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「伊豆海村後日譚」(41)

「早足すぎる、目立つのはまずい」
 吉岡県警本部長の苦言に、殆ど走らんばかりのペースで歩を進めていた香は振り向きもせず答えた。あなたがここにいる時点でもう充分に目立っています。
 もはや四人のガードマンは影の存在という任務を放棄し、小走りで彼らを囲んでいる。
 あからさまに浮き上がった存在である彼らに、周囲の一部が露骨に冷ややかな眼差しを送ってくるのを感じた。無理もない。私が逆の立場でも何だこの脳天気な連中はと思う。
 でもね、彼女は周囲を昂然と睨み返して走り続けた。
 でもね、あんたたちは同僚を殺されたに過ぎない。私が失ったのはたった一人の肉親だ。人の命に軽重などないなんて寝言は吐かせない。
 石油タンクの群れを過ぎ、水路にぶつかる場所で左に曲がり、水門の下を抜け、内港に入った。走りながらも怪しい人影を眼で追うが、やはり誰もが変装中のテロリストに見える。
 魚市場の横を過ぎた。中学三年生の夏、遠足でこの市場街にある深海魚水族館に行き、いきなり視界に飛び込んできた大王具足虫の異様な形態と大きさに、それ以上奥に進むのを躊躇ったことを覚えている。何故地球にこんな不気味な生き物がいるのかと震え、ヒトである自分に胸を撫で下ろした十四歳の私は、その時はまだ人間に生まれ女に生まれたことを素直に受諾できる程度には幸せだった。
 翌年、東京が燃やし尽くされた。
 更に五年が経った。
 生まれ変われるものならば大王具足虫になりたい。
 深い海の底を誰にも顧みられることなく這いずり回り、餌を食い、糞をひり、死んでいく。股間に突き刺された欲望の冷たさを知ることもなく、心ない噂に耳塞ぐこともなく、父を殺した男を探して夜の港を走り回ることもない、ただ暗い海底の砂の中で息を潜めて過ごすだけの人生。
 そんな人生でよかった。そんな人生がよかった。
 魚市場を通過し、再び水門の下を抜ける。眼の前で一人の警官が別の警官を突き飛ばしていた。脳がそれと認識する前に、既に香は叫んでいた。「パク・チョルスよ!」
 首の後ろが溶鉱炉のような熱を帯び始めた。自分のこの手で、せめて一太刀を。
 香は屈んだ。くるぶしに隠したナイフを取り出す。県警トップのうわ擦った声が頭上に響いた。「三留さん、何のおつもりですか」
 答えることなく駆け出した。同時に四人のボディガードが厚い壁となって立ち塞がり、羽交い絞めにしてくる。
「放してよ!あんたたちが捕まえないから私が代わってやるんでしょう!」
「三留さん、危険です。ここは我々に任せてください」
 テレビカメラがこちらに向けられ、気配を察した捜査員がレンズを手のひらで塞いだ。男たちに囲まれ捕えられ狭まった彼女の視界の中で、パク・チョルスが船の中に消えていく。
「あんたたちに任せて、結局このザマじゃないの!あいつは船に入ってしまったじゃないの!」
「これからSATが突入します!どうか落ち着いてください」
 はい分かりましたと矛を収めるつもりもなく前に進もうとする彼女の、しかし掴まれた両腕はびくとも動かなかった。
「三留さん、これ以上抵抗するようだとあなたを公務執行妨害で拘留しますよ」
 彼女は動きを止めた。そのまま無言で全身の力を抜いた。
「ねえ、いつまで人の体に触ってんの?」
 彼女に群がっていた男たちが一人また一人と、恐る恐る彼女の腕や肩にかけた手を放していく。
 両手をだらりと下げ、口を半開きに開け、彼女はそれでも県警本部長を睨み続けた。気圧されたように男は言い繕った。
「いや、本当に拘留する気は無論ない。こうして協力願っている訳でー」
「いつ」
「ーは?」
「いつ、あんたらが公務を執行してるというんだよ?」
 彼女はゆっくりと周囲を見渡した。その目線の先、順々に男たちが俯いていく。この先二度と、彼女はゆっくりと喋った。
「この先二度と、あんたたち警察連中にこの体に触れてもらいたくない。二度と、金輪際」
 ナイフをくるぶしのホルスターに戻す。まだまだこいつが必要な人生が続くのかという予感が胸を黒く染め上げる。
「本部長」
 吉岡は痙攣したように顔を上げた。
「今の約束をあんたたちの誰かが破ったら、私もさっきあんたと交わした密約は破棄する」
 県警のトップは傷ついた威厳を修復するかのように仏頂面で頷いた。「約束は守る」
 
