暗転ぼくのまち
お盆である。私はドストエフスキー式無神論を信仰している立場上霊魂の不滅を信じていないので、当然ながら鎮魂の意識はない。だから盆の行事を側から見ていて滑稽だと感じるし不快でさえあるのだけど、私は私を尊ぶように他人のことも尊ぶことを至上命題としているから薄目で確認しいしいやり過ごしてきた。霊魂は存在しない。ただ肉体だけがある。前世もなければ来世もない。過去も未来も霧に包まれていて、確固たる今だけがある。間違っていたとしても私の人生だ。運転席には私が座る。私以外に誰にも座らせない。
妻が盆に千葉の実家へ里帰りして、東京に戻ってくるなり「その手の話」を始めた。日頃から私は妻に感謝して生活しているが、この霊魂談義だけはほとほと迷惑である。神懸かりとか狐憑きと呼ばれるタイプの人間は殊更過去や未来や宇宙や大いなる存在と繋がって、私のような無神論者のことを攻撃してくるのは何故なのか。他人のことを尊ぶことを完全に捨て去り唾を飛ばして貴方は悪魔の尿溜めで歩く呪物だとなじる。妻は姉から紹介されたヒーリング(癒し)の大先生に帰省前に会って来て目から鱗の体験をしてきたらしい。精神治療大先生曰く、貴女のスピリチュアル傾倒は完全に間違った教えを学んでいるからすぐに棄教しなさいという有難い助言をくれたようで、恐ろしくしおらしくなって帰ってきた。他人のする話は話半分で聞け、という大先生の助言を妻は1000%信じて疑っていないようである。夫である私のことも大先生はお見通しで、彼は屁理屈を重ねた象牙の塔にいる無責任な野郎だと断言されたらしい。私の顔が曇る。私は私自身の性格や命運を他人に決められるのを許さないことを至上命題としている。占いも霊感商法もカルトも全て否定する。私の運転席は私が座るのだ。畢竟私と妻は言い争うことになる。妻は泣きじゃくり、私はぷいと横を向いて不貞寝だ。大の大人がすることではないかもしれないが、一寸先は闇である。私は私を規定しない。だから貴女も貴方も私を規定するな。朝起きてどんな自分だろうが構いやしないじゃないか。グレゴール・ザムザのように醜いものに成り果てても私はいつものように文鳥の世話を焼くだろう。芋虫になった飼い主に文鳥は驚いて逃げ惑うだろうが。
妻が帰省している間、私は特に悪さをするでもなくテレビゲームをしたり定額配信のネット動画を観たりして過ごした。なかでも外国の賞を獲得した村上春樹原作の『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹嫌いの私としては大袈裟な台詞回しに苦痛を覚えながらも主人公の妻役の霧島れいかという女優の声や肉体の美しさに引っ張られて全部観ることになった。邦画は沈黙のタメが多くて編集がダルい作品は多いが、ドライブ・マイ・カーに関しては気になるほどではない。インド映画のような勧善懲悪も浪花節もど根性もダンスもなかった。運転席には誰でもないあんたが座るんだという話だった気がする。春樹に言われずともそらそうするわ、と思いながら春樹ではなく霧島れいかさんに言われると素直に拝聴できるところが、映画の素晴らしいところだ。私は観劇は得意ではない。劇空間は私に客でいることを許さない。演じる人と観る人は一緒になって劇を作る。私は戯曲は大の苦手だ。演劇空間を通して私自身が変容することを強要される気がするのだ。それにしても美しさは残酷なまでに正しい。霧島れいかの背中はシミのひとつもない。くぐもったテープの声も耳に心地よい。力技で私を画面に釘付けにする。私は私の運転席を死守するが、同じように他人の運転席に座ってはいけないと考えている。他人の車のハンドルを握ることは「支配」である。ヒーリングの大先生なんぞに私が理論家で不屈の闘士であることを強いられるわけにはいかない。今日と昨日は同じである必要がないとするなら、明日は今日の地続きでなくても良い。あらゆる自分の可能性を放棄しなくても良いのである。君は大丈夫だから私も大丈夫だ。握手して、不可侵条約を結ぼうじゃないか。
不貞寝から起きて妻に私は話しかけた。妻は私の言ったことを噛み締めているようだ。私は妻に求めることはひとつだ。運転席のハンドルは自分自身で握ること。そのことを皮肉屋の屁理屈だというなら笑ってくれていい。魂の不滅などただただどうでもよく、私は純粋に運転が好きだ。運転は思考の積み重ねがそのまま振動や重力として肉体に作用する。エンジンが凶暴な唸り声を上げる。なるほどどうして私は優しい人間ではない。近づけば刺す!
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