見出し画像

想像ノ王國

おそらくだが私のドッペルゲンガーがいる。しかも割と近所に住んでいる。そんな予感はずっとしていたのであるが、ある日近所のカフェで本を読み耽りながらラテを啜っていたところ、急に女性に話しかけられた。あの、すみません、この前もそこで漫画本を山積みにして読んでいらっしゃいましたよね?と女性は言う。お気を悪くしたらごめんなさい、古谷実、あたしも大好きなのでつい話しかけてしまいました。私はゆっくりと女性の方を向いて、貴女のようなスパークルな娘さんが古谷実を好きなことはあまり公言しない方がよさそうですね、と答えた。そして私は確実に古谷実の漫画本を山積みにして読んでいた記憶がなかったのだが、密かにその女性のことは前から気になっていた存在なので一応話に乗ってみることにした。幸いなことに2階の店内には私たち以外はいなかったのだ。女性はここのカフェで働いている店員さんで、休憩中は店舗内でよく食事を摂っていることも知っていた。『わにとかげぎす』(に出てくるくだり)ですね、と女性は笑う。我々は自己紹介し合った。女性は加寿と名乗った。キングカズのカズですか。キングカズのカズです。いい名前だ。ゴン中山のゴンじゃなくてよかった。完全にいじられてますね。加寿はただの綺麗な人ではなくて面白くてエキセントリックな人だった。加寿は、あの時、あたし、店をクビになるのを覚悟で孕石さんに話しかけたのよね、と言った。私はモディリアーニの描く女性のようにどこか歪んで伸びたような加寿の顔が好きだった。加寿の住むアパルトマンは地下鉄に乗って15分の文京区小石川にあった。加寿はごく若い頃に塾の先生だった男と東京に駆け落ちし籍を入れ8年経って離縁した。それからはもう猛烈に好き放題生きている、こんな風にと加寿は服を脱いで笑う。貴方のこと初めて見た時から好きだよ。加寿は誰のことも悪く言わない人だった。加寿が初めて見た私は私だったのだろうか、それとも私のドッペルゲンガーの方だったのだろうか。私は加寿と上になり下になりしてまぐわりながら古谷実の漫画本を山積みにして読み耽る男のことを考える。加寿の美しい髪に手を挿し入れる。加寿からはとても良い香りがするが、彼女は香水嫌いだから私は彼女の体臭が好みなのだろう。加寿は何に縛られることなく自由に生きている。私は年甲斐もなく加寿に溺れた。加寿の部屋は古くて薄暗くて裸電球に照らされた本棚や家具が黒光りしている。本棚の中の本も嫌いじゃない本が揃っているし、何よりも彼女は渋い音楽の趣味をもっていていつか自分がレコード屋兼喫茶店をやるのを想像しているの、と彼女は言った。未来を想像するのは好きですか。私は幼い頃から空想に明け暮れていたから、それはもう好きさと答えた。それが未来であろうが、平行世界の話だろうが。彼女はレコードで音楽をかける。古いジャズバンドの曲だろうか。聴いたことのない美しい曲だった。奥さんの待つ家に帰る前に一緒に踊ってください。加寿と私は裸電球に照らされながらゆっくりと踊った。大きな影がゆらめいている。


