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これは貴女と寝転がった芝生ではない

バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを送るという習慣、これは馬鹿にできないものだと思う。明治政府発足以来続く薩摩武士の怨念が働いて当朝は男女平等の精神に欠けている状態が続いているが、このバレンタインなる奇怪な催しによって本来当たり前である「女性にのみ男性を選択する権利が神から与えられている」ことを突きつけられる気がする。企業の販売戦略がきっかけだったとしても、この女性に選択権を持たせることは素晴らしいことだと思う。ちなみに私は毒虫をすり潰してのめしてゼラチンで固めたような精神性を持って生まれてきたことがいずれにせよバレて大体の女性に嫌われるため、バレンタインデーにチョコレートをもらったことはかつて一度もない。すでに何かの間違いで肉体関係ができてしまった人物以外からは。

「何か面白い話をしてください」と女は場末の居酒屋で訴える。面白い話など私には10000ほどのエピソードがあったが、どの話も目の前の見ず知らずの女性を愉しませることができそうな確証がなかった。面白い話をするには面白い話を面白いと思って聞いてくれるはずだという相互補完の関係が必須である。かつて一方的に面白い話をせがまれてそれを完遂した経験がない。面白い話は必ず交互にするべきだからだ。私は困惑する。脳裏に10000の面白いエピソードが枯野を駆け巡っているのであった。

[チャプター1 最近のこと]

事務員のおばさんとの秘密の関係はとっくに破綻している。おばさんは社員全員に義理チョコを配り歩いていて、私にも「同じ義理チョコ」をニマニマ笑いながら渡してきた。私は「僕だけ本命ですね」と軽口を叩いた。おばさんは孕石さんのはいっとう義理強めですと面白い返しをする。居合わせた社員たちは笑ってくれた。よかった、おばさんとの秘密の関係は誰にもバレてないようだ。おばさんの新しく装着するインテリ風メガネが素敵だった。メガネとても似合ってますね、とLINEをしてみる。既読無視された。ちぇ。アバズレが。男心を完璧に理解しやがる。

[チャプター50 壁の薄いというより仕切りの壁の上から完全に隣室の灯りが漏れてくる機密性ゼロの温泉旅館に投宿し嫌がり身をくねらせる女子大生に平身低頭頼み込んでセックスした話]

多摩子は熱めの温泉から帰ってくると大きな蛾がいたと語った。模様が複雑で美しい蛾です。多摩子はどん百姓の私と違って頭のいいインテリの女だから、隣室の様子が気になって仕方がないようだった。隣室のおじさんのスポーツ新聞を捲る音がすぐ真横で聞こえるようだった。当然ながら最低な環境は私を燃えさせた。酒の効果で自尊心が目減りしていた多摩子が私の愛撫に負けて声を漏らしてしまった瞬間、スポーツ新聞のエロ記事をめくる隣室のおじさんの手が止まった。それから音がしないように細心の注意を払い多摩子にのしかかってしばらく動いてみたものの、彼女の気が削がれて痛がるため天下国家(ソチン)を抜いて断念する。低俗なるエロ記事の呪いである。連れの中年男性の穢らわしい身体的欲求に応えられないプレッシャーに押し潰されて泣いている多摩子をなんとか慰めようとしたが、隣室との仕切りの壁の上部からタバコの香が伝わってくると悲しいと面白いが一気に爆発し、2人して声を出して笑った。

[チャプター2008 珈琲と悪魔]

新宿が魔都と呼ばれる理由は幾つかあるだろうが私も新宿で一度だけ悪魔を見たことがある。あれはたしか私が女のヒモしていた時代の末期。ホルモン分泌液の切実なる乱れの影響を受けた荒れた女から三行半を突きつけられ住んでいた死都調布から深夜の最終列車に飛び乗って新宿まで遁走した夜の出来事である。私はその時全女性の敵のヒモ稼業を生業にしていると同時に完全無欠の詩人だった。言葉という言葉がジャリジャリと脳髄から溢れてきて書き留めるのも一苦労といった有様である。魔都には眠らないカッフェーがいくつもある。そのひとつに入って私は分厚いメモ用紙に詩を書いてコーヒーをグイグイ飲んだ。給仕の男の顔がいやに青く見えた。私は書いては千切り千切ってはペンを走らせ深夜3時まで止まることなく書き続けハッとなって顔をあげると向かいの席に臙脂色のスーツ姿の男が座っていて投げ捨ててあった私の詩を拾い上げては一心不乱に読み耽っていることに気づいた。素晴らしい。ほとばしる才気ですな。男は誰に言うでもなく言った。私は男に言った。どうやら君は悪魔だろう。男は私の青ざめた顔を見つめながら、そうですね私は悪魔みたいなものですと言った。何せここは新宿ですからね。悪魔はこの詩はどうするつもりですかと聞いてくる。私は君に全部やるよと言って紙の塊を渡した。悪魔はそれはありがとうと言いながら煮しめた昆布のような色をした大きなビジネスバッグに私の詩を詰めてから珈琲をもういっぱい如何ですか?と訊ねてきた。私はいただきましょうと答える。悪魔は給仕の男に向かって、ギャルソンと呼ぶ。ギャルソンは気だるそうに珈琲を運んでくる。それから私と悪魔はこの世のあれやこれやについて話し込む。深夜4時半。冷めた珈琲を飲み干すと私はそろそろ夜明けなので朝日を浴びるべきであると主張する。お供しましょうと悪魔も私に続いてくる。新宿のビルが朝日を受けて輝いていた。詩心に溢れて感動した私は振り向くと男が道路にかかる歩道橋の手すりに腰掛けているのが見えた。あ、危ない!私が駆け寄ると男はヒュッと道路に向かって落ちたように見えた。私は大変なことになったと思いながら歩道橋の下を確認したが、落ちて血まみれで死んでいるはずの男の姿がどこにもなかった。男は悪魔だったのだ。私は始発列車にそのまま飛び乗ってから死都にある自宅に戻ると荷造りを開始した。それから私の脳髄から詩が溢れたことは一度もない。

[チャプター0 これは貴女と寝転がった芝生ではない]

「何か面白い話をしてください」と女は場末の居酒屋で訴える。面白い話など私には10000ほどのエピソードがあったが、どの話も目の前の見ず知らずの女性を愉しませることができそうな確証がなかった。面白い話をするには面白い話を面白いと思って聞いてくれるはずだという相互補完の関係が必須である。私と女は新宿御苑の芝生に寝転ぶ。女は私の鞄の中身を知りたがった。鞄には本とメモ用紙と巨根用のコンドームが入っていたが、私は本とメモ用紙だけ見せて巨根用のコンドームは隠した。かつて私は新宿で悪魔を見たことがある。悪魔は私の詩を鞄に詰めて歩道橋の手すりから笑いながら飛び降りたのだった。私は女の尻や形の良い胸を盗み見た。おじさんのスポーツ新聞をめくる手が止まる。女は芝生に寝転がりながらバレンタインのチョコレートをくれる。私はありがとうと言って巨根用のコンドームのすぐ横にチョコレートをそっとしまったのであった。

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