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ふたつの心臓


アイドルの彼には、ふたつの心臓が存在するのだな。ふと浮かんだその考えは、私にとっての彼そのものなのだと腑に落ちる。

「アイドルとしての彼」と「いち人間としての彼」は別物で、全く異なる、ちがう生命なのだという認識が私の中で育まれてきたためであろう。

私から見えている「彼」はもちろん「アイドルとしての彼」他ならず、もう一方の生命は知り得ない。そこで私は、「ふたつの心臓」という思考に漕ぎ着けた。


人間のからだに、心臓はひとつだ。だけれど私のなかの彼はふたりいて、そして私はそのうちのひとりしか知らず、もうひとりは全くの異世界で生活を営んでいるのだろう、と思う。(それが、健康で文化的な生活であるといいなと密かに願いながら。)

もちろんこれは、想像上の話、いわばフィクション、作り話に近い私の勝手な解釈なのだけれども。

私にとっての彼は、とても、アイドルだ。アイドルになりたくてアイドルになった彼のなかにある「アイドル」という存在を知りたくて、その仕草を、表情を、こちら側から見得る一挙手一投足のすべてを、解釈する。思考する。果てしないその作業はもはや自動的で、副産される感情ばかりが膨れ上がっては一人歩きしてしまいそうなほど、彼に対する「好き」という感情の存在が私の中で肥大化している。


私はいち人間で、ただの人間で、だから、人間として彼が好きだ。だけれど私から見えている彼は、「いち人間としての彼」ではない。なんと不思議な関係性なのでしょう!と、何度でも新鮮なきもちで驚いてしまう。この感情は一方通行なのだから、「関係性」と形容するのは烏滸がましいなとも思うのだけれど、これもまたひとつのご縁なのだ。


届かなくてつかめなくて、だけれど確かに、私と彼は、私から彼へとつながっている。

彼がつながっているおおきな世界のなかに、私は存在している。今の私にとって、「アイドルを好き」であるということは、たったひとりの彼を好きであるということは、そういうことなのだ。

彼のなかには、彼だけのアイドルがある。そして彼は正しく、「アイドル」という言葉、概念に縁取られる存在で、

いちアイドルとして、「たったひとり」。

いち人間としての彼と、アイドルとしての彼。そこにあるバウンダリーを知ることはできないし、望まない。ただ、その境界が混ざり合うような瞬間も、無意識下に双方を行ったり来たりするような時間もきっとあるのだろうなという想像はする。彼にはふたつの心臓があるけれど、だけれど彼は、紛うことなくたったひとりの人間だから。


私から見えているすべては、ふたつあるそのうちのひとつ。果てしなく、その拍動だ。

「アイドルとしての彼」の心臓がいつまでその拍動を繰り返してゆくのかはわからない。心臓はいつか止まり、やがて、その心臓を内包する存在ごと消えてしまう。

そのことを強く意識した今、「すべては終わるから、だからこそ始まった『好き』なのだ」ということを、私はいつでも忘れたくない、と思う。この好きはいつか終わるから、今の彼を、今の私の全身全霊で好きでいたい。かけがえのない好きを、めいいっぱい大切にしたいと願う。


私の視界に映るのは、アイドルとしての生命を物語るように、日々を色めく彼だ。私は、そんな彼が紡ぐつくりばなしを傍観しているに過ぎないのかもしれない。でも、それにしたって私は、「これは生命と生命の対峙なのだ!」という覚悟をもって、「好き」という言葉を声に乗せ、そしてここに記していたい。



アイドルとしての血液を全身に通わせ、呼吸をする彼の鼓動に耳を澄ませ、そのリズムに思いを馳せる。

人間としての彼に、この視線は到達しない。だからこそ、「アイドルとして生きる彼の生に、幸多からんことを」と、願って止まない。


アイドルになってくれて、ありがとう。
今日も、そう在ってくれてありがとう。



どうか、
今あなたが身を置く場所が、あなたにとってあたたかい居場所でありますように。




2022/10/15

都合の良い私の解釈




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