とある月が出ていない夜だった。月が綺麗ですね、と加寿が連絡を寄越した。私は携帯電話から加寿にメッセージを送る。月が綺麗だと思うお前の心が美しいとみつをが言ってましたよ。そんなことよりも今日、孕石さんが来ました。店に?と私は聞く。いえ自宅に、です。私は鳥肌が立った。私は仕事が忙しく加寿の家にしばらく行けてなかった。生霊?私は聞いた。違います、と加寿は答えた。貴方のドッペルゲンガーです。よりゾッとする答えが返ってきて私はもんどり打った。ずっと前から孕石さんに似た人がうちの店に来ることは知っていました。猫背で眼鏡をかけて大きな身体の。私は加寿の身を案じる。私のドッペルゲンガー、古谷実の漫画本を山積みにして読み耽る怪人。私は恐慌をきたしつつも極めて冷静にドッペルゲンガーのことを語る加寿の語り口調に魅入られた。どうもこういうことがあったらしい。
その日、加寿は予感がしていた。私が店に来てくれるのではないか。彼女のこういう予感が外れたことはない。加寿はインスピレーションを大切に日々を生きている。実は私に勇気を出して声をかけられたのも元々は「彼」に相談してからだったのだ。結果として私は来ず、代わりに「彼」が来たのだ。予期せぬ来訪。私のよく着るようなベージュのコートに身を包んで「彼」は言った。それで、彼とは順調?って。加寿は順調じゃないよもちろんって答えたの。予定調和を崩すのが孕石さんの魅力だからね、と彼女は答えた。ドッペルゲンガーの名前をあたし初めて聞いたの、千代延※※※って貰った名刺に書いてあった。名前は全然似てなくて残念だったけど、びっくりしたよと加寿は言った。だって髪型こそ違えどもやっぱり生き写しだから。それで?とドッペルゲンガーが言うの。何時にアルバイトは終わりますかって。私に再び悪寒が走った。それって。そうなの。孕石さんが私にかけてくれた言葉そのままなの。声音もそっくり。ドッペルゲンガーに会ったら死ぬのは孕石さんだし、あたしは違うと思ったからちょっと探偵気分でね、デートしてみました。孕石さんが連れて行ってくれた店にわざと入って夕食を食べてから散歩したの。あたしばっかりベラベラ喋って、ドッペルゲンガーは聞き役に徹するわけ。あたし頭にきて、孕石さんは打てば響くような受け答えができるのに、貴方はやっぱり偽者なのね悲しいわと言ってやったの。そうしたら「彼」なんて言ったと思う?と加寿は笑う。あんな男やめておれにしなよ、と言うの。半泣きで。孕石さんが既婚者で猟色家で文学愛好者でどうしようもない人間なことくらい重々承知なのよ、殺されてもいいくらい愛おしい存在で、彼に抱かれている時だけあたしの灰色の世界が色づくのよ、似ているだけの貴方なんて全然お呼びじゃないって言ってやった。ドッペルゲンガーはしばらく黙ったままこちらをじっと見つめてきた。それから完全に滂沱の涙を流して突っ立っているの。冷たい雨が降っていて、月なんてもちろん出ていない夜だった。あたし、人の心を持っていないはずの孕石さんにそっくりな男が泣くのを見ていて胸が締め付けられたの。それでもう家の近くだったし可哀想になって家に呼んでタオルを渡した。それで?と私は聞いた。「彼」は今も君の部屋にいるの?加寿は、ええ、もちろん、とだけ答えた。


加寿と連絡が取れなくなって、何ヶ月になるだろう。私は彼女の小石川のアパルトマンに行って彼女の部屋のドアーをノックしてみたものの返事はなく、何度目かに訪れた時には部屋は既に引き払われた後だった。たぶんおそらく加寿は想像した。未来を。いやもうひとつの世界、存在したかもしれない場所へ、彼女はもう一人の存在してもおかしくない私である分身と一緒に行ってしまったのかもしれない。加寿はどこか遠くで無口な私のドッペルゲンガーの腕を取って大股でいつものように歩く。月も出ていて、冷たい雨も同時に降る。私は想像する。いつか偶然訪れた知らない町で彼女の店に入る。オレンジ色の裸電球が吊るされている薄暗い店内には美しい音楽がかかっている。黒光りする家具はよく磨かれていて素晴らしい触り心地だ。本やレコードは全て彼女の趣味にあっている。加寿と踊ったあの日が甦る。それは幻のようで触れることのできる場所。加寿は手を差し出してくる。私はその手をとる。お元気で。優しい声が幻聴のように脳を撫ぜる。私は加寿の手を離してから現実世界に戻って来る。己の手を嗅ぐと彼女の好ましいあの体臭が残っていた。さようなら。我が愛する月世界の幻影よ。

…大変残念なことだが…血の通ったドッペルゲンガー氏と違って、これほどの事が身に降りかかったとしても私という人間は一滴の涙も流さなかったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?