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短編小説:侵食

船に揺られるのは、旅に出てから初めてかもしれない。誰も私を知らないところに行きたくて見ず知らずの漁師さんに頼み込み乗せてもらった漁船の乗り心地は、決して良いものではなかった。観光客さえ寄りつかない小さな島【茶癒早島(チャユサトウ)】へ。
「ここからはこのボートで向かうから、これに乗りなされ」
島はすでに目の前なのに、漁師さんはなぜか港に向かわず沖でアンカーを下ろし、小型のボートで島まで渡ろうとしている。不思議に思ったが、これがこの島のルールなのだろう。乗せてもらっている手前、素直に従うしかなかった。
「なんだか、不思議な島ですね」
「島外から来た人はみんなそう言う。オイラたちにとっては日常なんだがねぇ」
島には大きな山が一つあるが、その麓には民家がなく、山の中腹部に点在している。なにより、港が一つもない。見えていないだけで、島の反対側にはあるのかもしれないが、海を怖がっているかのように、建物が高所に健在していた。近くの砂浜に定着したボートから足を下す。少し波にぬれて水が靴に入ってきたが、気にしない。
「乗せていただき、ありがとうございました」
「ええよぉ、久しぶりに若い子と話せて嬉しかったわい。ここは観光に来る客も来ないから宿屋はないが、適当な家尋ねれば泊めてくれるから、好きなだけ居るといい」
帰るときも島民にお願いすれば船を出してくれるらしい。都会では考えられない日常を送っているんだなと感心する。私が島を周ろうとキャリーケースを動かそうとしたとき、漁師さんに呼び止められた。
「はい、なんでしょう」
「必ず、日が暮れるまでには、宿を探しなさいね」
言われるまでもなく初めからそうするつもりだったが、私にはなぜか、警告のように聞こえた。
 
 
 
「結構歩いたけど……」
小さな島だと侮っていた。とりあえず一周してみようと意気込んで海岸沿いを歩いていたが、スタート地点には未だ辿り着かないでいた。半周はしただろうか、島の反対側まで歩いたが港はやはりなく、私が乗ってきたような小型のボートがいくつか点在するだけだった。島民はみんな漁師さんのように沖に船を停泊させているらしい。船の上に人影のようなものも見えるが、島に到着してから一度も人に会っていない。猫や小鳥などの動物はいたが海岸沿いに人の気配は感じなかった。
「考え事をするにはちょうどいいかもね」
まだ心の整理がついていない、このどす黒い感情を、私はこの旅で捨てることが出来るのだろうかと少しだけ不安になったとき、どこからか不思議な音色が聞こえてきた。
「誰かが、演奏している?」
もしかしたら、この島にきてから初めて人に会えるかもしれない。先ほどまでは一人でいたいと思っていたのに、私は早足になり音色の行方を探す。
「あ……」
波の音色に負けないよう耳を澄ますと、その音色は遥か上にある灯台の方から聞こえていた。崖のような高台の上にある灯台はこの島のシンボルであるかのような存在感をはなっていた。こんなに近くに来るまで灯台があることに気付かなかった自分に驚いた。海岸沿いにある道から高台の灯台までは、曲がりくねって蛇行している階段を昇ればたどりつけそうだ。立ち塞がるように私を見つめる階段に一瞬たじろぐ。
「……20代の体力、なめないでよね」
 
 
 
「ハァ……599……600……着いた……」
段数なんて数えるんじゃなかった。キャリーケースを持つ腕と600段を昇った足を称賛したい。緩やかな階段じゃなかったら疲れ果てて動けなくなっていただろう。昇りながら気付いたが、この音色はチャルメラから発せられている。ラーメン屋のそれとはメロディが違うが次第に大きくなっていく音色を聞いているとなぜか力が沸いた。灯台の土台に座りながら、チャルメラを演奏している人影に歩み寄る。日の光が地平線に近付いている。もうすぐ夕刻だ、灯台の影が鈍い光を遮ると、チャルメラを演奏していたのは40代くらいのおじさんだと分かった。
「……おや、こんにちは。島外から人が来るなんて珍しい」
私はあいさつの変わりにペコリと頭を下げる。まだ息が上がっていて舌を動かすのが苦しかったからだ。
「……あ、あの――」
「大荷物で階段を昇ってきたんだろう?とりあえず、座って落ち着きなさい」
おじさんはそう言うと、再びチャルメラを演奏し始めた。私は少し離れたところに腰掛け、息が整うまでチャルメラを聞かせてもらった。夕刻の西風は火照った身体を冷やしてくれるのにちょうどよく気持ちがいい――。
 