 ***
 
 タラップに足を乗せた時、流石に胃袋がぎゅっと締まった。頭の中で火花が散り、逆立つ聴覚が背後の騒ぎ声を逐一掴んだ。
 予想通りだ。誰もが俺の正体を本当は分かっていながら、それを認めようとしない、認めることができない。そして次の行動に移せず、同じような言い訳を思い浮かべる。万一本物の警官だった場合を考え撃つことができませんでした。
 いつまでもそんな甘い気持ちでいると、またどこかの国から爆弾を落とされるぞ。
 女の叫び声が、喧騒を切り裂いて鼓膜に届いた。「パク・チョルスよ!」
 誰の声かはすぐ分かった。昨日の朝、八木橋からの木炭バスを一緒に押していた時は震えていただけの娘さんだったのに、意外と骨があったな。そこでライフル銃を持ちながら木偶の坊のように突っ立つ「厳選されたエリート」たちより、君の方がずっと筋の通った、俺が憎み、軽蔑し、同時に敬意を抱いていた日本人だったよ。
 俺は君の父親を殺したが、君もまた俺の弟を葬り去っただろう?
 おあいこだ。むしろ残った命の長さを比較するなら、君の圧勝だろう。
 女を中心に揉め事が始まったようだ。つくづく信じ難い連中だ。警官を四人殺したテロリストが貨物船の中に消えようとするこの時、こいつらは港で痴話喧嘩のような騒ぎを繰り広げている。
 船の甲板まであと数段。体格の良い男がその前に立ちはだかった。
「申し訳ないですが、関係者以外立入禁止です」
「警察の者だ」
「分かっております。警察と言えども、船舶への立ち入りにはそれ相応の捜査令状が必要ですよ」
「あんたはこの船の乗組員か。満海民主主義人民共和国のハスン港まで行く訳か」
 男は薄ら笑いを浮かべた。そんな国はとっくに崩壊しましたが。
 元少佐は拳銃を引き抜いた。何があってもこの男だけは道連れにしようと決めた。
「そのまま後ろ歩きで戻れ」
 船の男は動きを止めた、今自分が眼にしている光景を脳が客観的事実として受け入られなかった。
 こいつが本当にパク・チョルスなのか?
 パニック状態に陥った男は、無意識のうちに両手を上げて後ずさった。
 タラップの下では警官が大騒ぎしている。これでこの様子のおかしい警官がもはや本物でないことははっきりした。彼らの言い訳も通用しない。
 愛知県警から派遣された特殊急襲部隊、SATが一斉に銃を一点に向けて構える。
 だが、次に起こすべきアクションを指揮できる者はいなかった。既に人民軍元少佐は人質の背後に回りこんでいた。
 元少佐はとうとうタラップを登り切り、船に降り立った。
 盾代わりの男の背に銃を押し付ける。操舵室に急げ。
「船長は現在いない」
「それがどうした。当直の航海士と甲板部員がいるだろう」
「彼らに部外者の侵入を許可する権限はない」
「俺が許可する」
 二人は左舷側の甲板を通過し、船橋への階段を登った。船の下では警察がカーニバルのような騒ぎを続けている。ご苦労なことだ。
 人質に扉を開けさせ、操舵室に入る。そこには三人の男がいた。
「分かっていると思うが、俺がパク・チョルスだ」
 男たちは硬直したまま、頷くこともできない。
「船の操縦なら俺もできる。何かと役に立つ。ハスンまで同行させてもらう。航海士は誰だ」
 奥にいた男がおずおずと手を挙げた。
「名前を聞いておいて良いか」
 航海士は一度咳払いし、上擦った声で答えた。崔だ。
「そうか。宜しく、崔さん」
 彼に向かって一歩踏み出した時、パク・チョルスの背中に熱が走った。
 操舵室の扉付近にいた第三の男の手に握られたワルサーから煙が漂っている。銃を持った男はがたがたと震えている。
 パク・チョルスは倒れながら二発発射した。一発は側舷に平行する窓ガラスを割り、もう一発は人質としてタラップからここまで道案内させた男ー後に海上保安庁から派遣された、かつて北朝鮮「漁船」との銃撃戦の経験を持つ職員であることが発表されたーの腎臓を直撃した。
 第三の男はなおも震え続けながら、目を閉じたままワルサーの二発目を撃った。

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