらいだ。しかし、だからといって聖子の人気は決して落ちるということもなく、街には聖子ちゃんカットの女の子であふれていたし、喫茶店でもエレベーターの中でも彼女の曲が流れない場所はなかった。いってみれば、彼女は、嫌われ且つ好かれるアイドルであり、その人気は一種のヒール人気ともいうべきものだったし、明らかにそれまでの女性タレントにはない現象だった。


小泉今日子もデビュー時は聖子ちゃんカットだった

婚約、そして「妹」の死

 彼女のヒール人気に支えられた、打たれ強さは後年もいかんなく発揮される。
 世紀のカップルといわれ結婚まじかと報じられながら郷ひろみとドタンバの破局に、「今度生まれ変わったら一緒になります」と言った舌の根の乾かぬうちの神田正輝との婚約会見。あっけにとられるとはこのことだった。
普通だったら、これだけでイメージダウンは必至であろう。しかも、その直後に、彼女の妹分として売り出し中の岡田有希子が事務所ビルの屋上から投身自殺するという事件も起こっている。岡田の遺書に名前が記されていた年上の俳優が神田正輝ではないかという憶測は当時からあった。それが事実ならば、婚約ムードに水を差すどころの話ではない、超絶大スキャンダルである。二人の婚約もすっ飛ぶし、神田も無傷ではいられない。ここはひとつ、お前が泥かぶってくれないかと、売れない時代にいろいろ世話になった御大・石原裕次郎からじきじきに頭を下げられ、やむなく峰岸徹がダミーを買って出たというのが、まことしやかな「事情通の話」だ。

岡田有希子もこの髪型だった。

 因果めいてるといえば、岡田が自殺する直前に出したシングル『くちびるNETWARK』はSeikoこと松田聖子の作詞である(作曲は坂本龍一)。ゴーストライターがいるにせよ、そんな歌を、ニコニコ笑顔で歌わされるだけでも屈辱的なのに、ことあるごとにレポーターからは、事務所の先輩である聖子への祝福の言葉を求められるのだから、彼女の心境は察してあまりあろう。……いや、だから、あくまで憶測であって、真相はいまもって謎なのであるが、彼女の自殺に関して聖子からなんらかのコメントらしきものが出た記憶がないのも解せないところである。この原稿を書くにあたり、ネット上を検索してみたら、最近では、岡田の相手は、峰岸にあらず神田にあらず、舘ひろしだ、という新説(?)まであるそうだが、これはまあ余談。(追記・仮に岡田の相手を神田だとすれば、愛娘・沙也加の死はいよいよもって因果めいてくる)

それにしてもすごいタイトルだ(笑)。「週刊プレイボーイ」1997年2月4日号

肥しにされたジェフ

 聖子の悪運的なまでのスターとしての輝きは、妹分の自殺という大醜聞の影さえ消し去ってしまった(事務所の事後処理が上手かったということでもあるが)。それどころか、男性トップスターである郷を捨て、芸能人としてのポジションでは明らかに自分より格下の神田を選んだ聖子の生き方に「新時代の女性かくあるべし」風な論調が女性文化人の間から発せられ、彼女はアイドルから一気に時代のイコンへと祀り上げられたのだから、その強運を推して知るべし。いや、運もまた才能なのだ。やがて芸能マスコミの目は彼女の懐妊、そして出産に向けられ週刊誌はこぞって特集を組んだ。聖子もそれに応えるように自己プロデュースを忘れなかった。本邦初・ママさんアイドル=ママドルの誕生である。
 しかし、その矢先にまた一大スキャンダルにまみれる。アメリカ進出に向けて英語の個人レッスン教師として雇ったジェフ青年との不倫騒動である。当時者のジェフが日本で暴露本を出版するなど、あわやスキャンダルは泥沼化の様相を呈していたが、それすら聖子の人気を脅かすことはなかった。後の、不倫ブーム、暴露本ブームが起きることを考えれば、彼女はそれらの火付け役ですらあったと思う。
 その後彼女には出るわ出るわ、バックダンサーだった別の白人男性やらボディガードの黒人マッチョマンやらが、次々と「セイコとベッドを共にした」と告白し、それが週刊誌ネタになり、読者を騒がせた。しかし、彼らも結局は聖子という大魔女の肥しになって終わっただけだった。

MDMAを使ったキメセクなどジェフの告白は衝撃的なものばかりだった。普通なら、これで芸能人生命も終わりかねないスキャンダルだが、むしろそんな彼女の海外での動向を追ってマスコミの報道は過熱、注目が集まった。