『嘘でしょ……?』
『ち、違うんだ。本命はお前だけだよ。金も必ず返すから』
『……最低、二度と顔を見せないで』
 
……少しの間、眠っていたらしい。どうしてあの人は夢にまで出てくるのだろうか。
「起きたかい?冷えると思って失礼を承知で掛けといたよ」
「あ、すみません」
肩に上着が掛かっていた。日が沈みかけていて肌寒くなってきていた。おじさんの心遣いに感謝する。
「チャルメラ、もう演奏しないんですか?」
「役目は果たしたからね」
役目とは、なんのことだろう。ポカンとしているとおじさんが突然笑い出した。なにか笑わせるようなことをしただろうか。
「わっははは!すまない、お嬢さんは何も知らずにこの島に来たんだね。下を見れば分かるよ」
私は立ち上がり灯台伝いに歩きながら崖を見下ろす。そこから見えるのは、夕焼けに染まる海岸沿い道のはず……だった。
「……えっ?」
ここは、高台にある灯台のはず。でも、私が立っているここは岸に立っている灯台に変わっていた。道も、階段も、砂浜も、すべてが海に飲み込まれている。
「潮が差したのさ。この時期になると決まって島の半分が海に沈むんだよ」
だから、沖に船を停泊させる。港もない。民家も高台にある。おじさんは何も知らずにこの島にきた私に丁寧に教えてくれた。天文、地理、気象、主にこの3つの要素が重なったとき茶癒早島は高潮にのみこまれてしまうらしい。高潮という言葉は知っていたが、こんなにも水位が変わるのを間近で見たのは初めてだった。
「島で暮らす人は大変ですね」
島が半分も、海によって浸食される生活なんて、その苦労は想像もつかない。
「ほう、どうして大変だと思うんだい?」
まさかおじさんから質問をされるとは思ってなかったので困惑する。
「だ、だって島で暮らせる土地が減ってしまうと出来ることも限られますよね」
私が戸惑いながら答弁するとおじさんはまた笑い出した。よく笑うおじさんだ。
「わっははは、確かに昔と比べて人も減った。本島に移住する者もいるが、俺のように残っている物好きな連中もいるんだよ」
私には、おそらく理解できない。この島に暮らしている人にしか分からない茶癒早島の魅力がきっとあるのだろう。私は勝手に大変だと決めつけて、この島のことを悪くいってしまったことを謝罪した。
「すみません、部外者が適当なことを言ってしまって」
「こちらこそ、変な質問をして悪かったね。どうしてこの島に若いお嬢さんが一人で来たのかは不思議に思ったが、茶癒早島のことを知ってくれただけで、俺は嬉しいのさ」
漠然と、このおじさんになら話してもいいと思った。名前も知らないおじさんだからこそ、今の私の心情をぶちまけることができるかもしれない。
「あの、こんなこといきなりお願いするのは恐縮なんですけど……私の話を聞いてもらえますか?」
「かまわないが、もう日が落ちる。かみさんが手料理を作って待っているんだ。良かったら家に来るかい?その様子だと今夜の宿探しもしていないんだろう?」
おじさんはそう言うと、トランシーバーのようなもので連絡をした。会話の内容からして奥さんに私が来ることを伝えているのだろう。私はおじさんの家に招待されることになった。その道中、旅に出るきっかけになった私の失恋話を聞いてもらった――
 
 
 
「なるほどねぇ……」
おじさんと私は、話をするためゆっくりと歩いた。薄暗い夜道だからこそ、顔を見られずに話しにくいことを話せると考えたからだ。友人にすら話せなかった私の失恋話を、おじさんは最後まで相づちをしながら聞いてくれた。話せば楽になると思っていたけど、とんでもない思い違いだった。話すことで当時の気持ちが蘇り、ドス黒い感情が心を侵食していく。……この島と同じだ。
「信用していてからこそ、裏切られたショックが今も忘れられないんです。彼が、許せないんです」
「人を許すってのは、簡単なことじゃないからね。時間が解決してくれることもあるが、それを待っていたらお嬢さんが前に進めない」
前に踏み出すために、無理を言って長い休暇をもらって旅に出たのに……焦る自分が更に悪循環を生んでいる気がする。
「いつか、笑い話になる日が来るんですかね……」
歩きながらふと、空を見上げると大きな流れ星がすーっと流れ落ちていった。あ、と声が重なる。どうやらおじさんも見られたらしい。
「……おじさんは、今の話を聞いてその彼に感謝しているよ」
感謝?なぜおじさんが会ったこともない彼のことを感謝するのだろうか。
「なぜですか?」
「旅に出たのも、茶癒早島を覚えてくれたのも、お嬢さんに出会えたのも、流れ星を見られたのも、考え方によっては、彼がいなかったらどれもなかったことだろう?」
おじさんは、過ぎたことではなく、今起きていることを常に見て、感じているんだ……。
「おじさんって変わっていますね」
半分が海に沈む島で暮らして、灯台の下でチャルメラを吹いて、素性の知らない旅人を家に呼んで、会ったこともない彼に感謝までしている。
「わっははは、よく言われるよ」
人を許したほうが幸せになれる。心では分かっているのに、なかなか彼を許すことができない。でも、彼を許さなかったからこの島に来ることも出来た。……こう考えると心が少しだけ落ち着いた。今は、これでいいのかもしれない。おじさんがとある民家の門を開けて私を招き入れる。その時に表札がふと目に止まった。【手旨】……なんて読むのだろう。苗字も変わっている。
玄関の明かりに照らされながら、おじさんが扉を開ける……前に振り返ってこちらを見た。
「今更だが、俺の名前はスオナだ。ようこそ茶癒早島へ」
「私の名前はマナです。あたらめて、お世話になります」
ただいま、とスオナさんが言うと家の奥からおかえりなさいと声がこだまして聞こえた。足元を見ると靴が大小様々に揃えられている。実家を出てから久しく聞いていない喧騒が、私を温かく出迎えてくれた――


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