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日米開戦の裏にアニメあり~東宝特技課と戦争

戦争で発展した東宝特技課

 今回もアニメーションの話をしたいと思う。キーパーソンとして登場してもらうのは、僕が師と仰ぎ、晩年とても親しくさせていただいた、うしおそうじである。
 うしおは、『宇宙猿人ゴリ』『快傑ライオン丸』で知られる特撮アニメ制作会社ピープロダクション社長であり、戦後の一時期、手塚治虫と並んで児童漫画界の重鎮だった人。もっとも、うしお漫画のリアルタイムの読者といえば、今では70代であろう。
 うしおそうじこと鷺巣富雄は大正10年、東京生まれ。昭和14年、18歳で株式会社東宝に入社、”特撮の神様“として後年名を馳せる円谷英二が課長を務める特殊技術課(特技課)の線画室に配属される。線画室での直属の上司は、日本初のオールトーキー・アニメ映画『動絵狐狸達引』(うごきえこりのたてひき)(昭和8年)で知られた大石郁雄だった。
「線画」については少し説明が必要だろう。アニメーションのうち、キャラクターとストーリーのあるものを「動画」(いわゆる漫画映画)、機械などのメカニズムの解説などを担当するものを「線画」と呼んだのである。今では両方の用語ともまったく違う意味で使われているのは承知の通り。

『ハワイマレー沖海戦』のオアフ島のミニチュアセット。

 既に支那事変は始まっており、うしおが入社した同じ年に映画法が制定、映画界は実質上の戦時体制下に置かれ、俳優を含む映画産業従事者は登録制となった。軍の意向に沿わなければ、映画作りもままならぬ時代がしばし続くのだ。
一方、特技課を抱える東宝は陸海軍との縁が深く、それゆえの恩恵も確かにあった。円谷特撮は、『ハワイ・マレー沖海戦』(昭和17年)をはじめとする戦意高揚を目的とした国策映画にその力を発揮することになる。『ハワイ・マレー』での真珠湾攻撃の大パノラマ特撮のクオリティは、戦後、GHQが実写と勘違いしてフィルムを押収したという逸話を生んだ。国策映画なくしては、のちの『ゴジラ』(昭和29年)もなかったといえる。
 うしおもまた、『鉄道信号』、『農家と生活』といった文化教育映画の傍ら、陸軍の要請で『九九式軽機関銃』などの兵士向け教材映画の線画を担当することになった。後者は機関銃の断面図を示し、どのようなメカニズムで弾が発射されるのかを解説するものだった。九九式軽機関銃は、「空の神兵」で知られるパレンバン降下作戦で大活躍するのである。

鷺巣富雄作画による『九九式軽機関銃』。

アニメ『水平爆撃』シリーズ

 そして、翌昭和15年、19歳になったばかりのうしおに大命が下る。海軍航空本部から委託を受けての極秘大作『水平爆撃理論編』『同実践編』の10巻物の制作である。これはその名のとおり、飛行機の水平爆撃のためのパイロット用マニュアル映画で、どの位置から爆弾を投下するとどのような放物線を描いて、何メートル先の目標に命中するのかという、数学・物理的要素をも踏まえた映像教材で、まず実写では再現不可能であり、軍がアニメーションという技法に目をつけた理由のひとつがそこにあった。

うしおそうじ『ヒトコマ讃歌』(「アニメージュ」連載)より。『水平爆撃』絵コンテ。
『ヒトコマ讃歌』より。

 制作にあたっては、実際の飛行体験は不可欠だということで、鈴鹿航空部隊に半年間所属し、連日、赤とんぼ(練習機)に搭乗しての模擬弾による訓練を繰り返したという。身分は海軍嘱託で、辞令には「尉官待遇」とあった。
 先に極秘と書いたが、軍の仕事だけにそれは徹底し過ぎるほど徹底していた。まず、入隊にあたっては、「仕事の内容については親兄弟にも口外しない」ことを宣誓させられたという。シナリオや絵コンテも閲覧した者の名前を全部控えたのち、トレース用のカーボン紙も含めて完全に灰になるまで焼却して、はじめて「良し」が出る。なぜ、海軍がそこまで神経質に内容の漏洩を恐れたか、その理由はのちにわかるのである。
 ここまで読んでこられて、特撮やアニメがいかに戦争と深く関わってきたかは、漠然とながらもおわかりいただけたと思う。これはアメリカも同様のことで、ウォルト・ディズニーも多くの戦意高揚アニメをつくっている。ミッキーマウスやドナルドダックといったディズニーの人気者たちが、ナチスや日本軍の飛行機を撃ち落とすのである。そればかりか、ディズニーは「日本本土への空爆をトルーマンに進言する」ことを目的とした『空軍力の勝利』(1942年=昭和17年。※本土空襲が本格化するのは昭和19年から)というアニメ映画(一部実写)まで制作している。これらに関しては、いずれかの機会にこのコラムでも紹介したいと思う。