女・千昌夫

 私はかつて、そんな聖子を「女・千昌夫」の称号で呼んだことがあった。東北訛りを武器に、ミソスル(味噌汁)、おふくろ、故郷、と古き日本人の郷愁を歌うことで大衆の認知を得ていた千昌夫。一方で彼は、金髪のアメリカ女性を妻にもち、ロールスロイスの後部座席にふんぞり返るバブリーな成金実業家の顔をもっていた。彼の歌を好む保守的な歌謡ファンにとって、「しばれるねェ」と「金持っているど~」、「ミソスルの味」と「パツキン」はイメージの相克関係にある。当然受け入れられるものではないが、彼の場合、イメージ的矛盾がそのまま個性としてセールス・ポイントとなってしまったのである。やはり、そこは持って生まれた特異な才能ということなのだろう。松田聖子もしかり。彼女は、「母性」と「ヤリマン」という相克関係にあるイメージをそのままふたつとも自分のものにしてしまったのだ。
 千昌夫はその後、糟糠の妻ジョーン・シェパードを捨て、やはり若いパツキンのアマンダと再婚するが、高額の慰謝料とともに、彼の元を去っていったのはジョーンだけでなく、これまで支えてきた強運も、であった。直後にバブルも弾け、事業は暗転。巨額の借金を抱えることになるのである。
 一方の聖子は男を替えるたびにマスコミの注目を浴び(2度目の夫とのビビビ婚は流行語にもなった)、健在をアピールすることになるのだからすごい。まさに彼女は、魔女だった。

柏原よしえについて回ったこけしの呪い

 一方で、同じ80年組でありながら、アイドルというイメージの呪縛に泣いたのが柏原よしえだろう。
  彼女といえば、やはりなんといっても、例の電動こけしスキャンダルである。番組収録のために空港に降り立ったアイドルさまご一行。ゲートをくぐるとき、よしえのポシェットに金属探知機が反応した。職員がポシェットを確認したところ、中からは電動こけしが出てきて、その様子をたのきんの出待ちファンにばっちり目撃されてしまったというのだ。「アイドル」と「電動こけし」、このふたつは同じ世界に決して共存できない単語である。少なくとも80年代当時はそうであったし、そうでなければならなかった。
 むろん、これはあくまで噂の粋を出ない。今のように写メがあるわけでもなし、ネットでの拡散があるわけでもない。彼女のポシェットから電動こけしが出てきたという確乎たる証拠はどこにもないのだ。しかし、「噂」だけで充分であった。彼女のアイドル寿命はこれで著しく縮んだと私は見ている。その意味で、柏原よしえはまだ「天地真理トルコ嬢」説の時代のアイドルをどこか引きずっていたのかもしれない。

聖子と芳恵の明暗

 こけし事件と前後して、名前を漢字の芳恵(本名)に変え、それまでのアイドル・ポップ調から『花梨』、『春なのに』といったしっとりと大人ぽい路線にイメージ・チェンジしたことも、どこか噂を上書きするような印象を与えてしまったようで、彼女にとってもマイナスだったかもしれない。なまじ楽曲のできもよくそこそこヒットもしたからなおさらである。が、ここいらへんをピークに彼女は少しずつフェイドアウトしていくのである。
 もはやあとは脱ぐだけというところまできて(実際そのようなプロジェクトも進行していたという)芳恵(よしえ改め)の決断をくじく出来事が起こる。当時、一般に浩宮さまと呼ばれていた徳仁親王(現・天皇陛下)が、彼女のコンサートに来場、自分で育てたというバラをにプレゼントしたのである。
彼女にとっては久々に明るいニュースであり、マスコミも大々的に報じたものの、彼女の再浮上のきっかけにはならず、むしろ「皇太子さまのアイドル」が脱ぐわけにはいかない、という暗黙の足枷を彼女にはめてしまった感がある。
 その後、ポジションの定まらぬまま芳恵はしぶとくも芸能界に生き残っていく。ヘアーヌード写真集ブーム時には便乗して、数冊の写真集を出すが、どれもヘアーどころか乳首の露出さえなく、またダマされた!と怒りに震えたファンも多かろう。
「母性」と「ヤリマン」の止揚(アウフヘーベン)に成功した聖子と、「電動こけし」と「皇太子さまのアイドル」というイメージの間で宙ぶらりんとなった芳恵。その明暗はくっきりしている。

「衝撃の初ヌード」の惹句に騙され人も多いだろう。下着の下にしっかりニップレスをつけていた。彼女は”脱ぐ脱ぐ詐欺”で90年代を生き延びる。これもまたすごいこと。

初出『昭和55年 写真生活』(ダイアプレス)2016年12月 に一部修正加筆





よろしければご支援お願いいたします!今後の創作活動の励みになります。どうかよろしくお願い申し上げます。