フィルム1コマは血の一滴

 しかし、東宝としても、ただ唯々諾々と軍の仕事をこなしているわけではなく、そこは海千山千のカツドウ屋集団、したたかな一面ももちあわせていた。うしおはもうひとつ、これは軍からでなく会社からの密命を帯びていたのである。
軍の映画界に対する干渉は年々厳しさを増しており、内容の検閲はむろんのこと、フィルムの割り当てにまで及んでいた。当時のフィルムには爆弾の原料にもなるパラフィンが使われていおり、軍は当然これを統制品としていたのだ。「フィルム1コマは血の一滴」とまでいわれ、各社、生フィルムの確保には頭を悩ませていた。
アニメーションはご存じのとおり、生身の俳優は不要だから演技ミスによる取り直しというものがない。NG率は限りなくゼロに近いのだ。しかし、アニメの何たるかをよく知らぬ軍に、正直に報告する義務もなかろう。NG率ゼロをNG率100とニセの計上をし、別途特別配給で得た生フィルムを劇映画の制作のために密かに流していたのである。『蛇姫様』(昭和15年)、『川中島合戦』(昭和16年)、『阿片戦争』(昭和18年)、といった戦中の娯楽映画の傑作は、これら流用フィルムによって撮影されたのだという。

『阿片戦争』。戦争中ゆえ、中国人もイギリス人も日本人が演じている。二代目市川猿之助・原節子・高峰秀子の豪華キャスト。

 うしおそうじこと鷺巣富雄は昭和18年、現役で陸軍に招集されるが、出征にあたっては、俳優課の課長も務める長谷川一夫が「われわれが戦争中でも映画を撮ることができるのは、円谷さんや鷺巣君、特技課の人たちのおかげだ」と、自ら音頭をとって、日の丸に寄せ書きを集めてくれた。長谷川一夫を筆頭に大河内伝次郎、藤田進、原節子といったそうそうたる名前が並んでいたという。この貴重な寄せ書きは、経年変化に耐えきれずボロボロとなり、何度目かの遺品整理のさい、長男の詩郎氏(鷺巣詩郎。『新世紀エヴァンゲリオン』、『シン・ゴジラ』などで知られる音楽家)によって処分されてしまったという。ある意味、映画史の忘れられた1ページを埋める貴重な史料になっていたかもしれないと思うと残念である。

真珠湾攻撃の衝撃

昭和16年12月8日。それは日本人にとって運命の日であった。就寝中のうしおそうじはラジオの臨時ニュースの声で目がさめたという。
「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。
真珠湾奇襲の報である。
その晩は興奮で眠れず、眠い目をこすりながら出社すると、さらに驚きの事実を線画室の先輩から聞かされる。
「鷺巣、やったな。鈴鹿海軍航空隊の水平爆撃隊も奇襲作戦に参加していたんだぞ」。
 これですべて合点がいった。『水平爆撃理論編』『同・実践編』は真珠湾攻撃のためのシミュレーション映画だったのである。
 ちなみに、『水平爆撃』をはじめ陸海軍の委託を受けて制作した教材映画のフィルムは、敗戦時、すべて焼却処分になり現存していないという。

『ヒトコマ讃歌』より。

(初出)
『表現者クライテリオン』2023年9月号 但馬コラム「東京ブレンバスター」7

(追記)
友人で絵本作家の東郷聖美さんから、↓の写真を送っていただきました。うしおそうじ先生の著書『昭和漫画雑記帖(ノオト)』出版記念パーティのスナップです。

右から一峰大二先生、高井研一郎先生、中野正秋氏(「漫画少年」編集部)、山根一二三先生、永田竹丸先生、木乃実光先生(なつかしい~)、永島慎二先生、マイクをもっているのがうしおそうじ先生。うしお先生の大きなお腹に隠れてしまているけど、藤子F不二雄先生💦

 これはまったく偶然でびっくりしたのですが、東郷さんのお父上は陸軍で、うしお先生の上官だった方。その他にも、お父上の遺品からうしお先生に関する資料をいろいろと送ってくださいました(戦友会宛ての葉書など)。いずれ何かの機会があれば、お披露目いたしましょう。

『昭和漫画雑記帖』。マンガで綴る昭和風俗史。雑誌「花も嵐も」に連載していたコラムからチョイスしたもの。残念ながら古書でのみ入手可。


右から、うしおそうじ先生、但馬、一峰大二先生。マンガ版『スペクトルマン』(角川書店)復刻の打ち上げで。但馬は巻末の解説と座談会の構成をやらせていただきました。うしお先生はミッキーマウスのネクタイ。
東郷聖美さんの個展にて。

東郷聖美/作『タキーレつのワイラ』。東郷さんは長くボリビア生活をしていた経験をもとに、南米の子供たちを題材にした作品が多い。

『うしおそうじ(鷺巣富雄)ピープロ全曲集』。鷺巣詩郎氏プロデュースのピープロ作品全主題歌集。なんと、私、但馬のインタビュー動画(初出はフジテレビ『ピープロ魂』)も収録。
ブックレットでは、詩郎氏による解説&スコア、さらには一峰先生、うしお漫画の大ファンという林家菊扇師匠(ご自身も清水崑門下で漫画家を志したことあり)との対談もあり、という超マニア編集。


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